千雨の幻想
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1時間目
「んん……、ん?」
簡素な部屋で少女が一人、ゆっくりと体を起こす。
ここは学生寮であり、他の部屋も似たような内装でありながらそこに住む人々により異なる特徴が生まれることが常である。
それに倣うなら彼女の部屋は簡素でありながら他の一般の学生では持ちえない高性能なパーソナルコンピューターやベッドの下に隠してあるお札や油紙、針の数々が彼女の特徴を表しているともいえるかもしれない。
「ああ、もうこんな時間か」
少女はそばにある目覚まし時計を見てつぶやく。
「昨日はいいところまでいったんだけどなあ、まだまだ勝ちはもらえないか……」
後頭部をなで、彼女はベッドから降りる。
今から鳴ろうとしていた目覚まし時計のスイッチを切り、少し早めに支度を始める。
彼女の日常が異常となり、それがまた日常となるまでにいささか時間をかけたものの、彼女は今を平和に生きていた。
異常を受け入れ、それを見ないように疑問に思わないようにする生活は彼女にとって少なくない負担を強いることにはなるが、それさえしていれば日常を外れるようなことはないと彼女は知っている。
それに以前の彼女には存在しなかった不満を吐き出す場も愚痴を言い合える友もいる。
四六時中一緒にいられるわけではないが、彼女らと共に過ごす時間は彼女にとってこの学園で過ごす時間よりも重要なものであった。
かと言って彼女にもこちらでの学業や実の両親のこともあり、彼女は今だにこの学園で多くの時間をすごしている。
彼女としては高校を出たのちに遠くの大学か会社に就職したとでも嘘をつき、幻想郷へ移住するのもいいかと思っていた。
それほどまでにこちら側への未練はなく、どうとでもいいとさえ思っていた。
――――――――――
時間と場所を移し、彼女の教室。麻帆良学園中等部2-A 。
そこで彼女はいつものように周囲の喧騒など気にせずに自身のノートパソコンと向き合う。
こちらでの彼女は地味で目立たない普通の少女として通っており、あちらで得たものをこちらに持ち出すようなことはあまりない。
彼女のかけている眼鏡も度が入っておらず、いわゆる伊達メガネというものである。
これをかけているのには彼女なりの事情があるのだが、それはさておき。
カタカタとキーボードを操作する彼女の知覚が慣れない気配を感じた。
「……」
パソコンへの操作はそのままに教壇方向へと視線を移す。正確には教壇の横にある扉へと。
(二つの人の気配、一人はたぶんしずな先生だろうけど、もう一人は誰だ? それにこれは)
魔法使いの気配だと、彼女の直感が告げていた。
その勘が正しかったことを彼女はすぐに知ることになる。
扉ががらりと横へ動き、二人の人物が入って、来れなかった。
クラスのイタズラ好きな人たちが仕掛けた黒板消しが入ってこようとした少年の頭上へと落下してきたからだ。
詳しく言うなら、そのあとに足元に張られた縄につまずき、逆さまに落ちてきた水入りのバケツを頭からかぶり、吸盤の付いた矢をくらい、転がって教壇にぶつかるという喜劇が起こったからだったが。
だがクラスでも身体能力が高かった一人の女子と幾人かの事情を知る人物たち、そして彼女は黒板消しが彼にあたる直前にわずかに浮いたのを見逃さなかった。
(あいつ、こんな真昼間から魔法使いやがった……、まだまだ修行不足もいいところじゃねえか、なんでそんなガキがこんなところに?)
と思ったのち、そういえば一つ伝達事項があったのを思い出した。
いやまさか、と嫌な汗が流れる彼女をよそに少年が自己紹介を始める。
少年曰く「三学期の間英語を教える新任の教師」らしい。
「まじかなんですか?」
と彼女のそばにいたしずな先生に問いかけるも。
「ええ、まじなんです」
と返ってくる始末。
頭を抱え、机にうずくまる。
(外国じゃあ飛び級とかよく聞くが、それでもここは日本だぞ、労働基準法とかどうなってんだ……)
いや、と彼女はすぐに体を起こし、仕方ないので授業の準備を始める。
(なにイラついてんだ私、もとから可笑しいのがこの学園だったろうが)
異様に多い留学生に始まり、普通に教室にいる幽霊や魔族や吸血鬼といった人外。挙句の果てには忍者やロボットだっている。
それに比べればまだ人間をやめてすらいない十歳の魔法使いなんてまだまだかわいいものだ。そう思いなおすことにした。
(……だが、あれはどういうこった?)
それでもなお、気になることが一つ。
彼女の右後方に座る少女からの少年へ向ける視線だった。
彼女が知るエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという少女は、吸血鬼ということを除けば自身よりはクラスに馴染んでいる少女、というのが彼女の認識だった。
吸血鬼の姿と年齢が一致しないことは彼女の経験からすでに知っており、今現在のエヴァンジェリンが何歳なのか彼女は知らないが、それでもこんな人前で待ちに待った獲物が目の前に現れたような視線を向けるようなことは今までなかったはずだ。
(あのガキとマクダウェルに何があったか知らねえが、こっちに飛び火しないでくれよ)
そう願いつつ、彼女は今まさに始まろうとしている英語の授業へと集中し始める。
彼女の、長谷川千雨の日常はまだ崩れるようなことはない。
すくなくとも、まだ、ではあるが。
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