fate/vacant zero
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第四部
水の哀悼歌
湖沼の国の姫陛下
昔々むかしむかしの御噺おはなしです。
湖みずうみと沼ぬまの広ひろがる国くにに、二人ふたりの女おんなの児こが住すんでいました。
一人ひとりはとてもお転婆てんばで、夢ゆめに夢見ゆめみる悪戯いたずら好ずきのお姫様ひめさま。
一人ひとりはとてもお淑しとやかな、猫ねこを被かぶった負まけず嫌ぎらいの貴族きぞくの子こ。
二人ふたりはたいへん仲なかが良よく、あまり度々たびたびは会あえませんでしたが、会あえる間あいだはそれはもう毎日まいにちのように楽たのしく遊あそんでいました。
この御噺おはなしは、とある日ひのこと。
お姫様ひめさまの母君ははぎみの誕生日たんじょうびを祝いわう園遊会えんゆうかいで、二人ふたりが再会さいかいしたところから始はじまります……。
Fate/vacant Zero
第三十章 湖沼コショウの国の姫陛下
週頭の本日、王都城下町ブルドンネ街は王軍の戦勝帰還パレードを迎え、熱く騒がしくそこかしこで盛り上がっていた。
先頭を行くは白馬ユニコーンに牽ひかれるアンリエッタ王女の白い馬車。その後ろには高名な貴族たちの馬車が数珠を為す。
両脇を魔法騎士隊の三幻獣に警護されたその馬車は、それでいて何どれもなかなかに開放的だ。
狭い街路に詰め掛けた満載の観衆からも、通り沿いの建物の窓や屋根から見下ろすある意味無礼講ならではの不届き者からも、程度に差異はあれその姿を確認できるフロントフリーな屋根つき馬車。
普段ならばまず拝見できないその全身像を目撃できた市民たちは、沸き立つような歓びを口々に投げかける。
「アンリエッタ王女万歳!」
「トリステイン王国万歳!」
中には気の早い者が叫んだ「アンリエッタ女王陛下万歳!」が感染している一角もあり、その熱狂の程は昨今のアンリエッタの人気高さを諷刺している様でさえあった。
それもそのはず、あのアルビオン親善艦隊の奇襲に始まった、タルブ大草原を舞台としたラ・ロシェール防衛戦において奇跡を勝ち取ってから、まだ一週間と経過していない。
数も士気も錬度も勝まさっていた敵軍を打ち破った王女アンリエッタの人気は、今や『聖女』とまで崇められるほどに高騰していた。
このパレードが終わって入城次第、アンリエッタは戴冠式を迎える。
母、太后マリアンヌより王冠を被される、儀式的式典だ。
枢機卿マザリーニによって提案されたこの式典には、大臣を含めた宮廷貴族の殆どが賛同した。
結婚式を三日前に控えていたゲルマニアでさえ、渋りながらではあるがこれを受け、皇帝と王女の婚約解消を宣言した。
アルビオンの強力な空軍を一国にて討ち払ったトリステイン王国は、今なお空中戦力の整わないゲルマニアにとって無くてはならない盟友である。
少なくとも今のアルビオン政府が健在である内は、強硬な態度を示せようはずも無かった。
アンリエッタは、確かにその手に自由と責務を掴み取ったのだ。
賑やかな通りを見下ろせる、可も無く不可も無い平凡な宿屋『錫の翼』亭。
その三階の一室より窓際にもたれてパレードを眺める、ラフな格好で浅黒い肌を晒した敗軍の将官が二人。
『奇跡の太陽』によって墜落させられたレキシントン号の艦長、ヘンリ・ボーウッド士爵。
同じくレキシントン号乗艦の小太り参謀長、ホレイショ・D・ゲイツ。
彼らは今、捕虜として現在進行形でこの宿に軟禁されていた。
捕虜と言えど、貴族にはそれなりの扱いという物があるのだ。
不自由と言えば精々、階層ごとに廊下に二人の見張りが居ることと、杖を取り上げられたくらいなもの。
最低限不快に思われない程度の衛生レベルに衣食住を整えたこの環境のもと、彼らはのんびりと女王戴冠の儀を待っていた。
「あれから、もう五日、か。
見なよホレイショ、『聖女』陛下が途みちを往くぜ」
「おいおい。今はまだ殿下のはずだろう」
二人は先頭を来る白い馬車に座すその少女を観やり、皮肉気に語っている。
「しかし、こうして見てみると……若いな、彼女は。
ただでさえハルケギニア初の女王だというのに、この国はまだ始まったばかりの戦争を生き残れるのかね?」
「ホレイショ。君は、もう少し歴史を勉強するべきだ。
確か女王即位の前例はガリアで三例、このトリステインでも一例はあったろう」
む、とホレイショは決まり悪く眉間を揉む。
「いかんいかん、どうもまだ戦場の気分が抜けきってなくてな」
「いや、そりゃ何の関係もないだろう……」
気持ちは分からないでもないが。
「しかし、歴史か。
してみれば、我々の敗北もまた、彼女の輝かしいであろう歴史の一ページを飾る勲章リボンの一つに過ぎないのかもしれないな」
誤魔化したな、と思いつつ、ボーウッドは首肯する。
「なあ、ヘンリ。あの閃光、何だと思う?」
「さて、ね。少なくとも、僕たちの知る何かでは無い様だったが……」
あの時、空中艦隊を包み込んでいた謎の光球が直接的に出した被害は結局、艦ふねに積載されていた風石とその周囲を砕いただけに留まっていた。
直接それを握っていた操舵士など、風石の近くに居た者の多くは艦の端まで吹き飛ばされるほどであった。
だが風石を握っていた腕は小さな裂傷こそ多かったが、火傷などを起こしていなかったこと踏まえると、あの“爆風”は風石を原因としたものと見るべきだろうか。
いずれにせよ、
「奇跡の光。言い得て妙だね、まったく。
本当に、我が祖国は恐ろしい国を敵に回したものだ」
「違いない」
いけ好かないあの生臭皇帝クロムウェルを思い返し、二人して含み笑った。
「時にホレイショ。
君、あのバカ・・・・や僕の部下たちについてどうなったか聞いていないか?」
「ああ。それなら今朝、外の見張りから一通り聞きだしておいた。
どれから聞きたい?」
そうだな……。
あのバカのこと
> 部下たちのこと
竜騎士隊のこと
「部下たちについてから頼む」
「何だ今の間? ……まあいいか。
捕虜になった連中についてだが、大半はトリステイン王軍に志願したらしい。
連盟レコン・キスタに心酔してた連中も含めてな」
「まあ、随分と派手に負けたからな。
……いやまて、そんなに一気に兵を増やして大丈夫なのか? 我等が王軍の懐は」
「そこは流石、水の国と言うべきだな。
金はどうか知らんが、食糧だけはまず間違いなく余裕だそうだ。
所属部隊については……まあ、我々と同じだな」
「女王陛下の初公務待ち、か」
それは何より、とボーウッドは一つ首肯した。
「さて、他には?」
そうだな……。
> あのバカのこと
部下たちのこと
竜騎士隊のこと
「割とどうでもいいことなんだが、ウチの旗頭はどうなった?」
「だからその間は……いや、いい。
で、艦隊の旗頭というと。アレかね、戦犯ジョンストン」
「そう、ソレだ。確か昏倒された後、レキシントンの内部に運び込まれていたはずだが」
「いや、されたって……なんでもない。
ヤツに関しては、何も情報が入っていないな」
「仕入れなかった、の間違いじゃないか?」
「違いない。
……いや、流石に冗談だよ。
本当に、ヤツに関しては何もないんだ。
見せてもらった捕虜リストにも名が無かった」
「ふむ。つまり――――混乱に乗じて死んで頂けたのかな。無事」
「……何だかアレ以来過激になってないか、君?
まあ、あの状況下で生き延びてアルビオンに帰れたとは思い難いが」
そうだと嬉しいんだがなぁ。主に僕が。
と、二度ボーウッドは首肯した。
「あー……で、まだあるかい?」
そうだな……。
あのバカのこと
部下たちのこと
> 竜騎士隊のこと
「後は、これだな。
全員が撃墜されたらしい艦載竜騎士隊についてだが……生存者は居たのか?」
「(何も言うまい)……第一分隊は完全に壊滅で、生存者は0。
第二分隊についても壊滅だが、こちらは二名が発見、保護されたそうだ」
「……そうか。それで、その生存者は?」
「どちらも貴族だったからな。この宿の、一つ下の階に居る。
といっても、片方は未だ意識を取り戻していないそうだが」
「……そうか。無事、目を覚ましてくれるといいが」
部屋にはただ、沈黙が満ちた。
しばしの間を、置いて。
「なあ、ホレイショ」
「うん?」
「君、この忌々しい戦争が終わって、国に帰れたとしたら、どうする?」
ふむ、とホレイショはしばし考えると、
「そうだな。とりあえず、現場の軍人は廃業したいもんだよ。
流石に、またあの光に包まれるかと思うと……どうにもね」
違いない、とボーウッドは笑った。
「奇遇だな、僕もそう思うよ。
軍人を辞めた後は……そうだな。
まずはアルビオンの、色んな風景を見て廻りたいものだね」
パレードの熱気は、いよいよもって最高潮に及ぼうとしていた。
最前を行くアンリエッタは、沸き立つ観衆に手を振り返している。
その面持ちは、無意の笑顔。
はにかんだような微笑を口元に湛えつつ、アンリエッタは今、迷っていた。
「ご気分が優れぬようですな、殿下。
まだ悩んでおいでですかな?」
隣に座したマザリーニが、随分と久方ぶりに穏やかな笑みを振りまきながらそれとなく問うてくる。
それはそうだろう。
「本当に、わたくしなどが即位してしまってもよいのでしょうか?
こんな、自分のことばかり考えているわたくしでも。
まだ、母さまが即位する方がよいのではないですか?」
ずっと空位になっていた、トリステインの王位に自らが就くなど、ほんの十日ほど前には望外の彼方だったというのに。
当面はまだ誰とも結婚せずに済みそうというのは僥倖ぎょうこうなのだが。
「太后陛下は、今も亡き陛下の喪に服しておいでです故ゆえ。
それにその陛下ご自身もまた、今回の件には賛同されておいででした。
あの戦場でも申しましたが、今この弱い国には強い王が、白の国の凶行を押し返した女王の即位こそが何よりも望まれているのです。
民からも、貴族からも。他国からでさえも」
強い王。
本当に自分がそれに成れるならば、とアンリエッタは表情を崩さないまま、憂鬱な溜息をついた。
あの瞬間、あの戦場では確かに感じられた裡の饗熱は、あの降下部隊を制圧して以降、綺麗さっぱりと形を潜めてしまっている。
今のアンリエッタは、虚脱感に覆われ……どころではないほどの、まるきりの虚ろだ。
習慣に任せて笑みこそ浮かべてはいるものの、自らが何をしたいのかがさっぱり見えてこない。
……あるいは、今なお浮遊大陸に巣食う彼の俗物どもであれば、またあの熱さを感じさせてくれるでしょうかと。
考え、悩み、あの結婚装束から切り出した七色の腕覆いに視線を落としては、思い出したようにまた皆へと手を振るうのだ。
「さて、殿下。
城も近づいてきたことですし、戴冠の儀の手順をおさらい致しましょうぞ。
きちんと覚えておいでですかな?」
「ええ、それはもう。
王都に到るまでの道中でも、随分な回数を聞かされましたもの。
……正直、もっと簡略にできないものかと思うのだけれど」
「我慢なさりませ、殿下。
戴冠の儀は、儀式です。
始祖の残せし杖おうけんの一つを担うことを、諸国へと表明するための神聖な儀式なのです。
多少の面倒は伝統の絢はなとお思いなされ」
そうですか、と久方ぶりに憂鬱な溜息をつくアンリエッタに、マザリーニは改めて儀式の手順を説明してゆく。
「――して、入場と名乗りを終えましたら、参列者による承認のもと、殿下は奥に拵こしらえた祭壇のもとへとお進みください。
祭壇のもとにて始祖と神に対する誓約の辞を殿下が述べると、私が金詰草の蜜水アウラアクアを頭頂に注ぎ、その身を御禊致します。
その後、控えた太后陛下が殿下に王冠を被せてくださいます。
その時より、殿下はハルケギニアの全ての民から『陛下』と呼ばれる者となるのです」
その後は特段、殿下のすべきことはございません。
即位式が進み、集った臣下が忠誠の儀を進め、後は退場なさるのみにございます。
そう続けるマザリーニに朧な返事を返しつつ、アンリエッタは考える。
誓約。
その文面も自らによる物ではなく、“伝統”に則った心篭らない文章だ。
心にも思わないことを『誓約』するのは、冒涜には当たらないのかしら、と疑問に思う。
なにせ、自分は、かつての――
虹色の手袋に視線を落とす。
――ただ一度きりの『誓約』のために、そしてその復讐のためだけに、その位置が必要だからこそ、王位へ就こうとしているのだ。
全ては、ウェールズ様への。
……ウェールズ、への、最早戻れぬ今なお募る愛しさ故に。
今、もしここに、ウェールズ、が居てくれたなら、少しはその『新たな誓約』を実のあるものにしてくれたでしょうかと。
考え、すぐに何の意味もない仮定と気付く。
もし傍に居てくれたなら……そもそも戦いなど、王位など望みも考えすらもしなかっただろう。
だって、ここに彼が居たなら、心がこんなに虚しくなることもなかっただろうから。
まあ、こんな心境で誓約文のりとなど考えようものならさぞかし血塗られていそうなものになってしまったでしょうけれど、と溜息を一つこぼして、座席横に置かれた書簡入れへと目をやった。
中身は、一枚の羊皮紙。
あの勝利の最後の功労者となった元トリステイン空軍残兵部隊、現在タルブ領にて復興作業中の彼らを束ねていた、女騎士からの報告書。
――奇跡最大の立役者、所属不明の『騎士』についての目撃報告書だ。
捕虜となることの出来た“幸運な”竜騎士の片割れ、意識のあった方の目撃談。
黒い猛禽は羽ばたくことなく俊敏に飛び回り、出会い頭に強力な土系統の投擲槍スピアを複数放っては、竜を生卵の如く砕き散していたらしい。
捕虜自身はわけのわからぬままに小柄な風竜に落とされたらしく、強力な氷の吹息ブレスやら吹雪アイスストームやら謎の空中爆発やらに次々墜とされていく仲間たちを落ちた大地から見上げて、ようやく自分が何をされたか気付いたそうだ。
それから、レキシントン号の伝令係だったという空兵捕虜による目撃談。
猛禽は颱暴弾ショットガストの至近炸裂を凌ぎ、風竜の騎士は一度は落ちたが自力で飛行することで戦場に復帰し、猛禽と共に彼らの竜騎士隊隊長――あの裏切り者らしい――を撃墜したとか。
余談だが墜ちていった隊長の行方も知れなくなっているようだ。
をのれ……コホン。
さて。この部分だけでもよく分かるが、まず間違いなくこの二騎はトリステインの軍部ではない。
こんな冗談のような騎士が軍部に居たならば、王国艦隊は壊滅の憂き目を見ることもなかっただろう。
――そしてこの報告書を綴った女騎士は、この騎士らとの接触コンタクトに成功した。
正確にはあちらからの申し出だそうだが、要約すると『飛ばすための材料が尽きたので、あの鳥を魔法学院まで運んでほしい』のだそうだ。
申し出をした青年はあっけらかんと『使い魔』と名乗り、賃金を支払っていた小柄な仮面騎士はえらく低い声で口も動かさず『地下水』と名乗っていたとか。
騎士たちはそのまま風竜で去ってしまったが、時期が時期なだけに運送をすぐ行ってもよいものかと、裁可を待つ形で書類は綴じられていた。
既に運ばせはしたが、とりあえず書類は最初の書類仕事で送還するとして。
……謎の爆発。小柄な風竜。そして魔法学院。
極め付けに、使い魔と名乗る青年。
心当たりなど、一人しか思い当たらなかった。
「あなたも、関わっているのですか?」
あの日の太陽きせきに。
ルイズ。
さて。
つい先日に戦があったばかりとは思えないほど賑やかしく慌しい王都とは対称的に、だがやはり戦の後とは思えないほどに魔法学院は平和だった。
というか、戦があったという実感を持っている者すら殆ど存在しなかった。
なにせこの学院、今回の戦に関わった何某なにがしと言えば、結局公布すらされることの無かった禁足令の通達くらいなものである。
それさえ即日の要請解除で有耶無耶の内に済し崩したのだから、その存在を知っていたものすら極少数の教員に限られており。
結果としてその他の多く。
奇跡当日のちょっぴり豪勢な夕食にて初めてその戦争と王軍の勝利への祝辞を一緒くたに老から聞かされた教員生徒に、現行で戦争をしている自覚なんぞあろうはずもなく。
こうして今日も、トリステイン魔法学院はごく何時も通りのんびりとした平常運営を行っているのである。
で、そんな学院の、時は戴冠式の昨日。
「……、…………。
…………し、こんなもんでいいか。
タバサ、そっちは?」
「……。…………、……。
こちらも、準備完了」
戦闘を終えたタルブから慌しく帰って以来のこの虚無の日に、ようやく纏まった時間が取れた才人とタバサは、
「ちょ、ちょっと! 何よ、何が始まるのよ!?」
「何が、なんて分かりきってるだろ?」
ここ、タバサの部屋にて、
「尋問会」
「会!?」
過日の件くだんの奇跡まほうについて聞き出すため、ルイズを招待らちしていた。
招待の際には窓より出入りし、音が洩れないよう扉と窓に『凪サイレント』まで掛ける徹底振りである。
「とまあ、そういうわけでだな。
あの太陽もどきについて教えてくれ。
何やったんだ? お前」
「きりきり吐く」
「うっ……な、なんであんたたちに教えなくちゃいけないのよ?」
ルイズも心当たりは有り過ぎるくらい有る。
あるのだが何となく、本当に何となくなのだがどうも素直に話す気にはなれず、挙動過多オーバーリアクションに身をたじろがせて尋ね返した。
「お前な。
あんだけ無茶なもんぶっ放しておいて本人がぴんぴん日常生活に復帰してりゃ、不思議に思うだろ普通」
「色んな意味で心配」
そりゃそうだ。
あの巨大かつ広範囲に戦列を組んだ艦隊全てを巻き込むほど精神力を消耗しておいて、何もないはずがないのだから。
実際に何か・・はあったわけだし。
というか色んな意味について詳しく。
うぐ、と更に詰まったルイズは、気恥ずかしさと謎の反発感に挟まれながら、渋々ととりあえずの原因を差し出した。
「……なにこれ」
「茶色い、……やっぱり、白紙?」
そのとても古めかしい一冊の開かれた本は、やはり二人には白紙にしか見えていないようだ。
ルイズの目には、今も黒い油質の文字がはっきりと見えているのに。
原因は……つと、今も左手に嵌めたままの水の指輪ルビーが目に留まる。
『選ばれし者、定められし者、杖もち、宝玉指にして印に触れよ』と表紙裏にはあった。
宝玉……指輪ルビーの有無か、印に触れていないからか。
選ばれし者、とは何に選ばれた者なのか。
定められし者、とは何が何を定めているのか。
疑問は歴史並にあるけれど、今は置いて説明をしよう。
あの時、シルフィードが墜とされた時に、何かの偶然でこの本アーティファクトの起動条件を満たし、発動させてしまったこと。
その際、この書に記されていた魔法の内の一つを完全に唱えきったら、あんな威力になっていたこと。
この為、タバサには才人を範囲から逃がしてもらいに行ってもらう破目になったこと。
かの日の軌跡は、詰まる所そんな三行に収まり束なった。
「というわけなの。
今回使ったのは『爆砕エクスプロージョン』っていう、放つ前にイメージした生きてないモノを、放った魔法力の内側で粉砕する呪文よ」
「粉砕ってお前……」
「だって、そう書いてあったんだもの」
一通りの説明を終えると、才人はあんぐりと呆嘆し。
「……よけい納得いかない」
タバサは首を捻っていた。
「なにがよ?」
「なぜ未だに倒れていないのか」
「そんなこと言われても、ほんとにただ倒れなかっただけよ。
あれから日も経ってだいぶ楽にはなったけど、唱えた直後なんて声も出したくなかったもの」
……そう、と不承々々ながらもタバサは頷く。
あまり深く突っ込まれずに済み、ほっとした。
のも束の間。
「ところでルイズ。
その本、どうやったら読めるんだ?」
才人が、なにやら目を輝かせていた。
ひくりと、ノドが啼いた。
「それは――え、えっと。
ねぇタバサ。あなた、こいつに古代魔法語ビュウノスとか教えたりした?」
「……まだ。使う機会も、無いと思ったから」
「そっか……そりゃそうよね」
ほっと一息、ルイズは溢した。
「? ビュー……何だって?」
「古代魔法語ビュウノス。
始祖の入滅後にロマリアから広まった魔法ルーン語……近世魔法語レムスィッシュとは違う、始祖がお使いになられた雛形の呪術ルーン言語のことよ。
祈祷書はその言語で綴られているの」
「文字も綴りも別物。
まだあなたには、見えても読めない」
えー、と才人は不満げに肩を落とす。
その姿に安心し、
「だから、ルイズ」
「ん?」
だが、まだ早いゆだんたいてき。
「わたしが読む。どうやって読めばいい?」
「え゙」
本の虫が、既に懐で鎌首を擡もたげていた。
唐突になに言い出すのこのちびっこ、と顔を怖れ見た。
目が、とても爛々と朱るく光ってるような錯視が見えた。
なんか憑いてるような気がして、正直ちょっとこあい。
油断した瞬間、目の光に体を突き破られそう。
「――ちょ、ちょっと待ってタバサ。
あの、その、えっと。
そ、そう! その、この本の最初のページに条件が書いてあったんだけど!」
よし。
「なんかこの祈祷書、一度読んだ人が出たらしばらくその人にしか読めなくなっちゃうみたいなの!
だからその、悪いんだけどまた今度でもいい!? いいわよね!?」
誤魔化そう。
え、と後頭に声が掛かる。
タバサが目をぱちくりさせて戸惑った一瞬の隙を突いて。
才人の手を引っ掴んだルイズは、扉を蹴破り廊下を駆け抜けていった。
扉に掛けられた『凪サイレント』が幸いして、誰もその音を聞きとがめることはなく。
こうしてタバサの部屋での尋問会は、誰に知られることもなく終了した。
「っ、おい、ルイズ!
離せ、離せった、らっ!? いってえッ!」
ルイズはそのまま駆けに駆け、自室まで疾ってようやくその足を止めた。
その間ずっと転まろび引き摺られていた才人は、手を離された途端床を滑り沈み、床に触れた皮膚が熱く痛んですぐさま飛び起きた。
顔が擦れてじんじんする。
あと、一瞬しゃちほこみたいな体勢になったのは内緒だ。
「っつぅうぅ……あー、もう。
どうしたんだよいきなり走り出しやがって。
杖、タバサの部屋に置きっ放しちまったじゃねえか」
「う。わ、悪かったわよ」
悪かったとは思っている。
思ってはいるけれど、
「怖いものは怖いんだもの。
……しょうがないじゃない」
賭けてもいい。
あれは獲物を狩る目だった。
「はぁ。後でタバサに謝っとけよ?
なんか油揚あぶらげ攫われた鳶とんびみたく悲しげな表情になってたから。
遅くても夕飯には出てくるだろ」
どんな表情よ。
……って、表情って目元しか変わってなかったじゃない!
何よその細かさ!?
どこがどう違うのよ!?
ていうか、そもそもなんで場所が躊躇いもなくタバサの部屋――
――って、あ。
そういえば。
「……そうね。後で謝っておくわ、念入りに」
ええ、それはもう色々と。
「そうしとけ。野菜の類のサービスと一緒だとなおいいぞ」
そうね、とルイズはにッこりと微笑み――
――それを真っ向からみた才人は、どこか不穏な雰囲気を感じて身震いした。
「ところで、サイト?
わたし、あんたに尋ねなきゃいけないことがあったの、すっかり忘れてたんだけど」
「な、なんだ? ……な、なんで距離を詰める?」
じりじりと、笑顔のまま近づいてくるルイズに、言い知れぬ恐怖を覚える。
なんだろう。なんだか、とても見覚えがある気がする。
「ええ。あのね?
あんたが宝探しに行ってた頃に、わたしヘンな噂を聞いたことがあったんだけど」
あ、やばい。
なんか、とてもやばいことを忘れてたような……
「あんた、タバサと一緒にお風呂入ってたってホント?」
「あ゙」
一瞬でその非常事態と体温を思い出した。
顔面が沸騰し、同時に脳みそから血の気が失せる。
顔を通り越して、きっと今おれは肩辺りまで真紫……いや真っ白になっているかもしれない。
そして、ルイズにはそれだけで充分な確信を与えてしまったらしい。
「へぇえ。本当だったのね。犬」
そして、ルイズの変わらない笑顔の正体にも思い当たった。
犬来た。
やばい、これはマジ怒っていらはる。
慌ててルイズに背を向け、扉を――
「開かねぇ!?」
扉は壁の如く、びくともしない。
「あら、何処へ行こうと言うのかしら? 犬。
残念だけど、そこは既に施錠済みよ? 犬」
語尾の区切り毎に犬を挿入しつつ、笑顔をぴくりともさせずにルイズがラスボスみたいなことをのたまっている。
その手に持っているのは……
「いつ開いたんだその本!?
ていうか何で杖!? 」
「不思議ね。犬。
今なら、もう一つの魔法だって何の躊躇いもなく使える気がするわ。犬」
どうやらルイズ、怒りの臨界点を突破しすぎてなんか色々すごいことになっている。
扉を施錠と言うか封印したのも魔法か。
てか、これマジやばくね?
「ちょ、ちょい待って待って待って!
何その杖の先の光!?
粉砕なんかされたら俺死ぬ! 死んじゃう!」
「あら言い訳なんてしなくていいのよ? 犬。
これはただのお仕置きだもの、死にはしないわ。犬。
それに『爆砕エクスプロージョン』は生きていないモノにしか効果がないって言ったじゃないの。犬」
魔法でお仕置きは確定なん!?
「ちょ、まっ……そ、そうだ!
俺が誰と付き合っても気にしないんじゃなかったのかよ!?」
「――――――ええ、確かにそう言ったこともあったわね? 犬。
あれがそもそもの間違いだったのね。犬?」
にこぉ、と笑みが深くなった。
……地雷踏んだ――!?
「あのね? 犬。
確かにわたしはアンタが誰と付き合おうが知ったこっちゃないし、誰とどう空き時間を過ごしてようとも文句は言わないわよ?
でもね?」
――そうだ、窓から飛び出せば!
そう行動に移そうと思ったのも束の間。
光を先端に灯した杖が、死神の鎌の如く掲げられ――
「――節度くらい弁わきまえなさいつってんのよ! このバカイヌぅうううううううううううう!!!!!」
「のぉぉぉぉおおおおお! ――ぉ、ぁ」
放たれた光に包まれたかと思うと、全身の色んなところから力が抜け、抵抗も出来ずに正面からばったり床に沈んだ。
「しばらくそうやって反省してなさい! いまからでも注文してやるわ!」
ものすごい眠気が襲いくる中、そんな怒声が聞こえた気がした。
ナニ買うつもりなんだ、と尋ねる気力すらなく、そのまま意識は泥のような眠りに着底した。
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