東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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邪願 3
「だいじょうぶ? 平気?」
「…………」
「だいじょうぶ? 平気?」
「…………」
「だいじょうぶ? 平気?」
「すっご~い! 科白はおなじなのに全然ちがうわ!」
彩菜は京子の前で『親を亡くした恋人を心配したとき』『携帯を家に忘れてしまった友達を心配したとき』『ころんだ子どもを見たとき』の三種のシチュエーションに合わせて異なる感情を込めて、おなじセリフで表現した。
代マルの声優タレント科では感情解放という授業があり、演技のためにみずからの感情を取り出す訓練を徹底的におこなう。声のみで演技する声優にとってどんな小さな感情も演技の重要な要素となる。
「じゃあ次は幼馴染が照れ隠しで怒ってるようなツンデレ科白を言って」
「はい、では――バカバカバカバカ! スカポンタン! アホ犬! 鈍感! あっ、あたしがあんたのことを、ど、どんなに気にかけてたと思ってんのよ! せ、責任取りなさいよね!」
「萌えるーっ!」
(なにをやっているんだか……)
別室で作業している秋芳は彩菜と京子のやり取りに妙な気恥ずかしさを感じていた。
バラエティ番組で大御所声優が木っ端芸人におもちゃ・珍獣あつかいされているのを見ると、関係ないこちらが恥ずかしくなる。傍ら痛い、あの感じだ。
秋芳はいま聖蓮寺内にある施薬室で川平に処方する霊薬を作るため、薬棚を探っていた。
俗塵にまみれた呪術寺とあなどれない、なかなか本格的な品ぞろえだ。壁面を埋め尽くす書棚のように大きく、引き出しのたくさんある紫檀製の漢方薬棚には薬草類のほかにも熊の胆やイモリの黒焼きなどの動物性薬物。琥珀や雲母といった鉱物性の薬の名前がいくつも見受けられた。
霊薬作り、錬丹術は陰陽医の領分で陰陽塾のカリキュラムには三年からの選択科目にあるが、秋芳はもともと疾病退散を主とする呪禁師なので錬丹の術はすでに習得済みだ。
(感情を込めて、ねぇ。どうも最近のアニメ声優のアニメアニメした作り萌え声は好かん。好かんといえば最近の邦画はなんだあれ、やたらと泣き叫んだり感情も情景もすべて言葉で説明したりして幼稚極まりない――)
演劇の世界には『感情は後払い』という言葉がる。下手な役者は興奮した芝居ばかりやってしまいがちだが、感情というのはいつも後ろになくてはいけない。怒りたくても実際には怒らずに我慢する。泣きたいところをぐっとこらえる。言葉を選びながら、感情を抑える。必ず裏に感情があり、口にする言葉がただしいとは限らない。
「それじゃあねぇ……次は吸血鬼もどきのお兄ちゃんに『歯を磨かれて五分間耐えることができたら勝ち』勝負を挑まれた妹やって」
「はい、では――ンハァッ!? ハンっ! んっ、んんっ、んはぁっん……、はぁはぁはぁ、あっ、あぁんっ、んんっ――て、なにエロいこと言わすんですか倉橋さん!」
「あははははっ、彩菜ちゃんてノリツッコミもできるのね」
(……うん、まぁアニメ声アニメ演技も良いかな)
ちなみに秋芳がいる施薬室と京子たちがいる客室はそれなりに離れており、声が聞こえる距離ではない。
にもかかわらずふたりのやり取りが秋芳に聞こえるのは簡単な呪をつかっているからだ。
呪術をもちいてべつの場所の会話を聞くにはいくつか方法がある。もっともポピュラーなのは感覚を共有した簡易式を置いておくことだろう。
札のまま置いてもいいし、蜘蛛や蝶。草花などのありふれた物に擬態させることで盗聴器のように使える。
自身の耳に指向性聴覚を持たせて遠くの声を聞くというのもある。
秋芳は席を離れるさい、客室と自分の耳との間に音の道を作り、そこからふたりの会話を聞いている。
術の隠形などしていないため盗み聞き、という感覚は秋芳にも京子にもない。ある程度の腕をもつ呪術者にとってこのような感覚の拡大は日常の所作なのだ。
陰陽師の館を訪ねた人が待っているあいだに供の者と話をしていたところ、あとから現れた陰陽師はその場に居なかったにも関わらず会話の内容をあてて来訪者をおどろかせた。などという話もある。
呪術者に知れずに陰口をたたくことは容易ではないのである。
「蟲下しには栴檀や海人草だが、瘴気を祓う毒消しには犀角を単独でもちいるか」
『神農本草経』に曰く。
犀角味苦く寒し、百毒蠱注邪気瘴気を治す。鉤吻、鴆羽、蛇毒を殺し邪を除き、迷惑魘寐せず久しく服せば身を軽くす。(犀角の味は苦く体を冷やして余分な熱を取る。様々な毒、寄生虫、病を治す。草鳥蛇の毒を殺し、邪を除き悪夢に悩まされない。長く服用すれば体が軽くなる)
犀の角は漢方では牛の胆石である牛黄や、カモシカの角である羚羊角と並んで万能薬とされている。
「お、顛茄か、いいものがあるじゃないか。こいつを使うと舌の回転が良くなるんだよな」
顛茄。またの名をベラドンナという。
ベラドンナから抽出した成分には中枢神経を抑制する作用があり自白剤として使える。
粉砕・混合・練合・浸出――。
乳鉢と乳棒、薬研ですり潰し粉にしたものを混ぜ合わせて丸薬を作る。呪術師が呪力霊力を込めて調合した薬には常ならざる力が宿る霊薬となる。効能はおなじでも効果がけた違いなのだ。
それだけではない。民間療法として伝わっていても医学的には実証されないような効果もあらわれる。ムカデは脚が多いので服用すれば足の血行が良くなるといわれるが、ムカデを触媒に薬を調合すれば、実際にその効果のある霊薬ができあがるのだ。
体の何千もの部品が何千もの異なる機能を持っていてそのすべてが連携して作用することで人は生きている。もしこの不完全な機械のたったひとつでもだめになったら命もだめになる。生命を与えてくれる機能が同時に死をもたらす。
帝式陰陽術ほど派手ではないが、錬丹術は奥の深い技術なのだ。
「瘴気を祓う薬ができました、無味無臭になるよう作っていますのでそのままどうぞ」
「いや、これはありがとうございます」
「ところで動的霊災に襲われる心当たりなどは?」
「まさか、そんなものはありません!」
「なんでも彼女――花園彩菜さんがたまたま持っていた尊勝陀羅尼の札で退けたそうですが、ひょっとしたら憑かれている可能性もありますよ」
「…………」
「あるいは何者かの恨みを買い、呪詛されているとか」
「ひぇぇぇぇ!」
この男、人に恨まれ呪われる心当たりはあるらしい。
「どんなに些細なことでもいいので、あの場でなにをしたか。最近なにかあったか教えてくれれば、力になれるかもしれません。まぁ、呪捜部や祓魔局に相談するのもいいですが、むこうは完全にお役所なんで色々とめんどうなことがあるのでは? そのてん俺はただの呪術講師。個人的な相談ということで、気軽だとは思いませんか?」
丸薬にふくまれているベラドンナが効果を発揮し、川平の口を軽くする。
「いやその恥ずかしながら……、声優にしてあげるからと恩着せがましくサービスを要求しました」
「具体的にどんなことを?」
「身体を求めました! でもいきなりあの化け物が現れて……」
「なるほど、花園さん以外にもそういうことを?」
「はい。オーディションを受けた女の子に合格をちらつかせて猥褻な行為におよんだことはもう何回もあります」
「それで、その見返りにそれなりの便宜をはかってあげたんでしょうね。その子たちには」
「いいえ、まったく! やらずぶったくりでポイ捨てしました」
(この野郎、どうしようもないクズだな。少々の薬代をふんだくるだけじゃ気がすまん)
秋芳の耳に別室での会話が流れてくる。
「役者の表現ていうのは過去にある様式を踏襲しながらも、それを否定して自分なりの新しいものを創り出すものなんです! だれかの物真似じゃなくて、花園彩菜の演技を――」
「ええ、わかるわ。だって彩菜ちゃんの演技って他の子たちとはちがうもの。なんていうか、魂がこめられている感じ。あたしにはわかるの」
こんどは演技論を熱く語っている。熱のこもった口調からは夢や情熱が伝わり、よどむことのない言葉はたしかに声優らしい滑舌の良さを感じさせた。
(ふぅん、たしかに最近の若い声優特有のコンパチ作り萌え声アニメ演技、というわけじゃないな。芸能人も芸能人を目指すやつもあまり好きじゃないが、少し力になるか……)
「いいですか、川平さん。あなたそんなことばかりしていたら呪詛のひとつやふたつ受けますよ。いちいち祓っていたらきりがない、というかいつ呪殺されてもおかしくない。これを機会に身を慎むようにするんです。それが最善の方法です」
「はい、陰陽師の先生のおっしゃるようにします」
「これからは罪滅ぼしのために職務に忠実になるのです。あなたの目から見て花園彩菜さんは声優としての素養はありそうですか? 下心なしに」
「ええ、もともと子役やインディーズアイドルとしての経験があるのでタレントとしての下地はできあがっています。歌や演技のスキルも研修生としては上手なほうなので、経験を積んでいけばプロになれる素養はじゅうぶんありますよ」
「なら彼女を全力でプロデュースしてください。良き行いをすればそれが贖罪となり、悪いものからの障りがなくなることでしょう。繰り返しますが下心なしに、ですよ。あくまで仕事上のつきあいで、有望な若手声優を育てて業界に貢献することで功徳を積むのです。そうすれば悪業が去り、呪詛や霊災から遠ざかることができます」
「はいっ、もちろんです。あんな化け物に襲われるくらいだったらなんだってします!」
「では治療費のことですが――」
「剣を握らなければ、君を守れない。剣を握ったままでは、君を抱きしめられない」
「きゃー! かっこいい!」
「どうしてかな? あの人のためなら、命もいらないって思った瞬間から、いま、自分が生きてるって感じるようになったのは……」
「きゃー! ぐっときちゃう!」
「っとに、あんたって救いようのないバカね。しょうがない、あたしが地獄までつきあってあげるわ。見くびらないでちょうだい、あたしにだってあんたの背中を守る事くらいは出来るんだから、この期におよんでいやとは言わせないわよ!」
「きゃー! 燃え萌え!」
演劇論についての熱い語りは終了し、彩菜はふたたびなにかのキャラクターの科白を言わされ、京子はそれを聞いて狂喜乱舞している。
「さっきからなにをしているんだ。声優も声優志望者も、ボタンを押せば珍ボイスが発声するおもしろマシーンなんかじゃないぞ」
「だって彩菜ちゃんてすごいのよ、いろんなキャラのいろんな科白を暗記していてしゃべれちゃうの。これってなかなかできることじゃないわよ」
「いや、でも俺らだって長い真言や祝詞とかちゃんとおぼえてるし、いっしょだし」
「ねぇ、さっきの一番長いあれ。彼にも聞かせてあげて」
「は、はい――」
彩菜は軽く深呼吸をして息を整えると、一気呵成に長科白を口にした。
「ずっと待ち焦がれてたんだろ、こんな展開を! 英雄がやってくるまでの場つなぎじゃねえ! 主人公が登場するまでの時間稼ぎじゃねえ! ほかの何者でもなく! ほかの何物でもなく! テメエのその手で、たったひとりの女の子を助けてみせるって誓ったんじゃねえのかよ! ずっとずっと主人公になりたかったんだろ! 絵本みてえに映画みてえに、命を賭けてたったひとりの女の子を守る、魔術師になりたかったんだろ! だったらそれは全然終わってねえ!! はじまってすらいねえ!! ちっとぐらい長いプロローグで絶望してんじゃねえよ!! ――手を伸ばせば届くんだ。いい加減にはじめようぜ、魔術師!」
「なげぇよ! 長すぎるよ、それっ! なにが『いい加減にはじめようぜ、魔術師』だよ、おまえが口閉じて早くはじめろよ! どんな作品のどんな場面だか知らないが、そんな長い科白言ってるあいだ絶対間が持たないだろ。俺がその魔術師とやらだったら、絶対途中でスマホいじりはじめるね。もし敵対状態だったら黙って先制攻撃するね。キメのシーンなのかも知れないけどさ。――いやこれ、どっかの小説投稿サイトだったら『原作の大幅なコピー』とか文字数稼ぎとかに抵触しちゃうんじゃないの?」
「この程度まだまだですよ。いまもっと長い科白の暗記に挑戦してるんです。えっと……俺だって悔しいよ。悔しいに決まってる。そんなの悔しいに決まって――」
「それもういいから! そんなことより霊災だよ、霊災。川平に問い詰めたんだが、老人の顔をした虫みたいな動的霊災に襲われたんだって? しかもやつらは君のことを花嫁と呼んで横取りするなとか言っていたとか」
「……はい、たしかにそう聞こえました」
「妖怪に見染められるようなおぼえは?」
「そんなのまったくありません! でも、あの化け物には前にも遭っていて……」
彩菜は帰宅途中の夜道で起きた出来事を説明した。
「そんな呪術BARなんて聞いたことないなぁ」
「彩菜ちゃん、さっきのお札見せてくれる」
「はい、これ。そこのマスターがただでくれたんです」
見なれた陰陽庁謹製の呪符。白い紙に墨痕鮮やかに記された梵字は尊勝陀羅尼にまちがいない。
京子の目が呪符を視て、そこに込められた術式を鑑定する。
「……かなり高い威力が込められているわね。ただし効果は一度きり、でも呪力を補充すれば何回でも使えるタイプよ。周囲の霊気を吸収して自然補充する機能もあるわ」
「けっこう値の張る呪符だぞ、これ。こんなものをほいと差し出すとは、そのマスターかなりの太っ腹だな」
「はい、感謝しています。これがなかったら今頃……」
「今のところ霊災の気配は感じられないから直接憑かれているとは考えにくい。川平のほうも同様にだ。運悪く野生化した野良霊災に遭遇しただけかもしれないが、だれかが呪詛式を打った可能性もあるから念のため呪捜部に相談したほうがいいな」
「呪捜部、ですか……。でもあたしちょっと苦手で」
厭魅蠱毒、呪詛怨念。人の、呪術が持つ闇の面に接することを生業とする呪捜部と呪捜官は本職の陰陽師でも忌避する人は多い。まして一般人ならなおさらだろう。
「ちょっと秋芳君、呪捜部なんかに丸投げするつもり? あたしたちで力になりましょうよ。さっき電話番号とチャットのID交換したの、秋芳君のも教えてあげて」
「え~、俺はいいよ」
「声優さんとお近づきになれるチャンスなのよ!」
「どうでもいいよ、芸能人なんて。俺は物書きと役者はあまり好きじゃないんだ」
京子にはミーハー気質な面がある。陰陽庁の広告塔としてアイドル活動もしている大連寺鈴鹿のファンで、彼女が特集された月刊陰陽師を大事に保管してあるほどだ。
そんな彼女にとって駆け出しとはいえ芸能人の知り合いができるのはとても喜ばしいことだった。
いっぽうの秋芳は秋芳で俗嗜好で偏執愛的な性質持ちではあるが、芸能関係にはあまり興味がなかった。というより冷淡なところがある。
これは『なんで俺たち陰陽師が霊災修祓とか世の中に必要な仕事をしているのにたいして評価されない、給料が低いのに、歌だの芝居だの道楽を商売にしている連中のほうがちやほやされて稼ぎもいいんだよ!』というやっかみ精神からきている。
初見で秋芳をひがみっぽいと評価した彩菜の人を見る目は間違っていなかった。
「いいこと、秋芳君。そもそも陰陽道の元祖である中国には天文を観測し星の異変を査照する天文局というものがありました」(主張)
「うむ」
「そして天文局の職掌には楽士や伶人といった音楽を司る人たちがいました。つまり広義においては芸能人も陰陽師なのです!」(大主張)
「むむ!」
天文局に音楽や芸能を仕事にする人たちがいたのは事実だ。阿倍野や岸和田に住み着いた渡来人の多くは怜人の集団で、彼らは陰陽師でもあった。
陰陽道では音楽(雅楽)の音律と星の運行は一致していると考えられ、それぞれの音には方位や季節、色などがあてはめられている。
仏教音楽の声明や道教の長嘯術、琉球の逆歌や数多の呪歌――。
音楽というものは魔術や呪術でもあるのだ。
陰陽道と古典音楽・芸能には深い結びつきがあるのでる。
ちなみに海外からの音楽書をはじめて本邦に持ち込んだのは吉備真備で、彼は陰陽道と音楽とを一緒に持ってきている。音律と陰陽道は切り離せない関係にあるのだ。
「袖振り合うも多生の縁、義を見てせざるは勇無きなり、窮鳥入懐、仁人所憫!」(大喝)
「むむむ!」
京子は秋芳の説得に成功した。舌戦勝利回数三七。
「あははははは!」
ふたりのやり取りが妙におかしくて、お腹をかかえて笑い出す彩菜。
「……さすが声の仕事を目指しているだけあって、声量は豊かだな。アフレコ中にマイクを二本もぶっ壊したM川T之ほどじゃないが」
「きらいなわりに詳しいですね。て、すいません。お寺で大声出しちゃまずいですよね」
「いいのよ、お寺っていっても宗教施設じゃないんだし、宴会とかで大騒ぎするときもあるし。彩菜ちゃん、声もそうだけど物腰も快活で嫌味がなくていいわよね。それも作ってる感じがしない、自然に〝できてる〟感じ。でもそれが素なのよね?」
「はい。普段から素の自分をさらけ出すようにしているんです」
「どうして?」
「オーディションなどで初めて顔を合わせる人たちに自分をさらすのはとても不安で緊張します。でもかっこつけて本来の自分とかけ離れた姿を見せると、不器用なあたしはあとでどんどん苦しくなってしまうんです。選んでくれた人も、がっかりさせてしまいます。だから初対面の人の前であればあるほど、ありのままの自分でいようと努力してます。お仕事をいただけるように人に選ばれるときは、どこまで自然体でいられるかが大事だと思うんです」
「…………」
「…………」
「あ、あれ? あたしなにか変なこと言っちゃいましたか?」
「ううん、とても素敵な考えだなって」
「素で性格の悪い奴にはできない芸当だな。性格といえば●●って新人に挨拶されても無視するくせに格上の共演者には媚び売りまくりってほんとう?」
「あ、そういうのにはお答えできません。ノーコメントです」
「××はファンと握手するのが恒例のイベントでオタからの握手をかたくなに拒否したっていうのは――」
「だから答えられないんですってば」
好きの反対は無関心という言葉はほんとうなのかも、そう思う彩菜であった。
深夜。
もう日づけが変わろうという時刻に彩菜は家にたどりついた。
一戸建ての小さな家でかなり年季の入った古い木造家屋だが、まだ基礎はしっかりとしている。彩菜が幼い頃に他界した母方の祖父が残してくれたものだ。バブル景気が泡と消えた後も辣腕の実業家として活躍していた人らしい。
だがある時期を境に急にやることなすことうまくいかなくなり、最後の最後に残ったのはこの小さな土地と小さな家だけだった。
彩菜の父は母が受け継いだこの家で祖母が亡くなるまで同居していたが、いまがいそがしいビジネスマンとしてあちこちに単身赴任していてめったに帰ってこない。
『父さんはこの家を新しくして彩菜にあげるために働いているんだよ』
休日出勤をする父はよくそう言ってだだをこねる幼い頃の彩菜をなだめていた。
「ただいま」
返事はない。
ドアに鍵はかかっておらず、オレンジ色の常夜灯がかすかな明かりを灯している。
「お母さん、ただいま」
母の部屋に向かって声をかける。人の動くわずかな気配があったが、それだけだ。
帰りが遅くなったにもかかわらず、電話もメールもなかった。「おかえり」のひとこともない。妖虫老人に襲われたさいに汚した服の言い訳をしないですむのはありがたいけれど。
いつからなのか忘れてしまったが、彩菜が中学に入った頃には母は彩菜を見なくなっていた。彼女がいないものであるかのようにふるまうことも多い。
幼い頃はあれこれと過剰なくらい世話を焼いてくれた。児童劇団に入りたいと言った彩菜に反対もせず喜んでつきそってくれた。
認知症ではないかとうたぐったときもあったが、彩菜以外の人と接するときはごく普通で、事務職のパートもそつなくこなしているようだった。
母は、彩菜だけを見ない。ふりむいてくれない。
「あたしがなかなかデビューできないからだ」
自分が母を失望させてしまったのだと、彩菜は考えている。
わがままを言って児童劇団に入り、子役としてドラマやバラエティ番組に出演したのはいいものの、それっきりだ。運動は得意ではない、勉強はもっと苦手。けれども彩菜の容姿、そして声をほめてくれる人が何人かいた。彩菜はたったひとつ、自分にもできるかもしれないことを、自分にしかできないことに挑戦しようとした。
母自身を感動させることはできなくとも、歌ったり演技をしたり、そういうことで人々に認められれば、客観的な評価を得ることができれば、母はふたたび振り向いてくれる。自分のことを認めてくれるはずだ。
そう考え、がんばってきた。
いつの間にか流れていた、頬を伝わる冷たいものに我に返る。
「もう、お風呂入って早く寝ちゃおう!」
熱いシャワーを浴びて浴槽に浸かる。聖蓮寺で介抱され、陰陽塾の人に介抱されたさいに軽い食事を取ったので腹は空いていない。
「賀茂秋芳さんと倉橋京子ちゃん……。鰻のかば焼きもどき、美味しかったぁ」
恋人同士だというふたりはおたがいに料理を作ってはシェアしているという。仲が良くて微笑ましい。彩菜は秋芳が作った精進料理の味を思い出した。
「すり下ろした蓮根と山芋にお豆腐、こんどあたしもやってみよう」
悪いことはすべて忘れ、明日に備えて布団に入る。京子に霊気を補充してもらった尊勝陀羅尼の札を身に着けて。
このお札は一生のお守りになることだろう――。
翌日。
最初に妖虫老人に遭った道を避けて学校に通うことにした。あそこだけはもう二度と通らないつもりだ。ただ落ち着いたら呪術BAR『メイガス・レスト』にだけは顔を出してお礼をしなければと決めていた。
だが忌まわしいものは彼女が避けようとしても忍び寄ってくる、視野の片隅をかすめる不気味な影に悩まさられるようになったのだ。
学校で授業を受けている時に、それは机の下にひそんでいるように思えた。あるいはカーテンの裏側やロッカーの中に。
お昼に購買で買ったパンを食べていたら、床に落ちていたパン屑が消えていた。
学校の帰り、妙な気配に振り向くと電柱の影や側溝に、なにか小さな生き物が見え隠れしているのが見えた。がさごそと蠢く大きな虫のようなものが。だがはっきりとは見えない、視界の片隅をよぎる程度だ。
ひっひっひ……。
あの厭な笑い声も聞こえるような気がする。嘲りをふくんだ哄笑が耳の奥にこびりついて離れない。
妄想や幻などではない、自分は二度もあのいやらしい怪物にまだ狙われているのだ。
(なによ、くるならきなさい。こっちにはこれがあるんだから!)
怪物の気配が濃くなるたびに護符に手をのばす。そうすると妖しい気配は遠のいていく。やはりこの札には効果があるのだ。
その日はラジオの録音があった。ほんのひとこと程度の出演だが、彩菜には大きな仕事だ。
学校帰りに制服のまま現場へ向かう。彩菜のランクでは出迎えなどない。
雑居ビルの一角にある制作プロダクション事務所。そのさらに片隅にある小さなスタジオでの録音だ。
あるSNSゲームのラジオドラマを放送している番組で、何人かのおなじランクの子たちといっしょにそのゲームにちょっとした役で出た。
お世辞にも綺麗とは言えないビルに入ると、あまり人の気配はなかった。人の気配もないが怪物の気配もない。
だれもいないエレベーターに乗るのも階段を使うのも怖くない。新しくできた陰陽師の友達の存在が彩菜を強気にさせていた。
「おはようございますっ」
「やあ、早かったね。ほかの子たちはまだだよ」
現場にはすでにマネージャーの松岡が来ていた。今日、ここにあつまる声優は彩菜をふくめて五人。みんな女性で、彼女たちは主人公と敵対する悪の美少女部隊の声を担当している。
予定の時間まで少しある。事務所内は外とはうって変わってにぎやかで、人がせわしなく動いていて活気に満ちていた。
ものを創る気概にあふれる、この空気が彩菜は好きだ。だが、乱雑に物が積み上げられたこの場所は、あまりにもなにかが隠れ潜む場所が多すぎる。
(集中、集中! あたしにはこのお札があるんだから)
四畳もない狭いスタジオにまとめて五人が詰め込まれた。この人数では椅子に座っての収録は無理なので、上から吊り下げられたマイクを取り囲んで本番に入る。
パーソナリティの女性声優にうながされてひとりずつ名前を言い、作中で使われる科白をそろって叫ぶ。それだけだ。
金魚鉢の向こうからミキサーが開始の合図、キューを送る。
「レッド・トゥインクル・ルビー! の、深沢茜です」
「ブルー・トゥインクル・サファイヤ! の、板山香です」
次が彩菜の番だ。パーソナリティの先輩声優が目で合図してくれる。小さく息を吸って声を出そうとした瞬間。
向かい側に立っている女性声優の肩越しに、おかしなものを見た。
赤いとんがり帽子をかぶった貧相な老人の顔だった。ふしくれだった枯れ枝のような手を女性声優の肩に置いている。
川平が襲われた時、暗がりの中ではよく見えなかったその姿が、明るみのもとではっきりと見えた。
とんがり帽子の年老いた妖精。もしも場所と状況がちがえばかわいいと感じたかもしれない。皺にうもれた顔に浮かんだ、悪意と嘲りに満ちた笑いがなければ。
そいつはすぐに背中に引っ込んで消えた。
「あ……あ……」
録音なのだから少しくらい間が開いても編集してもらえる。硬直した喉を強引に奮い立たせ、科白を吐く。
「イエロー・トゥインクル・シトリン! の、花園彩菜です」
言えた。
混乱と動揺の色を見せずに、はっきりと科白を口にすることができた。
「ねぇ、いまちょっと噛まなかった?」
ピンク役を割り振られている宇佐美咲綾がすかさず茶々を入れると、ほかのメンバーもそれに追従してイジリにかかる。
「間があったよね~」
「放送事故になっちゃうじゃない」
「なぁに、わざととちって目立とうとしてない?」
ちょっとしたアクシデントは場を盛り上げるスパイスになり、自己紹介だけで終わるところが延長されてにぎやかなトークができた。
(やった……!)
妖虫老人の姿は見えない、気配もしない。けれども彩菜には相手がなんとなく悔しがっているように思えた。
「いい感じだったね、これなら明日のオーディションも上手くいきそうだ」
収録後、上機嫌で話しかけてきたマネージャーの松岡の顔を思わず見上げる彩菜。しまった、という表情になる。オーディションが明日にあるということを秘密にしておくつもりが、つい口をすべらせてしまったようだ。
下手に知っていると緊張するから、ぶっつけ本番がいい。
日頃から口にしている松岡の考えだ。
「おっと失言失言、緊張しているのはこっちのほうみたいだね。今日の練習はそこそこにして、明日に備えてゆっくり休みなさい科白の他にも、アカペラで歌もあるからね」
素直に帰路につく。
雑踏のなか、人ごみの足元を縫って小さな影がついてくる。視野の片隅になにかが見える。
あの赤いとんがり帽子をかぶった妖虫老人だ。
「~♪♪♪」
もう今までほどの恐怖は感じない。彩菜は小さな声で明日のオーディションで披露することになる来期アニメのエンディングを口ずさむ。
とっくに日が落ちて夜の闇がよどんでいるが、歌に集中しているとちっとも気にならなかった。妖虫老人の気配も消えた気がする。
「ただいま」
返事はない、いつものことだ。
居間で母がTVを見ていた。関東近郊の名所をまわる、なんてことのない紀行番組だ。
「お母さん」
呼びかけても母はふりむこうともしない。
「明日、オーディションがあるの。合格すればエンディングの歌も歌えて、CDを出させてもらえるかもしれないから、期待しててね!」
内心の悲しみを隠し、精一杯明るい声でそう言った。
母の反応を待って、彩菜はしばらく立っていた。三分もしないうちにTVがCMに入ると母はちらりと彩菜を見て、かすかにうなずいた。
それでも、彩菜には嬉しかった。いきおいよく首を縦に振って母に応える。母は、もう彼女のことを見ていなかったけれども。
後書き
ここまでがハーメルンにも投稿したぶん。
次からのお話は一から書きますし、ロクでなしのほうも執筆中なので、更新はだいぶ先になると思います。
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