永遠の謎
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154部分:第十話 心の波その十二
第十話 心の波その十二
「噂は噂でしかありません」
「その通りです」
「例えそれが真実だとしてもです」
こうも言う。我が子への忠告に他ならない。
「それは噂でしかありません」
「それはわかっています」
「では。気にはしないことです」
王への忠告だった。これもまた。
「いいですね。これまで通り」
「それはわかっていますが」
「噂話は人の心を蝕みます」
人生を知ったうえでの言葉だった。王の母だけあり彼より長く生きている。その経験の中でだ。そうしたことを知ったうえでの言葉だったのである。
「それも何処までも」
「全くですね」
王もだ。母のその言葉に同意した。
「これ程までとは」
「決して惑わされないことです」
母のその人生での経験に基づく忠告は続く。
「惑わされれば歯止めが効かなくなります」
「そして何処までもなのですか」
「貴方はシェークスピアも知っていますね」
イギリスの戯作家である。数多くの作品を書いていることで知られている。その素性については一応経歴等が残っているが素顔は不明なままである。
「イギリスのあの戯作家は」
「はい、よく」
その通りだと答える王だった。彼の教養は当然ながらその偉大な戯作家にまで及んでいた。だからこそ答えることができたのである。
「オセローですか」
「そうです。彼の様にです」
「陥ればそのまま落ちていく」
「底のない闇の中にです」
「それが噂というものなのですね」
「噂は人を殺します」
また話す母だった。
「その心をです」
「オセローの様に」
「それはよく覚えておくことです」
「わかっています」
王は沈痛な声で答えた。そうした話をしながらだった。
開演を迎えた。まずはだった。
暗鬱な、それだけで悲劇を予感させる前奏曲からはじまった。異様な、誰もがこれまで聞いたことのない変わった前奏曲だった。
それは螺旋の様に二つのものが絡み合いそうして何時までも続いていく。無限にだ。それが何処までも続いていくといった感じだった。
長い、十分はあるその前奏曲が終わるとだ。船の中に二人の女がいた。
彼女達は興奮することのない音楽の中で歌う。だがそれもモーツァルトとも違う、ロッシーニとも違う、そしてヴェルディとも違う静かな歌の中でだ。進んでいきだ。
合唱は僅かだった。何もかもが物静かで落ち着いている。これまでのワーグナーの作品ともだ。大きく違っていた。
だがそのテノールは明らかにワーグナーのものだった。ソプラノものだ。低い、だが輝かしい声で何時までも歌いだ。その二人の世界が続いていく。
互いを愛し合う様になり夜の森で密会する。だがその場で讃えるのは死だった。
この世を疎い死の世界での幸せを心から願う、トリスタンはその命を失うに至る傷を負っても生を願わず死を望む。そうしてだった。
イゾルデが来た時にだ。彼は自ら傷口を開き死に至った。そしてイゾルデもだ。そのトリスタンの亡骸の前で恍惚として歌い死んでいく。二人は死を迎えることでその愛を成就させたのであった。
その舞台を最後まで観てだ。観客達は唖然となった。
そしてだ。互いにひそひそと話し合うのだった。
「何だこの作品は」
「死を讃えている」
「二人だけの世界だ」
「しかも音楽もだ」
「何かが違う」
その死を受け入れている、厭世的な作風と無限に螺旋状に続く夜の世界の音楽にだ。彼等は戸惑いを覚えた。そうして話すのだった。
「この作品は何だ」
「何だというのだ」
「こんな作品ははじめてだ」
「話の原題はわかるが」
アーサー王の話に出て来る騎士の一人、それがトリスタンであるのだ。その彼とイゾルデの愛の話、アーサー王の話の外伝的な話である。
それはわかる。しかしなのだった。
「ここまで死を賞賛した作品はない」
「夜を讃えている」
「死と夜」
「そしてこの音楽」
興奮することの非常に少ない、二人の為だけにあるかの如き音楽もだった。彼等をして戸惑わせるに充分なものだったのである。
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