ラジェンドラ戦記~シンドゥラの横着者、パルスを救わんとす
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第一部 原作以前
第二章 対パルス使節団編
第九話 女神官乙
ファランギースの美貌は原作では、「銀色の月のような」と表現される事が多い。絶世の美女を言い換えたものではあるのだろうが、意地悪く言うなら、
孤高の美、人間離れした作り物めいた美しさ、太陽程には鮮烈でもない、とも言い換えられるかもしれない。
だが、今俺の目の前で、神殿中庭の陽当たりの良いテラスに佇む十八歳のファランギースはまるで別物だった。その若々しく溌剌とした姿は真夏の太陽を思わせる程に眩しく、こぼれる笑みは花のように愛らしく、俺たちの手放しの賛辞に照れる様は初々しく、恋人の姿を見付け瞳をキラキラさせ頬を染めてパタパタと駆け寄る様は微笑ましく、……それがどうしてああなっちまうんですかね?
駆け寄るファランギースに愛おしげに微笑む背の高い優男がイグリーラスだ。自由民出身らしき幾人もの取り巻きと一緒だ。彼は見るからに爽やかな好青年で、自信と才気に満ちあふれていると言った風情だ。彼自身からは悲劇の予兆の片鱗すら感じられない。
もう一人、細身の大型犬を思わせる長身だか痩せぎすなシャープな顔つきの男が、飼い主を見つけた犬のように嬉しげにすり寄って行くのが見えた。あれがイグリーラスの弟、グルガーンか。蛇王ザッハークを礼讃するような議論を頻りに兄にふっかけてはバッサリと論破されるのを喜ぶと言う歪んだ性癖の持ち主だ。
あ、また恒例のそれを始めて、呆れ顔の兄に諄々と諭されてる。まあ、一種のかまってちゃんで、兄の弁舌の鮮やかさを周りにアピールしてるつもりみたいだな。しかし、周りに自分たちがどう見えてるかまるで気付いてないっぽいよなあ。
ほらほら、取り巻きの冷たい視線はグルガーンだけでなく、イグリーラスにまで向いてんぞ?端っこに固まってる貴族出身者らしき微妙に身なりが良さげな数人のグループもイグリーラスたちを見ながら何やらヒソヒソ言い合ってるし。それに遠巻きに見ている神殿のお偉方たちも感心しないって顔で見てるんだが。本来は聡いはずのファランギースも恋は盲目なのか周りが見えてないっぽいしな。
原作でのイグリーラスの一件を、たった一度の不運にいじけてしまった彼の心の弱さだけのせいにする訳にはいかないと俺は思う。まず背景として、カイ・ホスロー王朝が長年放置してきた身分差別が王都のみならず、果ては地方の神殿にまで及んでいたこともあったし、息子の名前で寄進した神殿までもが腐敗することは王朝の権威を弱めるものでもあろうにそれに気付かずじまいであったアンドラゴラスの暗愚さもあった。
しかし、身分差別が無くとも、何やら不穏当な発言ばかりしているグルガーンの存在もかなりマイナスに響いたのではないだろうか。敬虔な信徒ばかりの居る神殿では蛇王の名前など口にするだけで神罰が下ると言われる程であったろうに、それどころか聖賢王ジャムシードや神々を冒涜し、蛇王を礼賛しているようですらあった。何故、イグリーラスは弟を黙らせることをしないのか。管理不行き届きだし、目下への指導力が欠けているのではないか。或いは、どんだけ議論をふっかけられても論破出来る俺スゲーと自分に酔っているのではないか。いや、むしろ自分の有能さをアピールするために弟にわざとやらせているのではないか。いやいや、実はイグリーラス自身も何処かで聖賢王や神々を軽んじているのであろう。などと悪意ある者なら幾らでも悪く考える事は出来ただろう。
イグリーラスの一件に責任を感じ、神殿を辞したいと訴えたファランギースを優しく諭した女神官長は立派な人であったろうし、それと同格であった神官長も決してそれに劣らない人ではあっただろう。身分差別にも否定的で公正な人柄であったかもしれない。だが、周囲からそこまで悪し様に言われているイグリーラスを、周囲の反対を押し切ってまで推す事は出来なかったのだろう。
それにファランギースがこのまま女神官を続けるのか、それともイグリーラスの嫁になるのか、どっちつかずでいた事も結果的には災いした。モテる上に女神官としても優秀な彼女を自分が独占するには立身出世するしか無いとイグリーラスは思っていたことだろう。が、立身出世の望みが絶たれたとき、ファランギースは彼にとって永遠に手に入らない存在になってしまった。それがますます彼を絶望させた事であろう。
だが、もし足を引っ張るグルガーンを穏便に排除し、なおかつ平和利用できたら。そして、ファランギースが豆腐メンタルなイグリーラスと添い遂げる覚悟を固めて、彼を精神的にガッチリ支えていれば。そう、俺はそのたらればを現実のものにするためにここに来たのだ。
神殿にある面談室に、俺たちはファランギースを呼び出した。時間通りにやってきたファランギースは不審そうな表情だった。そりゃあそうだ。アルスラーン王太子殿下に呼び出されたはずなのに、お目付役のナルサスはともかくとして、明らかに異国人と判る俺までがここに待ち受けていたんだからな。それでも、アルスラーンが「こちらはシンドゥラの王族の方で、私に王族としての心掛けなどを教えてくれている、まるで本当の兄のように思えるお方だ」と紹介してくれた事で、ようやく納得したようだった。尤も、ナルサスは終始渋い顔だが。こんな男は兄に相応しくないとでも思っているのだろう。知った事ではないけどな。さて、まずはファランギースとOHANASHIを始めようか。それが終わったら、次はグルガーンだ。
◇◇
その翌日、私、ファランギースは、昨日王太子殿下たちからお話を伺った面談室でイグリーラスとグルガーンと話す事にした。何故こんなところでと不審がる二人じゃったが、内密かつ緊急の件だと押し通した。
「既に女神官長にはお話しご了承は頂いておるが、私は還俗する事にした。女神官のままではイグリーラス、お主の妻にはなれぬからのう」
「おお、ようやく決心してくれたか!有り難い!実に嬉しいよ、ファランギース!」
驚きながらも彼は喜んでくれた。しかし、グルガーンは複雑そうな顔をしている。
「おや、喜んではくれぬのか、グルガーン?」
少し冗談めかして私が尋ねると、グルガーンは困ったような顔を私に向けた。
「勿論うれしいさ。だが良いのか、ファランギース。貴女なら優秀な女神官になれたはずだ。それだけの才能はあると女神官長を始め、上の方たちからも期待されていただろうに…」
「ふふ、良いのじゃグルガーン。確かに迷ってはいたがの。一人の男を愛し支えて共に生き、子を産み育て、命の系統樹を大きく長く作って行くこと。それは神の御心にも適う道。決して一身の幸せの為に神に背を向けるものだと考えてはならぬと、とある方に諭されての。女神官長もそのとおりだと仰っていた。信仰に一生を捧げるのはそれしか出来ぬ者が進む道。他の道も選べる者に入って来られては迷惑じゃともな」
「はは、少し笑えるな。だが、その通りか。義姉上、と今後は呼ばせてもらうが、貴女のような方が兄の伴侶となってくれる事に心からの感謝を。貴女が兄のそばに居てくれるなら安心だ」
…そして、それが私が聞いたグルガーンの最後の言葉じゃった。その後、彼とは終生会うことは無かった。
◇◇
グルガーンは書き置きを残し姿を消した。そこには、「自分は兄の永年の説得により、ようやく目が覚めた思いだ。ザッハークこそ諸悪の根源。それを討つため自分は旅に出ることにした」と言うような事が書かれていた。…半分本当で、半分嘘だけどな。
グルガーンにはお前の蛇王礼賛トークが兄の立場を悪化させてると正直に告げた。良かれと思ってしたことでも、逆効果になることなんて世の中には幾らでもある。中でもこれは最悪な部類だとも。さすがに落ち込んでいたが、このまま姿を消して、人知れず命を絶ちたいとまで言い出したからさすがに止めて、もっと有益な命の使い道を教えてやった。
「蛇王を崇拝する魔道士の一味がいる。そいつらの中に潜入して俺やアルスラーン王子に情報を流してくれ。成功したらお前の事を後世まで語り継いでやる」と。
連絡の付け方など細々した事を詰めた後、グルガーンは勇躍デマヴァント山へ向かった。そこできっとあの暗灰色の衣の尊師に会うことになるんだろう。無事に潜入できるかなんて心配はしていない。あいつの蛇王礼賛トークは年季入ってるからな。奴らでもコロッと騙されること請け合いだ。
その後、ファランギースの還俗と、イグリーラスとの婚約が発表され、それを受けてか、更に選定に時間がかけられ、滞在から七日目でようやく選定が終わった。選ばれたのは、イグリーラスとその他貴族二人だ。名前は聞いたはずだが忘れた。どうでもいいしな。
後から聞いた話だと、やはり神官長は元々イグリーラスを推していたらしい。貴族寄りの大神官数名がいろいろ理由をつけて反対していたらしいが、悪影響が懸念されていたグルガーンが離れたこと、ファランギースとの結婚でイグリーラスが精神的に落ち着くとだろうと思われること、アルスラーンからも身分にとらわれずに世のために役立つ人材をとの申し入れがあったこと、申し入れを無下にすると、ダリューンから物理的に、ナルサスから政治的に抹殺されるのでは無いかとの危機感を感じたこと、などから満場一致でその様に決まったのだという。
還俗し、結婚することで、多分ファランギースは今後十六翼将として活躍することはなくなるのだろう。そもそもファランギースはイグリーラスの一件の後で、神官として大きく成長したらしいから、それがないこの世界のファランギースには原作ほどの力量は無いはずだし、何らかの紆余曲折を経て参戦することとなっても、原作ほどに活躍できるとは限らないしな。と言うか、俺としてはこのままピュアなファランギースでいてほしい気がする。原作みたいな晩年は決して過ごしてほしくない。
さて、俺たちはシンドゥラに帰るか。今後は特に俺たちには事件が起こることもあるまい。兄が王太子に既になっていることなど幾つかの差異はあるものの、多分このまま原作にたどり着くことが出来る気がする。
…気がしただけだった。とある女性の来訪を機に、俺は兄に神前決闘を挑むことになるのだ。
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