人理を守れ、エミヤさん!
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黎明、死闘、そして邂逅
余裕と自信に満ち溢れた青年だった。白磁の弓には見ただけで伝わる熱気が籠り、黒い肌と髪には高貴な品がある。纏う純白の衣は典雅な趣があって、発される霊格も相俟り超抜級の英霊であるのが察せられた。
ギリシャ神話最大無比の英雄ヘラクレス。ケルト神話最強無比の超人クー・フーリン。人類史最古にして最も偉大な英雄王ギルガメッシュ。彼らになんら見劣りせず、堂々と比肩する超越者の一角こそが、彼。
全英霊の内、間違いなく十指に食い込む誇り高き戦士、その真名はアルジュナ。施しの英雄カルナに並び立つ、授かりの英雄。
無尽の矢玉として形成される青い炎。しなやかな指で摘まんだ矢を、炎神に授けられた弓に番えながら、授かりの英雄アルジュナは凶獣に対し警告を発した。
「暴威の者よ。数に恃みたくはないが四対一だ。退くというなら追いはしない。しかし退かないというのなら、その蛮勇に殉じ獣のように斃れてもらおう」
敵対者を侮っての物言いではない。彼は狂王と戦えば、多くの者を巻き添えにしてしまうだろうと感じていた。それは彼としても望むものではなかったのだ。
「は、」
尊大でありながら寛大さもある勧告に、しかし凶獣は失笑する。随分と大きく出たものだ。四対一? 小賢しいだけの剣士と、宝具を投影する魔術使い、火力だけは立派だが射撃の腕は今一な小娘。これらを数に入れているのか。
しかしながら、面倒なのは確かだ。アルジュナという名乗りが偽りのものでないのは、先の射撃と弓を見れば分かる。サーヴァントとしてなら同格――それで怖じるほど弱腰ではないし、戦って負けるとは微塵も思っていなかった。寧ろ勝てると確信している。
だがそれは、一対一ならばだ。一旦退き、幾らかの駒を持ってくれば確実に始末をつけられるという確信がある。冷徹に力を推し量っての正確な計算だ。
しかし――かといって。
アルジュナの云う四対一でも敗れるとは、凶ツ獣は全く以て感じてはいなかった。
油断、驕り、そんなものはない。クー・フーリンは冷淡な眼差しでアルジュナを見据える。魔力の昂りに呼応して、その手にある魔槍が蠢動していた。
様子見はしない。しかし間の良い事に、彼らは互いの意思を確認する為に攻め掛かっては来ないようだった。やるなら今だなと、狂王は密かに血を熱する。
「アルジュナと云ったか」
ジャックは黒弓に、改めて選定の剣を番えながら、油断なくクー・フーリンを睨んでいる。『マハーバーラタ』の中心的な英雄ともなれば、戦力として不足はないが……なにぶん、その力を直接見たわけではない。その威名を過信して寄り掛かる気はなかった。
しかしながら、頼りとなるのは確かだ。自身と沖田だけでは抗し得ないと認めている。ジャックとクー・フーリンの相性は最悪なのだ。生半可な射撃は全く通じず、接近戦に縺れ込んだら瞬殺される。最大威力の螺旋剣の投影も通じない。『無限の剣製』を弾丸に込めて放ったとしても、直撃させるのは至難の業。ほぼ確実に回避されるだろう。沖田もまた、この暴虐の獣からマスターを護り切れる自信はなかった。
「助太刀感謝する。俺はジャック、あそこの連中の領袖をしている。コイツがアサシン。あっちの娘がアーチャーだ。アルジュナ、助かったぞ」
「ご丁寧にありがとうございます。して、この者は? さぞ名のあるサーヴァントでしょう」
「クー・フーリンだ」
「――ほう。なるほど……」
その真名に、アルジュナは微かに眉を動かす。しかしそれだけだった。
「道理で手強そうな訳です。手加減は無用のものと心得ましょう。それに――あのものから感じるこの力、今の私では些か心許ない。マスター、不躾ながら私と契約して頂けますか?」
今の、とは。マスターのいないはぐれ状態だからこその言葉である。アルジュナの方から契約を持ち掛けられ、ジャックは一応訊ねる。
「……いいのか?」
「ええ、是非。助太刀に参じていながら無様に敗北する醜態は、私としても晒したいものでもない。恥というものは弁えています」
一瞬足りとも、アルジュナはクー・フーリンから眼を離していない。微かな動き一つで戦闘を開始できる体勢を崩していなかった。
真名を知らずとも、その姿を見ただけでアルジュナは一寸も気を緩められないと悟っていた。しかしそれでも彼の余裕に翳りはない。如何なる強敵が相手でも――それこそ自身より強いモノが敵であっても、アルジュナの余裕を剥ぎ取る事は出来ないだろう。それが叶うのは、彼の宿敵のみである。
ジャックはクー・フーリンを見るも、狂王は動く素振りを見せなかった。あたかもジャックがアルジュナと契約するのを待っているような……。戦いに際しては慢心も、遊びもない敵が『見』に徹している様は、ひどく不気味に映る。何を考えている、とジャックは考えながらも、アルジュナにパスを通じさせた。
破損聖杯の魔力供給率の、およそ半分が一気に持っていかれる。アルジュナを加えてもまだ三騎は余裕を持って契約出来ると踏んでいたが、これでは後一騎を加えるのが精々だ。ジャック自身に魔力を供給しなかったなら、もう一騎追加出来る。
沖田、シータ、アルジュナ。ジャックの戦闘力を維持するなら後一騎が限度で、戦闘の力を放棄するなら更に一騎。アルジュナ級であろうラーマを計算に入れてのものだが……皮算用だ。
「――随分と大食いなんだな」
「失礼しました。よもや貴方がこの私の全力を支えられるマスターとは思いもしませんでした。ご安心を。出費に見合う力は示してみせましょう」
涼しげな表情で大半の魔力を持っていったアルジュナへ、鉄心の男が嫌みを投げるも、とうの本人は悪びれもせず。寧ろ若干の高揚に声音を弾ませて、その身へ膨大な魔力を纏った。
炎の性質を持つ魔力放出。その片鱗のみで、ジャックは思う。お前を仲間に出来たんなら、どれほどの出費であろうと安いものだと。
勝機が見えた。アルジュナがいるなら、クー・フーリンにだって勝てる。問題は逃げられてしまわないかだ。不利な戦闘からの離脱もまた、この大英雄は他の追随を許さない巧みさがある。
純粋な戦闘能力、ルーン魔術による応用力、本人のクレバーな戦闘論理、そして一回の戦闘に拘泥せずに撤退も行える精神性……敵に回して改めて思い知る。戦場王と渾名される戦巧者の厄介さを。
だが一先ずこの場での敗北はない。ジャックは慢心ではなく、冷徹な戦術眼で洞察してそう判断した。
――だが。
「悪いな」
聖杯により変質した、狂王クー・フーリンは、彼らにほんの僅かに謝罪した。
いや違う。ジャック達に向けたものではない。それは彼が共に並び立つ女王へ向けたものだった。
ジャックは漸く気づく。アルジュナもまた。分からないのはその手の感覚がない沖田のみ。ジャックは戦慄して総毛立っていて。異常事態を察知してアルジュナは瞬時に蒼矢を放った。
「こいつは勘だが、今ここでコイツらを逃したら後々邪魔になりそうだ。後腐れなく此処で殺しておく」
だが、アルジュナの矢が――ルーンの防壁に阻まれた。
いつの間にルーンを。いや、それよりも、まだ手持ちのルーンがあるのか……!?
クー・フーリンのルーン魔術が発動していたのを、瀬戸際までジャックやアルジュナにも悟らせない神業めいた魔術行使。それもそのはず、彼は自身の体にこそルーンを張り付け、彼の体が発する高密度の魔力を隠蔽していたのだ。
ジャックとアルジュナが契約を交わすのを黙って見ていたのは、彼が自身の切り札を使用する間を稼いでいただけなのである。アルジュナは神弓に更なる魔力を注ぎ込んで防壁を破壊しようとするも、小さく舌打ちして後退した。もはや間に合わないと悟ったのだ。
春、下がれ! ジャックの鋭い指示に、沖田は応じて一気に飛び退いた。ジャック自身も下がっている。
凶獣は呟いた。
「今のオレが使う最初のそれは、自分の目で見たいと言ってやがったが……それは叶わねぇ。出し惜しんで、後で悔やむ事ほど間抜けなものもねぇからな――さっくり殺して戻ってやる、それで勘弁しろ」
ボ、っご――と。クー・フーリンの全身の関節が伸びる。被っていたフードが消え、黒ずんだ蒼髪がゆらりと逆立っていく。
ズッ、ぎュ――と。全身の筋肉が膨張していく。急激な肉体の増設に、体そのものが堪えきれないように裂け、そこから鮮血が溢れ……発火した。凄まじく高温の血が、外気に触れて燃えたのだ。
パかッ――と。額が割れる。割れた額からも血が溢れ、しかしそれは光の環を象り王冠となった。眩く照り輝く、実体のない光の冠……。その下で不気味に光輝く真紅の双眸が、左右で十四の瞳を宿す。
全身から止めどなく溢れる鮮血は、眩い炎となって狂王の体に纏われた。太陽の属性を有した神聖なる破滅の火――見上げるほどの異形の巨漢へと変身した光の御子は、ありえないほど凪いだ瞳をしている。
「ァ……」
鉄心の男が、喘ぐ。
それこそは――アイルランドの光の御子クー・フーリンの最終宝具。『捻れ狂う光神の血』。別名、捻れ痙攣。
視た敵対者は誰一人の例外なく葬り去った、光の御子の最強形態。担い手の形態移行に呼応して魔槍は更に長大に、更に凶悪に棘を伸ばし、穂先も二又に変じていた。
マスターという存在である故に、ジャックはその宝具のランクを観測できてしまう。
評価規格外。対自己宝具。
その身に流れる光の神ルーの血を覚醒させ、魔性に近い神性を解放させるもの。筋力と敏捷、耐久と魔力の値が評価規格外となっていた。
神性もまた、半神の枠を超え神霊の域へと踏み込んでしまっている。
別物だった。
ただでさえ強大だった狂王が――以前視た、二十八の魔神柱を超える化け物へと姿を変えている。
今までに視たあらゆるものが、芥のようだった。
第三特異点の、魔神霊となったアルケイデスすら見劣りする。圧倒的な――死の化身。
視たものは死ぬ、避け得ぬ結末が形となって其処にいた。
「ぁガッ、ゴホッ! カ、ハッ……」
沖田が唐突に膝をついて、血反吐を嘗てなく吐き出し倒れ伏す。
「春!?」
クー・フーリンに一瞥されただけで、沖田は戦闘不能となった。痩身を痙攣させ、沖田が血泡を吹きながら意識を失う。
邪視。
光の御子の裡に流れる邪神バロールの血によって、その視線に晒された者は高い対魔力か魔眼への耐性、外界への護りがなければ体を凝固させられてしまう。沖田の対魔力では、狂王の一瞥にすら堪えられず、その視線のショックのみで体の自由を失い、呪いじみた病の発作を起こしてしまったのだ。
ジャックは外界への守りである赤原礼装を、バンダナとして身に付けていた。故にその凶悪な視線の難を逃れられたのだ。
「死――」
凶獣の姿が掻き消える。瞬間、アルジュナが数条のミサイルめいた蒼矢を放った。無防備に倒れ伏した沖田の近くと、ジャックの鼻先を掠める眼前へ。
「――ね」
凄絶な火花が散る。沖田を突き刺す槍、ジャックを貫く槍。その二撃を、二撃とも阻んだのはアルジュナの蒼矢だった。神速で奔った魔槍へ正確に矢を射込む技量はまさに神域の武。
それで、クー・フーリンの意は決した。視ただけで倒れた剣士など何時でも殺せる。反応すら出来なかったマスターなど何時でも殺せる。障害となるのは授かりの英雄のみ。ならばそれを屠るのを優先する、と。
膨大な魔力を燃焼させてアルジュナが疾走した。炎の魔力を収束し、それをジェット噴射させて高速で駆けながら蒼矢を次々と四方八方に射撃する。彼の射手としての千里眼は、彼の眼を以てすら霞んで見える狂王に直撃する軌道をなぞるも、その悉くが回避されるか魔槍に掻き消された。
――見えない。
霊基の影響で向上した動体視力ですら、全くその攻防が見えない。ジャックは愕然とした。
アルジュナの動きは辛うじて追える、しかし狂王の姿は何処にも見えない。虚空に放たれる蒼矢、虚空で打ち消される矢。
「ッ――! シータぁ! 春を連れて下がれッ!」
遠くで神弓を構え、しかし呆然としている小柄な少女に命令する。彼女が慌てて春に駆け寄り、抱えて逃げていく様を見ようともせず、ジャックは必死に眼を凝らした。
それでも見えない。まるで見えない。ジャックは諦めてアルジュナの動きを追った。そちらはまだなんとか見える。放たれる矢の軌道とタイミング、それと己の知るクー・フーリンの動きを照らし合わせ、擦り合わせていく。その間にもアルジュナは冷静さを保てる余裕を持ちながら、しかし刻一刻と増えていく傷に秀麗な美貌を顰めている。
「中々……ッ!」
生前ですら久しく経験しなかった苦戦に、アルジュナは呻きながらも応戦する。
奮戦する彼に、しかし向けられたのは無機質な侮蔑だった。
「意外と粘りやがるな、小僧」
「この私を小僧と呼ぶかッ!」
「小僧だろう。何もかもを他者に与えられ、他者の敷いた道を、他者に望まれたまま進んだガキ。それがテメェの銘だ」
「――」
「授かりの英雄だったか。授けられてばかりで、何も己で決められなかった小僧の分際だろう? そんな程度のガキがオレの前に立つな。大人しく死ね、テメェの手で勝ち取ったものなど何もねぇだろうが」
挑発だった。
安い挑発だった。
だが、それは。
アルジュナの矜持を深く抉る言霊であった。
「狗風情が、よくぞほざいたッ!!」
激昂する。激怒する。しかしその弓術に翳りは生まれない。その程度で我を見失う『授かりの英雄』ではなかった。
逆に挑発を返しながらもアルジュナの弓捌きは苛烈さを増す。神弓『炎神の咆哮』が担い手に更なる炎の力を齎した。唸りを上げて速射される蒼矢の煌めきが大地を砕いていく。次第に彼の意識は狂王のみに集束されていき――それを留める声が奔る。
「アルジュナ、欲張るな! そのまま捉えておけ!」
「!」
契約を結んだばかりのマスターである。神代でも頂上に位置する戦いについてこれない身で何をと思う。
しかしアルジュナは気高く、誇り高い戦士だった。指示に従い大規模の射撃を控え、只管に天地を自在に駆け回り、アルジュナを抉らんとするクー・フーリンに速射を続けた。
ジャックは眼を凝らし続けている。黒弓に選定の剣を番え、明後日の方角に狙いを定めた。クー・フーリンはそれを視界に捉えている。阿呆が、テメエなんざに捉えられるとでも思ってんのか、と。
――捉えられた。
精神統一。射法八節。
一節、足踏み。
二節、胴造り。
三節、弓構え。
四節、打起し。
五節、引分け。
六節、会。
七節、離れ。
八節、残心。
カルデアのクー・フーリンの動きと、アルジュナの矢と動き、視線と射戦を擦り合わせ、あらゆる経験を総動員して造り上げるのはイメージだ。矢は放つ時には既に中っているもの。彼の弓術の根源にある心得をなぞり、選定の剣を射ち放ち。
剣弾が弦より離れた瞬間、残心を取ったジャックの眼は捉えていた。クー・フーリンを、ではなく。その身が駆け抜ける空間を。そして彼が放っていた選定の剣が、眩い火花と共に打ち払われたのを。
「――チィッ!」
「お見事!」
クー・フーリンは瞠目した。まさか中る軌道に剣矢が『置かれている』とは。咄嗟に魔槍を振るって剣弾を弾くも、弓手の残心の瞬間にそれは自壊して炸裂していた。
その爆裂をまともに食らう。しかし凶獣は健在。
授かりの英雄はその絶技に感嘆しながらも、その機を逃さなかった。付かず離れずの接近戦による弓術を使っていたアルジュナは、大規模な爆撃を受けてよろめいたクー・フーリンの胴を蹴り上げた。
遥か上空まで蹴り上げられたクー・フーリンを狙うはインド最強の英雄の奥義。
片膝をつき、一瞬にして魔力を充填した彼は、地上の太陽の如き光を発した。クー・フーリンはルーンを展開する間がなかったのか、それとも手持ちのルーンが尽きていたのか、防禦体勢を取るのみだった。
猛り昂る灼熱の魔力の奔流。それこそは対国宝具。
授かりの英雄アルジュナが――あらゆる神々の寵愛を受けた、英雄となる道を定められた青年が――唯一何者からも授けられたのではない、無二の奥義。己が研鑽によって掴み取った矜持の究極。
神弓『炎神の咆哮』より解き放たれる炎熱の蒼矢が、『マハーバーラタ』最強の一角の弓術を後押しする。自らの力で成し遂げたものなど何もないと、クシャトリヤ足るアルジュナを侮辱した凶獣を滅さんと全身全霊を賭した。
いざ見るがいい、これが貴様の侮った授かりの英雄の力だ。そして観るがいい、これが貴方が手に入れた戦士の力だ。凶獣よ、滅しろ。マスターよ、畏れよ。アルジュナの骨子となる力の根幹、その力の真名は。
「『梵天よ、汝を讃えん』――!」
神弓が軋むほどの大破壊の咆哮。奔った熱線は核兵器にも比する窮極の灼熱。
上空目掛けて放たれたそれは、過たずクー・フーリンを捉えた。直撃を受けたクー・フーリンの背後、曇天を貫き日輪が姿を現す。
射殺した、これを受けて滅びぬモノなど有り得ないと誰しもが確信するだろう。
事実手応えあった。アルジュナは莞爾とした笑みを浮かべるも――しかし、その美貌が強張った。
アルジュナの奥義を受けて、遥か彼方に墜落した魔性の神性は、
生きていた。
手傷は負っている。全身に大火傷を負っている。
しかし彼は太陽と、光を司る神の子である。その炎熱への耐性は元々高く、神性を解放した今の姿では、殆どの熱の損傷を遮断してしまえるのだ。
それでもなお大火傷を負ってはいるが。純粋な物理面での重傷もあるが。
しかし、生きていた。
二本の脚で着地した凶獣は、黒い尾で軽く地面を叩く。それだけで地面が陥没した。
ゆっくりと魔槍を旋回させている。その眼は授かりの英雄アルジュナを真っ直ぐに捉えていた。
屈辱に、アルジュナは顔を歪める。己の奥義を受けてなお、戦闘の続行に支障を来していない強大な化け物に矜持が傷つけられたようだったのだ。
クー・フーリンが猛然と駆け出す。一瞬にして彼方より接近してくる英雄の成れの果てが、異形となった姿で駆けてくる。
ジャックは絶望しそうになった、しかし絶望はしない。諦めそうになった、しかし諦めない。担い手の魔力を吸って凶悪さの増した魔槍を、光の御子は今に擲たんとしている。反撃のそれ。重傷を負っているとは思えない、全く鈍っていない体のキレがある。
「――来るなら、来いッ!!」
ジャックは吼える。しかし――狂王の姿が忽然と、
消えた。
「は?」
見失った? 慌てて周囲を見渡すも、どこにもその気配がない。絶望的な死の予感がない。アルジュナすらクー・フーリンを見失っていた。
『フィランソロピー』が狙われたのか? マズイ、とそちらに視線を向けるも、血風はまるで吹いていなかった。
唐突に、クー・フーリンは消えたのだ。
思わず呆然とする。何があったのか皆目見当もつかない。そんな彼らの耳に、爽やかで穏やかな声が届いた。
「――なんとか間に合ったね」
いつの間にやら、側にいたのは白いフードを被り、足元に花を咲かせている青年だった。
「ちょっとうたた寝しながら歩いていたら、そこは見知らぬ荒野の国。これは夢の続きか、それとも単なる幻か。まあ、どちらでもいいのだけどね」
呑気に言いながらも、しかし冷や汗を顔に浮かべている。
「おはよう。もしくはこんにちは、諸君。みんなの頼れる相談役、マーリンさんだ」
彼の青年は、マーリン。冠位魔術師の資格保有者。
幻術にてクー・フーリンを欺き、明後日の方角にて幻のアルジュナとジャックを戦わせている者。
半透明の体で、彼は微笑み、そしてあっさりと消えていく。
「そしてさようなら。流石に疲れたからね。あんまり長居出来ないんだ。だからまた会おう、カルデアのマスター、エミヤシロウ」
「エミヤ、シロウ……」
唐突に投げ渡された、自分の本当の名に。
ジャックは。否、士郎は呆然自失する。
そんな彼に笑みを深め、花の魔術師は消えていった。
――それでその戦いは、狐に化かされたようにしてあっさりと終わったのだった。
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