僕を優しく……でも力強い言葉で元気をくれたロドニーさんは、最後に『いい報告を期待している』と言い残して、練習室を出て行った。
僕は今、一人で静かに鳳翔さんを待ち続けている。チューニングは済ませた。譜面の準備も済んでいる……といっても、最近ずっと練習していた曲だから、すでに暗譜しているけれど……それでも、譜面には色々と書き込みや注意書きをしてある。出しておいて、損はない。
「……」
窓からは、眩しいぐらいの西日が差し込んでいる。この部屋の窓は南向きだけど、窓の面積がとても広い。だから夕方になれば西日もよく差し込む。いつもはカーテンを閉じているんだけど……
『カーテン、汚いですね……』
と赤城さんがそのカーテンを剥ぎとってしまったため、今は西日が盛大に差し込んだ状態だ。とはいえ言うほど眩しいわけではないし、オレンジ色がキレイだから、まぁいいか。
しずかに目を閉じて、神経を研ぎすませる。緊張のため胸がバクバクと激しい鼓動を繰り返しているけれど、大丈夫。ロドニーさんの言葉のおかげで、今の僕の頭は驚くほどクリアだ。
しばらく一人で椅子に座って待ち続けていると、とんとんという、優しいノックの音が鳴った。
「どうぞ」
ノックの主を、室内に招き入れる。静かにドアが開き……
「あの……いただいた招待状にはここが会場だと伺ったのですが……」
開いたドアの向こう側から、いつもの和服の鳳翔さんが、恐る恐る、足を踏み入れた。
「どうぞ。お待ちしてました!」
立ち上がり、鳳翔さんに歩み寄って、彼女を室内に誘う。
「ぁあ! 智久さん!」
「来てくれたんですね鳳翔さんっ」
僕の顔を見た途端、鳳翔さんの顔がふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。ここは鳳翔さんにとっては馴染みのない場所なわけだし、僕の顔を見て、安心してくれたのかも。
「ええ。知り合いの子ふたりから、こんな招待状をいただきまして」
鳳翔さんが、懐から一枚のポストカードを取り出して、それを僕に見せてくれた。渡されたポストカードに目を通す。
「……う」
「なんだか今日、智久さんが出演する音楽発表会があると聞いて、わくわくして……来ちゃったんですけれど……」
……もうね。ひと目でわかる。作ったのは大淀パソコンスクールの誰かなんだろうけれど、プロデューサーというかディレクターの趣味嗜好が全面に押し出たこの招待状……なんで発表会の招待状なのに、お日様のマークが入ってるの? どうしてラストは『これで貴公も太陽の戦士ッ!!』て、鳳翔さんを勧誘してるの?
でも。
――がんばれ普賢院智久ッ!!!
貴公に、炎の導きのあらんことを!!!
そのポストカードから、ソラールさんの激励の言葉が、聞こえた気がした。
「ソラールさん……」
「?」
「あ、ごめんなさい。これ、お返ししますね」
「はい」
鳳翔さんにポストカードを返し、僕は彼女を、たった一つだけ準備された、観客席へと案内した。上等な椅子ではないけれど、今日、鳳翔さんのためだけに準備された、特別な席。
「はい、どうぞ鳳翔さん」
「はい。ありがとうございます」
鳳翔さんが据わったのを確認して、僕は自分の席に戻り、左手でチェロを立たせ、支える。その間鳳翔さんは、落ち着かないように周囲をキョロキョロと見回した。招待状には何も書いてなかったから、観客が自分だけだとは、まだ気付いてないようだ。
「あの……智久さん?」
「はい?」
「他の皆さんは?」
「いません」
「ふぇっ!?」
途端にうろたえる鳳翔さんの姿が、なんだかとてもおかしい。
「ロドニーさんとか、仲よかったですよね?」
「ええ」
「天龍二世さんとか……」
「来ません」
「で、でも……」
顔を真っ赤にして、『みんなはどうした?』と聞いてくる鳳翔さんは、本当に新鮮で、こんな素敵な人にこんなことを言うのも何だけど、その様子は、とてもかわいらしい。
「……今日の発表会は、鳳翔さんのための、発表会です」
「……へ?」
「剣術大会の日、覚えてませんか?」
「……あ、あの、みんなでご飯を食べた……」
「そうです。あの日鳳翔さんは、僕のチェロを聞いてみたいと言ってくれました」
「……」
「ですから今日は……鳳翔さんに、僕のチェロを、聞いて、欲しくて……」
さっきまでは胸がバクバクしていたけれど、比較的頭はクリアだったのに……いざ、鳳翔さんに『聞いて下さい』と言おうとすると、とたんに胸を生ぬるい風か吹き抜ける。
「……ッ」
「?」
「聞いて、……欲しくて……」
「大丈夫ですか?」
――大丈夫だ普賢院智久
「……は、はい。あの日、ご飯を作ってくれたお礼に、僕の演奏を聞いてもらえればと、思いまして」
「そんなっ! あの日のお昼ごはんは、大会に出てくれたお礼なのにっ!」
違うんです鳳翔さん。お礼だけじゃないんです。……僕はあなたに、気持ちを伝えたいんです。
「……じゃ、じゃあ! いつも美味しいお味噌汁を頂いているお礼……ということで!!」
普段の五分の一ぐらいの回転数の頭で、なんとか思いついた口実。それを聞いた鳳翔さんは、なにか言いたげに口をもごもごさせたあと、不満気に口をぷくっと膨らませ、僕から目を逸らした。ホント、今日は今まで見たことない鳳翔さんの顔が、色々と見られてとても楽しい。顔、真っ赤っかだし。
「……そ、そういう、ことなら……」
「ありがとうございますっ!」
僕のお礼を、鳳翔さんはふくれっ面で受け取った。それが何を意味するのか……僕にはさっぱり分からない。でも、すぐに期限が直ったみたいでふくれっ面は収まったから、心配するほどのことではないようだ。
「智久さん」
「はい?」
「それで、今日の曲目は何ですか?」
弓を取り、譜面に目をやる。曲目は決まっている。ここのところ、僕がずっと練習をしていた曲だ。優雅で美しく、それでいてどこか楽しげで、優しい……シンプルで僕みたいな初心者にはうってつけだけど、だからこそ、奏者の腕と気持ちが如実に表れる、僕が、鳳翔さんに気持ちを伝えるのにふさわしい曲。
「作曲サン=サーンス、『動物の謝肉祭』の13曲、『白鳥』です」
「13曲もあるんですか?」
「いえいえ、13番目の曲だよ、という意味です」
途端に『へぇえ〜』とうっすらと笑顔を浮かべた鳳翔さんに癒やされ、僕は、弓を弦に当てた。
目を閉じ、最初の音をイメージする。心を研ぎ澄ませ、右手の弓と左手に感じる一弦に、意識を……気持ちを、乗せた。
――大丈夫だ
固唾を呑んで見守る鳳翔さんの視線を感じながら、僕は、目を閉じたまま、弓を動かした。
「……」
「……」
出だしは、静かに。少しずつ盛り上がり、同じフレーズをもう一度……。
「……」
鳳翔さん。あなたが好きです。
あなたのお味噌汁を飲むことが……あなたからご飯を受け取る時、あなたと二言三言、言葉をかわす時間が、僕には、とても大切な時間でした。あなたの言葉は、僕にとって、星空のようにキラキラと輝くものでした。
曲調がほんの少しだけ変わる。まるで告白への不安と恐怖に襲われた僕のように、ほんの少し、曲調に、影が落ちる。
鳳翔さん。こんな僕に対して、あなたは『優しい』と言ってくれました。『あなたのチェロは、あなたのようにきっと優しい』と言ってくれました。
あなたは、試合でロドニーさんに負けた僕に、手厳しいけど、とても誠実に向き合ってくれました。真摯に、言葉を選んで、僕を導いてくれました。冷たい氷を準備して、僕のたんこぶを冷やしてくれた優しさが、僕はどれだけうれしかったことか……最も、そのあと冷たい手で、僕の首筋をつっつくというイタズラをしてくれましたけど……でもその時のあなたは、誰よりもキレイで、尊い後ろ姿を見せてくれました。
曲が終わりに近づく。最初のフレーズをもう一度繰り返す。弓に静かに気持ちを込め、自分の心を、音に乗せて、僕は鳳翔さんに気持ちを伝える。
もう一度、言います。
鳳翔さん。僕は、あなたが好きです。あなたのことが、好きです……。
………………
…………
……
僕の告白が、終わった。
「……」
「……」
演奏中、ずっと閉じていた目を開いた。途端に、オレンジ色の光が僕の目を刺激する。
「鳳翔……さん……」
「……」
眩しいオレンジ色の夕日の中、僕は鳳翔さんを見た。伝わったのだろうか……僕のこの気持ちは、鳳翔さんの心に、伝わったのだろうか……再び胸がバクバクと音を立て始めた。喉が息苦しい……
「ぼ、僕の……演奏は……」
「……」
「いかが……でしたか……?」
オレンジ色の夕日の中、鳳翔さんは、まるでお風呂上りの時のように、ほっぺたをほんのりと紅潮させ、ただ、ぽうっと僕のことを見つめている。僕の言葉に対する、鳳翔さんの反応が怖い……もし、何も伝わってなかったら……もし、僕の気持ちを拒絶されたら……
「あ、あの……」
「……」
これ以上、この沈黙に耐えられない……告白が終わった僕の心が、この状況に悲鳴を上げ始めた時。練習室に、パチ……パチ……という、とても小さく、そして拙い、拍手の音が鳴り響きはじめた。
「……へ」
その拍手が少しずつ大きくなる。手を叩いていたのは、夕日に照らされた鳳翔さん。ぽうっと上気した顔のままいつの間にか立ち上がり、パチパチと拍手をしてくれていた。
「……思った通りでした」
「……?」
「思った通り……智久さんのように、とても優しい……とても……とても素敵な、演奏でした……」
「……ありがとう」
……よかった。僕は、鳳翔さんが思い描いていた通りの演奏ができていた……その喜びが、じんわりと、胸に広がる。
でも、気持ちは? 『白鳥』に乗せた僕の気持ちは、鳳翔さんに伝わったのだろうか……? 僕の口が、『言うな』という僕の意識の制御を離れて、勝手に言葉を紡ぎ始めた。
身体も勝手に動き出した。チェロのエンドピンを引っ込めてその場に置き、僕は立ち上がって、鳳翔さんの元に歩み寄った。
「……鳳翔さん」
「はい」
「……伝わりましたか? ……『白鳥』に乗せた僕の気持ちは……」
鳳翔さんがハッとする。少しだけ目を見開いた後、夕日の中でもわかるほどほっぺたを赤く染め、恥ずかしそうにうつむき、拍手していた両手をもじもじと動かした。
「あの……」
「……」
「……僕は、あなたが……」
「あ、あの……!!!」
音だけでなく、言葉で自分の気持ちを伝えようとした僕の口を、鳳翔さんは、自分の言葉で強引に塞いだ。その後、僕の前で肩を小さくし、しばらくもじもじと全身を動かした後、僕の大好きなふんわりとした笑顔を僕に向けて、こう言った。
「……あの」
「はい」
「……また、聴かせて下さい。あなたの気持ちが篭った、優しくて智久さんらしい、素敵な曲を」
「へ……」
僕ははじめ、鳳翔さんの言葉の意味が分からなかった。これは、体のいい拒絶の言葉なのだろうか……そうとすら思ったのだけれど。
「私は、あなたの気持ちが乗った素敵な曲が、とても好きです。何度でも何度でも、あなたの曲を……あなたの気持ちを、聴かせて下さい」
「……」
「その代わり私も、あなたに気持ちを届けます。あなたが褒めてくれた……あなたが美味しそうに飲んでくれるお味噌汁で、何度でも何度でも、あなたに気持ちを伝えます」
「……」
「それが……今日、智久さんが私に伝えてくれた気持ちへの、私のお返事です」
それは、僕の勘違いだった。僕の気持ちを、鳳翔さんは受け入れてくれたみたいだ。その事実は、時間差で少しずつ、僕の心に、じんわりと染みこんでいった。
「ほ、鳳翔さん……」
「……はい」
「それって……僕の、き、気持ちを……」
「……」
不意に、僕が今まで聞いたことのない『メキッ』という音が、僕の背後で、聞こえた気がした。
「「?」」
鳳翔さんの頭の上に、はてなマークが浮かんだのが見える……もちろん、僕の頭の上にも浮かんでるだろう。今の音は何だ?
……でも、夕日に照らされた練習室で、鳳翔さんと二人、意思表示をしているという、とてもロマンチックな状況に再び呑まれた僕は、再度鳳翔さんと見つめ合い、お互いの意志を確認する。
「ほ、鳳翔さん……」
「はい」
「今の言葉って……僕の……」
……また『メシッ』て鳴った。しかもその後、『パラパラ』という軽い音と共に、天井から細かな埃が落ちてきてる気もする……。
「……」
「……タハハ」
何かを悟った鳳翔さんが、とたんに苦笑いを浮かべ始めた。僕はゆっくりと後ろを振り向き、どうも様子がおかしい気がする天井を見上げた。
「……」
「……」
『……』
……気のせいか、天井から、人の気配を感じる気がする……。
三度、天井から『メシッ』という音が聞こえた。パラパラという音とともに、天井の隙間から、埃も降ってきた。
そしてそれ以上に……
『ば、バレてるんじゃないでしょうか……?』
『バカなっ……青葉に教わったとおりに隠れたぞ?』
『いや、でも……普賢院さん、ジッとこっちを見て……』
『た、助けてくれ……太陽……っ』
『コ、コワイカッ……』
ポソポソとそんな声が、天井裏から聞こえてきている……さっきは演奏で必死になっていたから気付かなかったけれど……この声の主は……ッ!!!
「ロドニーさんですかッ!?」
確信を得た僕が声を張り上げ、容疑者の名を叫んだその途端、天井がバリバリと崩れ、ホコリまみれの人物が三人と、小さい人影が2つ、天井から落っこちてきた。
「バカなッ!?」
「ひいッ!?」
「赤城も!?」
「ォオオッ!!?」
「コワイカッ!?」
「ちょ!? みんなして!!?」
周囲に埃を撒き散らし、三人プラス二人の重犯罪人は、天井の大穴の下でうずくまる。ロドニーさんと赤城さんはキレイな髪がホコリまみれだし、ソラールさんのお日様もほこりまみれでくすんでる。でも、僕と鳳翔さんを覗き見られていたという事実は変わらない。僕の心が、ふつふつと湧いてきた怒りに、少しずつ支配されてきていた。
「なにやってるんですかみんなして!!?」
「い、いやあの……落ち着け普賢院智久……」
「さっきは僕を勇気づけてくれたのにッ!! すごくロドニーさんに感謝してるのにッ!!」
「大丈夫だ普賢院智久。キリッ」
「さっきのセリフを台無しにしないで下さいッ!! ソラールさんも!! ホコリでお日様くすんじゃってるじゃないですかッ!!」
「さすがだ普賢院智久。俺の太陽の心配をしてくれるとは。キリッ」
「うまく話をそらそうとしてもダメですっ!!」
こんな具合で、合計五人ののぞき見犯たちに説教を食らわせる僕。大体、告白の場をみんなで覗き見るって、一体どんな性根の持ち主なんだよッ!!
「うがーッ!!」
「お、落ち着いて下さい普賢院さん」
「落ち着いてられませんッ!! どう落ち着けと言うんですか赤城さんッ!!」
その後、僕は告白を覗いていた五人を正座させ、随分と長い時間、説教をしていたわけだけど……
「まったく……気になったら覗いてもいいんですかっ」
「も、申し訳ない……」
「赤城さんもこの中では一番の常識人なんだから、みんなを止めて下さいよっ」
「す、すみません……」
「ソラールさんも、僕の演奏が気になるんなら、言ってくれればいいじゃないですかっ。お日様に申し訳ないと思わないんですかっ」
「す、すまん……」
「妖精さんと天龍二世さんのお二人もですよっ」
「コ、コワイカ……ガクガクブルブル」
その間、僕の後ろで、鳳翔さんは、ずっとクスクス笑っていた。ぷんすか怒る僕の後ろ姿を、ずっと眺めながら、楽しそうにクスクスと微笑んでいた。
「えーっと……鳳翔さん」
「はい? クスクス……」
「なんでそんなに、楽しそうなんですか?」
あまりに楽しそうにクスクスと笑う鳳翔さんが気になって、僕は一度怒りを沈め、振り返って鳳翔さんを問いただしてみたのだが……
「えーっと……」
「はい……」
「智久さんって、そんな風にぷんすか怒るんだなーと思って」
「へ……」
「すみません……でもなんだか新鮮で。ぷんすか怒る智久さんって、なんだかカワイイなーと思ってしまいまして……」
「う……」
予想外の鳳翔さんの返答……僕の頭から怒気を抜いて、顔を真っ赤にするのに、充分すぎる威力を持った一撃……ボンッ!!
「あぅ……」
途端に僕の頭から怒気が抜け、顔中が真っ赤に染まった。
「ぶふッ……」
背後から聞こえる、ロドニーさんが吹き出した声に、僕の頭が再び怒りに震える。
「いや、逃しませんよロドニーさん」
「ビクゥッ!?」
「みなさんもです」
「「「「ドキィイッ!!?」」」」
「今日は説教フルコースを覚悟して下さい」
「「「「「ガクガクブルブル……」」」」」
こんな調子で、鳳翔さんへの告白は、なんとも締まらない形で、幕を閉じた。
……でも、まぁいい。僕は鳳翔さんに、気持ちを伝えられたから。
……鳳翔さんが、僕の気持ちを、キチンと受け止めてくれたから。