呉志英雄伝
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第八話~胎動~
太陽が真上に差し掛かるよりも少し前の頃合い、湘江の畔では激しい乱戦が繰り広げられていた。
得物と得物がぶつかり合う音。
鉄が肉を引き裂く音。
そしてその度に戦場に響き渡る断末魔。
つい今朝までは平穏であったその大地に大きな血の池を作りながら、戦はまだ続いていた。どちらの装備も粗末なもので、そのことが互いに賊であることを端的に示していた。
「江様」
そんな戦場を大河の上から見やる集団の中で呉の将・周泰が、彼女の前にて戦況を見つめる朱才に声をかける。
その言葉に江は一度頷くと口を開いた。
「そろそろ頃合いですね。総員、上陸および戦闘準備を」
合図を待っていたかのように、彼らを乗せる船の群れは岸へと近づいていく。それらに乗るはおよそ100人。
その100人の各々が武器を構え、士気を高め、目の前の戦場に乱入することに意識を集中させていた。
時は少し遡り20日前。
このとき、長沙に二つの報告が舞い込んでいた。
一つは黄巾党が湘江からほど近い村を襲撃、そしてそこに砦を築き、根城としているということ。その数なんと3000。
もう一方は洞庭湖南岸を本拠地としている、大乱以前からの賊が大乱に乗じて縄張りの拡大を図っているようであるということ。こちらの数は1800。
困ったことに、両勢力の位置はかなり近い。互いにつぶし合うのなら、その火の粉が周りに降りかからぬように兵を出さねばならず、統合しようものなら更に多くの兵を差し向けなければならない。
そしてさらに事態は悪い方向へ流れ、どうやら両勢力が手を取り合うような動きを見せ始めた。
しかし先にも述べたとおり、今は大乱の只中。ただでさえ将も兵力も足りない中で、総計5000近くの賊を討つには、それこそ最低でも2500以上の兵数、そして優秀な将が必要である。
自身で賊の討伐に出立した桃蓮の代わりを務める焔は、自室に江を呼び出して2000の兵を預け、それらを以て、2つの大規模な集団を殲滅するように命じた。
「本来ならもう少し兵力を与えたいんだけどね…」
彼女の言葉からは最低限度の兵力すら与えられないことへの自責の念がこもっていた。
だが対する江の発した言葉に、焔の自責の念は一瞬にして驚愕へと変わる。
「いえ、2000ですら過分です。500が妥当と言ったところでしょう」
「なっ!?」
思いがけない提案に、焔は猛烈に反対の意を示す。
「何を莫迦なことを言ってるの!統合したら、間違いなく他の小勢力を吸収して5000は超えるのよ!?500じゃ太刀打ちすら出来ないわ!」
「ご安心ください、母様。両勢力が協力するなどあり得ぬことですから」
江は至って冷静に言葉を返した。
その冷静な江の様子に、焔の高ぶった感情は徐々に削がれる。
背もたれに乱暴に身を預け、焔は額を抑えながら江に問うた。
「江がそこまで言うということは、当然何かあるのよね?」
「ええ、もちろん。それともう一つお借りしたい者が…」
笑顔で返す我が子に、焔は嘆息を漏らすほかなかった。
そして時は再び現在へと戻る。
ゆっくりと岸に近づく船団の上で、江は明命に聞いた。
「ところで手配は済みましたか?」
「はい!」
元気な返答に江は頬を緩ませながら、視線を前へと向けた。
船団の速度は一気に上昇する。ついに岸に船を着けたとき、江は声高らかに宣言した。
「総員かかれ!一人たりとも逃すな!大地を、草木を賊共の血で朱に染めよ!」
言葉を皮切りに上陸を果たした孫呉の精兵は次々と戦場へと流れ込んだ。
敵兵の眼前へと迫り、次々に屠りながら明命は思考を巡らせていた。
現在の状況を整理しているわけではない。ましてや次の展開に備えてというわけでは断じてない。
(こうも上手くいくとは)
彼女の脳裏では、現在の指揮官である江によって伝えられた作戦の全貌がよみがえっていた。
「軍には慣れましたか?」
練兵場で汗を流していた明命は、突然声をかけて来た江にあわてた様子で礼をする。
「は、はい!おかげさまで何不自由なく!」
「そうですか」
少しずれた答えにも、江は微笑みで返す。
そんな暖かな笑みに口を半開きにしながら見とれていた明命は、我に返るとすぐさま話を転換する。
「なな何かお話があったのではないですか?」
「?…まぁ確かに話はありますが」
急な転換に合点のいかない様子だったが、気を取り直したのか表情を引き締める。
それを見て、これから話される案件が重要なものであると察した明命も呼応して、今までの笑みを消して表情を引き締める。
「以前からあなたには諜報部隊の編成を頼んでいましたね?」
「はいっ!思春殿に協力してもらったおかげで、実戦に使える段階にはなっているかと…」
最初ははきはきと言っていたが、次第に声が尻すぼみになっていく。恐らくは結果を見るまで、確信というものが持てないのだろう。
「そうですか。では今回は最終試験の場としましょう」
「最終試験、ですか?」
「ええ、今洞庭湖の畔に二つの賊の大勢力があることをご存知ですか?」
「はい、何でも最近互いに歩み寄る動きが…まさか」
自分の知っている情報を口にし、ハッと息を呑む。
その様子に江は満足げな笑顔で応える。
「察したようですね。今回の任務はとても簡単なものです」
母なる長江に巣食う下賤な者たちには、下賤な者同士で潰し合っていただきましょう。
江の眼光は明命を射抜かんばかりに鋭いものとなっていた。
江の作戦はこうだった。
最近になって互いに歩み寄る動きを見せていた二勢力の不和を生じさせ、疑心暗鬼の状態までもっていったところで、少数の兵を以て片方の勢力を砦から釣りだす。
あとはそのままもう一方の勢力の方へとおびき寄せれば、向こうから攻められたという事実が出来上がるというわけだ。
「不和を生じさせるには…ふむ、使者を使いましょうか」
まず孫呉から無条件降伏を求める使者を両勢力に出す。当然相手はそれを突っぱねるだろう。何せ自分たちは仮にも大勢力なのだから。それくらいの推測は容易いものだ。
そこで明命たち諜報部隊の出番である。
互いの勢力に『もう一方が降伏をするらしい』という噂を流させる。もしそれをまるで信じなくとも、事実確認をするために、使者くらいは立てるだろう。
あとはその使者を屍にして砦の前に晒しておけば、疑心暗鬼な状態の出来上がりだ。
とはいえ、ただ仲たがいを起こさせるだけでは周りの被害なども想定できない。だからこそ江は回りくどくとも、自分たちが戦場を制御するために、少数で砦から釣りだすという手をとることにしたのだ。そうすれば戦いの始まりから場所まで自分たちの支配下における。
「まぁ当然それだけではないんですがね」
江の浮かべる薄い笑みに明命は背筋の凍る思いをせざるを得なかった。
時は三度現在へと戻る。
今の戦場は洞庭湖に注ぐ湘江河口付近。周りには低湿地帯があり、葦などで見通しは相当悪い。そんな場所をわざわざ戦場に選んだのには理由というものがある。
「頃合いですね…」
江は呟くようにそう言うと、右手の大剣を高々と掲げた。それを合図に孫呉の兵100人はサッとその低湿地帯の外へと出る。
「今です!」
明命の張りのある声と共に、戦場に突然火が起こった。交戦中に孫呉の兵に奇襲を受けてなお自分の置かれた状況に気が付かなかった察しの悪い賊も、ここでようやく気が付いた。全ては孫呉の仕組んだことなのだと。
「し、死にたくねェよ…」
賊のうちの誰かはそう言った。言ってしまった。
心の中で呟くには大いに構わなかった。しかしそれを口に出してしまった。そして不幸なことに他の者の耳に、その言葉は届いてしまった。
言葉にされることによって、より鮮明に『死』の恐怖が襲いかかる。ただでさえ死に体の身に活路があるとすれば…
「うわああぁぁぁぁあああぁぁあああぁあ!!!!!!」
逃げることだけである。各々の勢力は各々の砦へと逃げ帰っていった。
統率のとれていない賊というのは存外脆いものであり、一人が戦場に背を向ければ、連鎖反応で次々と離脱する。それは賊の頭がいくら止めようと、黄河の洪水を100人で抑えようとするようなもので不可能なのだ。
逃げだした集団を、近くに伏せていた孫呉の兵200が明命の指示のもと追撃する。もう一方の集団は江によって追撃される。
必死になって駆ける。振るう。慟哭をあげる。
ただただ生にしがみつこうと躍起になる。だからこそ気付かなかった。
自分たちが寄る辺としている砦に『誘われて』いることに。
孫呉の兵の追撃は緩慢とも言えるものだった。優れた指揮官が賊のほうにいれば、この違和感の正体に気が付いたかもしれない。
しかし敵は生き残ろうと必死、更に数だけが頼りの集団。この緊急事態において、どうして己の命以外のことを考えようか。
江が担当する集団も、明命が追尾する集団も、砦の門が仲間を全て呑みこむと同時にその口を固く閉ざした。そして大損害は受けたものの、自分の身が無事だったことに心から安堵した。
「全く…無知とは恐ろしいものです」
「自らが棺桶にその身を横たえたというのに」
明命と江、二人ともまるで別の場所にいるというのに、連綿として言葉が続く。
『合図を』
違う場所にいる二人の声が重なった時、それぞれの砦から大火が生じた。
固く門を閉ざしたのが災いした。冷静を失った者たちが殺到する門はついぞ開かれることはなかった。
炎は砦を焼き尽くし、後に残ったのは人間の焼けこげたにおいと、もはや何であったか判別の付かない燃え滓だけだった。
この戦いは江の機智を周囲に知らしめる戦いとなり、江の名前は南荊州に広まることとなった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「そうかそうか」
玉座に座し、書簡を目にして満足げな笑みを浮かべるのは、いつぞやの老翁。
もたらされた報告は彼の意に沿うものだった。
「本来なら乱に乗じて討つ計画だったが…」
「はい、これで大義をも手に入れることが出来たというものです」
以前蒯良と呼ばれた男もそれに応じ、口角を吊り上げる。
玉座の間には剣呑な空気が流れていた。
「それにしても急いたな、小娘」
「急かしたのは一体誰でしょうか?」
呟く老翁―劉表―に問う蒯良。
老翁は表情そのままに答えを返した。
「はて、何の事だか分からぬな。ただ『偶然賊が孫呉の領土へ流れた』り、『偶然一族や豪族が離反した』ことはあったのう。いやはや、そう考えると致し方ないと言えば致し方ない、か」
その表情に浮かぶは嘲りか狂気か。
いずれにせよ真っ当な感情など皆無であることは必然であった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
所変わって孫呉の本拠地、長沙。
江と明命が出征した湘江西岸での一戦を最後に、頻発する賊の出現がようやく一段落し、つかの間の平和を享受している孫呉では、来る戦に備え軍議が重ねられていた。
「天下を獲るというのなら、大方針としてまずは江陵以北の劉表を打倒しないと」
「ええ、それに奴とは昔から仲が険悪だったから、それで何ら問題ないわ」
軍議の席には孫呉の参謀である焔、冥琳、夕、穏、そして軍権を持つ祭、江、雪蓮、最後に君主である桃蓮がいた。
「ただ乱に乗じて、というのは少しばかり風聞によろしくないでしょうね」
「うむ、儂は乱を終結させ、その後漢室の権威が失墜したことを世に知らしめてから事を起こすべきじゃと思うておる」
「私も同意だ。今は乱の最中。民を守らずして天下など世迷言もいいところだ。それに余裕がなくなればそれだけ人は短絡的になるからな」
「なるほど~、つまり今起こせば、『乱集結を遅らせる』、そして『王朝の命に背く』という二重の非難を浴びてしまうということですね~」
最近になって成長著しい双丘を揺らしながら、穏はうんうんと頷く。その様子を夕が忌々しげに見ていたことには敢えて触れないでおこう。
さて、ここで上記の会話の流れをまとめておくと、
・直近の目標は他勢力との共闘にて、荊州北部にある南陽に巣食う約20万の黄巾勢力を打倒すること
・乱集結まで導き、世相の漢室に対する不満と懐疑が蔓延したところで、漢からの独立を宣言
・長年に渡る因縁を持つ荊北の劉表を破り、荊州全土を掌握
となる。
荊州は過去『楚』という大国があった土地。
広大な領土と南蛮との交易により、国を富ませることは難しいことではない。人口もかなり多い。国力を上げるにはそう時間はかからないだろう。
そして全ての準備を終えたら、中原へと進軍していけばいいのだ。
「でもここから南陽までは随分と距離があるんじゃないかしら?」
どうやら最近の雪蓮は雰囲気をぶった切ることに長けているように感じる。
しかしこの雪蓮の指摘は至極真っ当なものなのだ。長沙からでは、江陵、襄陽と二つの大都市を隔てる場所に位置するため、参陣するにもかなりの労力を必要とする。
不幸中の幸いか、南陽付近までは長江からその支流である襄江、そして更にそのまた支流である白河を経由することによって船で行くことが出来るのだ。
「そうなると不安が残りますがね…」
それは江のみならず、他の将もみな同じ考えだろう。何せ当面の敵である劉表の膝元である襄陽を通るからだ。まだ悟られるような動きをしていないはずではあるが、そもそもの仲が険悪なのである。
何が起ころうと不思議ではない。
「用心するに越したことはないな」
桃蓮の呟きはその場にいる全員の気持ちを代弁したものだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
「フン」
男は気だるげに目の前の大河を眺めていた。
男の名前は黄祖。その武勇は非常に高く評価され、かつては孫権の副官まで務めるまでの者だった。しかし生来の高慢な性格が災いし、結果今は長江を挟んで江陵の対岸に位置する公安港の守りへと左遷された。
「退屈な日々だ」
そう漏らすのは無理もない。
公安港は長きにわたる因縁がある劉表と接する土地柄、孫呉にとっては重要な拠点となっているが、その実付近には村や街などはまるでない。
要するに娯楽がまるでないのだ。その点を考慮すれば黄祖の漏らす愚痴はやむを得ないことであるのは承知いただけるだろう。
「それもこれも全てはあの男のせいだ…」
周りに人がいればその耳に届くほど、強く噛み締められた歯。それほどまでに深い怨恨、強い憎悪を向けられる相手とは
「許さぬぞ、朱君業」
孫権の副官ということは、呉における王族の側付きである。位の高さとしても重臣級とまではいかないまでも、それなりの地位であった。
そして姫君の副官ともなれば、当然戦に出る機会も、活躍する機会も、何よりその活躍を君主の眼に焼き付ける機会も存分にあるというものだ。
そもそも桃蓮が何故蓮華にこの男を付けたのかは、前にも述べたとおり蓮華の慢心を取り除き、そして江の力を示すためであったのだが、当然黄祖本人は自らがダシにされたことを知る由もない。
そうなると、黄祖から見れば、突然付けられた副官に出番を掻っ攫われ、更には自分を蹴落とされたと錯覚してもおかしくはない。
「賊上がりの下賤な身分の者が…」
かつて夕が江に聞かされた暗殺者の話。そのうちの一度は黄祖によって仕組まれたものだった。当然江が生きているということはその暗殺は失敗に終わったということだが。
というわけで、黄祖の江を恨む理由には事欠かないということは分かってもらえたと思う。
「っ!誰だ!!!」
不意に黄祖は振り向き、怒号を上げる。夜となり、すっかり暗くなった辺りをかがり火が照らすなか、暗がりからザッザッと足音を響かせ、人影は近づいてきた。
闇に紛れるためであろうか、黒い外套を深々と被り、そしてその者は黄祖の構えた剣の射程距離ギリギリで立ち止まる。
「黄祖殿とお見受けする」
深々と被った外套の奥で、その者は薄気味の悪い笑みを浮かべていた。
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