魔法使い×あさき☆彡
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第三章 強化合宿
1
「小手ーーーーっ!」
「いたああああああああっ!」
屋内に、令堂和咲の絶叫が響き渡った。
昭刃和美の構えた竹刀が振り下ろされ、頭部に思い切り叩き付けられたのだ。
面、胴、小手、垂れ、二人とも剣道の防具を身に着けて顔は見えないが、もちろん痛みにごろんごろん床をのたうち回っているのがアサキである。
「カズミちゃんっ! わたしの頭が小手に見えるんですかああああ?」
立ち上がると、掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄った。
たぶん、面の中は涙目だ。
「いやあ、悪い悪い。そっちのが殴って楽しそうだったから、つい」
カズミは後頭部を撫でながら、笑ってごまかした。
ここは我孫子市立天王台第三中学校の体育館。
明木治奈、大鳥正香、平家成葉もおり、それぞれ防具を身に着けている。
周囲には他にもたくさんの、防具姿の女子たちがいる。
彼女ら魔法使い組の五人がここでなにをしているのかというと、剣道部の練習に参加させて貰っているのだ。
昨日は柔道、本日は剣道。
須黒美里先生の指示で、週に二回ほど、なにかしらの運動部を経験させられる。
いくら魔法力があっても、その破壊エネルギーをヴァイスタの身体へと叩き込むためには自らの運動能力を高めなければならない。という、考えによるものだ。
須黒先生は体育館の壁際で、樋口大介校長と一緒に練習を見ていたが、カズミのふざけすぎにため息を吐くと、手を叩き怒鳴った。
「ほらほら、昭刃さん! 真面目にやるっ!」
「はあい。もう、アサキが小手を避けねえから、あたしまで怒られた」
「えーーーっ、わたしのせいですかあ? というか小手じゃなくて面だったでしょお!」
納得いかないという気持ちと、なにをいっても無駄だという諦めがないまぜになった、なんとも情けないアサキの顔である。
さて、その横では、明木治奈が剣道部の女子と真剣に向き合っている。
二人とも動かない、という点に置いては同じであったが、見る者が見れば、優勢劣勢の差がはっきりと出ていた、ということであろうか。
剣道部の女子が、まるで焦りから背中を押されるかのように、だっと前に踏み込んで、竹刀を振り上げたのである。
治奈にとって、彼女のその行動は、単に彼女自身の隙が大きくなったという、ただそれだけのものだった。
「面!」
治奈の突き抜ける叫び声と同時に、二人はすれ違っていた。
女子部員が上段の構えから振り下ろすよりも早く、治奈は自分から飛び込み距離を詰めて、竹刀を面へと叩き付けつつ擦り抜けたのだ。
「おーーーっ! さっすがハルにゃん! お見事お!」
防具で顔は見えないけれどもすぐ分かる。小学生でも不思議のない小さな身体で、跳ねて喜んでいるのが、平家成葉である。
敗れた女子部員は面を取ると、治奈へと向き直り、悔しそうに深く礼をした。
「まいったな。吉田も歯が立たないかあ。えっと、平家、明木、とやって次は大鳥か? よおし、それじゃあ対戦すんのは、もちろんあたしとだな。今度は負けねえぞお」
ショートカットの元気そうな女子、三年生で剣道部部長の白花芽衣子がわくわくしている感じの語気で言葉ぺらぺら、面を装着すると大鳥正香の前に立った。
「お手柔らかにお願いします」
大鳥正香も面をかぶると、軽く礼をし、竹刀を構えた。
「やだよ。大鳥を相手にして手なんか抜いたら、あたし絶対負けるじゃんか。んじゃ行くぞっ、始めえっ!」
怒鳴り声を発しながら、白花芽衣子は飛ぶ勢いで前へと出つつ、構えた竹刀を振り下ろした。
勢いよく踏み込んだ割には、振り下ろす竹刀の振りは小さい。
正香を一撃で仕留められるなどとは、まさか思っておらず、防御も考えての攻めを、ということだろう。
受けてすぐさま反撃に出る正香であるが、白花芽衣子は斜め後方にまるで猿のように跳ねて避けた。
もしも最初の一振りが、勢いに任せた大振りだったら、おそらくここで勝敗は決していただろう。
再び白花芽衣子が攻めに転じる。
やはり勢いはあるが小さい振りだ。
すうっ、後ろに退がりながら竹刀で逸らす正香であるが、白花芽衣子は引かれた分だけ前進し、追撃の手を緩めない。
正香は、決定的な一打こそ浴びることはないものの、とにかく防戦一方になった。
白花芽衣子が、攻撃は最大の防御で細かく竹刀を振り下ろし突き出し続け、正香に攻める余裕を与えていないためだ。
もちろん剣道のルールでは、その細かく振り回し続けている竹刀が相手に当たっても有効にはならない。
決定打に直結する大きな隙を作り出すことが、彼女の目的なのであろう。
実は、正香と白花芽衣子の対戦は、もう五回目。
すべて、正香の勝ちだ。
今回の白花芽衣子の戦法は、大振りせずにとにかく攻め続けるというだけのものであり、正攻法ではないし、愚策といえないまでも奇策というほどでもない。
でもこれが、五回も負け続けた剣道部部長の、勝利への執念なのであろう。
そしてついに、部長の見せる邪道戦法が、正香の隙を作り出すことに成功した。
正香が、攻撃を払おうとしたのだが、白花芽衣子が自分の竹刀をくるんと回して接触をかわし、上から軽く叩き付けた。
それにより、正香の持つ竹刀がだらりと下がったのだ。
「小手!」
叫びながら白花芽衣子が、正香の小手へと目掛けて、竹刀を振り下ろす。
だが次の瞬間、面の奥にある剣道部部長の目が、驚愕に見開かれることになる。
「小手!」
正香の竹刀がするり擦り抜け、白花芽衣子の小手を叩き、そして、
「胴!」
電光石火の神業というべきが、小手を打撃した瞬間には、既に胴を打ち抜いていた。
呆然。
白花芽衣子は、ゆっくりと天井を仰ぎ見た。
十秒ほども、そうしていただろうか。
「ああもう、また負けたああああああああっ!」
突然怒鳴り声を張り上げた。
そして、ゆっくりと面を脱いだ。
思い切り叫んで発散したのか、すっきりしたようにも見える彼女の表情である。
正香は深く礼をすると、自分も面を脱いだ。
「負けた負けた。強えなあ大鳥は。お前ほんと剣道部に入れよ」
白花芽衣子部長は、歯を見せて少年のように笑った。
「すみません。お誘いは嬉しいのですけれど」
正香は微笑を浮かべ、勧誘をやんわり断った。
「部活、どこにも所属してないんだろ? もったいないよなあ」
授業中、放課後、土日、深夜、いつヴァイスタが現れるか分からないため、彼女らは部活への参加を免除ではなく禁じられている。
もちろん、それを誰かに話すことも厳禁だ。
「こいつらがいりゃあ、地区どころか全国だって狙えるのになあ」
などとぶつぶついいながら剣道部部長は、壁際に立っている須黒美里先生のところへすーっと近付いて行った。
「また負けちゃいましたあ。あたし部長なのに、帰宅部にい」
自虐的なことをいいながらも、表情は楽しげだ。
「まあ、小学校卒業まであなたと一緒にずっとやってたからね」
正香は中学に入り、校長と先輩からのスカウトを受けて魔法使いになることを承諾したため、先ほど説明した通り、部活としての剣道はやっていない。
しかし、小学生時代の正香は、千葉県大会の決勝に必ず出場しており、全国大会でも悪くない記録を残している。
「それに、家ではお父さんに教えて貰ってるらしいよ」
「知ってる。……先生、あの子たち昨日は男子に混じって柔道をやってましたよね。なんだってこんな、部を転々としているんですか? 新しい競技団体でも旗揚げするつもりですか?」
「あ、いや、ちょっとね。迷惑だった?」
「いえ、みんな凄い実力あるし、入部してくれないまでも、助っ人として大会に参加してくれたらいいなーって思って、聞いてみただけで」
「うーん、それも面白いかも知れないけど……」
難しそうな、渋柿食べた顔になる須黒先生。
何故そんな表情になるのか、原因はすぐ目の前。
「だいたいカズミちゃん全然剣道やってないじゃないか! 昨日の柔道だって、投げの受け身練習なのに、わたしにプロレスの関節技ばっかりかけてきたしさあ」
「うるせえな、剣道やりゃあいいんだろ! プロレスラーで剣道といえば、そう、上田馬之助だあ!」
カズミは叫ぶが早いか竹刀をぶうんと振り回して、アサキの面をバッシーンと横から打った。
「いたいっ!」
という悲鳴にも構わず、ばすばすばすばす頭を打ち続けるカズミ。
「痛いっ! 痛いっ!」
面をしてても、真横から叩かれると恐ろしく痛いのである。
悲鳴を上げながら、ぐらりよろけた。
その隙に、カズミはさっと後ろに回り込んで、がっしり押さえ付けた。
背後から、アサキの面のふちを歯でがちっと噛り、「むんはーっ!」など奇妙な雄叫び上げながら顔を上げ、レスラーマスクよろしく強引に面を剥ぎ取ると、竹刀を首に回してぐいぐいと締め上げた。
上田馬之助、昭和時代のプロレスラーである。
別に剣道で戦うわけでもなんでもなく、単にいつも竹刀を手にしている悪役というだけの話であるが。
「入場曲はもちろん『地獄へ堕ちろ!』だああああ!」
「知らないそんなのぐぐぐるじいいいっ! やぁめてええええ」
アサキの顔がどんどん青くなっていく。
白花芽衣子は、あっけにとられた顔で、二人が織り成す低レベルの争いを見つめている。
「大会参加の件、あの子たちも一緒でいいのなら考えるけど」
「いえ、やっぱりいいです」
きっぱり即答する白花芽衣子であった。
2
「合宿う?」
令堂和咲は、素っ頓狂な声を出した。
聞き取れてはいたが、予想もしないことだったので。
現在は、給食後の昼休み時間。
校舎と校庭の間にある二つのベンチに、令堂和咲、明木治奈、昭刃和美、大鳥正香、平家成葉の五人が腰を下ろしている。
「ほうよ。魔法使いとして強くなるための合宿じゃ。須黒先生が、やっぱり今年もやらなきゃダメかなあ、って。校長に掛け合おうとしたら、校長からもやったらどうかいわれたらしい。……旅費も出して貰えるけえ、その辺は心配せんでええよ」
と、微笑む明木治奈。
「……実はのう、正直ゆうとじゃなあ、アサキぼんの実力がクソ過ぎじゃけえ。ほんの少しピーでも引っ張り上げよおっちゅうごっつ優しい企画じゃがい」
カズミが、普段の掠れたような声を隠して、ちょっと可愛らしい声を出した。
言葉のチョイスは、凄まじくいかつい感じだが。
それを隣で聞いて、治奈が苦笑しながら、
「カズミちゃん、ひょっとしてうちの真似しとるつもり? うち、そがいな喋り方はしとらんじゃろ。……嘘だからね、アサキちゃん。実力がどうこうっていうのは。お互いを知ることで連係プレーにも役立つし、うちらだって去年やっとることじゃ」
「アサキ個人がヘタレなままじゃあ、連係もクソもねえだろ?」
びしっ、とカズミが糾弾する。
「そがいなこというかの? 今回の話が出たのは、こないだの剣道の時に、アサキちゃんの首を締めたり、プロレス技を掛けて泣かしたり、無茶苦茶やっとるのが一名おって、校長と須黒先生が同時にため息を吐いたのがきっかけじゃというのに」
「はあ、誰だそいつは? 連れて来い!」
誰なんでしょねー、っといった感じに半ばぶすくれた顔で頬杖をつくアサキであったが、すぐに表情をニュートラルに戻して、
「わたしの能力が酷いのは間違いないし、しっかり鍛えて貰わないとなあ、とは常々思っていた。でも、合宿といっても、その間にヴァイスタが出たらどうするの? みんなを知る、とかなんとかいうのなら、みんなで行くってことだよね。須黒先生が代わりに戦うとか」
ひっさびさの大変身で。
「先生はもう変身出来んじゃろ。心配無用、周囲にある中学高校の、警戒エリアを広げて貰うけえね」
治奈の答えに、アサキの頭に浮かぶのは納得ではなく、また別の疑問。
「そんなこと簡単に出来るの?」
問いに、治奈は小さく頷いて、
「校長に頼めば、色々と融通はきかせてくれるけえね。もちろんお互い様ということで、うちらが遠くに行かされることもある。所属の魔法使い全員ではなく、一人や二人が助っ人に来てくれたり反対に行かされたり、ということもある」
「へえ」
そうなんだ。
「去年の冬にさあ、隣の天王台第二中学から、万延子と文前久子ってのが助っ人に来たんだけどな、まあ態度が成葉よりもチャラチャラチャラチャラしてて、あたしずっとムカムカして、ブン殴りたくて仕方なかったよ」
物騒なこというのは、もちろんカズミである。
「同じ目的の仲間なんじゃから、そがいなこといわない。……とにかく、こがいな互助のシステムがないと、せっかくの花の中学生が天王台から一歩も出られなくなってしまうじゃろ? 合宿の件はほぼ決定で、留守中のことも、もう数校から承諾は得ておるんで、後は保護者の許可じゃな。直美さんたちに話しておいてくれる?」
「分かった」
アサキは微笑み頷いた。
「でもなんていえばいいかなあ? 魔法使いの特訓なんていえないでしょ」
「女子五人で一泊の東北旅行したい、とでもいっておけばええじゃろね」
「東北?」
具体的な場所が出たので、食いついた。
「ああ、福島県の、なんといったかなあ。去年も行ったとこなんじゃけど。……嘘の行き先を教えても、リストフォンのGPSでバレるけえ、大まかな行き先は正直に伝えた方がええじゃろ」
「そうはそうだね。じゃあ修一くんたちに話して許可を貰っとくね。……そっか、福島かあ。仙台にいた時に、遠足で行ったきりだなあ」
空を見ながら福島の名所を回想していると、いつの間に立ったかカズミがぐいーっと肩を当ててきて、アサキをぎろり睨み付ける。
「おいアサキ、分かっているたあ思うが鍛えに行くんだからな! 遊びに行くんじゃねえんだからな! ただし、お菓子を買えるとこなんか近くにないから、ある程度は用意してこいよな。夕方は交換会だからな」
「はあ……」
旅行が楽しみ、というのがバレバレなんだけど、カズミちゃん……
「カズにゃんは確か去年さあ、一番はしゃぎすぎて特訓そっちのけで遊んでて怒られてたよねえ。あれいない、ってみんなで探してたら、一人でボートに乗ってたりして、ピー子先輩にばっしばっし往復ビンタされてたよねえ」
「船着き場で待って叱るなら普通じゃけど、ピー子先輩がボート借りてカズミちゃんのこと追い掛けてデッドヒートの上で捕まえて、水上でビンタ食らわせよったんじゃよな」
「カズにゃんを湖に突き落として、ロープで引き回したんだっけ?」
「そこはよく覚えてないけど、ピー子先輩とか静江先輩ならやりかねないなあ」
成葉と治奈は、その時の映像を思い浮かべているのか腹を抱えて大笑いしている。
「えー、そうだっけえ? カズちゃん覚えてないなあ。チミたちの記憶違いじゃないのお、一年生で脳味噌がまだ未熟だったからさあ。つうかよお、今いうんじゃねえよ! そういうことをよお。色々と緩んじゃうでしょお! 雰囲気がさあ」
「カズミちゃんっ」
アサキは、不意にカズミの両手を取った。
真顔で、じっと見つめながら、口を開く。
「今年は、真面目にやろうね」
「何様だあ!」
カズミは握られた手を振りほどくと、アサキの襟首を掴んでベンチから引っ張り立たせ、押さえ付けつつ背後に回り込んで腕と足を絡ませて、ぐいいと締め上げた。
「食らえ! コブラツイストおおお!」
「いたたたたた! ギブアップ、ギブアップ! カズミちゃん、痛いよ! 痛い痛い痛い痛いっ! やあめえてええええええ!」
まっとうなこといっただけなのにっ、
合宿前に身体が壊れたら、どうしてくれるんだあああああああああ。
3
「お待ちどお様あ」
元気な声で、両手の物をテーブルに置いた。
焼きそばたっぷりの広島風お好み焼きの乗った皿と、日本酒の入ったコップだ。
学校の制服に白いエプロンを掛けた、明木治奈である。
いつものように店舗側から帰宅して、いつものように父親に叱られるかと思っていたら、アルバイトの到着が少し遅れるとのことでそれまでの助っ人を頼まれたのだ。
「ありがとー。この豚肉の香ばしさがいいよねー」
テーブル席に一人座っているのは、令堂直美である。
転居してそれほどの月日も流れていないのに、すっかりここの常連になってしまっており、二日に一度は来店しているだろうか。
「お酒のコップを幸せそうに握りしめて顔に近付けてくんくん嗅ぎながら、料理を褒めんで貰えますか」
「あ、ははっ、いやあ、素敵なお酒があって、素敵なお好み焼きが引き立つってことだよお」
直美は笑う。
酒こそメインなのはとっくに気付かれていることなので、ごまかす必要もないのだが。
「こがいな時間から飲んどって、問題ないんですか?」
「いいのいいの。もうそうそう飲めなくなるし。いっただきまあす!」
手にしたコップを口に近付けて、まず舐めるように少量の酒を含んだ。
続いて、箸箱から割り箸を取り、割った。
「それ、どういうことですか?」
尋ねる治奈。
もちろん、「もうそうそう飲めなくなる」についてだ。
「修ちゃん……旦那がね、仕事していいっていってくれてね。職探しをすることになったんだ」
「ああ……」
彼女がここを初めて訪れた際に、聞いている。
気管支の病気を、長いこと患っていたこと。
もう治ったと医者からいわれているのに、旦那さんがなかなか仕事をさせなかったこと。
それが原因で流産もしているから、今度は慎重に行きたい、ということかも知れないが。
とにかくそれが、ようやくOKが出たのというのだ。
「よかったですね。……って、うち働いたことないから、いいのか悪いのかよく分からんのじゃけど」
「しっかり働いてるじゃん、いま。……とにかくさ、そんなわけで、だらけた飲ん兵衛生活も今日でおしまいだ」
「ほいじゃあ、ぱーっと飲んじゃっても構わんわけですね」
「ぱーっと行きたいから治奈ちゃんも付き合ってよ」
「だだ、ダメですよう。うちまだ中二、未成年ですからあ!」
両手ぶんぶん振って拒絶の意を示す治奈である。
「ああ、そっか。アサキちゃんと違ってしっかりしてるから、未成年ということすっかり忘れてたあ」
「単に老けとるから、とかじゃないですよね」
「違う違う。ちゃんと年齢相応に見えるよ。アサキちゃんみたいな、ぽわああんぴよほわわあああんってところがないというだけで」
「その擬音の意味がよく分からないんですが」
「分からんといえばあ!」
直美は、がっと勢いよく立ち上がった。
「あの、コップ舐めただけに見えたんですが、もう酔っていらっしゃるんでしょうか?」
「あ、ごめん、つい」
なにがついなのか分からないが、とにかく直美は座り直した。
そして、何故だか今度は、ぼそぼそした小声で、
「分からないといえばさあ、アサキちゃんのことよねえ」
「アサキちゃんが、どうかしましたか? あ、ちょっと待ってて下さい。ありがとうございましたあ!」
治奈はそういうと、小走りで、出入り口近くのレジカウンターへ。
素早く会計処理をすると、帰った客のテーブルをてきぱき片付け始める。
そして、戻って来た。
「すみませんでした。ほいで、なんでしたっけ。ああ、アサキちゃんのことじゃ」
「うん。あの子さあ、色々と顔や態度に出るから分かっちゃうんだけど」
「分かっちゃうんだけど?」
治奈、話には食い付きながらも手足は別で、慣れた感じにテーブルを拭いて、お皿を積み上げ両手に持って、厨房へと向かう。
「うん。なーーーんか隠し事してるっぽいのよねえ」
ガチャガチャン!
皿を落としそうになった治奈であるが、咄嗟に身を低くして、なんとか受け止めた。
「おおおお、危なかったあ!」
がくり、と膝をついて安堵の息。
「おい、割ってねえだろうな。小遣いから引くぞ」
治奈の父親、秀雄がカウンター越しに覗きんだ。
「割っちょらん。そもそも手伝っとるんじゃから、割ったとしてもせめて差し引きゼロじゃろ」
「少しは引かにゃ割が合わん」
「そしたらもう手伝わん」
「あと少しでバイトの葉山さんが来るけえね。それまでは働け」
やりとりを不毛と思ったか、治奈はふーっとため息を吐くと、皿に気をつけながらゆっくりと立ち上がった。
「お皿大丈夫だったの?」
テーブルから、直美が心配そうに首を伸ばしている。
「ああ、はい。お気遣いなく」
「豪快に蹴つまづいてたけど、治奈ちゃん運動神経がいいんだね」
「いや、そんな。さっきのアサキちゃんの話じゃけど……隠し事くらい、誰にでもあるんじゃないですか? もう中学生ともなれば」
「そう?」
「はい。年頃の女子じゃけえね」
「年頃かなあ、あの子が年頃かなあ。……じゃあ治奈ちゃんも、隠し事とかあるのお?」
「うちはそんなには……」
「あるよお!」
小学中学年くらいの小さな女の子が、厨房から直美のいるテーブル席へと近付いて来た。
治奈をそのままちっちゃくしたような女の子。
名を史奈といって、治奈の妹である。
う、と呻き、ちょっとたじろぐ治奈であったが、強気な表情を作って拳を胸に当てて、
「お、お前が青春まっさかり中二乙女の、胸に秘めたるなにを知っとるんじゃ」
「色々とね。シャロン鈴木堂のハニーマロンクッキーを家族に内緒で一人で食べ……」
「わーーーーーーーーーー!」
妹の暴露をかき消そうと、凄まじい大声を張り上げた。
「治奈、やかましいわ! 今たまたま令堂さんしかお客さんおらんからいいものの」
父、秀雄が怒鳴った。
もともとその令堂さんが発端なのだが。
「あと他に隠し事といえばあ」
「隠しとらん! ハニーマロンクッキーのことは隠しとらんというか、えっと、その、ほうじゃ、一緒に食べよ思っていわんとっただけじゃ」
「え、食べてもいいのお? やったあ!」
無邪気に飛び跳ね喜ぶ史奈。
がくりうなだれる姉と、ここまで対称的な構図があろうか。
「こんなオープンで隠し事をしない優しいお姉ちゃんは、世の中になかなかおらんじゃろ」
姉の威厳を保つほどに、顔に青ざめた縦線が増えて行く。
耐えきれなくなったか、さらにがくりと顔を落としてテーブルに両手をついた。
建物の中だというのに、身を切るような寒風がむなしく吹き抜けた。
4
「お前さあ、なんなんだよその荷物の量は」
昭刃和美が胡散臭そうな、というか「こいつ常識やべえぞ」といった怪訝な、顕著に蔑む目付きで、令堂和咲をジロジロと見ている。
ここは、常磐線天王台駅の快速側ホーム。
令堂和咲、
昭刃和美、
明木治奈、
大鳥正香、
平家成葉、
の、五人が、エスカレーターを降りて少し進んだ、時刻表の付近に立っている。
土曜日の午前五時半、早朝ということもあって他に人の姿はほとんどない。
さて、ではカズミがアサキを奇妙な視線でねめつけている理由を説明しよう。
他の四人はリュックだけ、ショルダーバッグだけ、という簡単な荷物であるというのに、アサキだけその両方を持って来ているのである。
しかも、ショルダーバッグだけでも二つあり、左右からたすき掛けている。
のみならず、さらにキャリーバッグまで引いている。
カズミでなくとも、突っ込みたくなるというものだろう。
「えーーっ、山奥だから肌寒いよってカズミちゃんがいってたんじゃないかあ。だから防寒着や防寒グッズを色々と用意してきたのに」
いいわけをするアサキであるが、「確かにみんなと荷物違う……」と認識しているせいか、かなり焦った顔である。
「だからってそんな大量の荷物はいらねえし、それに、寒いもなにも現在もう既に充分過ぎるほど厚着してんじゃねえかよ。そんなん着てて暑くないの?」
カズミたちは、Tシャツ、ジーンズ、ブラウス、レースのスカート、等など柏駅までちょっと買い物といっても別段おかしくないような初夏にふさわしい普通の服装をしているというのに、アサキ一人だけ南極観測隊員のような格好なのである。
「むちゃくちゃ暑いに決まってるよお! でもわざわざ着てきておいて暑いとかいったら突っ込まれるから黙ってたあ! それに北へ向かうんだから、すぐに寒くもなるかなあと思って、ずっと耐えてましたあ!」
やけっぱちに叫ぶアサキ。
「お前はアホなのか……」もうバカにする気力もないのか、すっかりげんなり顔のカズミであるが、残る気力を振り絞ってぼそり、「前は仙台に住んでたっていってたけど、じゃあそこいま凍ってんのかよ」
「ああ、そうだよね。そこまで寒いわけないかあ。でももう色々と持って来ちゃったからなあ、このまま持ってくしかないかなあ。……あ、あ、ほら、ほらっ、もう電車が来ちゃうってさ」
一番線ホームに取手行き下り列車が到着する、という旨のアナウンスが流れたのだ。
アサキはホームからちょっと身を乗り出して、やって来る列車が見えないか確認している。
「取手行き、っていってたでしょ。隣が取手で終点だから、乗るのはその次のだよ」
成葉が説明してあげる。
「むむ、ややこしいな常磐線」
アサキは眉間をしわを寄せ、難しい表情を作る。
単に着膨れて汗がだらだら不快なのでこんな顔なだけ、かも知れないが。
「いや普通だから。どこの長距離路線も。まあ最初は知らない駅名が多くて、どこ停まりとか分かんないよねね。利用しているうちに慣れるよ」
などと話していると、離れたところから、気怠そうな泣きたそうな、なんだか情けないぼやき声が聞こえて来た。
「ああもう、間違って学校に行っちゃったあああ」
眠たげな顔でエスカレーターを降りて来るのは、担任の須黒美里先生ではないか。
アサキたちと違って、なんの荷物も持っていない。
お見送りなので当然であるが。
「あたし朝が弱くてえ、ねぼけながら慌ててたら、気付いたら学校に行っちゃってさあ」
ふあ、と大アクビの須黒先生。
「しっかりしていただかないと。引率されるわけではないとはいえ、なんのための合宿なのかをよく考えて頂ければそもそも……」
正香の正論説教が始まった……ことに便乗して、みな好き好きいい始める。
「先生が狙ってるイケメン山瀬先生、完全に朝型だよー」
「お見送りいないと寂しいなって思ってましたあ」
「こないだも自分でいい出しといて河川敷での筋トレに遅れてたけえね」
「バーカ」
「ああ? いまバカっていったん誰だああああああ!」
須黒先生、誰だといいながら、もうカズミの首を掴んで、ガックンガックン激しく揺さぶっている。
「す、すびばせん、目が覚めるがなあと思っでえ」
「逆にてめえが永遠に眠るぜえええ! つうか狙ってねえよヤマピーのことなんかよお、お前も眠りてえか平家えええええ!」
カズミの首を締めながら、ぐるりん成葉へと狂気の視線を向ける須黒先生。
「あ、あ、ご、ごめん、眠くてつい……」
いきなり正気に戻った先生は、ごまかし笑いを浮かべながらカズミの首から手を離した。
「先生、酷いやああああ」
アサキみたいなこといってるカズミ。
首にはっきりと指の跡が残っているくらいだから、そうもなるだろうか。
「眠くてつい地が出た、ということじゃな。……うちは、絶対に逆らわんようにしよう」
治奈が、青ざめた表情で、聞こえないようぽそり口を動かした。
こんなバカなことをやっている間に、先ほどアナウンスされていた取手行き、緑色の列車がかたんことんとホームへと入って来た。
ほとんど誰も乗っていないスカスカの列車に、一人、二人と、乗り込んで、発車ベル、扉が閉まり、発車して行った。
「次に来るのに、乗るんだよね」
アサキが尋ねる。
初夏なのに南極観測隊員のように着膨れした、滑稽な姿で。
「ほうじゃ。今度は青いのが来るけえね」
「そうなんだ。電車、久し振りに乗るなあ」
「それより令堂さん、その服装なんなの?」
やはり先生にも突っ込まれてしまった。
「いやあ、ちょっと事情がありましてえ」
アサキは頭を掻いて、えへへと笑ってごまかした。
事情は事情でも、状況的な事情というより、精神的思考的な事情であるが。
などと話していると、
「おーい!」
また、エスカレーターの方から呼ぶ声。
二十代半ばくらいと思われる女性が、エスカレーターをとんとん歩いて降りて来る。
「ああ、直美さん」
治奈が気付いて、小さく手を振った。
「え、なに、明木さんのお知り合い?」
須黒先生が尋ねる。
「お店に何度か来たことある。アサキちゃんの義理のお母さんじゃけえ」
「ああ、そうだそうだ。初日に挨拶していたわ。令堂さんの忘れ物でも届けに来たのかしら」
「えー、わたし何度も確認したよお」
信用されてないよなあ。と、ちょっと情けない顔になるアサキ。
「えっ、なにっ、アサキの、お母さんだってえ?」
カズミが、面白そうなもの発見!といった感じに、目をキラキラさせながらニヤーッと笑みを浮かべると、治奈と正香の狭い間を強引に押し広げて抜けて、エスカレーターを降りて来る令堂直美を待ち構え、叫んだ。
「どーもお、アサキのお母さあん! お初でございまあす!」
ぶんぶんぶんぶん、と腕を回し手を振った。
エスカレーターを降り終えた直美は、いきなりぱーっと明るい表情になって、
「あーっ、あなたカズミちゃんでしょお!」
「うおーっ、正解っ! なんで分かったんすかあ!」
「だって、アサキちゃんがいってる通りなんだもん。ことごとくが」
「え、な、なんていってんだ、あいつ、あたしのこと。……まあいいや。それよりどうしたんですか? 保護者として娘が心配でついて行きたくなったとかあ、はたまた忘れ物とかあ」
「あ、いや、治奈ちゃん以外がどんな子なのか見に来ただけだよ。ええと、カズミちゃんと……おーっ、一発で分かるっ! 上品そうな正香ちゃんに、ほにゃほにゃしたのが成葉ちゃん、だよねえ」
「はじめまして」
品よくお辞儀をする正香。
「どうも、初日以来お久し振りです。担任の須黒です」
須黒先生が前に出て、正香に負けじと行儀よく頭を下げる。
さっきの取り乱してるとこ見せてやりてえよなあ、などとこそっと囁いているカズミのことをキッと睨み付けると、おほほとごまかし笑いを浮かべた。
「あーー、どうもどうも。アサキちゃ……アサキがいつもお世話になってますう。……え、女子生徒だけの旅行って聞いてますけど、なんで先生がいらっしゃるんですか?」
「あ、いや、その、不安だったもので、せめて出発だけでも見送ろうと思いまして」
「ああ、そうなんですね。いやあ、生徒思いの先生だなあ。わたしは単に、ジョギングついでに、アサキちゃんのお友達の顔を見たいと思っただけなんですけどねえ」
ははは、と頭を掻きながら直美は笑った。
「もおーっ。直美さあん、恥ずかしいよお。ただそれだけのために、わざわざ早朝の駅まで来ないでよおお」
照れた顔を隠そうと、唇を尖らせて詰め寄るアサキ。
「ああ、あともちろん忘れ物も。はい」
直美は、自分の小さなバッグから、赤いリストフォンを取り出すと、アサキへと差し出した。
「アサキおらああああああああああああああ!」
バッチーーーン!
静かな朝に、凄まじい音が鳴り響いた。
カズミの平手が、アサキの頬を容赦なく張ったのである。
「なに考えてんだあああ、てめええええええ!」
ベチベチベチベチ、右の頬、左の頬、右の頬、左の頬、永久機関のごとくの攻撃に、
ずりずり、ずりずり、殴られながらアサキの立ち位置がどんどん後退して行く。
「ご、ごめんなさい、いっ、いたいいたい、い、うあっ、ほっ、ほんひで、ひっはたかないでええ!」
「だったら引っ叩かれることすんなよおお! こっちだってお前の分厚い面の皮なんか、殴りたくねえんだよおおおお!」
といいつつ手のひら手の甲ベッチンベッチンベッチンベッチン!
「うえええん。これから合宿へ出発だあって気合いを燃やしたい時に、なんでわたしだけほっぺた腫らしてなきゃならないんですかあああ」
ボロボロ涙に、きっとまぶたも同じくらい腫らすことになるのだろう。
「一番大事なもん忘れてくっからだろうがよおおお! あ、どうもお母さん、すみません、ありがとうございます。ほらアサキ、さっさと腕にはめとけよ! クソが!」
カズミは直美からリストフォンを受け取ると、アサキに渡した。
渡しついでに、力いっぱいデコピン一発。
「あいたあっ! ほっぺたと別の次元の痛みがあっ!」
「大袈裟に痛がってなくていいから、早くしろよ。電車来ちまうだろ!」
「ふぁあい」
アサキはため息の混じった器用な返事をすると、左の袖をめくり上げて、ちくちくとリストフォンをつけ始める。
「袖がごわごわして戻って来て邪魔するから、はめにくいなあ、もう」
「お前が勝手に無意味な厚着をして来たんだろ!」
「まあそうなんですけどお」
ぶつぶついいながら、なんとか無事にリストフォンをつけ終えた。
「ねえカズミちゃん、リストフォンがそこまで大事な物なの? 親の目の前でベヒベヒしちゃうくらい」
直美が小首を傾げながら尋ねる。
「そりゃそうっすよ。現代女子中高生にゃ絶対にかかせないアイテムでしょお。写真に宿題、宿の予約に連絡手段、キャッシュにカラオケエトセトラ」
それと、変身。
「ふーん。それじゃあ忘れちゃダメじゃないの、アサキちゃん」
「うん。持ち物しっかり確認したつもりだったけど、あまりにも多くてさあ。どうもありがとうね、直美さん。助かった」
「いいってことよ。旅行、楽しんでね。……でも、アサキちゃんいないと寂しくなるなあ」
「わたしだってそうだよ。でもさ、せっかくの二人っきりの土日になるんだ。修一くんとデートでもして来なよ」
「やだあ! アサキちゃんが下ネタいうなんてえ!」
直美は嬉しそうに顔を赤らめて、ぺちっとアサキの頬をなでるように叩いた。
「いたあああっ! カズミちゃんにボコボコ殴られてまだ癒えてないんだからあ! というかっ、わ、わたしっ別にそんな意味のことなんかいってないよお!」
カズミは直美よりも遥かに顔を真っ赤にして、両肩へ掴み掛かった。
「ん? そんな意味って、どんな意味?」
「だ、だだ、だからっ、えっとっ……」
人差し指を付き合わせて、モジモジとしているアサキ。
「冗談。あ、そうだ。お土産よろしくねえ」
「……よくもさあ、義理の娘を辱めておいてそんな催促が出来るねえ。……まあ、買えるところがあったら買っとくよ。あ、電車が来そうだよ」
構内アナウンスが流れる。
下り列車土浦高萩方面、いわき行きだ。
しばらくすると一番ホームに、かたんことんと青いラインの入った列車が入って来る。
先ほど同様に、乗客の姿はほとんど見えない。
「よおし、アサキちゃん、行って来おい。……それじゃあ治奈ちゃん、みなさん、アサキのことよろしくお願いします!」
「はい。しっかりお預かり致します。必ず無事に返します」
という治奈の言葉に、あれえ単なる旅行じゃなかったっけえ、と思ったか小首を傾げる直美であるが、まあいいや、とすぐに笑みを浮かべて、
「よろしくね。みんなも旅行を楽しんで来てねえ! ……先生、あたしこれから手賀沼までジョギングするですけど、先生も一緒にどうですか」
「朝が苦手なのを無理して来てるんでえ。ごめんなさいいいい」
申し訳なさそうに頭を下げる須黒先生。
完全に列車がホームに停まり、扉が開くと、五人はぞろぞろと乗り込んだ。
「じゃ、行ってくるね!」
笑って、二人へと手を振るアサキ。
しゅーーーっ、とドアが閉まった。
かたん、
ことん、
列車が動き出し、手を振り見送る先生と直美の姿も、車窓から消えた。
さて、座ろうか、という段になって、何故か青ざめているアサキの顔。
「うわああああああっ!」
突然、悲鳴に似た大声を張り上げた。
「アサキちゃん、どがいしたんじゃ?」
「ああああああああっ、いらないバッグ直美さんに渡しとけばよかったあああああ!」
叫びながら、車内を進行反対方向へと走ろうとする。
「間に合うわけないじゃろ!」
「直美さんも、えー引き取ろうかあ、とか気をきかせてくれてもよかったのになあ。……まあ、リストフォンを持って来てくれただけ、よかったけど」
赤いリストフォン、クラフトをさすりながら、諦め気味に微笑んだ。
「しかし嵐のように来てかき回していったよなあ、アサキのお母さん」
どがっ、とカズミは誰もいない車両の座席に、足を跳ね上げる勢いで、腰を降ろした。
残りの者たちも、それぞれ席に座った。
「先生とも、えらい気さくに喋ってたしな」
「うん。そこが直美さんらしいところ、かな」
アサキは微笑を浮かべた。
「お母さん、って呼ばないんだな」
浅座りで、頭の後ろで手を組みながら、カズミが尋ねる。
「うん。……呼びたい気持ちもあるんだけど、なんか恥ずかしくて」
「なんでさ?」
「本当の親じゃないこともあるけど、両親が生きていた頃から直美さんたちとは知った仲で、だからずっと修一くん直美さんって名前で呼んでいたし」
「ふうん。あたしは物心ついた時から産みの親も育ての親もいないからさ、感覚が分かんないや。呼びたいけど恥ずかしいとかいう心理が」
「え、え、親がいないって……」
「年の離れた兄貴と、あたしと、弟、の三人家族なんだ。だから兄貴が父親であり母親でもあるわけでさ」
「大変だね」
「そうでもないよ。ド貧乏を我慢すればいいだけだ。楽しいしさ」
あっけらかんとした感じでいうと、頭の後ろで手を組んだまま、ははっと笑った。
「ああ、じゃあ、これだ。カズミちゃんに分かるように、わたしの感覚を説明するなら、『お兄さんをお母さんと呼ばないとならないのに恥ずかしくて呼べない感覚』、これ近い気がする」
「はあ、意味分かんねえぞ。確かにそれは恥ずかしいけど、でもそれは、親代わりではあるけれど兄貴は兄貴だからだろうが」
「一度、お母さんありがとう、っていってみなよお。お兄さんにさあ」
「なんで、いつの間にか、あたしん家の話になってんだよ!」
そんな他愛のない話をしているうちに、どんどんどんどん列車は進む。
かたん、ことん、
のんびりした音を立てて、のどかな一面の田んぼの中を。
「まずはこれで、福島まで行くんだっけ?」
アサキが誰にともなく尋ねる。
「ほうよ。まずというか目的地もそこじゃけえね。いわき駅で降りて、そこからは私鉄を乗り継いで山の方へ、さらにケーブルカーで中腹まで」
「おお、ケーブルカーかあ。小四の遠足以来だなあ」
思わずこぼれる楽しげな笑み。
「おい、アサキ。分かってるとは思うが……」
カズミがぐいと身を乗り出して、対面にいるアサキへと迫る。
「『旅行じゃねえぞ』」
ハモった。
にっこり微笑むアサキ。
「分かってりゃいい」
二人は、互いに身を乗り出し合って、こつんと拳を打ち合った。
身を戻して、どっかと席に背中を預けながら、カズミがなんだか気怠るそうに、
「はああああ。しかし、たかだか電車での出発シーンに、ここまで無駄に尺を使っても、よいものだろうかああ」
「ん? なんの話?」
隣の成葉が、きょとんとした顔で尋ねる。
「なんでもない」
5
「魔法使いナルハ!」
平家成葉は、くるり回ってさらにバク転。
着地と同時に右腕を突き上げた。
「魔法使い正香」
つぼみがゆっくり開き静かに花が咲くに似た優雅さで、両腕を小さく広げ、立った。
「そしたらここで、みんなで勇ましく決めポーズだあ! おりゃあ!」
カズミが叫びながら、空手でいう残心つまり押忍っの仕草。
そして、正面へのハイキック。
他のみなも「いまだ恥ずかしいけどねえ」などと小声でいいながらも、ノリよくそれぞれ変身直後の決めポーズを取った。
みな、といってもひとり輪を見出しているのが、端に立つアサキだ。青ざめた顔で、自分の身を抱きかかえながら、ガチガチ歯を鳴らしている。
「ちゃんとやれよお!」
気付いたカズミが、さっと詰め寄って首を締めつつガクガク揺らした。
「せっかく決まったと思ったのにさあ!」
「だだっ、だって、だってえ、ここめちゃくちゃ寒くないですかあ?」
揺らされながら、辛そうな泣きそうなアサキの顔。
「電車ん中では、暑い中を一人変態的な厚着で暑い暑いいってたくせにい、チミはひょっとして筋金入りのバカなのかなああああ?」
「く、首ガクガクさせるのやめてえ! だっ、だってこっちはとっても寒くてえ、だからっ、さっきのあの厚着がちょうどよくなって来たかなっと思ってたのに、変身したらスパッツって、おかしくないですかあ? 腕も足も肌が出てるって、おかしくないですかあ?」
「おかしくないよ。それが魔道着だろ。営業マンにとってのスーツだろ、鳶職のニッカボッカだろ、宇宙飛行士の宇宙服だろ、アイドルのフリフリだろ、馬場とか田上とかザンギとかの赤パンだろ!」
いいながら、さらにぎりぎりカズミの両手に力が込められて行く。
「ぐるじいいっ。さ、最後の赤パンとかよく分からないっ。魔道着の上着も、結構薄いしっ、この上に、持って来た普通のコートを着ちゃダメなのお?」
「アホかあああ、変身した後に普通の服を重ねる魔法使いがどこにいんだよおお。歴代魔女っ子アニメの中でも、そんなんいたかあ? 変身後に寒くてコート着るとか、変身後に沖縄だから脱いじゃうとかさあ。魔法で全身をコーティングして調節するんだろうが!」
「なっ、なにそれっ」
「初歩の初歩だろ! これが出来なくて、どうやって空気の薄いとことかで戦うんだよ!」
「と、いわれましてもおっ、わたし魔法使いになったばかりなんですけどおおお。それよりっ、もう一分以上も、首を、激しく揺らされ続けて、いるんですがあ。さ、酸素……い、意識があ……」
6
遠くをぐるり山々に囲まれ、眼下には湖が広がっている。
傾斜の途中に、少し広い土地があって、五人はそこで修行をしていた。
五人は、というか、アサキは。
「では、行きますよー。それっ」
大鳥正香は、明木治奈の背後に隠れるように張り付いたまま、掛け声と同時に手にしていた野球ボールを治奈の脇越しに投げた。
三メートルほどの距離に、身構えているアサキへと。
「あいたっ!」
ガツンおでこにぶつかって、アサキはたまらずぽろり剣を落としつつ悲鳴を上げた。
「いったああああああい。……もう! 中学生なのになんで硬球なのお?」
涙目でおでこをすりすりさすり、不満を吐き出しつつ剣を拾った。
「野球やってるわけじゃないからだよ!」
横で腕組んで見ていたカズミが、怒声を張り上げた。
「ヴァイスタも、予備動作なしで腕が伸びて、攻撃して来っだろ。そのシミュレーションだろ。なのに、掛け声を出してもらっておいて避けられないようじゃ、一人で戦ったら三秒で死ぬぞ! 分かったか!」
「はい」
「返事は一回!」
「一回しかいってないよおお!」
「あ、そ、そう? っていちいち逆らわないでいいんだよ! 気合入れろ、ったくもう」
「えーー、なんか納得が、あ、ご、ごめんカズミちゃんっ睨まないでえ……それじゃあ次、お願いしまあす!!」
危ない、また殴られるとこだったあ。
まあ、それはともかく、確かに自分はここへ修行をしに来たのだからな。
しっかりやらなくちゃ。
と、気合を入れ直して、精一杯の大声を出した。
「はい。それでは、行きま……」
すよ、までいわず、正香はボールを投げた。
治奈の後ろから今度は肩越しに。
タイミングとしては完全に意表を突いたものであったが、しかしアサキ、今度はよく見て両手の剣を斜め上へと振るって弾き上げていた。
よおし合格点!
と心の中で喜びの声を発していると、なにやら視界が急に陰ったような……
と、気付いた瞬間には、頭上高くを正香が舞っており、こちらへと落下しながら、手にしている鎖鎌の鎌を、じゃらんと振り下ろした。
「うわっ!」
びっくりしながら、前へ突き出した剣のひらで攻撃を受け止めると、ぐっと押し返しながら後ろへ跳んで距離を取った。
「反応したのはいいけど、かなり油断してたろ! あらゆることを想定しろ。異空という相手側の領域で戦うんだ。なにが起こるか分からないんだ……ぞ!」
カズミの手の内側に隠されていた短剣が、「ぞ!」のタイミングで、アサキの足元に、深々と突き刺さっていた。
だが、既にそこにアサキの姿はない。
間一髪、跳び上がってかわしたのだ。
「おおっ、やるじゃん。よくかわしたあ!」
カズミは、パチパチと手を叩いた。
褒められたアサキであるが、嬉しそうより苦しそう。
それもそのはずで、跳び上がってかわしたはいいが、余計に跳び過ぎてしまい、巨木から垂れ下がっている太い枝に、逆さにしがみついている状態になってしまっているのだ。
「段々と油断もしなくなっているし、身体も咄嗟に反応するようになって来てんじゃん。頭がバカで性格がボケててピンとアホ毛が立ってるだけで、戦いのスジ自体はそれほどは悪くないのかもな」
褒めているのか、けなしているのか、さっぱり分からないカズミ、その顔にふと不審げな表情が浮かんでいた。
アサキが木にしがみついたまま、なかなか降りて来ないからだ。
「いつまでもなにやってんだよ。オラウータンかお前。ナイフの的にするぞ」
「こ、怖くて……降りらんない……でもこの体勢、つ、つらいっ降りたいっ」
ほぼ逆さになっているのだから、辛いのも当然だろう。
「アホかお前はあ。戦いの時には、それよりも遥かに高いのをジャンプしたりしてるだろ!」
「そ、そうだけどっ」
でも、逆さのために視界が反転しているから、余計におっかないのだ。
無茶な体勢から落ちて、受け身を取れずに首を打ったらどうしよう、などと想像してしまい、恐怖に動けないのだ。
「ああああ、もうっ、世話の焼ける奴だなあ。……治奈、成葉、あれやるぞ」
「ほいきたあ!」
平家成葉は楽しげに、たーんとジャンプして明木治奈の肩へと軽々飛び乗った。
いわゆる肩車の体制になった。
「あらよっと」
さらにカズミがジャンプして、成葉の肩の上。
猿のイラストでよく見るような、肩車三連結を作った。
猿ならぬ人の身ではかなりバランスが悪そうだが、三人は器用にもすらり真っ直ぐ立って、
「ほおら、いま降ろしてやるから」
カズミが両腕をぐーっと上に伸ばして、アサキの腰を掴もうとする。
しかし……
「ぎゃー、怖い、怖い! 三人で肩車ってバランス的に無理あるでしょお! わたしを持った瞬間に、崩れて落ちるに決まってるでしょおお!」
掴ませまいと身をよじって、カズミの指先から逃れようとするアサキ。
カズミはさらにぐっぐっと腕を伸ばして、魔道着の腰の垂れている部分を掴み、手繰り寄せるようにしっかり腰を掴んだ。
「こ、怖いっ!」
「大丈夫だって! ってバカっ、暴れるなあ!」
「やだやだっ! 離してえ!」
「だったら一人で降りろよお!」
「それも怖いよおお!」
「いい加減にしろ! 全裸にひん剥いて木から吊るすぞ、このクソ女がああああ!」
木にがっしりしがみつくアサキを、掴んだ腰をぐいぐい引っ張って、なんとか引き剥がそうとする。
「もう観念しろって。っと、うおっ、だ、だから暴れるなってえええええ、っと、お、わっ……イエエエーーーーーッ!」
引っ剥がしたはいいが、アサキのあまりの暴れように、三連結肩車のバランスがさすがに崩れて転倒、結果的に、二階並みの高さからのジャーマン・スープレックスになってしまったのであった。
「うぎっ!」
四人の連結した綺麗なブリッジを描いて、アサキの後頭部がぶち落ちたのは、U字溝のコンクリート蓋。
バガッ、と見事に砕かれ割れて、カズミの手から離れてアサキの身体だけ中にどっぽん。
ざざーっ。
数日前の雨のせいか、流れがとても激しく、アサキの身体は、悲鳴を上げる間すらなく、泥水に飲まれ、消えてしまったのであった。
「流されて、しまった……」
立ち上がったカズミは、ぽかーんとした表情で尻を掻いた。
と、少し下流のコンクリート蓋が、ミイラの棺桶よろしくガタゴト持ち上がった。
「酷いよおおお」
アサキが泥まみれのなんとも惨めな状態で、ボロボロ涙をこぼしながら這い上がって来た。
なにが起きたか理解出来ず、しばらく唖然としていたカズミであったが、だんだんと、なんだかじわじわおかしくなってきたようで、ぶふっと吹き出すと、指をさして爆笑し始めた。
「お前はボーリングのボールかあ!」
ぎゃはははは、と腹を抱えて苦しそう。
「アサキちゃんに悪いじゃろ! うちらにも責任あるんじゃからっ!」
治奈、たしなめつつも自分も笑ってしまっていた。
結局みんな、我慢を通し切ることが出来ず、えっくひっくと泣き続けるアサキを見ながら大笑いしてしまうのだった。
7
「ええよ、よく見た。ほじゃけど……視力だけに頼らない!」
明木治奈は、両手に短く持った槍を素早く何度も突き出した。
剣を持ち、対峙するアサキ、一突き目は上手く払いのけたが、残りはすべて胸や腹に食らってしまう。
といっても、寸止めであるが。
「ほら、見て構えておるから、こがいな程度もかわせない!」
「次は気をつける。さあ、次!」
ぜいはあ息を切らせながらも、アサキの表情から気合いはいささかも失われていない。
少しずつ分かるようになって来て、少しずつ面白くなって来ていたのだ。
「その意気じゃ。でもちょっとストップ。そのまま動かんでおって」
「え?」
治奈の槍がゆっくりそーっと伸びて、アサキの脇腹へ。と、そこでぶんと横に振って、先端のひらで脇腹を強く叩いた。
「いたっ!」
「ほおら、シールドが剥がれとるけえね。魔力を薄く伸ばして、常に全身に張っとくゆうたじゃろ」
「気を付けているつもりなんだけど」
「つもりでヴァイスタは手加減してくれんよ。魔道着自体もとても頑丈に作られてはいるけど、なにより大切なのは魔力障壁。昔は魔道着なんかなかったけど、それでも魔法使いは戦っていたんじゃから」
「はい」
アサキは小さく頷くと、指摘された脇腹部分へと手を翳した。
魔力障壁を張り直したのだ。
障壁は非詠唱系の、意識するだけで張れる魔法なので、本来は手を翳す必要もない。
アサキはまだ初級の魔法使いであり、その意識の持ち方自体を一つ一つしっかりやって行くようにしたいため、そうするよう指示されているのだ。
「ほいじゃ、今度は本気で行くけえね」
治奈は槍をすっと引くが、引いた瞬間にはもう突き出していた。
アサキは、剣でからめ取るように受け止めて、そのまま剣を滑らせて治奈の懐へと飛び込んだ。
剣を振り上げるが、もう眼前に治奈の姿はなかった。
長さという槍の弱点を分かっており、咄嗟に後ろへ跳んで相対距離を保ったのだ。
「踏み込むならもっとしっかり。躊躇わない! あと魔力は攻撃の瞬間瞬間に手から武器へ流す。無駄遣いはしない!」
「はい!」
「治奈のいってること、よおく聞いとけよ。全開の仕方を間違えっと、すぐに息切れしちまうからな、お前は特に。ここぞって時にパワーを出すようにしねえと」
すぐ近くで見ているカズミが助言をする。
分かっては、いるんだけどなあ。
アサキはもどかしそうに、ちょっと唇を歪めた。
まだ魔力というものがよく理解出来ていないので、他人の判断が全てになってしまうのだが、どうやらアサキは、魔力の受け皿が非常に広いらしい。
皿、というよりも風船のようなもので、ちょっと咥える口の力を緩めると、一気に吹き出してしまうらしいのだ。
それはつまりパワーがある、ということでもあるのだが、無駄使いを省く技術を覚えないと、すぐにへたばってしまうことにもなる。
さて、治奈との手合わせであるが、油断なきあれと自分を戒め続けた効果か、槍との戦いに慣れたためか、はたまた実戦ではないため気が楽ということか、疲労しながらもバテることなく、押して引いてのなかなかよい勝負になって来ていた。
だがここで、
「ほいじゃあ交代。正香ちゃんお願い」
「承知しました。ではここからは、わたくしが。……アサキさん、疲れているところ気の毒ですけど、疲れているから学習出来るところもたくさんあるので頑張りましょう。では、参ります」
じゃらり、右手に鎌、左手に分銅のぶら下がった鎖を持ち、構える正香。
「お願いします」
アサキは小さくお辞儀をすると、両手に握った剣を構えた。
向き合う二人。
「行くよっ!」
先に動いたのはアサキだった。先ほどの治奈の言葉を意識してか、剣を振り上げ一気に飛び込んでいた。
だが、ひらりかわされ鎌を懐へ打ち込まれると、もう威勢はどこへやら、防戦一方になってしまった。
槍とは間合いからなにから違っており、それも相まってすっかり混乱してしまっていた。
「落ち着いて下さい。なにをやるにも根本は同じですよ。さっき治奈さんがいっていた通り、よく見て、でも視力だけに頼らない、ということです」
「五感を使えってこと?」
「そう。それと想像、予測をして下さい」
想像、予測。
見るだけでなく、全身で感じる……
アサキが心の中で呟いた瞬間、正香が身体を回転させた。
先ほどのボール投げと同様、死角で見えないところから急に、じゃん、と鋭い音を立てて分銅が飛んで来た。
弾いていた。
アサキは。
がっしりと両手に持った剣で。
「そう、感覚を掴み掛けましたね。その感じです。忘れないで。慣れると、奇襲に対して、身体が勝手に反応してくれるようになりますから」
やさしい笑みを浮かべる正香。
「わたし……」
じわじわ込み上げるものがあり、アサキも無意識に微笑み返していた。
と、その瞬間、
正香の背中から、ざあっと影が飛び上がって、空中からアサキへと落ち、迫った。
「隙あるよーっ!」
平家成葉であった。
小柄に似合わない大刀を、両手に握り、アサキへと振り下ろした。
想像……予測する……
振り下ろされる大刀を、アサキは両手に握った剣を水平にして、しっかりと受け止めていた。
成葉が着地と同時に足払い、が脳裏に浮かんだ瞬間、アサキは小さな膝の屈伸でちょこんと跳んでいた。
紙一重、足元を成葉の足払いがぶんとかすめた。
立ち上がりざま、横一文字に風を切る成葉の大刀、が脳裏に浮かんだ瞬間、アサキは後ろへ大きく跳躍していた。
やれた!
嬉しくて心の中で叫んだ瞬間、巨木に後頭部を強打して気を失った。
ぐてーーーーーっ、と伸びているアサキを、なんとも複雑な表情で取り囲んでいる四人。
「どんどん育って、よくなっているのは認めるけどさあ、ドジなのなんとかならねえかなあ」
カズミは苦笑しながら頭を掻くと、ながーいため息を吐いた。
「ほうじゃのう。あ、いや、ええと、アサキちゃんも必死で頑張っておるんじゃから!」
つい本音の出てしまう治奈であった。
「アサにゃんのドジを治す魔法ってないのかな」
「ねえよ」
カズミ一刀ぶった切り。
四人はあらためて、ながーいため息を吐くのだった。
8
澄み渡る青空の下。
巨木から生える、風でかさかさ触れ合う枝々、その下に、
明木治奈。
大鳥正香。
昭刃和美。
平家成葉。
令堂和咲。
五人は、それぞれ木に背を向け、車座を作るように、座禅を組んでいる。
瞑想であるかのように、そっと目を閉じて。
「魔力をしっかり体内で練り上げて、ゆっくりと巡回させて下さい。呼吸に気を付けて。二回、三回と巡らせたならば、ゆっくりと静かに息を吐いていきましょう」
みな正香のリードに、すうーーっと静かに、息を吐き出していくのであるが、
「足が攣ったあ!」
一人うるさいのがアサキである。
絶叫張り上げたかと思うと、攣った足をなんとかするため座禅解こうとして、後ろへごろん、
「あいたっ!」
ゴツッ、と木に後頭部を強打して、ぎゅううううとナマズのような呻きを発してバタバタとのたうち回っている。
「だらしねえなあ、お前は」
ごろごろ転がるアサキを、カズミがげんなり感と哀れみの混じった表情で見つめている。
「ぐううう。いでええええ。カズミちゃんは、いつも下品にガバッてあぐらかいて慣れてるから平気なんだよ。女の子のくせにさあ」
「なんだとお!」
四足で這い寄ると、アサキの鼻をぎゅぎゅっと強く摘んで強引に引っ張り上げる。
「いたあああい!」
「上品なあぐらなんかあんのかよ!」
「ない。ないっ! というかっ、論点ずれてるっ! いてててて! 鼻! 鼻、痛い! もげる!」
もがき離そうとするアサキであるが、そうするほどにカズミがぎゅっと力を込めるので余計に痛い。
「早く座禅やり直せよ! この合宿はお前の修行がメインなんだぞ! むしろ攣れ。攣って攣って成長しろ」
「うええん。カズミちゃんが厳しいよお。……足、動かすとまたビキーンてなりそうだから、ほんのちょっとだけ休ませてえ」
「うん、分かった。…………はい、ほんのちょっと過ぎたあ!」
「えーーーっ! 酷い!」
「なんだあ、全裸で座禅させっぞ」
「やればいいんでしょ。もう」
渋々とした表情で、攣らないようそーっと座禅を組み直そうとするアサキであるが、ここで助け舟が。
「色々と流れも途絶えてしまいましたし、せっかくですから、ここで休憩にしましょう」
舟を出したのは、にっこり笑顔の正香である。
「やったーっ! ……いひっ、また攣ったあああ!」
喜び立ち上がった瞬間、電気ショック受けた顔になって、右足を棒のように真っ直ぐ突き立て庇いながら、よろよろふらふら、なんとも虚しく悲しく忙しいアサキの姿であった。
「アホかお前は。……しかし正香は甘いなあ。早くアサキをしっかりした戦力に育て上げないといけないんだぞお」
カズミはゆっくり立ち上がると、腰に手を当て身をぐーっと後ろへ反らした。
「心配いらないですよ。……ほら、空を見て下さい」
微笑む正香の言葉に、みな顔を上に向けた。
足の痛みに、顔面をびりびりぐちゃぐちゃ複雑に歪めながら、アサキも。
「ただの空じゃねえかよ」
なーんだ。という感じにカズミが呟く。
「ただの?」
「ま、綺麗な空だな」
「そうですね。綺麗な空ですよね。地に構え、空を見上げて、風を感じる。そしてそれを愛おしいと思う。それもまた修行と思いませんか?」
「うーん。正香にそういわれるとなあ、なにもいい返せないよ」
カズミは苦笑しながら頭をかいた。
「わたしがいってたらあ?」
下らないことを質問するアサキ。
「顔が二倍になるまでビンタくれてた」
「えーーっ!」
「嘘だよ。八倍くらいになるまで」
「それもう別人だよ! 別の生物だよ!」
そんな冗談をかわしながら、アサキは、改めて空へと視線を向けた。
青い空に、そよそよと撫でるような風。
魔法で防護していなかったらそよそよどころか極寒だけど、それはそれとして。
正香の言葉が、じんわり胸に染み入って来る。
そうだよな。
素晴らしいことなんだよな。
こういう世界があって、それを感じることが出来るというのは。
それもまた修行だという言葉は、多分へたばってるわたしを助けてくれただけだと思うけど。
でもね、守りたいと思う気持ち、強くなったよ。
この世界を。
こんなわたしだけど、頑張って、成長して。
とはいうものの……
アサキは自分の、両手のひらを見つめた。
「体内で巡回させるとか、全身を覆うよう意識とかさ、なんか気功みたいだよね。気功も名前しか知らないけど、とにかく全然魔法って感じがしないんだよなあ。……地味というか」
小動物型の妖精もいないし。
「思い描いていた魔法少女と、隔たりがあるってこと?」
成葉が問う。
「そうそう。そういうこと」
へへえ、とアサキは笑う。
「だーって要するに気じゃんかよ。魔法なんてさ」
ストレッチをしながら、こともなげにいうカズミ。
「ええーーっ! 精霊とかあ、ヨンダイゲンソとかあ、悪魔との契約とかあ、ステッキとかあ、そういうのじゃないのお?」
あと魔王とか。
寝返る魔王子とか。
それを単なる気だなんて、身も蓋もないというか夢も希望もないというか。
「お子ちゃまだなあアサにゃんは。……でもまあ魔法っぽい魔法もあるにはあるよお」
「え、ほんと?」
成葉ちゃんの方が身長がお子ちゃまでしょお、と思ったが、それより魔法の話だ。
「うん。昇天の魔法なんかもそうだよ。でも、この手の呪文詠唱発動型は、集中力が必要で難しいとこあるし、どのみち戦闘中に唱えてる暇もないからなあ。……だから高めるべきは、器の中の質と引き出し方、それを熟知することによって肉弾戦闘能力を高める。というところに行き着いちゃうんだよ」
「そうなの?」
「だってさ、ナルハたちがどうして魔法力を鍛えるかっていうと、魔法で世の中をドリームランドにしたいわけじゃなくて、ヴァイスタと戦って生き抜くために鍛えるんだから」
「まあ、そうだよね。……でもさ、空飛ぶ魔法とかあったら役に立ちそうだけど、ないの?」
「あるよ。あまり意味ないけど」
「えー、どうして?」
飛べるのなら、意味がないわけないだろう。
「『全身』を『浮かせる』つまり『大きなパワー』の『持続』だから消耗が激し過ぎるんだ。ほら、ヴァイスタって結局地上でのやり合いでしょ? だったらジャンプの方が、足の力だけでいいから、消費魔力が遥かに少ない」
「そうなのかあ」
残念だ。
「反対に、ジャンプだと着地を狙われることもあるけど、そんなこと小さな問題に思えるくらいに、飛翔魔法は消耗するからねえ。……とはいってもお、ザーヴェラーが出ちゃった時とか、使わざるを得ないこともあるけどね。だから、いずれはアサにゃんも飛翔は覚えないといけないよ」
「なあに成葉ちゃん、そのバーベラーって」
また知らない言葉というか名前が出て来たぞ。
鉄アレイの仲間か、はたまた野外お肉パーティか。
「ザーヴェラーだよお。簡単にいうとお、お空に浮かぶ超々々巨大ヴァイスタ」
「ぎゃーーーー! 怖すぎだよそれえ! そんなのまでいるの?」
どんなんだろう。
クジラのようなものだろうか。
それとも、ヴァイスタが単に大きくなったものだろうか。
何度か戦ったヴァイスタにしても、人間より一回り二回り大きい程度で、あんなとんでもなく強いのに、もっと巨大で、しかも空まで飛んで、ってなんなんだ。
本当に大丈夫なのか、この世の平和は。
「ヴァイスタとは別物の存在だとか、ヴァイスタを放置しとくと融合してそうなっちゃうとか、説は色々あるけど詳しくは分かっていないらしいんだよね」
「魔道着の次期ファームは、飛行時の魔力消費を格段に抑えられる、とか、いっとったなあ校長が。現在アルファ版を、東京の本部でテスト中とか」
治奈が口を挟むと、カズミも加わって、
「早く正式リリースされて欲しいよなあ、次期ファーム。こっちが制限なく飛ぶことさえ出来れば、ザーヴェラーなんかザコだもんよ。空高くから、なんか光線みたいのビッと撃ってくるだけだもんな」
「空高く……か」
アサキは、澄み渡る青い空を見上げながら、ぼそり呟いた。
そして胸の中に、言葉を続ける。
飛んで、みたいなあ。
戦いとか関係なく、この青い空を自由自在に。
飛べたら、気持ちいいだろうなあ。
さっきみたく、木にしがみついたまま降りられないくらい、高いところが苦手なわたしだけど、だからこそだ。
そういう能力さえあれば、そもそも高いところなんか怖くなくなるだろうしな。分からないけど。
「アサキさん、覚えてみたそうな顔をしていますね。成葉さんのいう通り、いずれは使えるようになっておいた方がいいので、いま少し学んでみますか?」
「うん。やってみたいっ!」
アサキは目を輝かせて、正香の言葉に食い付いた。
「分かりました。ではまず、わたくしたち四人で、見本を見せますね」
「はあ? 四人でえ? あれクソ疲れんだぞ」
既にして、かったるそうな顔のカズミ。
「あまり使わない魔法ですから、衰えていないか確認の意味も含めてということです。……イヒウェルデ……」
正香はそっと目を閉じると、呪文を唱え始めた。
「しょうがねえなあ」
カズミも観念して目を閉じ、正香に続いて詠唱を始める。
成葉も、治奈も続く。
「……ウェルデフリゲンビスヅェ……」
ついに魔法らしい魔法だあ、と胸の前で手を組んで、気持ちわくわくさせながら見守るアサキ。
結果は、期待を遥かに上回るものだった。
正香の身体が、本当に、天から伸びる巨人の手に摘まれたかのように、ふわりと浮かび上がったのである。
続いてカズミの身体が、
続いて成葉、治奈の身体が。
見上げるアサキからは、まるで青空へ吸い込まていくかのように見えた。
「凄い……」
知らず、呟きが漏れていた。
そうもなるだろう。
人間が、跳ねているわけでなく、重力を無視して宙に浮いているのだから。
地上二、三十メートルくらいのところを、ふわふわと。
「み、見たかあ、アサキ!」
「うん。カズミちゃん、見たよ! 凄い!」
喜ぶアサキであるが、それもつかの間、
「もうダメだああ!」
カズミが、ヒュンと風を切って墜落してきた。
わっ、と驚きながらアサキがかわすと、
ズッガーーーン、と凄まじい轟音をあげて、地面に人の形状をした大穴が空いた。
手をばたつかせ、足はガニ股の、なんとも豪快な大穴が。
「だだ、大丈夫っ、カズミちゃんっ!」
おろおろしながら、穴の奥底を覗き込むアサキ。
「よけたろ、お前!」
穴から手が出て、アサキの足首を掴んで奈落の底へと引きずり込んだ。
「あいたっ! 殴らないでよお! カズミちゃんが体力切れて墜落しただけじゃないかあ!」
「違う! 一番早い降り方で降りただけだ!」
「だったら怒るのおかしいでしょお!」
奈落の底でドタバタやっていると、上空からすうーーーっと正香たちが降りてきた。
「大丈夫ですか、カズミさん」
「カズミちゃん、一年前と同じことしちょるなあ」
「同じじゃないってハルにゃん。ほら、今回の大穴の方が、みっともなくて面白い。漫画みたいな人型だあ」
けらけら笑う成葉。
「てめえらあああ!」
カズミの絶叫、と同時に、大穴の中からアサキの身体が音速で射出されて、成葉の身体へと激突した。
「いたあっ!」
成葉とアサキ、二人の悲鳴がハモって、地面にどさりどさり。
「いだあああ。去年も、こんなことされた気がするよお。……確かハルにゃんの身体をぶん投げて、ゴエにゃんが避けるからナルハに当たったんだっけえ」
寝っ転がり、痛がりながらも、ははっと笑う成葉。
「成葉ちゃん、楽しげに回想してないで、まずはどいてええええ!」
下敷きになっているアサキの悲鳴。
「あ、ごめん。アサにゃん、いたのかあ」
成葉はごろんと横に転がりつつ身を捻って、勢いで立ち上がると、手を伸ばしてアサキを引っ張り起こした。
「だいたい分かった? 飛び方」
治奈が尋ねる。
「分かるわけないよお。一回見ただけじゃあ。ただ凄いなーって見とれてただけだよ」
感激さめやらぬうち、カズミちゃんが豪快に墜落してきて無茶苦茶になっちゃったけど。
地面に、変な形の大穴空けるし。
「いいんじゃない? 別にそれでえ。ものは試しで早速アサにゃんもやってみたらあ? えっとね、呪文はね、イヒウェルデフリゲンビスヅェホウ」
「イヒウェル……デフリゲンビス……」
成葉の真似をして唱えてみる。
ちょっとぎこちないけど仕方ない。
「もう少し滑らかに唱えて下さい。呪文は言霊でもあるのですから。それと、頭の中でイメージして下さい。例えば、風の精が自分の中に入り込むような、とにかく軽くなるようなイメージを」
アサキは、正香のアドバイスにこくこく小さく頷きながら、呪文を唱え続ける。
軽くなる。
浮く。
浮かぶんだ。
風。
空気。
などアドバイス通り頭に念じながらも、無意識にぴょんぴょんと跳ねてしまっていたが、ついに、
「お、お、浮いたっ!」
治奈の嬉しそうな言葉の通り、アサキの身体が跳ねる勢いではなく間違いなく浮かび上がっていた。
すーっと。
三センチか、四センチくらい。
「ぐううううううう……」
なにか変な物が出るのではないかというくらい、真っ赤な顔で力みまくるアサキであるが、ここで魔力も限界。
重力の支配を受け、とんと着地した。
ぜいはあ、膝に両手をついて息を切らせている。
疲れた。
精気を全部吸いつくされたようだ。
「飛翔魔法って、こんなに疲れるのかあ……」
「うーん。飛翔っつーのかなんつーのか、浮いたには浮いたけどさあ、あたしの初めての時より酷えなあ」
カズミが、自分で空けた深い大穴から這い上がって来た。
「うちは逆に、また魔力の無駄遣いが出ちゃって、成層圏まで吹っ飛んでくのを想像しとったわ」
「えーーーっ。わたし助からないじゃん」
そんな惨めな自分を想像して、アサキは泣きそうな顔になった。
「そうだよ。あたしも最初、どかーんと宇宙まで吹っ飛ぶの期待してたんだからな。墜落してあたし以上の大穴を空けると楽しみにしていたこの気持ち、どうしてくれるんだよおお!」
「知らないよそんなこと!」
まったく、人の生命をなんだと思っているんだ。
制御する力もないのにマグレでそんなに飛んだら、間違いなく助からないぞ。
でも……
それはともかく、
……気持ちよかったな。
ほんの数センチの高さだけど。
あまり実感はないけれど。
でも間違いなく、自分の力で、自分の魔法で、わたしは宙に浮いたんだ。
今度、一人でこっそり練習しよう。
自由自在に飛べるようになるんだ。
みんなこの呪文苦手ということだから、わたし、ひょっとしてみんなを追い抜いちゃうかも知れないぞ。
楽しげな空想に、アサキはにんまり笑顔になっていた。
たかだかほんの数センチの高さではあるが、初めて魔法らしい魔法というものを経験して、疲労の中なんともいえない爽やかな心地よさを感じていたのである。
「ねえ、他になんかなあい? 朝必ず起きられる魔法とか、物を大きくしちゃう呪文とかあ」
ドジを治す魔法なら、カズミたちみんなが喜ぶのだろうが。
「はあ、なんだよそれ。アホ毛生やしてる分際で変なことばっかり抜かしてっと、簀巻きにして利根川に流すぞ」
カズミが物騒な突っ込みを入れる。
「物を大きくする呪文なら……あるにはありますけど」
正香が、ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。
「え、けど、って?」
「苦手、なんですよね。わたくしも、みなさんも」
「面倒臭い系の呪文じゃけえね。呪文詠唱と集中力が必要で、戦闘中にとても使っていられない。倒したヴァイスタを巨大化させても仕方ないじゃろ」
「使う機会がないから苦手なままなんだよねえ。でもちょっと試しにやってみよっかな」
成葉はきょろきょろ地面を見回して、小さな石を探し出すと、その前に膝をついた。
両手を石へと翳しながら、目を閉じた。
「ホウズシエウンシュヘン……」
目を開き、さらに呪文詠唱を続けると、
「グロスヴェールデン」
石が動いた!
……ような気がする。
微妙に。
風で動いただけの気も、しなくもない。
「むうううおおおおおっ、また失敗だああああああああ! でもいいんだあ。使わないもん、こんな呪文なんかさあ!」
「ちょ、ちょっと待って! わたしもやってみたいっ!」
石を蹴飛ばそうと、蹴り足上げ掛ける成葉の前に、アサキは四つん這いで飛び込んだ。
「えっと、どうしたっけ、まず両手を翳してえ、なんだっけ呪文、そうだっ、ホウズシエウンシュヘングロス……」
「飛翔魔法で少し浮いたもんじゃけえ、ハイになっとるな」
「ゴミ魔法専門家になるつもりかよ、こいつ」
などと治奈とカズミがこそこそぼそぼそいう前で、わくわく楽しげな顔でアサキが呪文を唱えている。
と、突然、
弾けるような、砕けるような、裂けるような、なんともいえない爆音、爆煙が上がった。
「うわっ!」
「なんだああ!」
「あいたっ!」
驚き、尻もちをつく治奈たちの前にあるのは、巨大な岩であった。
先ほどの小石と、まったく同じ形状の。
そう、この巨岩は、アサキの魔法により巨大化した小石だったのである。
「潰されて死ぬかと思ったあ」
尻もちついたまま、治奈が額の汗を拭って安堵の息を吐いた。
「お、お前、妙な才能があるなあ……。って、あれ、アサキ? おい、アサキ、どこいったあ?」
カズミの態度に、みなも唖然としたようにきょろきょろ。
そう、アサキの姿がどこにも見えないのである。
「た、助けてえええええええ。ぐるじいよおおおおお」
巨岩の下から、アサキのなんとも情けない声が聞こえてきた。
9
「うわあ、広くて綺麗だねえ」
令堂和咲が、大荷物を幾つも抱えながら、落ち着かなげに、でも楽しげに、視線きょろきょろ館内を見回している。
「去年は、もっと古くさい感じだったんだけどねえ、随分と改装がされているなあ」
平家成葉も、思い出して楽しげだ。
「へえ、そうなんだ」
「うん。床なんかも木造だったもんね。明治時代か、ってくらい。今ではこんな、高級そうなタイル貼りで、ワックスもかかっててピカピカだ」
「お風呂は、どんな感じなんだろねえ。大浴場。天然大理石かなあ」
ちょっと恥ずかしそうに笑うアサキ。
みんなでお風呂だなんて緊張しちゃう。
「期待しちゃうね。……ああっ、なんと土産物のお店が出来てるう!」
「ええ、どこどこっ? どこっ?」
「ほら、あそこっ!」
と、廊下の奥の方を成葉が指差した、その瞬間である。
「てめえらあああああああああ!」
昭刃和美の怒鳴り声が、地響きのごとく空気を震わせたのは。
ワックスでツルツルの廊下を利用して、十メートル以上もの距離を怒りの形相でスライディングしてきたのである。
「うるせえんだよおおおおおおおおっ!」
カコカコーン!
アサキと成葉は不意を突かれて、ボーリングのピンのようにスカーンと弾け飛んでいた。
「ホテルで騒ぐんじゃねえよ! マナー守れや! つうかそんな元気あんならなあ、特訓を手抜きせず出し切っとけやああああ!」
倒れているアサキの上にマウントポジション。襟じめガクガクガクガク。
「ごごごめんなさあい。で、でもっそれほど大きな声でも……」
「次はねえぞてめえ!」
聞く耳持たず吐き捨てると、しゅっと瞬時に、数メートル離れたところで痛そうに腰を押さえている成葉のところへと移動し、
「ナル坊、てめえもだあ! 一緒になって騒いでんじゃねえよ! カタギの宿泊客方に迷惑だろうがよおおおおおおおおおお!」
「ナルハたち、そんなに大きい声は出してないよお! カズにゃんの声の方がよっぽどうるさいよおお」
「あたしのどこがうるせえんだよお! このおしとやかな美声のどこがあ! 舐めんなおらああ! ……ま、いいや。よおし、その土産物屋に行ってみようぜ。なんか面白いのあるかなあ」
アサキと成葉を、襟を掴んで起こすと、奴隷でも扱うように手を引いて土産物コーナーに入ってしまった。
「カズミちゃん、相変わらず単なるストレス発散で好き勝手なことしとるなあ」
苦笑しているのは、遠目から見ている明木治奈である。
「まあストレス発散方法はそれぞれですからねえ」
大鳥正香が、のんびりした口調で応える。
「はあ、なんそがいな態度。いつも一人だけ、カズミちゃんの横暴被害を受けないからって」
などといいつつも笑いながら、壁際に寄ると、床にどさり荷物を置いた。
土産物屋にいるカズミたち三人の様子を、遠目から眺めている。
結局、マナーがどうとかいっていたくせにカズミが一番はしゃいでしまっている。
「みんな子供じゃの。うちも人のこといえんけど」
「そうですか?」
「そうですよ。ほじゃけえ正香ちゃんだけは別じゃな。もっと子供になった方がええかの。いつも落ち着きすぎじゃ」
「わたくしにはこれが自然で楽なので」
「少し分けて貰いたいなあ。まあええわ、ほいじゃっ、うちもお土産屋を覗いてみるか。正香ちゃん、ちょっとだけ荷物よろしくう」
早足で廊下を進む治奈であるが、突然びくり肩を震わせ、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「うおおおおおお! あたしたちはっ、ドドンジャーだったのかあああああああ!」
カズミがこんな、けたたましい大声を発したためである。
他にもお客さんがいるのに、迷惑顧みず。
「だあかあらあさあ、カズにゃんが一番うるさいんだってばあ!」
成葉、両耳を人差し指で栓しながら、迷惑そうに顔をしかめている。
「で、なあにそのドドンジャーって」
「はあ? 知らねえのかよ、チビッコのくせに。これだよ、これ。『爆 撃 戦 隊っ あーーーーーっ ドドンジャーーーッ!』」
戦隊の名乗りのシーンであろうか。
そういいながらカズミが突き出してみせたのは、青い変身ヒーローのキーホルダーだ。
他にも、陳列で色違いのがぶら下がっているのを指さしながら、
「この色を見ろ。赤、青、黄色に、緑に、そして、さらに、紫。この配色、どこかで見たことありませんかあ?」
にやり笑みを浮かべるカズミ。
「あーーーっ!」
「ナルハたちだっ!」
嬉しそうに、ぽんと手を打つアサキと成葉。の、肩の間から、ぐいぐいっと治奈が顔を覗かせる。
「妹が見とるだけで、うちはよく分からないんじゃけど。紫って珍しい気がするけえね。つまりこの一致は、うちのおかげということじゃの」
「ちが、そ、それもあるかも知れないけど、最後にわたしが入ったからだよ!」
何故か興奮気味のアサキ。
「てめえ、新入りのくせに、主役のレッドを気取ろうとは片腹痛いわあ!」
「でもっ、でも実際そうじゃないかあ!」
「久々に、あたしの両腕にアンドレが降臨するっ!」
アサキの首を両手で掴むと、そのまま持ち上げ揺さぶった。
「な、なんで締べられないとだらないのお……ぐるじいいやあめえでええええ」
例えどこにいようとも、カズミはカズミ、アサキはアサキなのであった。
10
けたたましい絶叫が響いている。
「うおおおおおお!」
走る、走る、走るカズミ。
右手に大きな鍵を握りしめ、両腕ぶんぶん振りながら全力疾走。
負けてなるか、と肩に掴み掛からんかの勢いで後を追うのは、アサキと成葉。
三人、爆走だ。
ホテル二階の廊下を。
「わたしが先頭だったら、迷惑だとかいって殴ってくるくせにい!」
「カズにゃんお子様っ!」
文句いいながら追い掛ける二人。
前方を走るカズミは、振り返ることなく叫ぶ。
「うるせええええ! 我孫子の女豹、このカズミ様を抜けるもんなら抜いてみやがれえ! っと、ここだっ!」
3012のプレートがあるドアの前で、ズザザっと急ブレーキ。
「ロック解除シャケナベイベー!」
わけの分からないことを叫びながら、鍵を鍵穴にぶっすり突き刺した。
いや……
「いでっつ! 畜生!」
がつっ、と拳で思い切りドアを殴っただけだ。
握っていたはずの鍵が、なくなっていたのだ。
「甘いよカズにゃん」
成葉がいつの間にかそれを持っており、素早く鍵穴に差し込むと、ひねった。
「ナル坊、お前なんてことおおお!」
「にひひっ、おっ先にいっ」
と、成葉が高らかな笑い声と同時に、ドアを開けた瞬間、
「させねえんだよおおおお!」
んがっ、と背後から飛びつき、腰に両腕を回したカズミは、雄叫び張り上げながら身を後ろへ反らし、小柄な成葉の身体を自身に引き寄せつつ、遠心力と重力とで床に叩き付けた。
ジャーマンスープレックス。
いわゆるプロレス技である。
和名、原爆がため。
カール・ゴッチがプロレスに持ち込んだことで一躍有名になった、伝統的なレスリングの技である。
そのまま肩を押さえ付けてのフォールにも使えるが、現在はプロレスの試合ではないので、綺麗に決める必要もない。
と、いうわけで、俗にいう投げっぱなしジャーマンを、不意をつかれて食らった成葉は、頭や肩を硬い床に打ち付けて、
「ぐぎいいい」
悲鳴を上げながらごとごとごとごと、モンスタートラックのタイヤのごとく転がって、そのまま、ベッドメイクのためドアの開いていた反対側の部屋へと入り込んで、クローゼットの脇にぶつかって静止した。
「邪魔ですよお客さあんっ!」
部屋の中にいた清掃スタッフのおばちゃんが、怒鳴り声を張り上げた。
「好きでやってるわけじゃないよお。いててて……」
弱々しく吐き出される成葉の声。
「正義は勝つ!」
どっちが正義か分からないが、とにかく邪魔者を排除してほくそ笑むカズミであるが、次の瞬間、
「あーーーっ!」
絶叫していた。
漁夫の利的に、アサキがドアを開けて部屋に入ってしまったのだ。
「わたし一番っ! 勝ったあ!」
「一等賞の君に素敵なご褒美いいいい!」
カズミは、アサキの肩を掴み振り向かせると、体勢を下げさせつつお腹の辺りに腕を回し、ぐわあっと全身を持ち上げて逆さにすると、そのまま床に叩きつけた。
パワーボム。
いわゆる、プロレス技である。
鉄人ルー・テーズが開発したとされる技で、無数の派生系技を生み出すが、本家としてなお、色褪せることなく使用され続けている。
「ちょっとお! あんまり騒がないでよお。宿泊代いらないから叩き出すよ!」
さっきのベッドメイクのおばちゃんが、渋い顔でこちらの部屋を覗き込んで怒鳴ってきた。
「あ、すみませんねおばちゃん。元凶は二匹とも退治しましたんで。迷惑を掛けましたあ」
笑いながら頭を掻くカズミ。
「カズミちゃん酷いよおおおおお」
ふらふらなんとか起き上がったアサキ、恨めしげにカズミの肩を掴んだかと思うと、突然ボロボロ涙をこぼし、うえええええんと上を向きながら情けない声で泣き出してしまった。
「本気で泣くなあああ! 単なるシャレだったのに、なんかちょっとだけ悪いことした気持ちになっちゃうだろ!」
「だ、だって、ひぐっ、カ、カズッ、カズミちゃん、きゅ、急にっ、投げっ、投げるん、るんだもん。頭、からっ、お、落とすんだもん。あぐっ。ひ、ひど、酷いよお。か、肩っ、痛いよおお」
「悪かった。悪かったよ。じゃあ、さっきの土産物屋でなんか買ってやっから許せ」
「ほ、本当? ひぐっ」
真っ赤に腫らしたままではあるが、アサキの目が興味に輝いた。
「でも、あたしが勝手に買うぞ。高いの買う金もねえから」
「うん。それでいい。楽しみだなあ」
泣いたカラスがなんとやら。すっかり楽しげな表情のアサキである。
「カズミちゃん、相変わらず騒々し過ぎるじゃろ!」
「周囲の迷惑ですよ」
ようやく治奈と正香が部屋へと辿り着き、入ってきた。
「はーいビリ二人がきたよお! オッズはあ……」
カズミは、リストフォンのメモ帳を開いた。
「うちら別に勝負しとらんけえね! ……しかし、あれじゃね。一階は随分と改装されていたけど、上はほとんど変わっとらんね」
「そうですね」
治奈と正香は、とりあえず部屋の隅に荷物を置いた。
「あーっ、肩が楽になったあ」
治奈は首を回しながら、左手で右の肩を揉んだ。
「おトシですかあ? ハルナ先生」
カズミが、治奈の後ろに回り込んで、肩を揉んだ。
「カズミちゃんが、自分の荷物を忘れて土産物屋に行っちゃうからじゃろ! 確か去年も……」
「よおし、五人が揃ったところで次の勝負だ。そうだなあ……」
カズミ、全然人の話聞いてない。
「誰が大浴場に最初に飛び込むかだああああ! 勝負開始い!」
「やーーーっ、ここで脱ぐなああああ!」
治奈は顔を赤らめ、カズミの腰に抱きついた。
11
カズミは、ざぶり肩までお湯につかると、
「あーっ。さっきは痛かったあ」
少し赤く腫れているおでこを、右手で押さえた。
「横暴の限りを尽くすから、ようやくバチが当たったんだ」
アサキも湯に入ると、警戒するようにカズミから一番離れたところに身を沈めた。
なんの話かというと、別になんのことはなく、
カズミが、大浴場へ飛び込もうと走った際に、滑って転んで激しく頭をぶつけたのである。
さらにそのまま、頭を軸にくるんと半回転して、背中から叩き付けられたのである。
ここはホテルの大浴場。
先ほど老婦人たちの一団が出ていって、現在はアサキたちの貸し切りといってよい状態になっている。
「広いねー」
アサキが首を動かし、きょろきょろ浴場内を見回す。
「ほうじゃのう。室内なのに、もうもうとした湯気が押さえられてて息苦しさもなく、さっぱりした感じゃけえ」
満足げな表情で、手でお湯をすくって首や肩にかける治奈。
「特訓の疲れが、お湯に流れていきますね」
正香が微笑んだ。
「きてよかったでしょお、アサにゃん」
成葉が尋ねる。
アゴまでお湯に浸かった状態で。
「うん。……あんまり楽しんでもいけないのかも知れないけど」
「いやいや、今日の特訓は終わったんじゃから。楽しんでリラックスして、明日に備えて心を癒やさないと、それこそ時間の使い方として間違いじゃろ」
「おー、ハルにゃんがいいこといったあ」
などと、ちょっぴり真面目でかた苦しいけれども女子っぽくもあるような、そんなお喋りを楽しんでいると、
「ううーっ、極楽極楽う」
カズミのオヤジのような態度に、四人のテンション急転直下、げんなり顔だ。
「やーんもう、カズにゃんのせいでムード壊れたあ!」
「カズミちゃんは男湯に入ればよかったんだよ」
痛烈な一言を浴びせるアサキであるが、カズミは全然聞いておらず、ほっほっと平安貴族のような気持ち悪い声で笑うと、恥じらって離れるどころか、むしろスイーっとみんなの前へと近寄ってきた。
腰を持ち上げ、右足をももまでお湯から出して、足指の先でアサキをさしながら、
「そち、なんかダジャレをいってみよ」
「はああ?」
「なんでもよいぞよ、面白いことをいってわらわを楽しませてみよ。そこのオモシロ顔の女」
「お、おもしろ……それじゃあ、笑わせてあげるう!」
アサキは両腕を広げながら、カズミの正面へと接近すると、脇腹をくすぐりはじめた。
「ちょ、やめろっ! あたし脇腹弱いんだよ!」
真顔に戻って、身悶えをするカズミ。
「そうなのっ? いいこと聞いたっ」
「直接攻撃ズルいぞーーっ!」
「無茶ぶりする方がズルでしょお」
「くそ。やり返してくれるわ」
「やん、なんで反撃するのお?」
湯船の中、素っ裸でくすぐり合いを続ける二人。
バカみたく大声ではしゃぎながら、いつまでも。
「他人他人」
「あの人たち誰え?」
すーっと離れていく治奈たちであった。
12
「……周囲を見回しましたが、もうその女の人の姿はどこにもありませんでした。女性の正体はなんだったのか、現在となっては分かりません。ただ、一つ分かっていることは、もしもあの時、誰かの声がわたしを呼ばなかったら、わたしは多分いまここにはいなかっただろうということです」
大鳥正香は座布団に正座したまま、下からのランプにほのかに照らさた顔を軽く歪めて、ふふっと意味ありげな笑い声を漏らした。
「これで、わたくしのお話は終わりです」
畳に手をつくと、深く頭を下げた。と、その瞬間、
ヒイイイイイイイイ、
令堂和咲が、甲高く震える情けない悲鳴を上げた。
「こ、怖かったあ! 正香ちゃんの怪談、めちゃくちゃ怖かったよおお!」
誰から逃げようとしているのか、涙目で床を張うが、すっかり腰を抜かしてしまって、いたずらに手足をばたばた動かすばかり。
「ほんっとビビリだなあアサキは。あたしの話はもっと怖いから、心臓止まんないよう気をつけろよお」
わははは、と昭刃和美が豪快に笑った。
「つうかよ、いまのは怖いというよりは不思議系な話だろうが。なあ、正香。たださあ、話は綺麗にまとまっていたけれど、あのオチの部分はちょっとさあ……」
と笑いながら正香の顔を見た瞬間、カズミは、びくんっと痙攣したように肩を震わせた。
その笑みも、カチコチに凍りついていた。
正香の顔にパーツがなく、鼻のところに小さな突起があるだけののっぺらぼうだったのである。
「うぎゃああああっ!」
カズミはけたたましい絶叫をすると、お腹ずりずり妙に低い四つん這いになって、手足を物凄い速度で回転させて部屋から逃げ出そうとする。
ドアを這い上り、すがるように両手でノブを掴んだところで、涙目の青ざめた顔のまま、恐る恐るそーっと後ろを振り向いた。
「カズミさん、そんな慌ててどうかなさったのですか?」
座布団に正座したまま、正香がにっこり微笑んでいる。
目も口もある、いつも通りの正香が。
よく見ると彼女のその手には、肌色の、ゴム製かなにかグニャグニャとしたお面のような物が。
「悪戯グッズかあああああああ」
安堵と恥ずかしさの混じった長い長い息を吐くと、カズミは脱力、その場に崩れて横たわった。
「カズにゃんもさあ、アサにゃんのことビビリとかいえないんじゃないのお?」
成葉がからかうと、カズミは瞬時にムッとした表情になり、飛び跳ねて立ち上がった。
「違うっ、トイレに行こうとしただけだ!」
だんっ、と片足前に出して拳をぎゅっと握って、必死に強がった。
「ト、トイレ? 行くの? わたしも行くっ!」
アサキは、抜けた腰がいつ直ったのか、勢いよく立ち上がった。
「次のカズミちゃんの番が終わったら、もう寝る時間だしい、すっごい怖い話だとか脅かすからあ、じゃあ先に行っとこうかなと思ってえ。ではちょっと行ってきまあす」
そういいながらアサキはドアを開け、カズミの手を引いて廊下へと出た。
「お化けを連れ帰ってこんようになー」
「ぎゃーー! そういうこというのやめてよ治奈ちゃん! もう!」
バタン。ノブを思い切り引っ張り、勢いよくドアを閉めた。
アサキとカズミの二人は、静まり返った薄暗い廊下を歩き出す。
「トイレ一人じゃ怖いってかあ?」
カズミが意地悪そうな笑みを浮かべる。
「そりゃそうでしょう。夜のホテルとか病院とか学校の、トイレって、そういうもんでしょお。ましてや怪談大会の最中なんだからさあ。さ、ビビリ二人で急ごう急ごう」
「あたしはビビリじゃねえって! 一緒にすんな!」
「はいはい。ちょっと正香ちゃんの悪戯にビックリしただけですよねえ」
「腹立つなあ。お前一人で行けよ! ……ま、誰かにすがってでも済ませとかないと、またこないだみたくオシッコ漏ら……」
「なんかいった?」
ぎょろん、と凄まじい目つきでカズミへと顔を向けた。
「な、なんでもないですっ! ……ごめん、そんな睨むなよ」
「別に睨んでなんかいませんよお。ふーんだ」
唇を尖らせるアサキ。
恥ずかしい話を未然に阻止しただけだ。
そのまま二人は、オレンジに照らされた薄暗い廊下を歩き続ける。
しばらく、無言のままで。
「なんだよ」
自分で作り出した無言に耐えられなくなったか、カズミはちょっと憮然とした表情になって、アサキの横顔を覗き込んだ。
「いいんだ。わたしはどうせ。ヘタレ女子で」
ず、とアサキは鼻をすすった。
「ま、まあさ、そういうお前だからこそ、出来ることもあんじゃねえの?」
散々からかっておいて、真剣に落ち込んでいると分かると慰め励ましてしまうカズミである。
「そうかな?」
「そうだよ。強くなりに合宿にきて、落ち込んでても仕方ねえだろ。よおし、トイレにどっちが先につくか勝負だあああっ!」
「もういいよお、それはさあ。なんでいつまでも、夜のホテルの廊下で、トイレの話をしてなきゃなんないのお?」
アサキは声を出して笑った。
笑いながら、胸に思った。
なんだかんだ、優しいんだよな、カズミちゃんも。
すぐ殴ってきたりプロレス技をかけてくるのはやめてほしいけど。
意外と気遣いもしてくれるしな。
「ん? なんだよ、いつまでもニヤニヤ笑っててさ。気持ち悪いな」
「なんでもない。……あっ」
アサキは不意に立ち止まった。
手を繋いでいるため、必然カズミもストップだ。
「星が……綺麗だ」
天井の電球が切れて、灯りがほとんどないところがあり、そこから、窓ガラスを通して満天に広がる星空が見えたのだ。
その美しさ、壮大さに、思わず足を止めてしまったのである。
「まあ……福島の山奥だからなあ」
「ね、カズミちゃん、星ってなんでチカチカまたたくか知ってる?」
「知らね。まん丸じゃないからじゃない? で、回転してっから、おっきくなったり小さくなったりしてんじゃないの? ほら、フライパンをくるくる回してるみたいに」
「ブブー。大ハズレ」
「じゃ、なんだよ」
「星の輝きっていうのはね、生きる人々みんなの心なんだよ。みんなの元気とか希望とかが天にのぼって、だからチカチカと、キラキラと、輝いている。と、わたしは思うんだ」
「明日、ラーメン食いてえなあ……」
「人がたまにオトメなこというと、すぐオヤジっぽいこといって茶化すんだからあ! わたし一人、恥ずかしいこといっちゃったじゃないかあ!」
「だってあたしオトメより色気より食い気だもん」
ははっと笑うカズミ。
アサキはちょっとほっぺたを膨らませたが、すぐ微笑を浮かべると、カズミの手を握る手に少し力を込めた。
トイレに行くという目的をすっかり忘れて、しばらく星空を眺め続けていた。
13
「……でな、その人の知り合いにさあ、霊能力を持っているっていう人がいてさ。藁にもすがる気持ちで相談したんだって。そしたら、『これは一刻を争う』って、すぐに対処方法を教えてくれてさ。『もしも負けたらあなたは死ぬかも知れないがそれは運命だ』、とか脅かされたらしいけど、どうしようもないし、とにかくいわれた通りにしたんだ。問題のその画像を紙にプリントして、写真スタンドで立てる。もう一枚、自分の写っている写真を用意して、まじないみたいな不思議な形の剣の絵を墨で描いて、向き合うように置いたんだって。……そして、その翌日」
「ぎゃあああああああああああ!」
アサキが、隣部屋から苦情がきそうなほどの絶叫を張り上げた。
「まだオチいってないだろ!」
上座の座布団であぐらをかいているカズミは、邪魔されたことにイラついて自分の膝をパシパシと叩いた。
「だだだってもう怖いって分かってるからあ! 聞きたいけど聞きたくないっ!」
「うるせえ。続けるぞ。なんだっけ、そうだ、写真をそうやって机に置いた、その翌日な」
「うん」
平家成葉と明木治奈が、青ざめた顔で、ごくりつばを飲んだ。
すっかり怪談に引き込まれているのだ。
大鳥正香は、お話はお話と割り切っているのか、あんまり怖くなさそうだ。
さっきまで自分も、怪談を聞かせていたというのに。
「いわないでえええええ。やあめえてええええええええええっ!」
アサキは、青ざめているどころか土気色で、身体はガタガタブルブル、歯をガチガチガチガチ、引き込まれすぎである。
話し手冥利云々を通り越して迷惑なくらい。
「写真を抜け出して、食らいついてきそうなくらいだった 恐ろしい顔をしていたその白い犬が、ころり横たわった死体になっていたんだよ。その、写真の中でね」
「ぎゃあああああああ」
「お腹からは、ぶった斬られたみたく血が流れていてさ。それでね、向き合わせたもう一枚の写真には、筆で描いた剣から血がしたたり落ちていて、本当に赤いインクを落としてしまったみたくじくじく紙が滲んでいたらしい」
「やあああーーーっ!」
「……聞けよ! もう終わりだから! ……それからは、その人に特別なにかが起きたわけではないけれど、街を歩くとなんだか犬がやたらと寄ってくる気がするんだってさ。……はい、兄貴の友達の体験談、おしまい」
ヒイイイイイイイイイイイイ!
アサキが、まるで森の死霊といった、おぞましくもハタ迷惑な悲鳴を上げながら、布団の中に頭までもぐり込んだ。
「もう、アサキのアホウ! お前がいちいちいちいち邪魔するから、全然怖い話にならなかったじゃないかあ!」
「いやいやいや充分に怖かったあっ! 先にオシッコ行っといてよかったよおおーーーっ!」
こんもり盛り上がった布団の中から、くぐもった叫び声。
「アサキちゃんじゃなくても、か、かなり怖かったけえ、カズミちゃんの話。お兄ちゃんのお友達という設定のせいか、かなりリアリティがあったけえね」
治奈が自分の寝る布団を整えながら、ちょっと引きつった笑みを浮かべている。
「そう? まあ実話だからなあ。ほら、証拠写真」
カズミが、一枚の写真を、治奈の眼前へと突き出した。
机の上に二枚の写真が置かれている、という写真だ。
一枚は、白い犬が血を流して横たわっており、
もう一枚は、手書きの剣から血がしたたり落ちている。
「うわああああああ!」
治奈は、口も裂けよとばかりの絶叫を張り上げると、猛烈な勢いで自分の布団をまくり上げて潜り込んでしまった。
「おーおー、治奈くんもなんだかんだビビリですなあ」
ははっ、と楽しげに笑うカズミ。
「ち、違う、違う! 疲れて早く寝とうなっただけじゃ!」
震える声で必死に強がりながらも、もぞもぞと布団の中を移動して、隣のアサキの布団へと潜り込んでしまった。
「うわあ! な、なんだあっ? ……治奈、ちゃん?」
既に潜って震えていたアサキが、驚いて大声を出した。
「アサキちゃんがっ、ここ怖がっとる思うて、きてあげたけえね」
「わ、わたしはもう回復したから大丈夫だよお。狭いから治奈ちゃん一人で寝てよお」
そこまで回復はしていなかったが、治奈の乱入でちょっと強気になって、ぐいーっと押し退けようとするアサキ。
「そそっ、そがいなことしたら怖くて眠れなくなるじゃろが!」
治奈が抱きつこうとする。
アサキはそれを、無情にぐーっと押し戻す。
「出てけえええっ!」
「嫌だああああ!」
盛り上がった布団の中で、どったんばったん絡み合っている、布団がぼっこんぼっこん盛り上がっている。
「は、治奈ちゃんも怖がりなんだあ。ところで治奈ちゃん、さっきカズミちゃんは、なにを見せてたのお? 証拠写真とか、聞こえたんだけどお」
「ぎゃあああ! 思い出させるなああああ!」
布団の中で、押し退けようとするアサキの手を強引に払い除けて、治奈がぎゅーーーっと硬く抱きついた。
ぶるぶるガクガクぶるぶる、マッサージ機いらないというくらい、治奈の震えがアサキに伝わってくる。
「さあて、最後に偽モンの写真でとびっきりに怖がってくれた面白い姉ちゃんも一人いたことだし、怪談はこれでお開きにして、就寝時間にしようぜ」
カズミはおかしそうにお腹を押さえながら立ち上がると、電球の紐を引っ張って、橙色の薄暗い灯りに切り替えた。
「うわあっ!」
不意に暗くなったことにびっくりしたアサキと治奈が、裏返った声を発しながら、噛み付こうとするスッポンのように勢いよく布団から頭を出した。
治奈は、ふーっと安堵のため息を吐くと、
「カズミちゃん。さっきなんかいった? 布団に潜っとったけえ『最後に』の後がよう聞こえんかったんじゃけど」
「別にい。早く寝ようっていっただけえ」
カズミは意味ありげな笑みをたたえたまま、自分の布団の中に身体を潜らせた。
薄暗い部屋の中、窓際にはカズミと、成葉、
廊下側には正香、アサキ、治奈、
五つの布団が、頭合わせになるように敷かれている。
治奈だけ、自分の布団を投げ出して、アサキと一緒に顔を出している状態であるが。
「でもさあ……」
と、アサキが枕にアゴを沈めながら不意に呟く。
「デジタルカメラでも、心霊写真って写るものなのかなあ」
「アサにゃん、さっきあんな怖がっといて、そこ食いつくのお?」
「さっきの話を、現実ではないと思いたいからじゃろ」
治奈、布団の中でアサキと密着し、青ざめた顔で引きつった笑みを浮かべた。
「ご名答。わたしヘタレですからあ」
えへへ、とアサキは恥ずかしそうに笑った。
対岸で顔を突き合わせている正香が、うーん、とちょっと考え込んで、
「心霊の存在も科学であると仮定した上で、であれば、写らない気がします。デジタルカメラはその名の通りデジタルであり、1か0かですからね。従って、もしもそうしたものが写るというのならば、それはレンズが捉えた物、ということでしょうか。それはそれで、何故ファインダー越しに見えないのか、という新たな疑問に繋がってしまいますが」
もっともらしい言葉で説明をする。
「つまりは仮想現実ってことだね」
アサキ、正香に負けじと難しい用語を使って、ちょっと偉そうな得意顔だ。
「意味がまったく違うじゃろ」
密着状態から言葉の肘打ちを受けて、
「え、え、どういう意味なの仮想現実って」
恥ずかしさに狼狽するアサキ。
「ほじゃから……コンピュータの中に本物っぽい世界があったりとか、いや、うちもよくは知らんのじゃけど」
「リアルに友達いないけどネットで繋がった友達だけいるとか?」
「いや、それも違うじゃろ」
「ネットだけなんて、そもそも友達とは呼ばないだろ」
対岸枕のカズミが、口を挟んだ。
「えー、そうかなあ。会ったことなくてもお互いに思いあえれば友達は友達じゃないの?」
「会ったこともないリストフォンだけの関係でもいいのかよ」
「いや、いいか悪いかじゃなくて、友達は友達でしょって話で」
「お前は、転校時の掴み失敗でいつも友達いないとかいってたから、だから友達に好きなだけ妄想が出来るんじゃねえの」
「えー、カズミちゃんそれちょっと酷いよお。まあ、確かにそうかも知れないけどさあ。……でも、どうであれ友達は友達だと思うけどなあ」
不満げな顔で、ずぶずぶっと枕によりアゴを沈めていく。
「しつこいなあ、お前は」
「カズミちゃんの方でしょお」
「ならばこれはどうだ……この国、いやこの地球には、自分以外の誰も生命体が存在していない。でも、宇宙にあるどこかの星の、ぜーったいに会えっこない誰かと、リストフォンでのやりとりだけは出来るんだ」
「うーん。それはさすがに嫌かなあ」
「誰だってそうじゃ」
アサキと治奈、一つの布団から頭を出して、難しそうな顔をくっつけ合っている。
「じゃあ次な、理由はともかく、分厚い金属の棺桶に閉じ込められて、そのまま海に沈められちゃうんだ」
「怖いよー」
「もう地上には戻れない。一生このまま海の底。そこは深海一万メートルを超える。マリファナ海溝よりも深いんだ」
「マリアナ海溝です」
さりげなくツッコミを入れる正香。
カズミは咳払いすると、なにもないように続ける。
「でもさ、沈められたその棺桶の中は意外と広くて快適でさ、何故か食べ物も明かりも空気もトイレも困らなくて、しかもリストフォンで外と人たちとのやりとりとかネットサーフィンは出来るんだ。だから一生生活に困らない。でも物理的には、一人で一生海の底」
「さすがに発狂するでしょ、それはさあ。さっきの怪談より、遥かに恐怖だよお。……って、なんかデジタルの心霊写真とかの話からどんどんズレてきているんですけどお」
「お前が無意味に頑固だからだろが。……それじゃあ、こうして直に会って笑い合ってつつき合って喧嘩して分かり合って励まし合って叱咤し合ってこその友達だ、ってこと認めるな?」
「なんか強引にやり込められてる感があるんだけどお、でも認める、さすかに嫌だよお海の底はあ」
「分かりゃいいんだよ」
ふふん、と笑うカズミ。
「なんだよもう、持論の押し付けしといて偉そうにさ」
「うるせ。……あのさ、さっきアサキになんか買ってやるって話をしたろ。お前がみっともない顔でぎゃんぎゃん大泣きして、ホテルのおばちゃんに迷惑掛けてた時。あれ、実はもう土産物屋で買ってあってさあ」
ちょっと恥ずかしげな笑みを見せる、カズミの前に、
「え、なになにっ? なんですかあ?」
アサキが目を輝かせながら、肘で這い寄って、顔を近づけた。
「面白フェイスを近づけるんじゃねえよ! アホ毛を生やしてる分際で。笑っちゃうだろ! ……てアサキのアホ毛の話なんかどうでもいいや。土産物屋で買った話だ。これ、アサキだけじゃなく、みんなに、なんだけどな」
橙色の、常夜灯光の下、恥ずかしそうな笑みを浮かべながらカズミは、枕元に置いてある小さなバックからチャラチャラと軽い金属の音をさせながらなにかを取り出した。
「ああ、これ、さっき見たあれか……」
アサキの目が、驚きと、楽しさとに、輝いた。
爆撃戦隊ドドンジャーの、戦士一人一人のキーホルダー、赤や青、様々な色がある。
「まずはこれな。ハルハルに」
といって、差し出す治奈の手のひらに乗せたのは、紫色の戦士。バクゲキパープルだ。
「ありがとうカズミちゃん。遠慮なく受け取るよ。……可愛らしくデフォルメされとるから、女の子が身につけとってもおかしくないけえね」
治奈は、目の前につるしぷらぷらさせて、ふふっと微笑んだ。
「次。タクワン色が成葉だ」
バクゲキイエローが、成葉の手のひらの上に。
「サンキュー、カズにゃん。それはそれとして、なんでタクワンとかいうかなあ」
「これが、正香」
黄緑、バクゲキグリーン。
「ありがとうございます。大切にします」
「そんで、あたしが青色だからバクゲキブルーので、最後に……」
残る一つ、赤い戦士のキーホルダーをつまみながら、ちらり視線を泳がせて、アサキの顔を見る。
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべて両手を差し出して、貰う気満々だ。
「ありがとうじゃねえええええ! 欲しけりゃあ腕相撲で勝負だああああ!」
吼えながら、ガシッとアサキの手を取り思い切りねじ伏せた。
ゴギ、とおぞましい音がして、布団の中でうつ伏せになっていたアサキの身体が半回転して上を向いた。
「いっ、いだあああああああああああっ! か、か、かたっ、肩の骨っ関節がっ、はっ外れたああああああああああ!」
「だだ、大丈夫? アサキちゃん!」
右肩を抑えてドッタンバッタン、陸に上げられた魚のようにのたうちまわるアサキの顔を、治奈が心配して覗き込んでいる。
こともなげな表情で、カズミは口を開く。
「先輩たちが卒業して、人数が減っちゃったよなと思ってたら、このどーでもいいクソうるせえヘタレなアホ毛の女が加わってさ、ちょうどドドンジャーと同じ色が勢揃いして、関係ないのに何故か知らんけど福島の土産物コーナーなんかに、こんなのが売ってて……」
カズミは、みなの顔を見回した。
ひと呼吸置くと、続ける。
「あたしたちは、五人になった。……仰々しくいうものじゃあないかも知れないけど、これも運命なんじゃないかと思うんだ。それでつい、こんなの買っちゃったんだ。奇跡が絡み合って、出会って生まれたこの絆を、大切にしなきゃな、って思ってさ」
へへ、と笑うと、肘を布団に付いたまま、拳を軽く前へと出した。
「めずらしくマトモなこというじゃあん。イエーイ」
成葉が腕を伸ばして、拳をコツンと合わせた。
「奇跡の、絆か」
治奈も笑みを浮かべながら拳を出して、カズミの拳とコツン。
「明日どうなるか分からないこそ、いつまでも大切にしたいですよね。絆を思う気持ちを」
正香も少しはにかんだように、コツン。
「か、肩がああああああああ! ぐうううううう! ぎいいいいい!」
最後の一人は、まだ肩を抑えてゴロンゴロン転がっている。
「アサキ、お前っ、ふざけんなああああああ! せっかくいい雰囲気だったんだぞお!」
「カズミちゃんが悪いんじゃないかああああああ! 痛いよおおおおおおお!」
14
「六月三日 土曜日
今、私はホテルでこの日記を書いている。
魔法使いの特訓のために、治奈ちゃんたちと一緒に福島の山へ、合宿に来ているのだ。
疲れた。
全身のエネルギーをすべて使い果たすくらい疲れた。
でも、面白かった。
空気が綺麗で眺めも最高なところで、色々な訓練をしたり、知らなかった魔法を教えてもらったり。
ホテルのご飯も美味しかったし、お風呂も広くて気持ちよかったし。
カズミちゃんがとにかく乱暴で、泣かされちゃったりもしたけど。
でも、私たちのために色違いのキーホルダーをプレゼントしてくれたりして、ガサツで不器用だけど根はとても良い子なんだけどね。
このプレゼントのおかげで、みんなの結束が高まった気がする。
私も、少しは入り込めた気がする」
「いちいち、プロレス技、を、かけてくるのは、やめて欲しい、けど……と。あと、自分も、やってるくせに、他人が同じことした時だけ、激怒して、スライディングタックルとか、やめて、欲しい。理不尽だ。いつか、ぶん殴って、やる、ぞ、と……」
カリカリ、カリカリ、ペンを走らせている。
リストフォンの、映写孔からのキーボード映像を空間投影させてのタイピング、が主流の時代に、アナログなインクペンと紙のノートである。
「なになに、ガサツだけど根は……」
カズミの声。
反対側から、布団に入ったまま眠そうな目でノートを覗き込んでいるのだ。
「カズミちゃんっ! お、起きてたのっ?」
慌てて、枕元のノートを胸の下に抱き込み隠した。
「お前がブツクサいってっから目が覚めちゃったんだろ。なに書いてたんだあ、ガサツとか誰のことだよ」
「治奈ちゃん、だよっ!」
咄嗟に、つい適当な嘘を吐いてしまった。
「ははっ。あいつよく、床に落としたスナック菓子を三秒ルールとかいって食ってるもんなあ。三秒過ぎたろってツッコミ入れたら、広島では五秒じゃとかわけ分からんこといっててさあ、ふあ、おやすみなみゃい」
重そうだったカズミのまぶたがすとーんと落ちて、同時に顔もすとーんと落ちて枕に埋まった。
ぐおーっ。
もうイビキが聞こえている。
「助かった……」
胸を撫で下ろすアサキ。
生命を奪われるであろう未来を回避した安堵感と、同時にそこはかとない罪悪感。治奈のことをガサツなどと貶めてしまったからだ。
でもまあ、カズミちゃんのいったことがホントならいいのか。
真実ガサツなんだから。
そうか広島では五秒なのか。
などと論点を曲げて、罪悪感から逃れようと努力をしているというのに、
ぐおっ。
ぐがっ。
イビキうるさいなあ、もう!
ちら、と目線上げてカズミの寝姿を見た。
アゴを枕に埋めているのが息苦しくなったか、くっと呻くとゴロリン回転して仰向けの姿勢になった。
隣の布団を蹴飛ばしそうな、迷惑なくらいに股を大きく広げて、イビキをかき続けている。
起きてると腹立たしいことばかりするけど、寝顔はかわいいな。
イビキうるさいけど。
「おでこに、なんか落書きしちゃおうかな。『肉』とか『米』とか」
ふふっ、と含み笑いしながらペンを持った手をカズミの額へそーっと近付ける。
いや、ダメだ。筆跡でバレるっ。
誰かの書き癖を、真似するか。治奈ちゃんとか。
よし、それでいこう治奈ちゃんでっ……いやいやいやっ、インクのペンを持ってるのってこの中で私しかいないじゃないか。
残念。
カズミちゃん、今日のところは見逃してやろう。
わたしの優しさに感謝したまえ。
「しかし、凄まじく悪い寝相だな。大足広げて、隣ガスガス蹴ってるよ。女の子のくせに最低だな。というか、こんな蹴られてどうしてこれで起きないんだよ正香ちゃん」
その、蹴られている隣の布団へと、視線を横移動。
すーーーーっ、という微かな寝息を立てているのは、大鳥正香だ。
たえずもぞもぞゴロゴロしてるカズミと違って、こちらはぴくりともしていない。
「仰向けのまま手足をまったく動かさないし、寝方が上品過ぎる。やっはり育ちがいいんだなあ。さながらサラブレッドというところか。それに比べるとカズミちゃんは、ばん馬だな。ははっ」
笑いながらアサキは、自身の真横の布団へと顔を向ける。
幸せそうな、成葉の寝顔。
幼児がクリスマスプレゼントを期待しているような。
「ここっこれはまさに極上の甘露っ! ナルハ幸せだー。幸せであるぞーっ」
成葉の寝言だ。
プレゼントじゃなくて、なにかを食べている夢か。
なにを食べているのだろう。
「むにゃあ。おばちゃんっ、超特盛牛丼おかわりい!」
牛丼でしたあ。
がくーっと崩れるアサキ。
両手で上体を軽く起こして身を捻り、反対側の布団へと視線を向けると、
治奈が、布団に半分顔が隠れるようにして眠っている。
くーーーー、とこちらも正香に負けず劣らずの小さくかわいらしい寝息である。
「普通だ……」
寝顔も、寝姿も。
ほじゃけえとか極道みたいな言葉を喋ってるから目立つけど、眠っていると目立たないんだなあ。
目立たないけど、でも、一番かわいいのは治奈ちゃんかなあ。
個人的に、だけど。
「えっと……」
ペンを握り、日記帳の片隅になんとなく書いてみる。「和咲の独断偏見かわいさランキング 2045」、と。
「一位、治奈ちゃん。それで二位はあ、もちろん正香ちゃんで。あ、でも、どうだろう。美人というなら絶対に正香ちゃんが一等賞だけど、かわいいだと成葉ちゃんも上位にくるよなあ。いやあ、これは思ったよりも迷いますなあ」
うーん、と枕元で腕を組んで難しい顔を作るアサキ。
「カズミちゃんも、寝顔だけならこうしてかわいいんだから、普段のゴミみたいに汚い言葉遣いが印象を落としているよなあ。じゃ、じゃあっ、まずはなるべく客観的な顔だけランキングで、次に態度を補正した……カズミちゃんが最下位に決まっててつまんないかあ」
などと女子の容姿をダシに楽しんでいるうちに、リラックスし過ぎたか睡魔に不意打ちされて、ころっと眠ってしまっていた。
翌朝、
寝るのが遅かったぶん、一番最後に目覚めてしまったアサキは、既に時遅く、独断偏見のランキングをみなに見られてしまっており、カズミに顔面の形状が変わるくらいボコボコに殴られるのだった。
15
いちに
いちに
いちに
済んだ青空の下を、五人は走っている。
中学校の紺色ジャージ姿で。
ホテル周辺を、早朝ジョギングしているのである。
うねうねとした舗装路を二列になって、先頭は治奈とカズミ、続いて正香と成葉、最後がアサキだ。
「うはっ」
走りながら、成葉が素っ頓狂な声を上げた。
「どうかしましたか?」
正香がちらり視線を泳がせて、成葉の眼光が飛ぶ先を追うと、そこにあるのは飲料の自動販売機である。
「当たりくじ付き自販機だ」
「だからなんだっつーの」
先頭を走るカズミが振り返って、小さなツッコミを入れた。
「あれさあ、何分の一くらいで当たるんだろうねえ」
「知らねえよ」
ぷいっと前を向き直るカズミ。
「そういえばわたくし、一度も自動販売機で飲み物を買った記憶がありません」
という正香の衝撃発言に、四人からえーーーっと驚きの声が上がった。
「さっすがお嬢様じゃなあ」
治奈が苦笑していると、最後列のアサキが、誰も見てないけどビシッと元気よく右手を上げながら、
「はいっ! わたし結構当たり付きチャレンジするけどこれまで一回も当たったことがないっ!」
「うん、アサキは一生当たんないと思うなあ」
カズミが振り返ることなく走り続けながら、ははっと乾いた感じに笑った。
「そんなことないよ! よおし、後で買ってみよーっと。なんか今日こそ当たる気がする」
「無理無理、運のねえ奴はなにやったって同じ。せめて地道に実力を磨け」
「はあい」
憮然とした顔で、ちょっと肩を落とすアサキ。
そんなどうでもいいやり取りをかわしながらも、五人はしっかり走り続け、やがて軽い上り坂に差し掛かる。
傾斜はそれほど厳しくもないが、長々と続いているため、ジョギングには意外とハードな坂である。
その坂に入って、さらに五分ほどが経過した。
先頭を走っているカズミが、やたらと振り返って後ろを気にしていたが、やがて、
「なあんで脱落しねえんだよ」
しっかり付いてきているアサキへと、苦々しい顔を向けて、舌打ちをした。
「アサにゃん体力あるね、ってカズにゃん褒めてるよお」
つつっと後ろに下がった成葉が、アサキの背中を叩いた。
「誰も褒めてねえし! へたばってもうダメーって倒れたところ、踏み付けて笑ってやろうとしただけだあ!」
口では酷いことばかりいっているカズミであるが、アサキは気にしたふうもなく、
「走るのは得意なんだあ。バスケ部だったからかなあ」
しっかり魔法使いの先輩たちに付いていきながら、アサキは余裕の笑みを浮かべた。
先輩にイビられてばかりで、きちんとした試合に出たことは一度もないが、理不尽なシゴキを受け続けていた分だけ体力には自信があるのだ。
「なんだよ、体力ねえなあってイバれねえじゃんかよ。……つうか、お前なんかには絶対に負けねえ! どっちが先に、折り返しのとこまで辿り着けるか、勝負だああああああ!」
うおおおおと、といきなり雄叫びを張り上げて、カズミは走り出した。
「えーーーっ」
すぐそうやって、勝負ごとに持ち込むんだからなあ。
やらなかったり、負けたりとかしたら、罰ゲームとかいってまたプロレス技を掛けてきそうで嫌だしなあ。
仕方ない。
勝負に付き合いますか。
と、アサキは渋々とした表情で、走る速度を上げた。
すいすいっと軽やかに成葉と正香との間を抜けると、治奈を抜いて、前方で土煙を巻き上げながら雄叫び張り上げているカズミの背中を追う。
「アサキちゃん、この後も特訓あるけえ、ほどほどにな」
背中へ、治奈の声が掛かる。
「分かってる!」
分かってるけど、勝負に乗ってあげないと、カズミちゃんってばなにをしてくるか分からないからな。
はいあたしの不戦勝っフライングクロスチョーップ、とかさあ。倒れてるところ足を掴まれて、ジャイアントスイングで吹っ飛ばされたりとかさあ。
前方を、手足バタバタみっともなくガムシャラに走っているカズミ、そのさらに向こうに大きな木が見える。
どうやらそこで行き止まりのようなので、つまりそこが折り返し地点ということだろう。
仕方ない。
本気、出すか。
アサキはさらに足の回転速度を早めた。
無駄にバタバタしているせいか少し疲れの色が出始めていたカズミと、肩が並んだ。
「はあああああ?」
カズミはびっくり大口開けると、負けてなるかとさらに手足をブンブン振り始める。
手を振ったくらいでどうにかなるものでなく、むしろ余計に体力を奪われて、ずるずるとカズミの身体が後退していく。
アサキがトップ独走だ。
木の周囲を、柵に囲まれて道がぐるりと回っている。
終着地点だ。
アサキは、よい感じに息を切らせながら、ゴールを目指して腕を振る。
二十メートル。
十メートル。
うおおおおおおお、後方からカズミの雄叫び。
五メートル。
「ゴーーーーーール!」
罰ゲームを避けられた安堵と、暴君を倒した気持ちよさとに、アサキは笑顔満面振り返って両手を天へと突き上げた。
「フライングクロスチョーーーーーーップ!」
結局のところ、負けて悔しい暴君の八つ当たりを、喉元に容赦なく食らって、二人の身体は柵を飛び越えて、急坂をゴロゴロ転がり落ちていくのであった。
「なんでだあああああああああっ!」
ゴツゴツ身体を打ち付けながら、自業自得の暴君と絡み合いながら落ちていくアサキ。
そんな彼女の叫び声は、むなしくも段々と小さくなって、やがて消えた。
残るは山の静けさだけであった。
16
「おりゃあ!」
昭刃和美は、右足を大きく前へ踏み出しながら、右拳を真っ直ぐ突き出した。
向かい合う明木治奈も軽く踏み出して、立てた左腕で突きを払いながら、同時にカズミの胸へと拳を叩き込んだ。
いや、寸止めだ。胸に触れるか触れないかのところで、拳が止まっている。
「いい感じじゃんか、治奈。久々だけどキレ全然鈍ってねえじゃん」
カズミはニヤリ笑った。
「そう? とにかく……ありがとうございました!」
治奈は、胸の前で交差させた両手を下ろしながら、深く頭を下げた。
「押忍! 次ッ!」
叫ぶカズミの前に、赤毛の少女、令堂和咲が立った。
「お、お願いします」
頭を下げ、二人は向き合った。
なお、先ほど急斜面を遥か下まで転がり落ちたことで、アサキの顔や腕は擦り傷だらけでボロボロ、絆創膏が何枚も張ってある。
二人一緒に絡み合って、急斜面の下まで落ちたのだ。
カズミは完全に自業自得であるが、何故かアサキばかりが擦り傷打撲という世の理不尽。
それはさておき、現在なにをしているのかというと、青空の下で空手の組手だ。
山の中腹、湖を見下ろせる景観綺麗な場所があり、そこに生えている巨木の下で。
カズミには幼少より空手の心得があって、みなでその指導を受けているのだ。
心得、といっても、かなり我流の混じったものではあるが。
なおこの場所で、昨日は、魔道着姿で魔法の特訓をしている。
昨日は平年通りの極寒であったため、変身もして魔法で寒さを対策しながらの特訓であったのだが、今日は打って変わっての暖かさ。
みな飛翔の魔法を使った疲労が回復しきっていないため、魔法力を使わない特訓をしようということになり、それで選ばれたのが空手というわけだ。
だからみな変身はしておらず、先ほどのジョギングと同じ、中学校の紺色ジャージ姿だ。
さて、拳を構えて向き合う、アサキとカズミであるが、
「じゃ、さっきやった時と同じ流れでな。いくぞ!」
カズミはそういうと、すすっと滑るかの軽さで前へと出て、瞬時に距離を詰めると、
「せやっ!」
前蹴りを放っていた。
「いたっ!」
アサキの悲鳴。
横へ動こうとして、お腹にカカトを食らったのだ。
うずくまり、げほごほむせるアサキを見ながら、カズミは呆れ顔だ。
「センスないなあ、お前は。近い距離で正面向き合ってんだから、真横に避けようとして間に合うわけないだろ。だったらせめて……」
右の踵を引きつつ、くるりと身体の左側面をアサキへと向ける。
「こうやって身体を反転させるか、距離によっては単に一歩後退すればいい。常に間合いを意識して、どっちにも動けるように気持ちつま先重心で立つこと。分かった?」
「はい!」
「つか、さっきとまったく同じこといわせんなよ」
「ごめん。次はしっかりやる」
「じゃあ次は攻撃な。いまあたしがやったような前蹴りを、防御のことは考えなくていいから思い切りやってみな」
「押忍っ! 遠慮なくいきますよっ!」
アサキはなんだか必殺技でも繰り出すかのように、腕をすーっと動かしてなにかの軌跡を描くと、
「えいっ!」
前へ踏み込み、つま先をぶんと蹴り上げた。
「こういう手もある!」
カズミは一歩身を引きながら、アサキの蹴り上がってくる足の脛へと、引っぱたくように手のひらを打ち下ろした。
「あいたっ! カズミちゃんが本気で殴ったあ!」
「はあ? 本気っつーのはだなあ……」
「いや本気じゃない、全然痛くなかったっ。だから、もう殴らないでええ。これ以上傷がついたら治らないよお」
情けない声を出すアサキ。
「大丈夫だよ、そんな傷くらい。じゃあ次は、正拳突き、やってみな。さっきあたしや治奈がやってたように」
「押忍! ……えいっ」
アサキは両足を開いて立つと、叫びながら右拳を突き出した。
「なんか、へっぴりだなあ。こうだよ、こう」
カズミも両足を開いて立つと、せいやっと叫びながら空気も焦がしそうな鋭い正拳突きを見せた。
「こんくらい出来ないとヴァイスタとの戦いで生き残れないぞ。突きは格闘の基本。魔法少女といえば格闘。笑顔でステッキ振るって呪文唱えてりゃいい時代は、とっくの昔に終わってんだ!」
「え、そ、そうなの?」
「お前は十年前に流行ってた、魔法天使プリムラビーンを観たことが……正拳突き! と見せて後ろ回し蹴りい!」
「うわ!」
唸りを上げて襲い掛かる拳の一撃を、アサキは情けない声を出しながらも腕をバタつかせてみっともなくかわし、続いて低い位置からぶうんと飛んで来る踵を、なんか変な仕草だがとにかく紙一重で後ろへ、高く大きく跳んで、かわしていた。
「おおーっ!」
「やるーーっ!」
治奈たちギャラリーの歓声が上がった。
華麗に着地を決めるアサキ。
いや、何故かバナナの皮が落ちており、ハイお約束、滑って転んで、後頭部を強打した。
「うぎゅうううううう」
両腕で頭を抱え込みながら、激痛をこらえて、ばったんばったん、打ち上がったばかりの魚さながらに転がっているアサキ。
そのあまりのみっともなさに、さすがに同情を禁じ得ないといった表情のカズミは、のたうち回るアサキを見下ろしながら、ぼそり呟いた。
「運ねえな、お前。……当たり付き自販機、一生当たらなさそうだな」
17
現在は、午前の十一時。
アサキ、治奈、正香、成葉の四人は、ホテル二階の廊下を歩いている。
今日のうちに千葉県まで帰らないとならないため、早い昼食を済ませたところだ。
部屋で少し休憩したら、外で軽めに特訓の仕上げをして、そのあと帰宅という段取りである。
「疲れたあ。もう一歩も歩けないよお」
アサキは、がくーっと肩を落として、関節が抜けた人みたいに腕を交互にぷらぷらさせながら歩いている。
「なんか記憶に一生残りそうな、凄まじく不気味な歩き方じゃのう。って、しっかり歩けとる」
「いやいや、もうゼンマイ止まるー。治奈ちゃん巻いてえ。それか、おんぶしてえ」
突っ込んでもらえたことに調子に乗って、甘えた声を出すアサキである。
「ハルにゃんのおんぶは、ナルハが予約済みだよー」
「えーっ! わたし二番かあ」
「なに好き勝手いうとるんじゃ!」
そんなどうでもいい軽い会話をしながら歩いている、アサキたちのその先で、
「ねえねえアサキちゃあん、いいモノ見せてあげるう」
一人先に戻ったはずのカズミが、部屋のドアの前に立って、手をぱたぱたおいでおいでをしている。
「え、なに、カズミちゃん、いいものってなあにっ?」
アサキは呼ばれて興味津々、目を輝かせて小走りでカズミの方へと近寄っていく。
「歩けないどころか走っとるけえね」
「じゃあおんぶ券はナルハの独占だっ」
などといってる治奈たちの前で、
つるんっ、
と、床にオイルでもたっぷり塗られているかのように、アサキの身体が滑っていた。
そして、宙でくるんと回転して、足が一番上を向いている真っ逆さまの状態のところで、ゴツッと頭から床に落ちた。
「成功っ! いいモノ見たあっ!」
カズミ、喜びのガッツポーズ。
その目の前で、
「はぎゃぁあああああああああああああ!」
アサキが、バッタンバッタンびっくんびっくん生きのいい魚よろしく激しくのたうち回っている。
やがて、少しずつ元気がなくなって、びくっ、びくっ、と痙攣を始めた。
「痛いよお……頭と首が痛いよおおお」
ホテルの廊下で、エビみたく身体を丸めたまま、頭を押さえてクーッと呻いているみっともない赤毛の少女の様子に、憐憫の情が浮かんだか、はたまた単なる罪悪感が芽生えたのか、
「ごめん、なんかやり過ぎた……」
カズミはカズミであるというのになんだか珍しく、結構すんなり素直に謝った。
帰りは雨か嵐か、はたまた吹雪か。
「とはいうものの……お前、仕掛けた罠には必ず引っ掛かるって、それポリシーなの?」
「違うよお! そもそもこんな幼稚なこと、しないでよおおお! 首が痛いよおお。せ、せっかく、しっかり休んで、最後の特訓頑張ろうと思ってたのにうえええええええん」
他に宿泊客もいるというのに、涙をこぼして、大きな声でわんわんわんわんと泣き出すのだった。
果たしてヴァイスタを倒し、平和な世界は訪れるのであろうか。
To Be Continued.
18
瞑想、つまり魔力を体内に感じるトレーニング。
シャトルラン、これは敏捷性や心肺機能、同時に腿の裏や胸の筋肉を高めるトレーニング。
レクリエーションも兼ねて、テニスコート脇でドッヂボールをやって、反射神経や判断力を鍛える。
ヴァイスタとの戦いを想定した、フォーメーション練習。
ゆっくりジョギングでクールダウン。
そしてもう一回、瞑想。
これにて、強化合宿の全トレーニング工程、終了である。
「さて、ホテルに戻って帰り支度じゃ」
瞑想の姿勢から立ち上がった明木治奈は、大きく伸びをすると、足元にある自分のバッグを手に取った。
令堂和咲も立ち上がり、満足げな表情で、治奈を真似して大きく伸びをした。
「色々と疲れたあ。強くなってるといいなあ。身体も精神も魔法力も」
「さっき廊下で頭を打ってわんわん大泣きしてた奴が、そこまで強くなれるのかなあ。なっているといいねえ」
カズミが、アサキの腕を両の人差し指でつくつく突っついた。
「うるさいなあ。あれは誰だって泣くよお」
すぐ人のことからかうんだからなあ。カズミちゃんは。
泣き虫だっていいじゃないか。
わたしはわたしなりに、強くなったのなら。
でも、本当に強くなったのだろうか。
なってなかったら、強化合宿の意味がないというものだけど。
両手を胸の前に上げて、握ったり開いたりしてみる。
特に変わった実感はない。
軽く、右拳を突き出してみる。
特に強くなった感じもしない。
ただ、全身に爽やかな疲労があるのみだ。
と、そんなアサキの気持ちを察したのか、治奈が、
「昨日今日でそんな変わらんじゃろ。基本は日々の鍛錬、それと実戦じゃ。ほじゃけど、そがいなところを意識出来るようになるスイッチみたいなものは、この合宿でしっかり入ったと思うよ」
「だといいけどなあ」
「心配いらん」
治奈は笑いながら、すぐ近くにある自販機の前に立つと、センサー部に左腕のリストフォンを押し当てて、自販機の画面に表示されていてる炭酸飲料の画像をタッチした。
がたごとん、とペットボトルが受け取り口に落ちてくると同時に、自販機の画面が切り替わってアニメ映像が始まった。
お姫様をさらったドラゴンと、剣を持った勇者が戦う、かわいらしい感じのアニメだ。
勇者が、期待させるも負けてしまい、ドラゴンの足に踏まれて悔しそう。
残念そうな音楽と、「はずれ」の文字。
「また外れよったわ」
治奈はちょっぴりだけ残念そうな顔で、ペットボトルの口を開けた。
「普通は外れるよお」
といいながら、今度はアサキがリストフォンを翳して、緑茶の画像をタッチした。
いや、タッチしようとしたところで、
「だからあ、プリプリ将軍のじゃない方の方だってばあ!」
などと、お笑い芸人について成葉といい争いしているカズミの肩が、どんと強く背中にぶつかって、アサキの顔は自販機に押し付けられた。
「むぎゃ」
ガゴっ、
紅茶のペットボトルが落ちてきた。
「あーー違うの押しちゃったあああ!」
悲鳴に似た、情けない声を上げるアサキ。
「あ、あ、ごめんねアサキちゃあん。ほんとごめんっ」
カズミも、これはさすがに悪いと思ったか、両手を合わせて何度も謝った。
顔はにこにこ笑っているが。
「わたし紅茶と炭酸は苦手なんだよお」
「好き嫌いしてっと大きくなれねえぞ。おっぱいとかあ」
「紅茶でどうやって胸を大きくするんですかあ?」
などと下らないやりとりをしながら、勇者とドラゴンの戦いを見守るアサキ。
「あれ……」
なんか、さっきとアニメが少し違う気がする。
違うどころではない。
ドラゴンの口から吐かれる凄まじい炎を、耐えきった勇者が、大きくジャンプして剣を叩き下ろして、ドラゴンを倒してしまった。
「あたり」
この三文字を前に、
アサキはしばし呆然と立ち尽くしていた。
どれくらいの時が経ったであろうか。
地球誕生46億年、いやビッグバンから138億年か?
アサキの顔に、じわぁああーっと、凍らせ過ぎた炭酸水が容器から漏れ出すがごときの笑みが浮かんだかと思うと、突然、とてつもなく大きな声で叫んでいた。
「当たった! 当たったああああああ! 自販機の当たりがあ、この世に生まれて十三年目にしてっ、はっはじっ初めてえっ、当たったあああああああ!」
ジャッキーン。
天高く右腕を突き上げるアサキ。
ありがとう太陽。ありがとう空。そして、おめでとうわたし。
「す、すげーなアサキ! つうかそれっ、あたしのおかげじゃん。あたしの手柄じゃん」
何故か一緒になって興奮してしまっているカズミ。
「結果的にはそうだけどさあ、でもカズミちゃん、わたしには一生当たりっこないとか散々バカにしてたじゃないかあ」
「いや全然記憶にないなあ。でもそうだな、考えてみればかわいそうに、これで一生分の運を使い果たしちゃったわけかあ」
「えーーーーっ。わたしの運の合計値ってどれだけ少ないんですかあ? ……とにかく、生まれて初めて当たったのだし、これは大切に選ばないとなあ」
うーん、と腕を組み、真剣な表情で自販機のパネルとにらめっこ。
「別に、さっき買おうと思っていたのでいいじゃんかよ」
「いやあ、確かにそうなんだけどね、でもせっかくなんだし記念になんか特別なのにしようかなっと。でも他は好きじゃないのばっかりなんだよなあ」
「生意気に好き嫌いしてんじゃねえよ」
「……と思ったら鉄観音入りの緑茶が隅っこにあったああ! それじゃあこれに決定、ふぁああ、ふぁあ、……へくしっ!」
くしゃみで指先がぶれて隣をタッチしてしまった。
ガコガコ、ゴトン。
「ああ……」
青ざめた絶望的な顔で、立ち尽くすアサキ。
いつまでもこうしていても仕方ない、と、腰を屈めて受け取り口から取り出した。
実はタッチ操作が間違ってはいなかった、という奇跡を信じて。
だが、ラベルを見ると、スイカ炭酸ジュース。
やっぱり、これ押しちゃってたか……
奇跡は起きなかった。
「せっかく生まれて初めて当たったのにいいいい、最悪だよおおおお。そもそも誰が飲むの? スイカ炭酸なんてさあ」
はああああああああああ、とながーいため息を吐くアサキと裏腹に、カズミはお腹を押さえて大爆笑である。
「一生分の運を、缶ジュースを当てることだけで使い果たし、直後から不運続き。さすがだっ。さすがすぎるっ! 師匠っ、これから不運師匠と呼ばせてくださいっ! 弟子入りはまっぴらですが」
「カズミちゃん、からかわないでよおお」
泣き出しそうな悔しそうな、なんとも情けない顔でカズミを睨んだ。
「さっきの紅茶と、二つを混ぜれば科学変化で素敵な味になるかもよ」
「まずかったらカズミちゃん飲んでよね」
19
カタン
コトン
小気味よく揺れている。
車窓から見える田園風景が、ゆっくりと後ろへ流れている。
カタン
コトン
車両内はガラガラで、ほとんど乗客はいない。
七人掛けシートに座っているのは、
平家成葉、大鳥正香、
反対側には、明木治奈、令堂和咲、昭刃和美。
強化合宿から帰る、JR常磐線車両の中である。
「……とかあるわけでな。ほじゃけえ、アサキちゃんと同じくらい、うちらにとっても中身のある合宿にはなったのかな」
明木治奈が、満足げな笑みを浮かべた。
「基本は、治奈さんが常々おっしゃっている通り日々の生活や鍛錬ですけど、でも今後のために色々と考えることは出来ましたね」
大鳥正香、いつも通りのおっとり口調である。
「なにより楽しかったしな」
昭刃和美が、片あぐら組みながら器用に身を乗り出しつつ、にかっと歯を見せて子供みたいに笑った。
その言葉に、治奈がぷっと吹き出した。
「どの口がいうかの。出発前はアサキちゃんに、遊びじゃねえんだってあんなに脅すようにいってたくせに」
「だってさあ、最初にそういっとかないと、あまりにだらけてもアレだろ」
肩あぐら組んだ足首を、ぐっと自分へと引き寄せながら、隣に座っているアサキへとちらり視線を向けた。
眠っている。
カズミと反対側に座っている治奈に肩を預けてアサキは、くー、と小さな寝息を立てている。
アサキの足元にあるバッグを見ると、ファスナーのスライダーからキーホルダーがぶら下がっている。
真っ赤な変身ヒーロー、カズミがあげたバクゲキレッドのキーホルダーを、さっそく身近な物につけているのだ。
それに気付いたカズミは、ちょっと微笑ましい表情になって、アサキの寝顔を見続けていた。
「マジックで落書きしてくださいといわんばかりに、ぐっすりだなあ」
「それだけ頑張ったってことじゃ」
「ま、そうだな。よくこのカズミ様のシゴキに耐えたよ」
微笑を浮かべながら、手を伸ばしてそっと、アサキの頭を撫でた。
と、その瞬間、撫でてた左腕のリストフォンが、ブーーーーーーと振動した。
「はぎゃあああああああああ!」
頭にリストフォンを押し当てられる格好になったアサキが、振動に頭骨をガツガツガツガツ直撃されて、夢から一瞬で叩き起こされていた。
「カズミちゃんっ、どうしてすぐそういう悪戯するのおおお!」
「いや、ごめん、わざとじゃない。急に緊急メッセージが着信してさ。なんだろ?」
カズミは、アサキの頭から手を離し、リストフォンの画面を見た。
「あ、あれっ、わたしのも、なんか、着信している」
アサキはまだ眠そうながらも驚きに目を見開いて、自分の左腕にはめられたリストフォンの画面を見た。
治奈、正香、成葉も同様に。
「なんだよ、こりゃあ……」
カズミの、驚き不安がる声。
当然の反応だろう。
何故ならば、五人のリストフォンには、同じように、こう表示されていたのである。
真実が真実であると思うのは傲慢か。
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