河豚
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第一章
河豚
この時下関の春帆楼のおかみ藤野みちは困っていた、それで店の者達に困った顔でこう言っていた。
「これは困ったねえ」
「はい、折角伊藤伯爵が来られるのに」
「魚の水揚げが悪いですね」
「伊藤伯爵は刺身がお好きだというのに」
「それで有名なのに」
伊藤博文は下関のある長州出身だ、それで彼の食いものの好みは下関ではよく知られているのだ。 だがここでだ、彼が泊まるこの春帆楼が困っていたのだ。
「これでは」
「この水揚げの状況では」
「伊藤伯によい魚が出せません」
「刺身にしても」
「折角魚好きだというのに」
「これではがっかりされますよ」
「そうだよ、どうしたものか」
みちはいよいよ困った、それでだ。
店の者達とあれこれ話して考えた、それでもどうしても答えが出ずにだ。
遂にたまりかねた顔でこう言った。
「ふくを出そうかね」
「ふく!?」
「あれをですか」
「あの魚をですか」
「ああ、ふくは美味いしね」
まずは河豚、下関ではふくと呼ぶこの魚の味のことを言った。
「しかもあの魚は獲れてるだろ」
「まあそれは」
「今もふくだけはよく獲れてます」
「水揚げの状況は悪くても」
「あの魚は」
「だったらね」
それならと言うのだった。
「あれをお出ししようか」
「伊藤伯爵に」
「そうしますか」
「ふくをお出ししますか」
「それしかないだろうね」
今の状況ではとだ、みちは苦しい顔で言った。
「だからね」
「それじゃあですか」
「伯爵には河豚をお出ししますか」
「そうしますか」
「その時はね」
それこそとも言うみちだった。
「うちが打ち首になってもいいさ」
「ふくをお出ししたことで」
「その咎で、ですか」
「宜しいですか」
「その時は」
「それでも美味いからね」
河豚の味はというのだ。
「だからだよ」
「ふくですか」
「あれでいきますか」
「他の魚はないですし」
「それなら」
「ああ、いくよ」
こうしてだ、春帆楼では河豚を出すことにした。このことは下関に着いた伊藤にすぐに知らされたが。
周りの者達はその話を聞いて仰天して口々に言った。
「とんでもないことをするな」
「伯爵に河豚を食べさせるとは」
「河豚は毒があるぞ」
「あれを食えば死ぬぞ」
「大阪で鉄砲と呼ばれるのは伊達ではないぞ」
当たると死ぬ、だから鉄砲なのだ。
「それを出すとな」
「おかみは何を考えている」
「正気か」
「いや、待て」
だが伊藤は驚く周りに笑ってこう言った。
「ふくか、よいではないか」
「よいとは」
「伯爵、どういうことですか」
「河豚ですぞ」
「当たると死にますぞ」
「ははは、当たればな」
その時はとだ、伊藤はその口を大きく開いて笑って言った。
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