Raison d'etre
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
一章 救世主
16話 佐藤詩織(3)
詩織の変化は誰の目にも明らかだった。
機動ヘリから本部のヘリポートに降りる際、彼女は優に極自然に肩を貸したのだ。そんな事は今まで一度もなく、優よりは詩織の傷の方が酷い状態だったのだから、周りの少女達は驚愕した。
優もはじめはキョトンとした様子だったが、素直に体重を預けた。純粋に嬉しかったのだろう。
詩織自身も自分の心境の変化に驚いていた。あれほど怖かった男性、というものが今は全く気にならなかった。優個人に対しての恐怖がなくなっただけで、完全に男性恐怖症が治った訳ではないかもしれないが、大きな進歩だと言えた。
奈々もその光景を見て安心していた。詩織の男性恐怖症は治るものではないと思い込んでいた。近くの書類から詩織のファイルを取りだし、笑みを浮かべる。原因は幼年期における義理の兄からの暴力。繰り返される暴力は詩織に男性に対する恐怖心を与えてしまった。だが、優は深く刻まれたそれを覆すことに成功したらしい。
「全く、やってくれるわね」
自然と言葉が漏れた。広瀬理沙から無事に離脱するだけでなく、イーグルまで倒し、詩織の心まで溶かすとは思いもしなかった、
無闇に干渉する必要はないのだ、と奈々は知った。彼女たちはまだ子どもで、その関係に大人が口を挟むべきではない。ただ、見守るべきなのだ。彼女たちはこれからも成長していくのだから。
対して、華は詩織の変化を複雑そうに見ていた。舞はそれをからかって面白がった。ゆるやかに、しかし確実に特殊戦術中隊に変化が生じていた。
◇◆◇
詩織は白い扉をノックした。暫く待ってみるも、返事はない。ドアノブに手を延ばす。
詩織は静かに扉を開けた。薬の臭いが鼻をつく。
すぐに優の姿を見つけた。白いベッドで寝息を立てている。
詩織は起こさないようにゆっくるとベッドに近づいた。持参した果物をそばに置く。
綺麗な寝顔だった。ふと、上半身が裸であることに気付き、小さく赤面する。幸い、毛布があるので、目のやり場に困ることはなかった。
やることもないので、来客用の椅子に座る。
詩織は窓へ視線を向けた。開放的な大きな窓には、澄んだ青空がうつっている。詩織は目を瞑り、戦いとは離れた、静かな日常に身を委ねた。
こんなに安らいだ気持ちになったのはいつ以来だろう、と思う。そばに優がいるだけで、詩織は安心することができた。
以前は男、というだけで兄の姿が頭に浮かんだ。この人もアレと同じように私を傷つけるんじゃないか、と思った。
それは無意識レベルのもので、抑えようとしても何とかなるものではなかった。
だが、詩織は優に絶対的な守護を感じた。きっと、この人は私を傷つけない。きっと、私を守ってくれる。あの、黄金の翼とともに現れた小さな背中を見た時、そう、根拠もなく信じられた。
「…っん……」
優が寝返りを打った。毛布がずれて、優の上半身が露になる。
詩織は息を呑んだ。優の体には無数の傷があった。新しい傷ではない。とても古い傷が全身にに広がっている。火傷のようなものが一番多かった。
医療用ナノマシンによって、自然治癒が働いている箇所は既に回復している。と言うことは、この傷は特殊戦術中隊に入る以前に出来たものと推測できる。
詩織は優を見た。まだ幼い、天使のよう寝顔を見て、詩織は胸が熱くなるのを感じた。
――――まさか、先輩も私のように――――
何があったのかは分からない。しかし、きっと優は周りが期待するような、強い少年ではないのかもしれない。
そして、詩織は何故優をすんなりと受け入れられたのかわかった気がした。
――私と似ているんだ。
詩織はそっと幼い少年の前髪を撫でた。
「んっ……」
優がゆっくりと目を開ける。
「気分はいかがですか?」
「わっ!……佐藤さん?」
優が驚いたように声をあげる。
「意外そうな反応、ですね」
「いやっ、そういう意味じゃなくて……でも、何でっ?」
優が混乱したような声をあげる。詩織はその様子を見て頬を緩めた。
「騒ぐと体に障りますよ」
詩織の注意で、優が幾分かの落ち着きを取り戻す。
「でも……大丈夫なの……?」
遠慮がちに優がたずねる。何が言いたいかすぐに理解して詩織は、はっきりと頷いた。
「はい。もう大丈夫です」
「……そっか」
優が安心したようにそう答えた時、ノックの音が鳴った。
優が返事する間もなく扉が開く。すぐに、優が驚きの声をあげた。
「上田中将!」
出てきたのは体格の良い男だった。白色が混じる無精髭を撫でて、怪我はどうだ、と口を開く。
詩織が立ち上がって椅子を譲ると、悪いね、と上田中将は椅子に腰かけた。詩織が恐縮したように壁際に寄る。
「さて、疲れてるだろうが、いくつか聞きたいことがある。良いかな?」
「はい」
優の返事に上田中将は満足そうに頷いた。
「君がESP能力者と接触した、と聞いた。それは間違いないね?」
詩織が戸惑ったように優を見る。優は詩織の視線に気付かずに、頷いた。
「はい」
「ESP能力者の名前は分かるかな?」
「いいえ」
そうか、と呟いて、上田は一枚の写真を取り出した。
「君が接触したのは、この女の子かい?」
詩織の位置からは写真が見えなかった。しかし、優が頷くのは見えた。
「はい。間違いありません」
「この子と何を話した? つまり、彼女の行方の手がかりとなるようなことは――」
「何も話していません」
「どんな小さなことでも何か手がかりに繋がるかもしれない。話した内容を全て教えてくれないかな?」
「話していません。何も、です。急な戦闘で、話せる雰囲気ではありませんでした」
優が繰り返す。上田は粘り強く訊ねた。
「じゃあ、何故襲われたのか、も分からずに戦闘を?」
「はい。正当防衛でした。拘束された状態から逃げる時も相手の不意をついたので、本当に話す機会はありませんでした」
詩織は気付いた。これは尋問だ。優は何かを疑われている。
「そうそう、その逃げる時に君は無数のESPエネルギーを全包囲に放ったよね? それが軍のESPエネルギー探知機を結果的に無力化してしまったんだよ。君はこれを予想したかい?」
優が黙る。上田中将は口調こそ子どもを諭すような優しさを保っていたが、その目は一切笑っていなかった。
「それについては謝罪します。しかし、ESP能力者もESPエネルギーを感知することが可能です。追撃を避ける為には、あの撹乱は必要不可欠でした」
「ふむ。では、その行為が軍のESPエネルギー探知機をも撹乱することは予想できたんだね?」
中将が繰り返し問う。
詩織には一連のやりとりの意味が分からなかった。一体、中将はどういう答えを求めているのだろう。上田中将は優の責任を問いたいのだろうか?
「はい。予想はしました」
「では、少し待てば軍が支援行動を取る、とも予想できた訳だ。君が気絶して拘束された時点で、相手は君に殺意を持っていない、と判断できる。しかし、君は軍の支援を期待して待機しようとはしなかった。何故だ?」
中将の言葉には批判が含まれていた。
詩織は扉に目をやった。酷く場違いな気がした。しかし、どのタイミングで出ていけばいいのか分からなかった。
「僕、いえ、私が遠方でESPエネルギーを感知したからです。同僚が苦戦しているのを感じ、軍の支援を期待している余裕がないと判断しました」
中将は何かを考えるかのように黙りこんだ。部屋に沈黙がおちる。
詩織は居心地の悪さに目を伏せた。優も、緊張した様子で中将を見ている。
「そうか」
不意に、上田中将が立ち上がった。
「悪かったね。参考になったよ」
そう言って、扉に歩を進める。しかし、詩織が安堵の息を吐いた瞬間、中将の足が止まった。
「最後の質問だ。君は何者であるべきだと思う?」
詩織は質問の意味が分からず、首を傾けた。反対に、優は質問から何かの意図を読み取ったように、真剣な顔で答えた。
「特殊戦術中隊に所属する一兵士です」
上田中将は何も言わず、扉を開けた。上田中将の姿が消え、扉が静かに閉まる。
詩織は優を見た。優も詩織を見ていた。優が苦笑する。
「何だったんだろうね?」
詩織は答えに困って何も言えなかった。優もそれを感じたのか、話を続けようとはせず、ベッドに全体重を預けた。
そしてすぐ、何かに気付いたように跳ね起きる。
「あーっ! そういえば、買ってきたゲームとか全部忘れてきたっ!
思わず、詩織は小さく笑みをこぼした。優との会話で笑ったのは、これが初めてだった。
「あ、そうだ。前に桜井さんが言ってたルーライズのプリン買ってきました」
「覚えてくれてたんだ」
「はい。あそこ凄いですね。プリン以外にも――」
医務室に笑い声が響く。
二人の間に以前のようなぎくしゃくした雰囲気はなかった。
その日、少女は生涯で見れば小さな、けれども本人にとっては大きな、かけがえのない一歩を踏み出した。
そして、停滞していた世界中の時計が動き出す。亡霊が現れて8年。永遠に続くかと思われた不毛な闘いは、この時新たな局面に突入しようとしていた。
亡霊が、軍が、亡霊対策室が、そしてESP能力者――ハーフ達が、それぞれの思惑を抱いて動き出す。
世界は徐々に、だが確実に変わり始めていた。
ページ上へ戻る