フルメタル・アクションヒーローズ
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第193話 一煉寺久美という女
開幕は、一瞬だった。
救芽井との間合いから遠く離れた母さんの脚は、ロビーに並べられた待合用の椅子をサッカーボールのように蹴り飛ばす。そして砲弾の如く風を切り、救芽井の顔面を襲う椅子は――軌道を変え、天井の照明に激突した。
咄嗟に母さんの攻撃手段を察知した救芽井は、椅子が自分に向かって飛んでくる瞬間に構えを取り、上段の蹴り上げで迎撃していたのだ。その一撃により更に弾かれた椅子は今、粉々にされた照明を貫通し、破片を撒き散らしながら天井に突き刺さっている。
この僅か二秒足らずの太刀合わせが、この空間の緊張感を最大限に引き締めていた。――戦いは最早避けられないのだ、と。
「い、今のは……!」
「なるほど、一応の心得はあるのね。中途半端な玉無しの畜生共は大抵、今の一発で終わるのだけれど」
「あなたは、一体ッ……!」
「どこにでもいる平凡な主婦よ。今は、ね」
母さんらしからぬ罵詈雑言。元マフィアだと言うのなら、むしろ自然とも言うべき言葉遣いなのかも知れない――が、そんな背景をついさっき知らされたばかりの俺にとっては、混乱を招く衝撃展開でしかない。
あまりと言えばあまりな光景に、思わず目の前が眩んでしまう。それでも姿勢が崩れないのは、後ろの親父が支えてくれているからだ。
親父はあくまで母さんを信じろ、と言い、その行く末をただ静かに見つめている。横槍を入れさせまいと、俺の肩に力を込めながら。
――そうだ。どんな過去があろうと、俺と兄貴を育ててくれた母さんに違いないのなら……。
「母さん……」
ぶつける先が見つからない拳を震わせて、俺は唇を噛み締めて救芽井を見守る。母の行いを、少しでも信じて。
――にしても、救芽井はよくさっきの椅子キックを見切ったな。俺があそこに居たら間違いなく一発貰うか、最低でも掠める程度のダメージは負っていたはず。少なくともそれくらい、母さんの攻撃は意外性に溢れた速攻だった。
しかし救芽井は、母さんが実際に椅子を蹴る前に行動を起こしていた。まるで、先読みしていたかのように。
……そういや、去年にこっちに来るまでの間は、「救済の先駆者」としてギャングみたいな犯罪組織とも戦ったことがあったらしいが――やはり、否応なしに環境に「学ばされた」結果なのだろうか。
だが、戦いの流れそのものは完全に仕掛けた側の母さんに傾いている。
救芽井が振り上げた脚を下ろした瞬間には、滑り込むような突進の勢いを活かした母さんの連撃が始まっていたのだ。
正拳突きからの回し蹴り――をかわすことを見越した、体全体を回転させてのヒールキック。それを避けられる事態をさらに先読みして放つ、胴回し回転蹴り。
生半可な修練では到底体得できない、空手技の数々。空を切り裂くその轟音が、母さんの技の威力を物語っていた。
それは、直に向き合って回避に徹している救芽井の方が強く実感していることだろう。今のところ一発も食らっていない彼女だったが、その表情は既に母さんに「吞まれて」いた。
「逃げていては、敵は倒せないわよ。救芽井エレクトロニクスのスーパーヒロインが、聞いて呆れるわ」
「あうっ……きゃあ!」
救芽井とは対照的に、激しい動きをしていながら汗一つかいていない母さんは、彼女を更に呑み込むかのように痛烈な肘鉄を繰り出す。それをかわしきれなかった救芽井は、咄嗟に顔面を守るように両腕を構え――容赦無く吹き飛ばされた。
壁に勢いよく叩きつけられた彼女の双丘が、その衝撃を伝えるように激しく揺れ動く。
「あら。立ち上がって来ないのね。まだ、あの子達の痛みの千分の一も味わっていないんじゃないかしら?」
「くっ……」
両腕が痺れたのか、彼女の手は雷に打たれたように痙攣し、立ち上がろうとする膝もかくかくと笑っていた。
――気圧されているのだ。母さんの、有無を言わさぬ力を見せ付けられて。
「……ねぇ。救芽井さん。あなた、大切な人を失う痛み――知ってる?」
「えっ……?」
「私は、知ってる。知ってるのよ」
救芽井の戦意が失われつつあるのを悟ったのか、母さんは構えを解くと、髪を掻き上げて彼女に背を向ける。その向きは俺達にとっても死角であり、母さんの表情は見えない。
「私はかつて、獄久美と呼ばれていた。チャイニーズマフィア……獄炎会頭領の娘としてね」
「獄炎会っ……て、まさか!?」
「そう。あなたが二年前に壊滅させた、麻薬密売や人身売買で当時の香港を裏で牛耳っていたシンジケートよ。――もっとも、二十五年前に父の跡を継いで頭領になっていた私が抜けた時点で、組織としては既にボロボロだったわ。当時設立されたばかりで、まだ後ろ盾が弱かった『救芽井エレクトロニクス』の令嬢だったあなたを拐って、着鎧甲冑の利権を手に入れることで巻き返しを狙っていたようだけれど……見事に返り討ちに遭って一人残らずブタ箱行きになったらしいじゃない」
「……あの頃は、所詮十六歳の女だと侮られていましたから、その隙を突いただけで……そ、それより! どうして、あの獄炎会の人が……!」
ウチの母さんが、かつて敵対していた組織の人間だった。その告白が余程堪えたのか、母さんを問い詰める救芽井の声色は、嘆きの色を濃く滲ませている。
「――私は生まれ落ちた瞬間から、穢れた人生を強いられていたわ。父も、己の醜さを自覚していながら、既に引き返せないところにまで来ていた」
「……」
「それでもあの人は、娘達にだけは少しでも真っ当な生き方をさせようとしていたのよ。私と二つ下の妹は、中学校に入学するまでは護衛も付けずに、ごく普通の子供として暮らせていたの。些細なことでいっぱい喧嘩もしたけど……楽しかったわ。そこを狙った敵対勢力に妹が誘拐されて――惨殺されるまでは」
「……ッ!」
悲劇的な過去を、機械のように淡々と告げる母さんの姿に――救芽井の背筋が凍りつく。同様に、俺と矢村も緊張に肩を震わせた。
「か、母さん……」
「くく、久美さん、そんな過去が、あ、あったん……!?」
「……龍太。賀織君。しっかりと、見ていてあげてくれ。久美のことを」
一方で、親父は緊張どころか母さんに労わるような眼差しを向けつつ、ただ静かにあの背中を見守っている。
母さんの全てを、よく知っているのだろう。――当然か。夫婦なのだから。
「結局、私達は普通の女の子にはなれずじまいだった。普通になった振りをしていただけだったのよ。少なくとも、あの子を殺された時――私に見えていた現実は、それだけが全てだった」
「……お義母様……」
「それから三年間。私は妹の死が原因で病没した父に代わり、周りに言われるがまま、獄炎会の頭領となり――あの人に。龍拳に出会ったわ。彼が、私を取り巻いていた枷を――そんな枷に縋らなければ生きられなかった私自身を、打ちのめしてくれた。気持ちいいくらいに、こてんぱんに、ね」
「それで、日本へ……」
「そう。あの人は私を妻にするために一煉寺を捨て……この町に私を迎え入れてくれた。私は、やっと。やっと、普通を手に入れられたのよ。その証が亮ちゃんであり……太ぁちゃんだった」
「……龍太君、が」
「ええ。そうよ。あの子達の笑顔が。姿が。私に教えてくれた。私が一番欲しかった、幸せの形を」
そこで、一度言葉を止めた母さんは、救芽井の方へ向き直り――かつてない、憤怒の形相を露にする。
「――それを粉々に踏みにじり、私の故郷よりも過酷な死地に、あの子達を引きずり込もうと言うのね。あなたは」
「……!」
「太ぁちゃんは、昔から思い込みが強くておっちょこちょいで――優しい子だった。だからこそ、人命を救うためというあなたの気高さに惹かれたのだと、私は思うの」
「えっ……?」
「素晴らしいことだと思うわ。自らの危険も顧みず、人々の命を助けるための技術を広めて行こうなんて。誰にでも出来ることじゃない……」
母さんは怒りの表情のまま、救芽井を見下ろし――その顔に見合わない賛辞を送っている。親父は、既に母さんは救芽井を認めている、と言っていたが……?
「……だからこそ、そんなあなたが。清く優しい心を持ったあなたが! 普通のままで居て欲しかった太ぁちゃんを導いてしまったことが! 私は! たまらなく! 悔しいのよッ!」
「それがッ……!」
刹那。
ロビーの沈黙を破壊するかのように飛び出した、母さんのキックが。
救芽井がさっきまでもたれ掛かっていた壁を粉砕する。
そして、救芽井は――
「……あなたのお気持ちなのですね、お義母様!」
「その通りよ……あなたはッ――あの子の前で、美しくあり過ぎたッ!」
――母さんの頭上を飛び越えてキックをかわし、背後に回っていた。母さんもそれを察知していたらしく、即座に振り向いて追撃を再開している。
一見、先程と同じ一方的な展開にも見えるが――流れは正反対だ。救芽井に、落ち着きが戻っている。
母さんの本音を垣間見たことで、却って余裕を得ているのだ。
「は、はわわ……どないしよ龍太、このまんまやったら樋稟が……!」
「――いや、もう大丈夫さ。今の救芽井なら、母さんにも負けない!」
狼狽える矢村は瞳を揺らして、母さんと救芽井を交互に見つめる。俺はその小さな肩を抱き、自分自身に言い聞かせるように――あのスーパーヒロインの勝利を宣言した。
そして、その宣言に沿うかの如く。
「美しくなんかない! 私は、ワガママで自己中心的で! 下心もいっぱいで、お義母様の想いにも気づかなくて! そのくせ自分の正義を押し通す勇気もない! それでもッ――!」
「ちぃっ……!」
「――あの人の、今の願いを! あの人が、今やろうとしていることを! 支えることは出来る! 私だって、私だって――」
背後に向かって放たれた後ろ回し蹴りを、翡翠の少女は……艶やかな肢体をしならせるように躱し。
その勢いのままに、宙を舞う。
まるで、曲芸。
更に、滑らかなラインを描く白い脚は、重力を凌ぐ力に吸い寄せられるかのように天井へ向かい、一瞬のうちに彼女の体勢を反転させた。
蒼い瞳が向かう先は――湧き出る激情を抑えきれず、唇を噛みしめる妙齢の仇敵。
その一点だけを見下ろし、彼女は逆さの姿勢から全力で天井を蹴りつける。自らの身体を、母へぶつける砲弾として撃ち出すために。
「――龍太君がッ! 好きなんだからァァァッ!」
そして彼女は、全ての想いを気勢に変えて。
両手を十字に組む母に、全身全霊の飛び蹴りを放つ。
それを受けた瞬間。
母さんの頬を伝った一筋の雫を、俺は見逃さなかった。
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