提督はただ一度唱和する
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白にはなれない
雪明かりに包まれた大地に赤みが差し、わずかに温もりを増したように思えた。自分の名称そのままであっても、やはり「吹雪」でお日様を見られないのは寂しいと、彼女は昇っていく日輪を歓迎する。何もかもが、白く、凍えていくような世界で、それを無視するかのように薄いセーラー服を着た彼女は、その幼さに見合った呆けた表情でそれを眺めていた。その背に、腕に、武骨な武装を携えたままで。
空は水が染み渡っていくように蒼さを増し、大地が鮮明さを取り戻してく。それでも、漂白された世界に色はない。彼女のわずかに上気した頬が、朝日を浴びて輝いている。未完成のキャンバスで、彼女だけがそこにあった。
口元から零れたもやが、朝日の中に溶けていき、静謐な空間で光が時を刻んでいく。
そのどこか幻想と日常が混じり合ったような奇妙で、美しい光景は、鋭い警報によって切り裂かれた。彼女は驚いた体で振り向き、今まで感嘆と共に見上げていた空を憎々しく睨む。
静寂はなくなり、喧騒が広がっていく。彼女の背後で、うごめく暴力装置が一面の雪化粧を踏み荒らしていく。この場に取り戻されたものと失ったものがせめぎ合い、大きな渦となって彼女の背を圧す。
彼女は歩き始めた。
新雪が蹴散らされ、泥の塊になり、様々な色が生まれて、キャンバスは完成していく。
「吹雪」が良いものであるか、否か。彼女は知らない。
§
深海棲艦なる存在について殊更語るべきことなどない。彼女らは人類の敵対者であり、文明の破壊者であり、捕食者である。交渉は無意味で、その数は限りなく、通信を阻害し、流通を絶って、世界を滅ぼした。
実際のところ、日本が国体を護持しているように、生き残っている国家は少なくないはずである。しかし、僅か200㎞お隣の韓国とでさえ、連絡を取り合うことが出来ないのだ。実際がどうであろうと、ないものとして扱うしかなかった。
彼女らに対抗するために、ありとあらゆる手段が用いられた。通常兵器のみならず、ABC兵器も例外なく投入された。しかし、成果と呼べるものは存在しなかった。人類の講じる手立ては、尽く空振りに終わった。
艦娘と呼ばれる存在についても同じだ。ある日海で見つかり、妖精に保護され、深海棲艦と対となるように人類の味方となった。
彼女らも、ごく当たり前の兵器では傷つかない、摩訶不思議な存在だった。当たり前の事実として、それが流布していることについての想像は止めた。無意味だからだ。
だが、知られていない事実もある。彼女らは石を投げられて額から血を流し、殴られて頬を腫らし、突き出された包丁の一差しで命を落とすのである。
事実、日本防衛軍中尉新城直衛の目の前で、頬を張られた少女が雪の中に埋もれている。助け起こすことも、口を出すことも許されていなかった。彼女は軍属であり、下士官としての待遇が与えられている。彼女は兵士だった。どのような意見があろうとも、彼女への“指導”は妥当なものだった。新城に出来ることは、とりとめのない事を考えながら、虚空を睨みつけることだけであった。
「もう一度試せ。繋がるまで何度でもだ!」
傍らの千早がのどを鳴らす。新城は額を揉んでやった。これ以上の問題はごめんだった。剥き出しになった牙のうえに被った口唇を、更に捲れ上げている。彼女は子供に優しい猫だ。まさか上官に飛びかかるとは思わないが、種族柄率直な態度が上官の不興を買わないとも限らなかった。事実、上官の目が新城に向けられる。
「何か? 新城中尉」
「はい、若菜大尉。御報告申し上げたいことが」
若菜の顔が歪んだ。斥候に出した小隊。その指揮官が自らやってきたのだ。誰だって楽しい気分にはなれないだろう。敗走の最中、それも中隊単独でとなれば尚更だ。加えて、彼らを追い立てるモノは人を喰うバケモノである。新城自身、出来れば共有したかった。そういうわけにもいかなかったが。
「敵です。僕の猫が見つけました。北北西、側道上です」
彼女が一礼して身を翻していくのを横目に、彼は報告した。若菜の視線が、その背中に突き刺さった。だからというわけでもないだろうが、彼女はふらついた足取りで集団の片隅に紛れていった。千早を含めた何匹かの猫が、それを気にする様子を見せた。新城は素早く続けた。
「あと一時間もしないうちに確認できるでしょう。おそらく駆逐艦です」
背後で悲鳴と鳴き声が聞こえた。兵どもの笑い声もだ。若菜の顔がますます歪む。どちらの理由だろう、新城はどこか呑気な気分で考えた。積み重なっていく厄介事から目をそらそうと、努力していた。そうすれば、雪のように溶けてなくならないものかと願いながら。
当然、無理な話だ。北海道の冬の寒さの中で、視界に映るのは雪ばかりだった。溶けるのを待つ間、生きていられる自信はなかった。
「いかがなさいますか?」
若菜からの返事はなかった。小さな呻き声とともに項垂れ、「どうしてこんなことに」と小さく呟いた。
新城はむしろ感心した。この状況で、そのような贅沢の出来る余裕など自分のどこを探しても見つけられなかったからだ。大体からして、自業自得だ。どうして自分がこんなにも苦労していることを、他人はこうも容易くなせるのであろうか。
それについて想いを馳せることは、大いなる誘惑だったが、新城には任務があった。指揮官が半ば、それを放棄したとなればなおさらだった。
取りあえずの問題はなんだろう。自分の背後で猫どもに蹂躙されているものを無視すれば、それは明らかだった。
我々は敗亡の最中にいる。
新城はそれを食い止めねばならなかった。
少なくとも、自分の目が届く範囲に置いては。
後書き
パイマンさんリスペクト
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