ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―
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episode4『日常の在り方』
前書き
日常編、はっじまっるよー☆
「――ぅ、ぁ」
そんな掠れた声が自分の喉から出た事に気が付いたのは、微睡む意識の海の中での事だった。
耳に届いたその音をトリガーに、思考が急速に浮上する。全身を包む泥のように重い感覚が引いていって、次第に瞼を覆う眠気という重しは解けて消えて行く。
パチリ、と目を覚ました時に視界に移ったのは、どこか見覚えのある天井だった。
「ここ、は、確か……シスター、の」
「……!起きたか、シン」
未だ靄のかかった記憶を何とか掘り返しつつも現状確認に努めていると、隣から少しばかり喜びと安堵の入り混じった声音が聞こえてくる。鈍い体を動かして視線をそちらにやれば、次の瞬間にはシンの体は何やら急激に引き寄せられていた。
少しだけ混乱したものの、すぐに状況が掴めてくる。どうやら自分は、今シスターに抱き寄せられているらしい。優しい手がシンの頭を撫でて、耳の近くから「よかった」と小さな声が聞こえてきた。
「……よく目覚めてくれた、シン。4日も眠り続けられていると、さしもの私も流石に肝が冷える」
「4日?そんなに、寝てたの?」
あまり力の入らない体をゆっくりと支えつつ、シスターが放った言葉に反応する。確かに長い間寝ていたような感覚はあるが、まさかそれほど眠っていたとは思わなかった。
言われてみれば、確かに尋常ならざる空腹を感じる。長い間なにも飲まず食わずだったからだろう、「ぐうぅ」という音がシンの腹部から一つ大きく鳴った。
いい歳になってこんなに大きな腹の虫を鳴らすのも気恥ずかしくって、少し顔を赤くする。
けれどこの空腹感は、あの時の異常なまでの飢餓感とは異なる。ただまっとうにお腹がすいて、ただ何かおいしいものを食べたい――それだけの、言い表すのが難しいが、心地よい空腹感だ。
「......そうだ、そうだよ。あの時の、あの製鉄師は......!皆は⁉」
「......?製鉄師というのは、白崎学園長殿の事か?何を心配しているのかは分らんが、案ずるな。何も起こっていないし、大きな病気もない。皆元気だ」
急にどうした?とでも言いたげな目でシンを見るシスターの様子に、深く安堵のため息をつく。嘘をついている様子もない。良かった、良かった、と。ただただ幸運に感謝した。
.....と、そこまで考えてふと思い返す。白崎典厩――そう名乗っていた彼は、名前もそうだが、明らかに日本人だった。言動もよくよく思い返せば完全に友好的なものだったし、記憶を掘り返していけばいくほど、とてもヒナミを攫いに来た海外の製鉄師の刺客とは思えない。
あの時は錯乱していて考えている余裕などまるでなかった訳だが......冷静になって考えれば、自分はとんでもないことをしでかしてはいないだろうか。
さぁぁぁ、っと顔色が蒼くなっていく。そんなシンの様子を見てますます不安になったのか、シスターがシンの背をさすりながら声をかけてきた。
「だ、大丈夫なのか?まだどこか具合が......」
「い、いや、大丈夫シスター、ちょっとすごくお腹すいちゃっただけなんだ。何か食べられるものとかないかな」
「ああ、なら少し待っていろ。お粥さんでも作ってくる。目が覚めたとはいえ、まだ本調子には程遠いだろう、しばらくは横になっておけ」
くしゃくしゃとシンの頭を撫でてそう言い残したシスターは、パイプ椅子から立ち上がるとパンパンとスカートを払ってから部屋を出ていく。「何かあればすぐに呼ぶんだぞ」と釘を刺してから、表の廊下へと姿を消した。
その後ろ姿を見送ってからぽすんとベッドに倒れこめば、今更ながらに腕に感じる違和感に気づく。腕を持ち上げてその元を確認してみれば、シンの外殻に包まれた腕からは何やらチューブが伸びていた。打ったのは初めてだが、おそらくこれが点滴というものなのだろう。
ベッドの脇を見れば、ガートル台が点滴の入ったパックを吊るしていた。新鮮な気分だと苦笑して、視線を扉のほうへと戻す――と、扉の隙間からこちらをのぞき込む視線と目が合った。
ぱちり、と瞬き一つ。あまりに見覚えのある目だったので少し笑ってしまうが、気を取り直してその視線の主へと声をかけることにした。
「入っておいで、マナ。廊下は冷えちゃうからね」
「......!」
その言葉にぱぁぁ、と表情を輝かせたマナは控えめに扉を開けて入ってくると、きちんと戸を閉めてからとてとてと駆け寄ってくる。
シンに負担を掛けないよう優しく抱き着いてきた彼女の背をポンポンと叩いてあやしつつ、「心配を掛けちゃったね、ごめんよ」と簡単な謝罪も加えておく。
そんなシンの様子に何を思ったのか、ぎゅう、と抱きしめる力を強めたマナの表情は窺い知れない。随分となつかれている分、余計に不安がらせてしまったのだろうか。
「......だいじょうぶ?もう、なんともない?」
「うん、もう大丈夫。ちょっとの間は安静にしてるけど、すぐに良くなるよ」
涙声でそんな風に聞かれてしまっては、年長者として不安がらせるわけにはいかない。事実、しばらく寝たきりだったためか体が重い、くらいしか体に支障は見当たらない。これも少しずつ運動をしていけばすぐに良くなるだろう。
髪をくしゃくしゃにしないように優しくなでつつも、「そういえば」と気になっていたことがあるのを思い出す。結局、シンはあの時の顛末を知らないのだ。
「ねえマナ、ここに新しい子が来なかったかい?」
「ミナちゃんのこと?うん、シン兄が倒れた日に、シスターが連れてきたの。シン兄も会ってたの?」
ミナ......という名に一瞬困惑したが、すぐに彼女がこの教会で名乗る筈だったという偽名がそんな名前だったことを思い出す。
「......そうだ。ミナちゃんにシン兄を紹介しようと思ったんだけど、すごく嫌がられちゃったの。もしかして、シン兄が何かしちゃった?」
「あー......、うん。ちょっと怖がらせちゃったみたいでね、マナにとってのシスターみたいなものさ」
「い、今は私の事はいいのっ!」
慌ててそう話を逸らすマナに苦笑しつつも頭を撫でてやれば、どこか不満げながらも心地よさそうに目を細める。しばらくそうして構ってやっていれば、扉の外から「入るぞ、シン」というシスターの声が聞こえてくる。
びくんっ!と面白いように跳ね上がったマナは慌ててシンの寝るベッドから立ち上がると、部屋に入ってくるシスターとすれ違うようにバタバタと部屋を飛び出していった。
「お、っとっと。今のはマナか......流石に好かれてるな、お前が寝ている間も、ずっと見舞いに来てくれていたんだぞ」
「うん、嬉しいよ。あとでめいっぱいお礼しなきゃね」
「ああ、それがいい――さ、少し冷ましてはきたが、まだ熱い。一人で食べられるか?」
「大丈夫だよシスター、ありがとう」
気になることはまだまだある。けれど今は、この空腹感を満たすことが何より恋しかった。
――やけどしない程度にあったかいシスターのお粥はやっぱり美味しくって、シンの大好きな味だった。
―――――――――――――――――
......熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。
紅蓮の海が世界を満たしていく。生まれ、育まれ、たった10年と少しではあるが、確かに自分にとっての揺り籠だった愛おしい世界が、紅く、紅く、染め上げられていく。
苦しい。苦しい。呼吸ができない、全身の骨が軋んで、悲鳴を上げている。嫌だ、嫌だ、痛い、痛い、痛い。
声にもならない声で助けを求めようとする。けれど音の形を成すのはかろうじて漏れる空気の音だけで、それだって燃え広がる焔の嵐によって完全にかき消された。
『逃げなさい、ヒナミ――!』
そう言って私を庇った両親は、次の瞬間に飛来した炎によって一瞬のうちに炭になった。たくさん遊んでくれたお手伝いさんたちも、私を突き飛ばした直後に焼失した。
何で、何で、何でこんなことに。何も悪いことなんてしてこなかったのに、ずっといい子にしてきたのに。
突如として襲来した異国の集団は、ヒナミを執拗に狙っていた。魔女、魔女とそう繰り返して、ヒナミにとっての居場所の全てを燃やし尽くした。
「――ミ、......ナミ!」
その元凶たる男――炎を操る製鉄師の高笑いが、頭の中で反響する。すべてを燃やして奪い去る紅蓮の光が、ヒナミの身を焦がしていく。
「――お、ろ......!...ナ...!」
嫌だ、もう嫌だ、助けて、だれか、お願い、熱いの、苦しいの。
怖い、怖い、怖いよ。
ああぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ、あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ......!
「――――あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
「ヒナミっ!!」
「――――あ、ぁぁ......!は、あ......っ」
気が付くと、炎は完全に消えていた。
いいや、初めから炎などどこにも無かったのだ。先ほどまで見ていたのは全てが夢に過ぎず、そしてそれはただ過去の記憶を延々と繰り返すだけの悪夢。
柔らかな感触が身を包んでいた。ぼろぼろと頬を伝う涙が寝間着を濡らすのもまるで気にせず、智代は......この施設の皆が『シスター』と呼び慕う女性は、ヒナミを守るように抱きしめてくれていた。
部屋に置かれた時計は、真夜中の2時を指し示している。ふつうならシスターだって寝ている筈なのに、こうして目を覚ましている理由など一つしかない。
「......とも、よ」
「大丈夫、ヒナミ。気にしなくったっていい、怖い夢を見たんだな。苦しかっただろう」
そう言ってきゅっと抱きしめてくれる彼女の体温が温かくって、とくん、とくんと、鼓動の音が伝わってくる。
生きている音が、伝わってくる。
「――う、ぁ、ぁぁ......!」
「よしよし、大丈夫、私がついているさ。怖い夢なんか吹っ飛ばしてやる、怖がらなくったっていい」
智代の胸に顔を埋めて、押し殺した声で泣く。もう過去の事だと分かっていても、過去はいつまでもヒナミを離そうとはしてくれない。
刻みつけられた恐怖は、いつまでもいつまでも、心を蝕み続けてくる。
命は繋がった。ヒナミは生き永らえた。けれど、それでも、しかし、苦しみは泥沼のように、もがけばもがくほど奥底へと引きずり込まれていく。
――助けて。
だからヒナミは繰り返す。
――助けて。
だからヒナミは求め続ける。
――誰か。
本当の意味で、ヒナミの事を救ってくれる『誰か』を、探すために。
――――助けて。
何度でも。
何度でも。
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