あの人の幸せは、苦い
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2. 胸が、少し痛い
北上の喫茶店に続く大通りを、私は今、必死に走っている。少し先に見える交差点の信号は、今は青だ。急げば、赤になる前に渡ることもできそうだ。
――姉さん 急いで下さい
気のせいなのか何なのか、そんな神通の声が聞こえた気がした。言われなくても、こうやって今急いで走ってるって。
――主役じゃなくても、遅れたらダメだよっ!?
那珂にも煽られた気がした。三人の中では私が一番年上のはずなのに……よりにもよって、那珂にそんなこと言われるだなんて、思ってなかった。
大きな交差点に差し掛かる。ここを渡り、左に曲がってしばらく進めば、北上の店だ。私は走るスピードを上げた。横断歩道の青信号が、パカパカと点滅を始めた。
「ハッ……ハッ……間に合え……間に合え……ッ!!」
あと数歩で横断歩道に差し掛かるその時、信号が赤になった。そのまま走り抜けることも考えたが……
「ハッ……ハッ……ハッ……」
今の私には少し、気力が足りなかった。それに、靴もパンプスでは走り辛い。履きなれたスニーカーやデッキシューズなら、もうちょっと早く走れて、間に合っていたのかもしれないけれど。
「ハッ……ハッ……」
服もまずかった。普段はもっと動きやすいスポーティーなものを着ることが多いのに、今日は結婚パーティーということもあって、ワンピースのドレスを着ている。これでは動きづらいし、万が一転倒してしまったら、それこそ悲惨だ。
……無駄な努力をしてしまった自分の愚かさを、少し反省した。なんだか今日は、やることなすこと、うまくいかない……
……
…………
………………
朝食のバナナを食べ終わった私は、そのまま結婚式へと向かうための準備を進めたのだが……思いの外、身だしなみを整えるのに手間取ってしまった。
寝癖の酷い髪を整えようと、ブラシで髪を梳かしたのだが……寝癖が全く収まらない。根気強くブラシを何度も通したが、なんど梳かしても、びよんと小さな寝癖が持ち上がる……。
「……仕方ない。シャワー浴びるか」
あまりに寝癖が収まらないため、頭だけシャンプーすることに決めた私は、浴室の蛇口をひねり、お湯を出した。
「ひゃっ!?」
途端に、蛇口ではなく私の背後の壁面にぶら下げられたシャワーから、冷たい水が私の体に吹き付けられた。
「……もーっ」
どうやら昨日の私は、シャワーを使い終わった後、蛇口の切り替えをシャワーから元に戻すことを忘れていたらしい。すぐに蛇口をひねって水を止めたが、おかげで今の私はずぶ濡れだ。まだお湯にすらなってない冷たい水だったから、体も少し冷えてきた。
「……なんか、バカみたいだ」
髪から滴り落ちた冷たい水が、私の顔を少し濡らした。目尻を伝って目にも届いた水が、私の目尻を伝い、水浸しの浴室にぽたりと落ちた。
――姉さん
……うん。わかってるよ神通。早く準備しなきゃね。
――そうだよ とっても似合うキレイなワンピース、準備したんだからっ
うん。今日のために精一杯悩んで買った、黄色がキレイなワンピースだもんね。着なきゃもったいないよね。あの人に会うんだから。少しでも、キレイな自分でいなきゃね。
気持ちを持ち上げて、もう一度蛇口をひねってお湯を出す。今度は、出す前にキチンと蛇口に切り替えて。
そうして頭を洗い寝癖を直した後は、キチンと髪を乾かした。こんな時だからお化粧もちゃんとしようかと、ファンデーションをポンポンと肌に乗せたところで……
――あまり塗っちゃダメだよ?
川内ちゃんは肌がとっても綺麗なんだからっ
と、那珂に言われた気がして、慌ててうっすらメイクに切り替える。さすが私の姉妹だ。私のことを、よく知っている。それに時間も押している。あまり悠長に準備している時間はない。
――姉さん こういう時は、いつもより慎重に持ち物確認を
神通のそんな一言で、出る直前に携帯電話と財布を忘れている事に気づいた。慌ててそれらをバッグに入れ、私は改めて、姿見の前に立ち、自分の姿を確認する。
「……」
いつもと違い、鮮やかな黄色のワンピース・ドレスを着た私が、鏡の向こう側にいた。腰に大きなグリーンのリボンを巻いたこのドレスは、以前にあの人に言われたアドバイスを活かしたものだ。
『川内はあれだな。赤がよく似合うけど、黄色も似合いそうだな』
『そお?』
『おう。赤が似合うやつは黒も似合うって言うけどな。お前の場合は赤と黄色……なんか明るい暖色系が似合いそうだ』
『……』
『次に服買うときにでも、黄色を合わせてみ。買ってみろとは言わんが、試着だけならタダだしな』
『うん……へへ……』
あの日のそんなやり取りを思い出し、自然と口がほころんだ。彼にとっては他愛ないはずのやりとりでも、私の中では、宝石のようにキラキラと輝く思い出だ。
――姉さんっ
ハッとする。想定外のシャワーの時間があったから、予定よりだいぶ時間が押している。このままでは結婚式に遅刻してしまう……。
「しまった……急がなきゃ……ッ!!」
慌てて玄関まで走り、履きなれないパンプスを履いて、私は急いで目的地である、結婚式の会場、北上の喫茶店『ミア&リリー』へと駆けた。
………………
…………
……
そうして今、青信号のうちに交差点を渡りきることが出来ず、私は今、横断歩道の前で、前かがみの姿勢で肩で息を切らしている。
「ハッ……ハッ……」
『これで遅刻確定だ』私の心の中で、私の声が、そうつぶやく。そして、そのことに、心の何処かでホッとしている自分に気がついた。
左右の信号機の青が、パカパカと点滅しはじめた。
『先に進まなければならなくなる』
言い知れない不安が私の胸を襲った。即座に首を振る。
点滅していた信号が赤に変わった。前を向き、息を整える。
――行こっ
うん。わかってるよ那珂。行こう。背筋を伸ばし、目の前の信号が青に変わるのを待つ。やがて交差点を行き交う車たちが動きを止め、しばらくの間のあと、目の前の信号が青に変わった。
「よしっ」
意を決し、私は再び走り出した。
腕時計を見ながら必死に駆け、北上の喫茶店『ミア&リリー』の前に到着した時、すでに約束の時間を30分ほど過ぎていた。これがフォーマルな場や作戦行動じゃなくてよかったと安堵し、私は入り口ドアの取っ手を握って勢い良くドアを開く。ハルの『バーバーちょもらんま鎮守府』と同じ音のベルが鳴り、店内に私の来訪と遅刻を知らせた。
「ごめーん! 遅れた〜!!」
気まずさをごまかしたくて、わざとベルに負けない大声で、店内に自分の来訪を告げる。店内には、すでにあのときの懐かしい顔ぶれが……でもハルと球磨の姿はなく……揃っていた。皆それぞれにおめかししてて、みんなよく似合っている。
北上はいつもの、あのときのセーラー服を着ているけれど、それが逆に懐かしい。加古は加古で、やっぱり以前のセーラー服を着ているが、窓際の席で寝転がっている。あの時と変わらない二人の姿は、私に少しだけ、安心をもたらしてくれた。
「はーい。川内も到着したから、やっと始められるねー」
「ごめん北上! お詫びに今度夜戦に付き合ってあげるから!!」
「んー……まぁ、それはいいや」
手を合わせて詫びる私に北上は苦笑いを浮かべたあと、お店の奥へと消えていった。せっかく夜戦に付き合ってあげるってのに。……でも、戦わなくなった今、夜戦ってなにすればいいんだろう?
「遅刻よっ」
「ごめんごめん」
黒のカクテルドレスにベージュのストールをまとったビス子が、ドアの前に立つ私の元に、コツコツと足音を響かせてやってきた。以前から着ている服が黒だっただけに黒のドレスがよく似合うし、何よりこういう格好をすると、気品が漂っている。さすが金髪碧眼。一人前のレディーは伊達じゃない。
一方のもう一人の一人前のれでぃー暁は、提督に肩車をしてもらってはしゃいでいた。暁もいっちょまえにピンク色のカクテルドレスを着ていて……いや、ドレスに着られている。でもその様子が、逆に微笑ましくて可愛らしい。響の形見の白い帽子は、今日もしっかりかぶられていた。確かにちょっと浮いているけれど、あれがないと逆に暁じゃないもんね。その姿には、妙な安心感がある。
提督は提督で、鎮守府にいたときの白い上下のスーツを着ていた。気のせいか、あの頃よりもさらに輪をかけて顔つきが優しい。戦いを離れて隼鷹と暮らし始めて、戦闘のことを気にかける必要がなくなったからだろうか。
「きゃー! しれいかーん!!」
「もうちょっと上に手を伸ばしてみろ! 天井に手が届くんじゃないか?」
「ほんとだー!」
「さすが一人前のれでぃーだなー!」
「やったー!!」
そんな風に肩車ではしゃく二人を見ながら、私は本当に戦争は終わったんだなぁと実感した。フと気になって、隼鷹の様子を伺ってみた。
「……」
まるで本当の親子のようにはしゃぐ提督と暁を、隼鷹は優しい微笑みを浮かべながら眺めていた。提督もそうだが、隼鷹もあの頃に比べ、少し表情が柔らかくなった気がする。キャッキャキャッキャと騒ぐ二人を見て、自分と提督の将来を想像しているのかもしれない。
――私は、ああはなれない……
フと、胸にチクッとした痛みが走る。気のせいだ、そんな痛みなどないと自分に言い聞かせ、私は提督と暁を視界から外した。
「……」
「……」
「……あ」
「ん?」
隼鷹と目があった。隼鷹はいつの間にか、私の方を見ていたみたい。目があった途端、隼鷹は照れくさそうに『タハハ……』と苦笑いを浮かべた。二人の親子を微笑ましく眺めていた自分が照れくさくなったのか?
そんな隼鷹は、今日は明るいピンク寄りの紫色に輝く、キラキラと眩しいカクテルドレスを着ていた。以前に提督から、『隼鷹から星がこぼれる音が聞こえた』から、結婚を決意したと聞いたことがある。あんなにキラキラと輝いていたら、たしかにそんな音が聞こえてもおかしくはない。
『そろそろいいよー』
『あいよー』
『うう……恥ずかしいクマ……』
そんな声が店の奥から聞こえ、私の胸がドキンとした。
『だーいじょうぶだってー。球磨姉ホントに似合っててキレイだからー』
『は、張り倒すクマ……』
『だってさハル兄さん。ご愁傷様』
『なぜ俺に振る?』
嫌な緊張が胸に走る。心臓が、バクバクと嫌な鼓動をし始めた。何処かで『いやだ』『見せないで』と悲鳴を上げる私の心の声に、私は気付かないふりをした。
『うう……やっぱり行くクマ?』
『主役はお前だろうが……』
『ハルだけ行くのはダメクマ?』
そんな、微笑ましい……でも聞きたくない……会話が聞こえ、店の奥からコツコツと足音が響き始める。最初に姿を現したのは、北上。
「それじゃみなさん。テーブルのカゴの中にあるクラッカーを一人ひとつずつ、準備してね~」
言われるままに、私たちはテーブルの上を見た。白木で編まれたカゴの中に、クラッカーがいくつか入っている。私は心境の変化を周囲にさとられないよう気をつけながら、手を伸ばし、クラッカーを一つ取った。
「よっ……」
「……」
隼鷹が、ずっと私のことを見ていたのがちょっと気になった。気のせいだとは思うけど……
手の中の小さなクラッカーをじっと見つめる。北上が『二人が入ってきたら鳴らしてあげてね』といい、店の奥に『いいよー』と声をかけた。
――出てこないで
この喫茶店『ミア&リリー』は、床が木製で、歩くたびにコツコツといい音がなる。そんな厳かな足音が店の奥から二人分、聞こえてきた。一つは少し音が軽い。球磨はハイヒールでも履いてるのかな……と気を紛らわしていたら。
「タッハッハッ……」
こんなホームパーティーに似つかわしくない、黒のタキシードに身を包んだハルが出てきた。
「ハハ……やっぱりちょっと照れくさいな……」
顔をちょっと紅潮させ、照れくさそうに苦笑いを浮かべるハル。暁が『ハルかっこいい! やっぱりハルも一人前のれでぃー!!』と歓声を上げ、みんなの笑いを誘った。
さっきの胸の不快感が一瞬で消え去り、私の目は、ハルに釘付けになった。
ハルは、同年代の男性に比べて、背が高く、体型も少し細い。そんなハルが着ているのは、タイトな黒のタキシード。少し着崩しているが、それが逆にハルらしくてよく似合っている。
「いいじゃん! ハル似合ってるよ!」
「ありがとなー隼鷹! お前に服装褒められるとすんげーうれしい!」
そんな隼鷹とハルのやりとりすら耳に届かない。ただ、私にわかるのは、ハルが本当に嬉しそうに笑っていることだけだ。笑顔のハルは、本当に、キラキラと輝いて見えた。
――だめ
私の胸は意に反して、少しずつ、心地よくドキドキし始めていた。
「はーい。つづいて今日の主役の登場だよー」
「俺も主役じゃないんかいっ」
「さっき自分で『主役は球磨姉』って言ってたじゃん」
「確かに……」
ハッとする。北上が再び店の奥に消え、『早く出てきなよー』と声をかけていた。その後、コツコツと軽い足音とともに店の奥から姿を見せたのは、私の友達のはずなのに、まるで別人みたいに見慣れない、球磨型軽巡洋艦の一番艦。
「うう……」
「うわぁあああ〜!! 球磨きれい〜!!」
「ほんとよく似合ってるわ! 馬子にも衣装ってこのことかしら?」
「そら褒め言葉じゃないよビス子……」
ベールこそつけてないが、純白のドレスに身を包んだ球磨が、アホ毛と口を恥ずかしそうにムニムニと動かし、真っ赤な顔で私たちの前に姿を表した。両手でスカートを掴んで持ち上げているから、ロングスカートが歩き辛いのかも。でも、そんな仕草が不思議とよく似合う。
「いや、ホントあの頃とは全然違うな!」
「う……て、提督は今度張り倒すクマっ」
「おれだけの淑女の次ぐらいにキレイだぞ球磨!!」
「アンタ、あたしが明日張り倒す」
相変わらずの提督と隼鷹はさておいて……
「く、クマ……」
「なんだよみんなに挨拶しろよ」
「うう……」
クマがハルのすぐそばに逃げるようにやってきて、ハルの袖をちょいっとつまむ。その後ぐいっと引っ張って自分の元に引き寄せた後、
「……っ」
「? どうした?」
「は、恥ずかしいクマ……」
真っ赤な顔でそう言った後、私たちから顔を背け、ハルの胸に顔を押し付けていた。ハルの腰に手を回し、結構な力でハルにしがみついているのが、見ている私にも伝わってきた。
「あ、あの球磨が甘えてるわ……!?」
「か、可愛い……」
初めて見る球磨がハルに甘えている姿に、私はもちろん、みんなも驚愕の表情で浮かべる。
鎮守府にいた頃は、球磨はどちらかというと男の子っぽい子だった。いつもハーフパンツ履いてたし、事あるごとにハルに肉体言語系の激しいツッコミを入れていたし。あの頃の二人は、恋人同士や思い合っている二人というよりは、腐れ縁の幼馴染という雰囲気が強かった。
だけど。
「なんだよ。いつもみたいに傍若無人に振る舞えよ妖怪アホ毛女なんだから」
「だ、黙れクマっ」
「みんなの前で甘えられると俺まで恥ずかしい」
「こ……今晩、張り倒す……クマっ」
「はいはい……」
こんな風に甘える球磨と、球磨だけに優しい笑顔を向けるハルを見て、二人は、本当の意味で、結ばれていたんだなぁと実感した。
――チクッ
二人を祝福したい気持ちとは裏腹に、私の胸に、小さなまち針が刺さっていた。その痛みはとても小さいけれど、いつまでもいつまでも、チクチクと疼き続けた。
だからか、そんな私を隼鷹がジッと見つめていたことに、気が付かなかった。
不意に鳴った、『パン』という軽い破裂音にハッとする私。主砲の音ととても良く似ているけれど、あの時よりも耳に心地よくて、クセのある火薬の匂いが鼻についた。
「ふたりとも、おめでと」
いつの間にか起きていた加古が、笑顔でクラッカーを握っていた。加古の頭に、色とりどりのテープが乗っかっている。クラッカーから飛び出した紙テープが、加古の頭にかかったみたいだ。
「……ははっ」
「そうね」
「そうよね」
そしてみんなの『おめでとー!!』の大合唱とともに、クラッカーが火薬の匂いを周囲に振りまきながら、パンパンと次々に鳴らされた。
「ありがとう! みんなありがとう!!」
「ありがとクマ……みんな、ありがと……クマっ」
満面の笑みの二人に降りかかる、たくさんの紙テープ。以前は戦場の空気でしかなかった火薬の匂いが、今は幸せの香りとして、ハルと球磨を包んでいる。
「おめでと! ふたりともおめでとう!!」
私もクラッカーを鳴らす。二人ともおめでとう。私は心からそう思い、二人の幸せを祝福した。
『ねーハルー!?』
『なんだよ妖怪夜戦女!?』
『いつになったら私とさー。夜戦してくれるの?』
『そんな日は永遠に来ないと断言してやるっ』
『じゃさじゃさ! 二人の結婚式の時に夜戦を……』
『二人って、誰とだよ?』
『ハルと……球磨の』
『それこそ永遠にないわッ』
――冗談でも、私は信じてたよ
記憶の中に鮮明に残る、あの日の言葉を信じて待ち続けた私の心の声には、気づかないふりをして。
「ありがとな川内!」
「んーん。本当におめでとうハル!!」
そう言って笑うハルを、私は見つめ返す。二人が纏うのは、今となっては懐かしい、火薬の香り。
そんな、二人にとっての幸せの香りは、私には少し、きつかった。
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