いつからだろうか・・・いや、そんなに遠い過去の事ではない。俺がこの街に来てからの出来事、「ふたつの虹」を持つ水風七夏という少女と出逢ってから、その少女を通して「人を撮影する事」が多くなった。この街へ来た目的は「ブロッケンの虹」という少し不思議な虹を撮影する事。それと、街の風景の写真も撮影する事であり、人を撮影するという事ではなかった。
部屋に戻ってから、制作途中のデジタルアルバム、そして写真機の中に入っている画像を見ると、人が主となった写真が多い事に改めて気付く。これは、言うまでも無く七夏ちゃんの影響だ。さっき、写真機のファインダーの中に偶然入ってきた七夏ちゃん・・・その時の表情が脳裏に焼きついたままだ。
時崎「どうすればいいのだろう・・・」
俺は、常に持ち歩いていた写真機と距離を置いてみる事にした。今、この写真機を持ったまま七夏ちゃんと会うのは、七夏ちゃんに辛い思いをさせてしまいかねない。かと言って写真機がなければ、凪咲さんとの約束も完遂できなくなってしまう。さらに、余り時間も無い。とりあえず、今日一日は写真撮影を行わない事にしよう。明日以降も七夏ちゃんの様子次第という事になる。七夏ちゃんの撮影は無理だとしても、七夏ちゃん以外の撮影は可能だと思う・・・ただ、それでは・・・。
時崎「とりあえず、制作を進めるか・・・」
俺は、アルバム制作作業を再開する。気分が晴れない影響か、なかなか思うように作業に集中できない。七夏ちゃんと出逢った時の写真から、ついこの前までの笑顔だった写真までを一つずつゆっくりと眺めてゆく。再びこの笑顔を取り戻さなければならない。凪咲さんへのアルバムだけにしか存在しない七夏ちゃんの笑顔・・・俺が望むのはそうではなく、これからの七夏ちゃんも、笑顔で思い出が残せるようになってもらう事だ。凪咲さんもそれを望んでいるのは間違いない。
時崎「!?」
窓の外から綺麗な声が聞こえてきた。その声は夕暮れ時と雨が上がった事を知らせてくれた。
時崎「ヒグラシ・・・か」
蝉の中では異例なほど美しく、儚いヒグラシの鳴き声・・・いや、これは「歌声」というべきだろうか。窓を開けて、しばらくその歌声に耳入る。今までの心のモヤモヤ感を流してくれるような感覚だ。ヒグラシは雨があがった事を、この街全体へ届けるかのように、その美しい歌声と共に遠くへと去ってゆく。
時崎「ありがとう・・・救われたよ」
届くはずがない事は分かっていても、届けたい気持ちがある。
時崎「そうか!」
七夏ちゃんには、想いを届ける事ができる。俺だけでなく、凪咲さん、直弥さん、天美さん、高月さんも、同じ気持ちのはずだ。みんなが同じ気持ちなら、七夏ちゃんはきっと答えてくれるだろう・・・みんなの事を大切に思える七夏ちゃんなら!
時崎「よし! アルバム制作に集中しよう!」
再び、凪咲さんへのアルバム制作に集中する。そして、もう一つ、七夏ちゃんへのアルバムも制作を行う。
トントンと扉が鳴った。
時崎「はい!」
俺は、既に分かっていた・・・扉の向こうに居る人が誰なのかを。
凪咲「柚樹君、夕食、出来てますので」
時崎「凪咲さん。ありがとうございます! すぐ頂きます!」
・・・分かっていても、どこかで期待している自分がいた事が後から感情となって追いかけてくる。
時崎「七夏ちゃん・・・」
凪咲「!?」
時崎「あ、いえ、なんでもありません」
凪咲さんの後を付いてゆく形で、居間へと向かう。
時崎「!!! な、七夏ちゃん!?」
七夏「あっ! 柚樹さん・・・」
驚いて、声に出てしまったが、そこには七夏ちゃんが居た。昨日のように部屋に閉じ篭っていた訳ではないみたいで、少し安心する・・・だけど、七夏ちゃんの表情を見る限り、完全に安心しきることは出来なかった。
時崎「よかった・・・」
七夏「えっと、ごめんなさい・・・」
七夏ちゃんと話したのはそれだけだ。その後、特に何も話す事は無く、夕食を進めていると---
七夏「ごちそうさまでした」
凪咲「あら? 七夏? もういいの?」
七夏「はい。少し休みます・・・」
凪咲「そう・・・」
時崎「・・・・・」
七夏「柚樹さん・・・」
時崎「え!?」
七夏「失礼・・・いたします・・・」
時崎「あ、ああ」
・・・リセット。以前に凪咲さんが会話をリセットしていたような感覚・・・七夏ちゃんに同じ事をされると、正直心に刺さった。凪咲さんの時は、女将としてお客様への対応と程よい距離を保つ為だと思っていたので、特に何も思わなかったが、今の七夏ちゃんは、凪咲さんの時とは同じように受け入れられない。今、七夏ちゃんと一緒に夕食を頂けた事は嬉しく思うけど、それ以上に堪えた感が残る。この状態で七夏ちゃんに俺の思いを伝えるのは無理だと思った。
凪咲「柚樹君、ごめんなさいね」
時崎「え!?」
凪咲「七夏、ご迷惑をかけてしまって」
時崎「いえ、全然そんな事は・・・それよりも、七夏ちゃんが大丈夫なのか心配で・・・」
凪咲「ありがとう。前にも話したけど、こんな事が今までになかった訳ではないから」
時崎「はい」
凪咲「柚樹君が、いつもどおりで居てくれる方が、七夏にとっても良い事だと思うの」
時崎「そう・・・ですか」
凪咲「ええ」
凪咲さんの表情を見る限り、今までと変わらない事から、七夏ちゃんへも普段どおり接している事が伝わってきた。
時崎「ありがとうございます」
??「ただいま!」
凪咲「おかえりなさい! あなた」
直弥「ただいま、凪咲」
時崎「こんばんは!」
直弥「時崎君! こんばんは! 七夏は、自分の部屋・・・か」
凪咲「ええ」
直弥「そう・・・か」
凪咲「あなた。それは?」
直弥「これは、模型用品!」
凪咲「そう。ほどほどに・・・ね」
直弥「ああ! 時崎君!」
時崎「はい!?」
直弥「ちょっと、時間あるかい?」
時崎「はい!」
俺は、直弥さんの部屋に案内された。しまった! 無線ネットワークの事を頼まれていたが、まだ何も調べていない。
直弥「すまないね」
時崎「いえ、こちらこそ、すみません」
直弥「どうかしたのかい?」
時崎「まだ、無線ネットワークの機材の事を調べていなくて・・・」
直弥「あ、いやいや。それは構わないよ」
時崎「え!? その事ではなかったのですか?」
直弥「まあ、それも話せればとは思ったんだけど、せっかくだから話しておこうか」
時崎「はい」
直弥「ここに、ネットワークの機器が置いてあるんだけど、これは無線ネットワークに対応していない機器だったと思う。結構前に購入した製品だからね」
直弥さんに言われて、机の隅の方を見ると、ネットワーク機器が置いてあり、機器から明かりが灯っていた。
時崎「確かに、有線のネットワーク機器のようですね」
直弥「この機器に無線機器を追加する方が良いのか、新しい無線機器に交換する方が良いのか、そういうのは時崎君、分かるかい?」
時崎「調べてみなければ、分かりませんが、今の機器が問題なく使えているのでしたら、無線用の機器を追加する方が良いと思います」
直弥「・・・・・なるほど」
直弥さんは、少し考えてから頷いた。
時崎「どうかされましたか?」
直弥「いや、時崎君の答えを聞いて安心したよ」
時崎「え!?」
直弥「すぐに買い換えてしまうという考え方は、物を大切に扱うという事を、ある意味では否定する事になるからね」
時崎「そう・・・ですね。使えるのにすぐに買い換えるという考え方の人もいますから」
直弥「物を大切に考える事が出来る人は、人に対しても同じ事が出来ると思う」
時崎「それは!?」
直弥「七夏と、何かあったのかい?」
時崎「えっ!?」
不意を突かれた! 直弥さんは帰宅してから、七夏ちゃんとは会っていない。にも関わらず、今の俺と七夏ちゃんの距離を、まるで測ったかのように把握しているようだった。俺は正直に今日の出来事を話した。
直弥「・・・そうか。タイミングが悪かったんだね」
時崎「すみません」
直弥「時崎君が謝る事はないよ」
時崎「七夏ちゃんの写真を撮る事が、七夏ちゃんに負担を掛けるのなら・・・って考えると・・・」
直弥「ここ数日、七夏の様子を見ていると、写真に対しての反応が以前と違うように思えたから、負担になっているようには思わないよ」
時崎「そう・・・だといいのですけど」
直弥「時崎君がいつもどおりに七夏と接してくれる事が、七夏にとっても大切な事になると思っている」
<<凪咲「柚樹君が、いつもどおりで居てくれる方が、七夏にとっても良い事だと思うの」>>
さっき、凪咲さんにも同じ事を言われた。七夏ちゃんの事をもっとも良く知っているご両親が同じ事を話されたという事は。それが答えじゃないか!
時崎「ありがとうございます! 七夏ちゃんには、今までどおり話てみます!」
直弥「そうか! よろしく頼むよ!」
時崎「はい!」
直弥「無線ネットワークの事も!」
時崎「あっ! はい!」
直弥「それと、もし可能だったらでいいのだけど---」
直弥さんは、紙袋の中から、小さな箱をひとつ差し出してきた。
時崎「これは?」
直弥「信号機だ」
時崎「信号機?」
直弥「正確には『3灯式信号機』と言って、鉄道模型の部品のひとつだ」
時崎「・・・はい」
直弥さんから手渡された箱の中身は、短い線路と小さな信号機が一体化された商品だった。
直弥「この信号機が全部で6個あるのだが・・・」
時崎「6個ですか!?」
直弥「それを、設置してもらえないかな?」
時崎「俺がですか!?」
直弥「この前、七夏と一緒に踏切を設置してくれたと聞いてるから」
時崎「そう言われれば」
直弥「本当は、七夏にお願いしようと思ってたのだけど・・・」
俺は、直弥さんの真意を理解した。七夏ちゃんと一緒に過ごせる機会を作ってくれているのだと。
時崎「ありがとうございます! ぜひ!」
直弥「そうか! では、よろしく頼むよ」
時崎「はい!」
直弥さんから、信号機のレイアウト上への設置場所を記したイラスト図を受け取った。
直弥「七夏を見ていて、僕も変わらなくてはと思ってね」
時崎「え!?」
直弥「信号機には、色々と思う所があってね」
時崎「あっ!」
直弥さんの鉄道模型のレイアウト・・・敷かれた線路上には、信号機がひとつも無い。俺はそれほど列車に詳しくないから気づかなかったけど、直弥さんくらい列車好きだと、レイアウトに信号機が無い方が不自然な事なのかも知れない。
直弥「鉄道模型の信号機は、趣味を楽しむ事を第一に考える僕にとっては『無意味な物』だと思ってたんだよ」
時崎「・・・・・」
直弥「だけど、それは僕の思い込みであって、他の人もそうとは限らない。自分にとっては無意味であっても、他の人にとっては大切な意味があるのなら、目を背けてはならない」
時崎「大切な人にとって意味があるのなら・・・」
直弥「・・・そういう事になるかな」
直弥さんは、この模型の信号機の灯りの色は、俺と見え方が違うと思う。そして、七夏ちゃんがどのように見えるかも・・・。この信号機を設置する事は、それぞれの感覚の違いを、よりはっきりとさせてしまう事を意味する。信号機が分けるのは「進め/注意/止まれ」だけでは無いという事だ。
時崎「この信号機の設置、急ぎますか?」
直弥「いや、特には・・・時崎君が出来る時で構わないよ」
時崎「分かりました!」
直弥「色々と、すまないね」
時崎「いえ。それでは、失礼します」
直弥「あ、時崎君!」
時崎「え!?」
直弥「これを・・・」
直弥さんは、俺が買ってきた「C11蒸気機関車」の模型を差し出してきた。
時崎「あっ! 七夏ちゃんに届けます!」
直弥「よろしく、頼むよ」
時崎「はい。では」
俺は、一礼して、直弥さんの部屋を後にした。そのまま、七夏ちゃんの部屋の前まで来たけど、今、声をかけるべきかどうか・・・いや、凪咲さんや直弥さんは、いつも通りに七夏ちゃんと接してほしいと話していた・・・だったら!
トントンと軽く扉を鳴らす。
時崎「七夏ちゃん! 居るかな?」
・・・少し待ってみたけど、返事は無かった。タイミングが合わない事だってある。そんな時は、自分から合わせにゆけば良いだけの事だ。俺は、後ほど声を掛けてみる事にした。
自分の部屋に戻って、アルバム制作・・・の前に、直弥さんから頼まれた無線ネットワーク機器の事を調べる。既に有るネットワークを無線化する機器があれば良い事になる。俺はMyPadでいくつかの無線ネットワーク機器の候補をブックマークしてゆく。単純に電波を飛ばすだけの機器でよさそうなので、費用もそれほど必要はなさそうだ。
ついでに、先ほど直弥さんから頼まれた模型の信号機についても調べてみたけど、相変わらず高価な商品だなと思ってしまう。信号機設置作業は慎重に行わなければならなさそうだ。無線機器の方は買う機器が決まったら、駅前の電気店へ出かけてみよう。
時崎「21時半・・・か」
少し、MyPadでWebサイトを眺めるつもりだったけど、関連するサイトを次々と見ていたら、結構な時間が経過していた。俺は、あまり遅くならないうちに、七夏ちゃんに声を掛けようと思ったその時---
トントンと扉が鳴る。
時崎「七夏ちゃんっ!」
俺は慌てて扉へと向う。今、扉の向こうに居るのは、七夏ちゃんだと分かるから!
七夏「柚樹さん・・・」
時崎「七夏ちゃん! 良かった!」
七夏「えっと・・・その・・・」
時崎「とにかく、中へ・・・」
七夏ちゃんは軽く頷いて部屋の中に入ってくれた。部屋に良い香りが広がる。七夏ちゃんは、お風呂あがりのようだ。
七夏「・・・ごめんなさい!」
時崎「え!?」
七夏「えっと・・・きょ、今日、写真機に驚いちゃって・・・その・・・」
時崎「謝らなくていいよ。こうして七夏ちゃんとお話できるだけでも嬉しいから」
七夏「柚樹さん、写真機持ってませんでした・・・」
時崎「え!?」
七夏ちゃんは気付いていた。俺が写真機と距離を置いていた事を・・・。七夏ちゃんの性格からすると、今更驚くことではない。
七夏「夕食の時・・・」
時崎「ああ、充電! 電池の残量が少なくなってたから、部屋で充電してたんだよ」
七夏「充電・・・」
時崎「だから、七夏ちゃんのせいで写真機を持ってなかった訳じゃないから!」
七夏「・・・・・」
七夏ちゃんに本心を読まれてしまわないかと焦る。その前にいつものように話仕掛ける!
時崎「俺、好きだから!」
七夏「えっ!?」
時崎「写真の事!」
七夏「あっ! ・・・くすっ☆」
七夏ちゃんが「いつも」を取り戻してくれて嬉しく思う。さらに話仕掛ける!
時崎「おかえり! 七夏ちゃん!」
七夏「え!? た、ただいま・・・です☆」
時崎「これからも、よろしく!」
七夏「くすっ☆ はい☆」
時崎「ふぅー・・・」
七夏「柚樹さん!? どおしたの?」
時崎「いや、なんでもないよ!」
七夏「私ね、写真を撮られるのは、あんまり好きじゃなくて・・・でも、柚樹さんが写真の楽しさを教えてくれて・・・私も変わらなくちゃって思って・・・」
時崎「七夏ちゃん・・・」
七夏「だからね、また七夏の写真・・・柚樹さんに撮ってほしい・・・です」
時崎「いいの?」
七夏「はい☆ えっと、今・・・お願いできますか?」
時崎「も、もちろん!」
七夏ちゃんから写真撮影を頼まれた。俺は、あの時・・・七夏ちゃんの事を良く知らなかった時と同じ感覚を再び覚え、写真機を持つ手が震え始めていた。
七夏「・・・・・」
写真機のファインダーの中に七夏ちゃんを捕らえる。写真機と目が合うと、一瞬険しい表情になり、俺はこのまま撮影して良いのか躊躇う。
七夏「柚樹さん! ただいま・・・です☆」
時崎「え!?」
七夏「くすっ☆」
改めて、写真機のファインダーの中には、少し懐かしい七夏ちゃんの笑顔があった。俺はその笑顔を無意識に撮影していた。
時崎「・・・・・」
七夏「どしたの? 柚樹さん?」
時崎「あ、いや。ありがとう!」
七夏「えっと、お帰りなさい・・・は?」
時崎「え!?」
七夏「くすっ☆ それじゃ、柚樹さん! おやすみなさいです☆」
時崎「あっ! 七夏ちゃん!」
七夏「はい!?」
時崎「これ!」
七夏「あっ!」
俺は、直弥さんから渡されたバトン「C11蒸気機関車」の模型を七夏ちゃんに渡す。
時崎「よろしく・・・これからも!」
俺は、模型を渡す時、七夏ちゃんの手も一緒に包む。
七夏「あっ! えっと・・・はい☆」
そのまま、しばらく手の温もりを伝え合った。
時崎「七夏ちゃん、おやすみ!」
七夏「はい☆ おやすみなさい☆」
七夏ちゃんは、軽くお辞儀をして、自分の部屋に戻った。それぞれ、色々な思い込みがあったけど、明日からは、いつもの七夏ちゃんと楽しく過ごせると思うと、今日一日がとても長く疲れた感が押し寄せてきた。
時崎「俺も、流してくるとするか」
今の疲れをお風呂で流す・・・。七夏ちゃんと同じ香りがすっと入ってくるようで、少し恥ずかしい。違うことを考える。そう言えば今日、直弥さんから頼まれた事を、七夏ちゃんにも協力してもらう方が良いと思う。明日、相談してみよう。
お風呂でさっと流して、今日も早めにお休みすることにした。
第二十九幕 完
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次回予告
迷い・・・人は常に迷うもの。ひとつの迷いが無くなった時、それは新たな迷いの始まりを意味する
次回、翠碧色の虹、第三十幕
「迷う心の虹」
迷う事から逃れられないのなら、自らが歩み寄れば良いだけなのかも知れない。