あの人の幸せは、苦い
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5. 髪、切ってよ
頭にガンガンと走る激痛で、私は目が覚めた。
「……いつつ」
視界の焦点が合わない。周囲がぼやけて見える。心臓がドクンドクンと脈打つたびに、私の頭にガンガンとした痛みが走る。頭を抱えながら立ち上がり、光が差している窓の方へと、足を運んだ。
「いだだだだ……ここどこ……?」
昨日の記憶がはっきりしない。目の焦点が次第に整ってきた。目の前にある、隙間から光が差し込む遮光カーテンを少しだけ開く。
「まぶしっ!? いだだッ!?」
途端に私の両目にお日様の眩しい光が襲いかかり、私の頭痛を刺激した。
相変わらずの激痛を抱えた頭をいたわりながら、私は周囲を見回した。ここは隼鷹と提督の喫茶店だ。足元を見ると、周囲には大量のビールの缶と酒瓶。ワイン、日本酒と焼酎の一升瓶、ウイスキー……ありとあらゆる酒瓶が、私の足元に大量に、無造作に転がっていた。
恐ろしいのは、それらすべてが空っぽなことだ。昨日の宴会の主……つまり私と隼鷹は、これだけ大量の酒を飲んだことになる……
「クカー……」
大きな寝息が聞こえ、ビクンとして私は振り返った。そこにいたのは、一升瓶を抱え、よだれをたらしながら、二人がけのソファーで眠る隼鷹だ。毛布をおなかにかけられて、とても気持ちよさそうにぐっすりと眠っている。
……少しずつ、昨日のことを思い出してきた。確か隼鷹に抱きしめられて散々泣いた後、隼鷹から『よし飲むぞー!』と言われ、私は飲めないって言ったのに、気がついたらぶどうジュースが赤ワインにすりかえられてて……
「おっ。おはよー」
店内の奥へと続く通路から、挨拶とともに提督が顔を見せた。提督の声は、さして大きいわけではない。でも今の二日酔いの私の頭を刺激するには充分すぎる。
「お、おは……いでぃでぃでぃ……」
「ははっ。無理はしなくていいぞー」
頭を抱えてのたうち回る私を尻目に、提督は笑いながら厨房へと消えていく。次に提督が足音を響かせて戻ってきた時、その手にはポカリのペットボトルが握られていた。『ほらっ』と私の方にそれは投げられ、私はそれを、頭を抱えたまま受け取った。
「ありがと……あだだだ……」
「お前、酒全然強くないもんな。隼鷹に付き合ってたら、そら二日酔いにもなるだろ」
私の様子を眺めながら、提督がケラケラと笑う。そのまま隼鷹が寝転ぶソファまで歩き、隣に腰掛けていた。
提督からもらったポカリの蓋をパキリと撚る。その衝撃が頭痛を刺激し、自分の二日酔いの酷さを再認識した後、私は喉を鳴らして勢い良くポカリを飲み干した。
「ぷはっ……」
頭痛が幾分楽になった気がする……頭のぼんやりも多少マシになってきた。
「ねぇ提督」
「んー?」
提督は、隣の隼鷹を優しいまなざしで見つめながら、キレイな髪を撫でていた。
「私の事、隼鷹から聞いた?」
「いや何も。ただ、“川内と一緒に、式を途中で抜けるかもしれない”とは言われてたな」
そっか。隼鷹は、他のみんなには黙っていてくれていたのか。提督の隣で気持ちよさそうに眠る隼鷹には、どれだけ感謝してもし足りない。
「この量の酒も、“準備だけはしとく”って、一昨日ぐらいに隼鷹が準備してたやつだ。だいぶ減るだろうとは思ったけど、まさか全部飲むとは……」
そう言って、提督は苦笑いを浮かべる。黙っていただけじゃなく、振られた私にとことん付き合う準備までしていてくれたのか……さすが、みんなの長で、鎮守府のオカンだった提督の淑女だ。私達のこと、よく見てる……。
「昨日の私たち、どうだった?」
恥ずかしい話だが、昨日の隼鷹との飲みの記憶は、私にはない。覚えてないなら覚えてないで隼鷹自身は笑ってくれるだろうけど、私は、自分がどんな風に酔っていたのか、知る必要がある。
「お前がか?」
「うん」
「えっとな……」
途端に頭をボリボリとかいて満面の苦笑いを浮かべる提督を見て、昨日の私はかなりの醜態をさらしていたのだと思い知った。
「先に言っとくが、俺は同席しなかった」
「うん」
「んで、俺はずっと自分の部屋にいたんだが、時々ここから川内と隼鷹の叫びが聞こえてきてな」
「どんな叫び?」
ここで提督は、迷うように口をもごもごと動かし、プッと吹き出した。私から目を背けて笑う提督は、どうやら私に本当のことを言うか言うまいか、迷っているようだ。
やがて観念したのか、提督は、昨晩聞こえた、私と隼鷹の叫びを教えてくれた。
……
…………
………………
『ハルのアホぉおおおおお!! もう頼まれても夜戦に付き合ってやんないからぁあああ』
『そうだー! あんなやつ、こっちからお断りだぁああああ』
『夜10時になっても、もうハルの店に殴り込みになんか行ってやんないからぁぁあああ』
『寂しくて泣いても、もう手遅れだからなハルぅうううう』
『ちょぉおっと膝枕で耳掃除が上手だからって、私をたぶらかしやがってぇえええ』
『あたしのかわいい川内を振ったハルは、おおバカヤローだぁぁあああ』
『今度会う時は、探照灯で瞳孔ぶち抜いてやるからぁぁああ!! 照明弾でガンガンに照らした後で、魚雷カットインでボッコボコにしてやるからなハルぅううう!!』
『いえーい! やっちまえぇぇえええ!! ぶちかませぇぇええ! ものどもかかれぇええ!!』
………………
…………
……
「……そんな叫びが、何度か聞こえてきた」
……聞かなければよかった……恥ずかしい……せっかく隼鷹が黙っていてくれたのに、これじゃ少なくとも、提督には自分からバラしてしまったようなもんじゃないか……。頭の痛みが取れてきた代わりに、今度は顔が熱くなってきた……
「あ、あの……提督……」
「ん?」
「あのさ……このことは……さ」
「誰にも言わないよ。言ったら、俺が隼鷹に殺される……」
そう言って、相変わらずの苦笑いを浮かべる提督の横では、気持ちよさそうに寝息を立てる隼鷹がいる。気持ちよさそうに口をぽかんと開き、よだれを垂らして眠る淑女は……今は、誰よりも素敵な女性に見えた。
提督が、隼鷹の髪に触れ、いたわるように優しく頭を撫でた。隼鷹を見る提督の目は、まるで球磨を見るハルの眼差しのように、とても優しく、柔らかい。
その後提督が隼鷹のことを色々と話してくれた。隼鷹は、鎮守府で私たちが従軍していた頃から、私のことをずっと心配していたらしい。
私は、ずっとハルのことが好きだった。でも、ハルは球磨と通じ合い、そして二人の仲は強固で揺るぎないものになっていく。その横で、私はずっと静かに、ハルのことを想っていた。
隼鷹は、そんな私に気付いていたらしい。ハルと球磨が結婚するという連絡を受けた時、もし私がまだハルのことを好きでいたら、その時は、やけ酒にとことん付き合うつもりだ……そう考えていたそうだ。
「でもさ提督。隼鷹はさ。提督にはその話、してないんでしょ?」
「うん」
「じゃあなんでそんなこと知ってるの?」
「隼鷹が俺の淑女であるのと同様、俺だって隼鷹の紳士だ。隼鷹の考えてることは、手に取るようにわかるよ」
「そっか」
私の問いにそう答える提督の笑顔は、どことなく、球磨のことを話すハルの笑顔に、重なって見える。
愛する人のことを話す人の、心からの笑顔。
私が愛する人は、私の事を話す時、その笑顔を見せることはない。そして今後、永遠にその笑顔を見せることはない。
でも今、提督の笑顔と、その隣で気持ちよさそうに眠る隼鷹を見ながら思う。
私は、愛する人の笑顔を手に入れることはできなかった。
でも、私が愛するその人は、その笑顔を手に入れる事ができた。
ならば私は、それを喜ぼう。
愛する人が、愛する人の笑顔を手に入れることができた。それは、とても素晴らしいことじゃないか。
今なら、二人を心から祝福出来る。
……ハル、おめでとう。球磨と幸せになってね。
……球磨、私が愛する人を、どうか幸せにしてあげて。
その後私は、中々目覚めない隼鷹をほっといて、提督から温かいコーヒーを淹れてもらった。
「マイスイートハニーほどうまくはないけどな。まぁ飲まないよりは良いだろ」
そう言って笑顔で淹れてくれたコーヒーはとても美味しくて、隼鷹のコーヒーにも負けないぐらい、とても美味しいものだった。
そのまましばらく提督の店で休ませてもらったが、隼鷹はまだ目覚めない。『こらぁ今日は臨時休業かな?』と笑いながら話す提督。その提督が、今日のハルのことを教えてくれた。
「そうなの? ハル、お店にいるの?」
「ああ。新婚旅行には行くらしいが、今日は球磨と北上が用事があるらしくてな。ハルは今日、一人で店番やってるそうだ」
「そっか」
「踏ん切りがついたのなら、会うのは早い方が良いかもしれん」
「……?」
「時間が空けば、気まずくなる。隼鷹のおかげで踏ん切りがついたのなら、早いうちに顔を合わせた方が、後々気まずくないと思うぞ」
ゆっくりと言葉を選びながら話す提督の言葉に、私の心は決まった。今日これから、私は一人で、ハルの店に行く。そして髪を切ってもらって、踏ん切りをつける。
カップの中のコーヒーをすべて飲み干し、私は立ち上がった。
「提督! 私、これからハルの店に行ってくる!」
「一人で大丈夫か? 隼鷹が起きるまで、待っててもいいぞ?」
「大丈夫っ」
覚悟は決めたから。今の私は、あとは踏ん切りをつけるだけだから。
「だから提督! 行ってくる!!」
「分かった。……でも、一旦家に帰って着替えた方がいいぞ?」
「? なんで?」
「自分の格好を考えてみろって……昨日のドレスのままだろ……?」
……ぁあ、そういえば。これは普段着に着替えたほうがいい。靴だってパンプスよりも、いつものスニーカーやデッキシューズの方が歩きやすいし。
提督の助言? アドバイス? を素直に聞き、私は一度自分の部屋に戻って、顔を洗い、服を真っ赤なパーカーとタータンチェックのスカートに着替えた。乱れた髪にブラシを通し、キレイに整えてから、姿見の前に立つ。
「……」
昨日、北上の店にいた、ひどい顔をした自分はどこにもいない。いつもどおりの、夜戦が大好きで賑やかな私が、姿見の向こうに立っていた。
――姉さん やっぱり姉さんは、その色が似合う
ありがと神通。私も、自分には赤が一番似合うと思うよ。
――今日の川内ちゃんは、那珂ちゃんの次ぐらいに輝いてるよっ☆
そだね。今の私なら、那珂より輝いてる自信がある。そうじゃないと、ハルの店には行けないね。
――ぇえ!? 那珂ちゃんより輝いてるってありえないッ!!
聞こえるはずのない那珂からの苦情をすべて聞き流し、私は玄関でコンバースのスニーカーを履いて、ドアをバタンと閉じた。足取りも軽快。やっぱりパンプスよりは、スニーカーの方が動きやすい。二日酔いももうスッキリ抜けた。私はスタスタと心地よいリズムで歩を進め、ハルの床屋へと向かった。
軽快な足取りでハルの新しいお店『バーバーちょもらんま鎮守府“だクマ”』の前まで来た私。窓ガラス越しに、店内の様子を注意深く伺う。店内は、掃き掃除をしているハル一人……今なら、誰にも邪魔されず、私はハルに、髪を切ってもらえる。
「……よし」
空を見上げた。二日酔いの頭にドギつい一撃を見舞ったお日様は、今も気持ちよさそうに輝いて、私のことを元気づける。
意を決し、私は入り口の取っ手を握って、ドアを勢い良く開いた。
「やっほー! ハル!!」
「ぉお!? 川内!?」
突然の私の来訪にびっくりしたのか……はたまた他に理由があるのか、ハルは掃き掃除の手を止め、素っ頓狂な声を上げて驚いていた。
「突然なんだよ!? 来るなんて聞いてなかったから驚くだろ!?」
「まぁーいいじゃんいいじゃん! それよりさ! 髪切ってよハル!!」
「ほんっと、お前って鎮守府にいた頃から変わんないなぁ……」
ハルはぶつくさと文句を言いながらも、手に持っていたほうきを片付け、私を散髪代に案内してくれた。私をソファに座らせ、自分はキャスターのついた椅子に座り、私の髪に背後から触れる。
「相っ変わらずお前、きれいな黒髪してるなー」
「そかな?」
「おう。鎮守府にいた頃から、お前ってキレイな黒髪してるなーってずっと思ってた」
「そっか。ありがと! だったらお礼に……」
「夜戦なら付き合わんぞ」
「ちぇー」
……大丈夫だよ。もう、『夜戦に付き合って』なんて、言わないから。
ひとしきり髪を見てくれた後は、シャンプー台に移動して、髪をシャンプーしてくれる。ちょっと熱めのシャワーの温度が心地良い。
「シャワーの温度はどうだー?」
「ちょうどいいよー。きもちい」
「だろ? お前ってちょっと熱めが好きだもんな」
「うん」
「そう思って、お前の時は前からちょっと熱めにしてるんだ」
「そっかー」
「おう」
「逆に暁ちゃんの時はぬるめとかな。覚えてる限り、出来るだけ温度をその人に合わせてるんだ」
「ふーん……」
「……ま、床屋としての、俺なりの矜持ってやつかな」
知らなかった。お客さんに合わせて、ハルは温度を調節してたのか。
ハルは、見えないところで人を気遣う優しい人だ。眠りに落ちていく加古の頭に枕を滑り込ませたり、球磨の耳掃除をする時はそのまま球磨が寝ちゃってもいいようにこっそりポールサイン止めたり……そんなところに、私は惹かれたのかもしれない。
「かゆいところはないかー?」
……懐かしい。あの頃を思い出した。そして思い出した途端、右足の裏がムズムズしはじめる。
「右足の裏の……」
「却下だッ!!」
そんなお決まりのやりとりが終わった後は、濡れた髪のまま散髪代へと戻り、ハルに髪を切って、整えてもらう。
「……」
「……」
ちょきちょきと心地いいリズムで、ハルのハサミが、私の髪の毛先を整えていく。時折ハルの指が私の髪をくいっとひっぱる、その刺激が心地いい。今、店内に響く音は、ハルのハサミの音だけだ。
「ねーハル」
「んー?」
「ちょっと、髪色を明るくしたいなーって思うんだけど」
なんとなく、私が『髪を染めたい』といったとき、ハルは止めるんじゃないか……そんな気がしてたけど。
「……どうしてもやるってんなら止めないけど、止めた方が良いと思うぞ」
「なんで?」
「川内の黒髪はすごくキレイだ。それを他の色に染めるって、すごくもったいない」
「ふーん……」
「それに、お前には黒髪がよく似合ってる。わざわざそれを捨ててまで、他の髪色にすることはないよ」
「そっかー……じゃあ止めたほうが良いね」
「そうしとけ。お前には黒髪が一番だ」
「うん」
ほら。ハルは、その人に一番合う髪が分かってる。それを相手に押し付けはしないけれど、やんわりと相手にそれを教えてくれる。
ひとしきりちょきちょきと毛先を整えた後は……
「ところでお前、顔そりはどうする?」
「ぁあ、鎮守府で球磨を実験台にしたやつ?」
「おう。あの時は妖怪アホ毛女の策略で正式サービスにはしなかったんだけどな。今は晴れて正式サービスになった」
「んじゃ、やってみる」
「りょーかい。つるっつるのすべすべお肌にしてやる」
こんな感じで、初体験の顔そりもやってくれた。
「せっかくだから、その時球磨にやった顔そりと同じようにやってみて」
「まじかー……」
そう言って苦笑いを浮かべながら、ハルは店の奥で顔そり用のクリームを作り始めた。熱いスチームの音が勢い良く『ぶしゅー』と店内に鳴り響いた時は、何事かとびっくりしたー……。
「んじゃ、顔にクリーム塗ってくぞー」
「はーい」
そう言ったハルに熱々のクリームを顔に塗られていった時、その心地よさに私は昇天しそうになった。そうしてクリームの感触と熱さをひとしきり堪能したあとは、ハルがカミソリでクリームをこそげ取っていく。
「……」
「……」
私は、私の顔に塗られたクリームをカミソリでこそげとっていく、真剣な眼差しのハルの顔を、ジッと見ていた。
「……」
「……」
カミソリのサリサリとした感触は、とても心地良い。そのカミソリを動かすときのハルの顔は、誰よりもカッコよくて、今でさえ、見ていて呆けてしまうほどだ。
……ねえハル? 気付いてた?
私ね。あの時からずっと、ハルのことが好きだったんだよ? あなたのことが、誰よりも何よりも、好きだったんだよ?
夜になったらハルのお店に行って、『やせーん!』て叫びながら窓を開けて、そのたびにハルに怒られて……それがね。とても楽しかったんだよ? ハルに笑いながら怒られることが楽しくて……でも夜戦が出来ないことがなんだか残念で胸がチクチクして……
それでもまたハルに会いたくて……ハルの怒った笑顔が見たくて、次の日の夜にまた、『やせーん!』て言いながら窓をガターンって開いて……
「あの……ハ」
「動くな」
ついハルに話しかけようとし、ハルがそれを制止する。有無を言わさないハルの迫力に、私はつい口をつぐむ。ハルの真摯な眼差しは、私の肌に当てられたカミソリの刃をジッと見つめてる。ハルの意識のすべては今、カミソリに注がれている。私を怪我させないように……私を傷つけてしまわないように。
「……ハイ終わり。お疲れ様」
「ありがと!」
「とはいってもお前、アイツと一緒で全っ然産毛が生えてないのな。すべすべだからびっくりした」
……少し、胸がチクリとした。
「……ん」
「ん?」
「ぁあ、なんでもない」
大丈夫。まだくっついてない傷が、ほんの少し疼いただけだから。
くっついてない傷は、絆創膏を上から貼っておけばいい。そうしていれば、いつの日か、傷はくっついて治っていく。
「んじゃ、またシャンプー台に行ってくれ」
「りょうかいしたよ!」
ハルに言われるままに、私は再度シャンプー台へと移動した。切った毛を洗い落とし、再び散髪台へと移動して、髪を乾かして……
「ほい終わり!」
「ほっ!」
すべてが終わった後、ハルは私の両肩をぽんと叩く。あの頃と変わらない、散髪の終わりを告げる優しいインパクトが、私の身体を心地よく駆け巡った。
そしてその心地いいインパクトは、同時に、私の恋の終わりを告げるインパクトでもある。
「ふぅ! ありがと!!」
「どういたしまして」
「さて、お代はおいくらですかー店長さん?」
「今日は毛先を整えてシャンプーして顔そりしただけだからな。四千円だな」
「はーい」
そんな軽口を叩きながら、私とハルはレジへと移動する。古めかしいタイプライターのようなレジを、ガシガシと打つハルの様子を伺いながら、私は、そこに飾られた一枚の写真を手に取った。
「……これ」
「んじゃお釣りが……ん?」
「懐かしいね」
「ぁあ、それな。懐かしいな。でも懐かしいって言っても、割りと最近なんだけどな」
写真には、球磨の隣にハルがいて、そのハルの隣に、満面の笑みを浮かべる私がいる。
『川内も押すなって……』
『えーだって写真に入り切らないじゃんっ』
『いやそうだけど……くっつきすぎだろっ』
あの時のハルとの会話は、まるで昨日のことのように思い出せる。好きな人に必死になってくっついて、好きな人の困ってる顔を見るのが楽しくて……
「……」
「……川内?」
はじめてこの写真に気付いた時は、私が愛する人が、私とくっついて写っている写真を大切にしてくれていることが、とてもうれしかった。
……でも、今は違う。私たちと同じ時間を過ごした証を、私が愛していた人が、大切にしてくれている。そのことが、私にはうれしい。
「ハル?」
「ん?」
……うん。充分だ。私は充分、この人を吹っ切ることが出来た。
「ありがと!」
「おう。また来てくれな」
「うん! 今度は球磨がいる時に来るね」
「おう。でも夜戦は付き合わんからな」
そう言って、ハルはケラケラと笑う。私は深呼吸し、目の前で楽しそうな笑顔を浮かべて勘違いしているハルに、笑顔でハッキリと宣言した。
「大丈夫だよ」
「?」
「もうハルを夜戦には誘わないから!」
………………
…………
……
笑顔のハルからお釣りを受け取り、入り口のドアを開いて、私は外に出た。外は相変わらずの、気持ちいい晴天。若干暗い室内にいた私の目には、とてもまぶしい。私は右手で日差しを作り、眩しさから目を守った。
「川内」
不意に声をかけられ、私は正面を見上げる。私の前にいたのは、いつもに比べ、若干顔が青ざめた隼鷹だ。
「? どしたの?」
「いや……あんたが、ハルの店に行ったって……いだだだ……提督から、聞いた……からさ……」
「心配して来てくれたの?」
「そうじゃないんだけど……ね……」
そういって隼鷹は、たどたどしい口調で、頭を抱えながら私の問いに答えてくれる。最初私は、私のことを心配して顔色が悪いのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「ひょっとして二日酔い?」
「まぁ……あんだけ飲めば、いくらあたしでも……ね」
「大丈夫?」
「あんたが言うか……いつつ……」
そう言って苦虫を噛み潰したような渋い顔で、私を見つめる隼鷹。どうやら昨日の飲みは、隼鷹にとってもきつかったようだ。でも大丈夫。私の二日酔いもすぐ抜けた。きっと隼鷹の二日酔いもすぐ抜ける。理由は分からないが、そんな気がする。
「それで?」
「ん?」
「散髪はどうだった?」
まだ二日酔いが抜け切ってないであろう隼鷹が、しんどそうに頭を抱え、私にそう問いかける。
私は、空を見上げた。空は気持ちのいい青空。今の私の心のように、とても晴れ晴れとした青空。
目を閉じる。私のまぶたをすり抜けるお日様の光はとてもまぶしい。ほっぺたを撫でる風は、心地よく、そしてひんやりと冷たい。
私は前を向き、隼鷹の顔をしっかりと見つめ、そして笑顔で切り返した。
「うん大丈夫! ちゃんと踏ん切りはつけた!」
「……そっか。よかった」
「うん! 心配かけてごめんね」
「いいよ。可愛いあたしの仲間だからさ」
「んじゃ今度、夜戦に付き合ってあげるよ!」
「冗談言うなって。あたしらはもう艦娘じゃないんだから、夜戦なんかできないじゃん」
「仮に艦娘でも、隼鷹は夜戦出来ないしね」
「まぁね」
お日様があまりに眩しくて……滲んだ左目に、ほんの少し、涙を浮かべたまま。
終わり。
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