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整備員の約束

作者:おかぴ1129
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6. 香煙

 まるゆが轟沈して数週間経った頃、俺と木曾のたまり場だった小料理屋『鳳翔』は閉店して取り壊された。さらなる経費削減のため、まず削りやすい福利厚生から削減していけという、司令部からの厳命だったらしい。小料理屋が取り壊された時、俺も足を運んでその場を見学したが、それを眺める提督さんの目には、涙とともに悔しさみたいなものが浮かんでいるように見えた。

 そんな提督さんに追い打ちをかけるように、施設内美容院も閉店した。こっちは司令部からの命令ではなく、切り盛りしていたあの美容師さんが退職するからだという話を聞いた。なんでも、仲が良かった神通が轟沈し、完全に意気消沈したんだとか。この鎮守府も、俺が来た頃に比べると目に見えて寂れてきている。

 そしてそれは、整備班も変わらない。この頃になると整備班は俺一人になっていて、仕事の量も俺だけでなんとか回るぐらいに減ってきていた。それだけ艦娘が沈んだということを考えると、なんとも胸に痛い事実だが……

 そんなある日の夕方。珍しく俺は提督さんから呼ばれ、執務室へと足を伸ばした。提督さんの執務室は、豪華な机や年代物のソファが所狭しと並んでいる。だが、それらはまったく手入れがなされてない。その様が、この鎮守府がいかに苦しい状況に追い込まれているのかを物語っていた。

「XX鎮守府整備班所属、徳永吾郎」
「はい」
「明後日より□□鎮守府への異動を命ず。……早急に荷物をまとめ、□□鎮守府へと移動し、合流されたし」

 提督さんから執務室に呼ばれた時点で覚悟はしていたが……やはり直接聞かされるとショックが計り知れない。俺に、この鎮守府から出ていけという辞令が下された。

 この時、俺の頭の中に浮かんだもの……それは、あの日ただ無心にポテトチップスを食べていた、木曾の横顔だった。

「……ずいぶん突然じゃねーか」
「ああ……そうだな」
「そうだなじゃねーよ。お前ら頭おかしいだろ。艤装の整備どうするんだ」
「返す言葉もない……」

 俺の追求に対し、提督さんは自分の椅子に座ったまま俯いた。深く帽子をかぶり直し、自分の表情が俺から見えないようにしている。

 俺は俺でひとしきり落ち着いた後、今度は言いしれない怒りが湧き上がってきた。ここが禁煙であることも厭わず、ポケットからライターとタバコのソフトケースを取り出し、それを口に咥えて火をつけた。

「ここは禁煙だよ」
「うるせぇ。そっちのテーブルの上に灰皿あるだろうが」
「あれは来客用兼お偉いさん用だよ」
「黙れクソッタレ。だったら実質禁煙じゃねぇじゃねーか」

 提督さんは静かに俺を諌めるが、俺はタバコを吸うのを止めない。口からバカスカと煙を吐き出し、執務室の中にタバコの煙が充満した。提督さんは恐らく喫煙者では無いと思うが……むせることもせず、またそれ以上、俺を制止することもなかった。

「ここの整備班は俺で最後だぞ。わかってんのか」
「分かってる」
「俺がいなくなった後、艤装の整備はどうするんだよ」
「……」
「妖精たちもいないだろ。ここに艤装の整備が出来るやつなんて、他にいるのか?」
「……彼女たちに、整備させる予定だ」

 歯切れの悪い提督さんの返答に、虫酸が走る。艤装の整備なんて、素人が生半可に出来ることではない。それなのに素人のあいつらにやらせたら……それこそ不十分な整備で轟沈が頻発するなんて、分かりきってることだろうに……そんなこと、この提督さんも分かっているだろう。

 ……だが、提督さんは悪くないことは、俺も分かっている。この人はここで働くやつらのことを第一に考える人だし、少なくともこんな酷い事態に鎮守府を追い込もうとするような、頭の悪いクソッタレ共とは違う。

「……それが無理なら、別の整備班を早急に準備する」
「出来るのか。アンタにそんなこと」
「……」

 押し黙る。本来なら、提督といえばある程度の人事権は認められているはずなのに、この人はそれすら認められてないのか……上から相当に嫌われているのか。この人の性格を考えると、ある程度は想像はつくが……。

「……徳永さん。すまない」
「あ?」
「本来なら俺が止めなきゃならない事態だが……それが出来なかった。俺の力不足だ」
「……いいよ。あんたが悪くないことは分かってる」
「……」
「猛烈にムカついてるけどな。あんたじゃなくて、これをやったクソどもにだが」
「……」

 タバコの火が根本まで来た。最後にひと吸いしたあと、部屋の奥にあるテーブルまで歩き、そこにある大理石の灰皿にそれを押し付ける。この汚れきった執務室の中で、妙にピカピカと輝くそれが、俺の神経を逆撫でした。

「……徳永さん、今日中に荷物をまとめて出発してくれ。次の鎮守府でも元気で」
「うるせえよ」

 おかげで、恐らく一番の被害者であるはずの提督さんにも、俺はキツい言葉をぶつけてしまう。

「……すまないが、出る時にもう一度こっちに顔を出してくれ。異動に必要な書類がまだ出来てないんだ。準備しておくから」
「いらねえよ。んなもん直接先方に送れ」
「……わかった。□□鎮守府に直接送るよ。徳永さんは向こうでそれを受け取っ……」
「うるせえ」
「……」

 苛立ちを抑えられない俺からの八つ当たりにも、提督さんは困ったように、苦笑いを浮かべるだけだった。自分と同じように、司令部のクソさ加減に怒りを顕にする俺に、シンパシーのようなものを感じていたのかもしれない。

 苦笑いをしながら俺の扱いに困り果てた様子の提督さんだったが……何かを思い出したように手をポンと叩いた後、提督さんの顔は晴れやかな笑顔になる。

「……そうだ。徳永さん」
「あ?」
「今日、これからキソーは夜間の作戦に出撃しなきゃいけない」
「……」
「よかったら、最後にあいつの艤装を整備していってくれないかな」
「……」
「頼むよ。キソーは今、整備場で徳永さんを待ってるはずだ」

 そんなはれやかな笑顔で何を言うかと思えば……今だけは、提督さんのその清々しい笑顔が、妙に癪に障った。


 執務室を後にした俺は、苛立ちを提督さんにぶつけてしまった自分への腹立たしさを抱えたまま、整備場へと足を伸ばした。あまり待たせるのも、あいつに悪い。

 整備場に入り、周囲を見回す。夕方のオレンジ色の日差しが差し込み、整備場は濃いオレンジ色に染まっている。

 整備場の、俺の作業スペースにある椅子に、そいつは腰を下ろしていた。始めて出会った時と同じく、黒の制服を羽織り、腰にはサーベルをぶら下げて。

 腕を組み、俯いて静かに俺を待つ木曾の全身から、あのときのような、妙なプレッシャーを感じた。懐かしい……初めて言葉を交わしたときのことを思い出す。

「……木曾」

 俺のつぶやきが耳に届いたか。木曾は顔を上げて俺を見ると、今度はいつものように、ニッと微笑んだ。木曾にジッと見つめられながら、俺は自分の作業スペースへと歩み寄り、そして目の前に置かれた、木曾の艤装をジッと見る。

「……よう徳永。待ったぜ」
「……」
「俺はこの後、出撃しなきゃならない。艤装の調整と整備を頼む」
「出撃は何時だ」
「夜中だ。だからお前がここを離れるまでなら、どれだけ時間をかけても問題ない」
「……わかった」
「最後の調整だ。頼んだぜ。相棒」

 木曾が立ち上がり、椅子を空ける。代わりに俺が椅子に座り、そして工具箱からレンチを出した。

「……長丁場になる。ちょっとタバコ吸わせろ」
「ククッ……禁煙してたんじゃねーのかよ」
「うるせえ。あれは小僧の前でだけだ」
「女なんだからまるゆって呼んでやれって言ったろ」

 木曾と互いに軽口を叩きながら、タバコを咥えて火をつける。途端に周囲にタバコの煙が充満し、俺と木曾の身体を包み込んだ。

 俺の煙が立ち込める中、俺は木曾の艤装をジッと見つめる。一見して、あまり不調そうな部分は見受けられないが……俺はタバコの火を消し、吸い殻を足元の灰皿へと捨てた。

「おい木曾。これ、言うほど調子悪くはねーだろ」
「だな」
「だったら別に今調整しなくても……」
「やってくれよ。最後なんだろ?」
「……」
「……頼むよ。いくらでも待つからさ」

 ……そこまで言うなら仕方ない。恐らくこれが、俺がこいつにしてやれる最後のことだ。細部まで徹底的に、調整と整備を行うことに決めた。

「わかった」

 俺の返事を聞いた木曾の、口の端がニッと上がった気がした。

 まずは魚雷発射管。全体の汚れをキレイに落とし、一門ずつ動作を確認していく。こいつは重雷装巡洋艦だから、魚雷発射管の調子はこいつ自身の戦績にダイレクトに関わる。

「おい木曾、ここちょっと凹んでるぞ」
「この前それでタ級を殴り殺したからな」
「無茶するぜ……んじゃここのくぼみもか?」
「それはル級の砲撃を防いだときのくぼみだな」
「魚雷が誘爆したらどうするんだよ……ホント無茶だな……」

 損傷している部分は、一度ばらして部品を取り替えた。潤滑油をさし、木曾に動きの感触を確認しながら、再び組み立てていく。

 その間、木曾は俺の仕事を眺めていた。時折覗き込み、そして時には遠目から。

「……なぁ木曾」
「……あ?」
「これは……」

 普段は整備中でもあまり目をつけない、太ももへ装着する時に使う革ベルトの部分……そこに、小さくハートマークが描かれていることに気付いた。

「……あぁ、それはこの前、まるゆが落書きしたやつだな」
「ぷっ……お前の艤装にハートマークかよ……」
「笑うな。……まるゆが言うには、俺には女らしさが足りないんだとさ」
「……」
「だからせめて可愛いハートマークで、俺の女子力を上げてやるって言ってたな」
「……」
「……なんだよ」
「なんでもねーよ……」
「?」

 実際、こいつは何もしなければ女を感じる瞬間なんてない。普段出してる腹以外は、むしろ男の範疇に入る。

 ……でも、なんだろうな。俺の感覚としても、女というよりは悪友……男のダチという感覚が強いが……

――……これがお前の匂いなんだろ?

 俺だけだろうか。こいつは時々、妙に女を感じる瞬間がある。そのことに木曾自身が気付いてるのか……はたまた意図的にやっているのかは、俺にはさっぱりわからない。

 ……だが、こいつから女を感じる時、こいつは誰よりもいい女になっている。

 あるいはそれは、これが木曾の艤装に出来る最期の調整だから……なのかもしれないが。

「なぁ木曾」
「あ?」
「今夜の作戦、難しいのか」
「なんだよ。最後だからって珍しく心配してんのか?」
「いや……まぁ生きて戻ってくるなら、それでいいんだが」
「わからんね。どれだけ調子がよかろうが、死ぬ時は死ぬ」
「こういう時は『生きて戻ってくる』って約束するもんだろうが」
「無責任にそう言えれば楽なんだがな」
「まるゆみたいなことはもうごめんなんだよクソが」
「……」

 いつもの軽口だが、その応酬が、どこか俺の胸に刺さる。秋風が胸をすり抜ける感覚といえばいいのだろうか……どこか、穴が開いてしまった感覚に近い。

 俺の軽口の間も、俺が艤装に視線を落としている間も、木曾は俺をジッと見ていた。

 ……なぁ。お前、今何を考えてるんだ?

 そんなに真剣に、一体何を見てるんだ? 今、お前の目には何が映ってるんだ? 艤装か? 艤装が心配なのか? 最後の調整だからって、俺が手を抜くとでも思ってるのか?

 それとも……。

 できるだけ頭の雑念を振り払い、艤装の調整に専念することにする。

 その間木曾は、何も言わず、ただじっと、俺の顔を見つめ続けていた。


 そうして普段の倍ぐらいの時間をかけ、丁寧に丁寧に艤装の調整を終わらせた。

「木曾、つけてみろ」
「ああ」

 俺も手伝い、ひとつずつ、木曾の身体に艤装を装着してやる。足に取り付ける主機は自分でつけさせたあと、背中の艤装を装着する手助けをしてやる。

 艤装を持ち上げて待っている間、こいつの首筋が視界に入った。

「……」
「……あ? なんだよ徳永」
「いや……なんでもない」

 こいつの緑の髪の合間から見える首筋が、細く、白い。こいつが女であるという事実を俺に突きつけてくる。自然と顔をそむけ、艤装装着の手伝いを続ける。

 その後、足への魚雷発射管の取り付けも手伝い、木曾の艤装の取り付けが全て終わった。

「ありがと徳永。……おら」
「ん?」

 足への艤装の取り付けのため、片膝をついていた俺に、木曾が細く、白い手を伸ばしていた。

「ありがと木曾」
「お互い様だ。お前が装着を手伝ってくれて、俺も助かったしな」

 こいつの手を握る。こいつが伸ばした手はひんやりと冷たく、そしてきめ細かく手触りが良い。偶然目に入ったこいつの腹は、磨き上げられた大理石のように白く綺麗だ。

「よっ」

 木曾が俺の手を勢いよく引っ張った。そのおかげで俺は勢いをつけて立ち上がってしまい……

「ぉお!?」
「ほっ」

 勢い余って、立ち上がった途端に前につんのめりそうになった。木曾が俺を抱きとめてくれたからよかったが、これが木曾じゃなかったら、俺は目の前の女とともに、背後に倒れていただろう。

「……す、すまん」
「しっかりしろよ相棒」

 そう言って、木曾はニッと笑う。いつもの笑顔が鼻先数センチにまで、近づく。

「なんだよ?」
「……いや」

 木曾の吐息のぬくもりを、唇に感じた。多分こいつも、俺の吐息を感じている。色気はないが、綺麗に色づいたその唇に。

「……」
「……」

 互いの頬が触れるか触れないかのそばで、木曾の瞳と目が合った。

 初めて気付いた。曇りのない水晶のように澄んでいるこいつの瞳は、薄いグリーンを帯びていた。

「……」
「……」
「……そうかい」

 俺の返答が何か気に入らなかったのか……少し沈んだ声で相槌を打った後、木曾は俺に背中を向けて距離を取り、艤装をガシャガシャと動かし始めた。その背中はどこか悲しげだ。俺にはそう見えた。

「なぁ徳永。やっぱお前は凄いな。手足を動かしてるように違和感がない。こんなに調子いいのは初めてだ」

 背中を向けたまま、木曾が話し始める。艤装の影に隠れる木曾の背中は、とても華奢だ。

「……おい木曾」
「あ?」

 俺の身体を、衝動が駆けた。無意識のうちに足は木曾に向かって歩き始め、右手で木曾の艤装をつかみ、力任せにこっちを向かせた。

「お?」
「……ッ」
「おいおいどうし……」

 ちょっと困惑したように笑う木曾の襟を左手でねじ上げ、こいつの緑の髪に隠れた首根っこに手を回す。そしてそのまま、木曾の唇に、自分の唇を無理矢理に押し付けた。

「ん……!?」
「……ッ」

 木曾は必死に顔を背けようともがくが、俺はやめない。細く小さい右の拳で俺の肩をトントンと叩くが、それでも俺は押し付けるのを止めない。そうして暫くの間、俺は木曾に唇を強引に押し付け続けた。

 しばらくの格闘のあと、木曾が強引に顔をそむけ、俺達の唇は離れた。木曾の頬は、少し赤く染まっていた。

「……プハッ! バカやめろ……ッ」
「……うるせえだったら俺を突き飛ばせ」
「タバコくせえんだよ……ッ」
「だから嫌なら逃げろって言ってんだろうが……ッ」
「黙れ……黙れ徳永……ッ」
「逃げないんならまたやるぞ」
「……ッ」
「いいんだな木曾?」
「ちょ……まてって……んン……ッ」

 木曾の返事を待たずに、再び唇を押し付けた。今度も乱暴に、相手のことを考えずに。強引に木曾の唇を舌で押し開き、それを強引に押し込でいく。

「ん……フッ……!」
「フッ……フッ……」
「ぷはッ……タバコ……くせぇ……ッ!」
「うるせぇ……ハァッ……ッ」

 息をするために時折唇を離しては、軽口を言った後、また押し付ける。そのたびに互いの歯がガチリと当たり、口の中に鋭い痛みが走った。

「ハァ……ちくしょッ……なんで……んぶ……ッ」
「……ハァッ……何が……だよ……」
「ぷはッ……なんで、今更なんだよ……ッ!」
「だから……ハァッ……何がだ」

 次第に木曾も、自分から唇を俺に押し付け、自分の舌で、俺の唇をこじ開けてきた。口の中の木曾が、その言葉とは裏腹に、タバコ臭い俺を必死に求めていた。そのたびに、互いの歯がガチガチと当たり、痛い。

 だが、それでもやめない。歯が当たるのもいとわず、俺達は唇を押し付け合い、開いた相手の中に舌を入れて、相手の舌を受け入れた。

「だから……タバコくせぇって……言って……んッ!?」
「……ッ」
「……ぷはッ……ハッ……ハァッ……」
「フッ……フッ……だったら……逃げろよ……ッ」
「ハァッ……ハッ……うるせぇ……徳永……ッ」
「んぶッ」

 そうして暫くの間、互いに相手の唇を求めた後、木曾が俺から唇を離し、そのまま俺を背後に突き飛ばした。

「ハァ……ハァ……クソっ……口の中が……タバコ臭え……ッ」
「だったら……ハァ……口の中を舐め回すなクソが……ハァ……」

 口の端から少しだけ唾液がたれていた。それがどっちの唾液かは分からないが、とにかくそれを親指で拭う。それは木曾も同じようで、口の端を同じく親指で拭っていた。

「クソっ……今更なんなんだ畜生……相棒だと思ってたんだぞ俺は!」
「相棒の唇を奪って何が悪いんだクソッタレ……お前だって、俺に唇押し付けたろうが! 最後ぐらい素直になれよ相棒だろうが!!」
「素直になれって……ハァ……バカだろお前……ハァ……」
「うるせえ……うるせえよ……ハァ……」

 しばらくして息が整い、次第に木曾も冷静さを取り戻し始めた。俺の息も整いつつある。さっきのキスの感覚は、口の中に生々しく残っている。

「ハァ……ふぅ……」

 木曾が大きくため息を漏らした。距離が離れているから、俺の手は、もう木曾には届かない。さっきまで互いに求めあっていたのが嘘であるかのように、目の前の相棒には……木曾にはもう、俺の右手は届かない。

「おい木曾」
「あ?」
「生きろよ。……絶対に生き延びろよ」

 俺にはもう、駄々に近いワガママしか、木曾に届けることは出来ない。二人の間には、俺から見える以上に、距離が開いているようだ。

「……いつまでだ。なぁ相棒……俺はいつまで生き延びればいいんだ」
「全部終わるまでに決まってるだろ。全部終わって、戦争なんか気にしなくてよくなるまでに決まってるだろうが」
「……生き延びたらなんかいいことあるのか」
「俺がさっきの続きをしてやる。俺の女にしてやる」

 さっきより若干赤みを帯びた木曾の唇が、いつもの笑みをニッと浮かべた。

「……ったく。勝手な奴だ……突然キスしたり、俺の女にしてやるだなんて偉そうに……口説き文句にすらなってない……」
「うるせえよ……」

 その笑みはいつもの木曾の笑みだったが、グリーンを帯びた水晶のような瞳は、キラキラと輝いていた。

「……わかった。俺は生き残る。全部終わらせたら、俺はお前の元に行く」
「……」
「その代わりお前も約束しろ。俺が戻るまでにタバコはやめろ」
「……あ?」
「もうさっきみたいなヤニ臭いキスは嫌なんだよ。いくらお前の匂いだって分かっててもな」

 いつもの笑顔のまま、しかしいつもより美しい眼差しで、木曾は俺を指さした。ポケットの中のソフトケースに触れる。中にはまだ、十数本のタバコが残っている。

「……わかった。もうタバコはやめだ」
「絶対やめろよ。次会った時は、話すより先に確かめるからな」
「どうやってだ。匂いをかいでもわかんねーぞ」
「わかってんだろ。お前と同じことをやってやる」
「……うるせえ」

 ポケットの中のソフトケースを取り出し、それを握りつぶした。これ以降、俺がタバコを吸うことはない。少なくとも、再び木曾と会うその日までは。

「……じゃあな。相棒」
「ああ。またな相棒」

 木曾と別れの言葉を交わし、互いに逆方向に歩いていく。コツコツという、靴の音にしては重く硬い音を響かせ、木曾が俺から離れていく。

「……ッき」

 たまらず振り返るが、俺の視界の先にいたのは、さっきまでの女ではなかった。

「……」

 俺の視界の先にいたのは、艦娘の木曾。

 緑の長い髪をなびかせ、白いセーラー服の上から黒の制服をマントのように羽織り、腰にはサーベルをぶら下げた、艦娘の木曾。

 その風貌だけ見れば、スカート以外は男と見間違えてもおかしくない、艦娘の木曾。

 俺と互いに唇を求め合い、俺と再会の約束をし、その時に俺の唇を奪うと宣言した、女の木曾では、けっしてなかった。
 
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