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霊群の杜

作者:たにゃお
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飛頭蛮



3月、初めの日。
雪が解け残る石段を踏みしめながら、頭上を覆い尽す丸太の鳥居を見上げる。
傍らの植え込みに、まんさくの花が黄色い絵の具を落としたように咲きそめている。もうそんな時期か、と呆れたように息を吐いた。…まだ、ほんのり白い。


草間の葬儀の日、今泉から妙な相談を受けた。


結局俺は黒いスーツを着て、今泉と焼香の列に並んでいた。あの香をつまんで落とす動作は正式には何回やるものなのか、などと他愛無い話をしながら、ぼんやりと魂不在の葬列に加わる、俺。結局俺は2回、今泉は3回、香を落として葬列から離れた。献花まではまだ時間がありそうなので、俺達は斎場のロビーに落ち着いた。…献花まで居なくても、誰も気が付かないかもしれない。なにしろ人が多い。
「…ひい爺さんの葬式に出たんだよね、ちょっと前に。このスーツ、そのとき買ったんだけど」
今泉が、ぽつりと呟いた。
「もう90過ぎてたし、十分大往生だろってみんなどこか明るくてさ。…葬式なのにな」
「年寄の葬儀ってなそんなもんだろ」
「厭だよな、若い奴の葬儀って。…救いがなくて。親とか彼女とか…めっちゃ泣いてて」
「あぁ……」
「あのさ、青島」
今泉の屈託のない眼が、俺の視線を捉えた。
「お前あの時、何で草間が死んでるって分かったの?」
「うぅん…そうだなぁ…」
密かに困惑しながら、俺は言葉を探して視線を彷徨わせた。『死人の気配』など、どう怪しまれずに説明すればいいのか。今泉は少し笑うと、ごめん、やっぱいいやと一方的に打ち切った。
「話変わるんだけどさ、相談があるんだよね俺。玉群とお前が妙な現象に強い、という噂は、あながち嘘じゃないんだろ?」


夜、草間によく似た頭がさ、窓の外にさ…。


草間によく似た、なのに草間ではない誰かの頭が、夜な夜な部屋の窓に現れる…という。
「草間、ではないのか」
むしろ草間であってほしい。そう願いながら訊いた。だが今泉は小さく首を振った。
「女なんだよ。それもわりと年配の。最初はさ、目の前であんなことがあったから夢でも見てるのかと思ってた」
だけど女は現れ続ける。いつも明朗な今泉とは思えない、低く細い声で云った。
「カーテンを閉めても?」
「見えなくはなるよ。でも居るのって、なんとなく分かるじゃん」
「時間とかは、決まっているのか」
「うーん…なんとなくだけど、晩飯どきに多い気がするなぁ」
「7時前後ってとこか…友達のところに泊まっても駄目か」
「これから試しに行ってもいいか?」
「ぐぬ……」
冗談じゃない。そうでなくても物の怪まみれの玉群邸で散々な目に遭っているのに、何故自宅にまで物の怪を引っ張り込まなくてはならないのだ。
「……奉ん家ならどうだ」
「玉群の!?」
今泉は好奇心に煌めく視線を上げた。ついぽろっとこぼれた折衷案だったが、丁度いい。あいつはいつも俺に面倒事を押し付けてくるのだから、今回くらい、俺が面倒事を押し付けてもいいじゃないか。
「玉群ん家ってことはあの、豪邸!?」
「いや、奉は玉群神社の裏手に一人で住んでいるんだ」
「別邸!?金持ちすげぇ!!」
すげぇ!!とガッツボーズされるような豪奢な別邸では、断じてない。
「ぶっちゃけ岩穴だよ。岩穴に電気を引いて辛うじて人が棲めるようにしつらえているだけの、本しかない空間だ」
「秘密基地か!すっげぇ楽しみ!」
今泉が小学生のような食いつき方を始めたあたりで、葬儀の参列者の一人が小さく咳払いをした。俺達は慌てて会釈をすると、小声で簡単な打ち合わせをして、各々スマホをいじりはじめた。
やがて進行担当が「棺の周りにお集まり下さい」と、献花を促し始める。今泉は草間の虚ろな骸に何かを語りかけていたが、そこに一片の魂も残っていないことを知っている俺には、何も語ることはなかった。




「相変わらずキツイ階段だなぁ」
石段を踏みしめながら今泉が呟いた。子供の頃、皆でちょいちょい境内で遊んでいたことを思い出す。その頃の今泉は意外にも、書の洞を発見していたそうだ。
「あの洞窟が、玉群の家とはねぇ…びっくりだ」
「こっちもびっくりだよ…分かりにくくなってるはずだぞ」
「んー…何かさ、『音』がしたんだよね。うまく言えないけど」
俺、なんか耳がいいんだよねー…と、今泉は首を傾げる。音?んー、音…?と、自分の言葉を何度も確かめているようだ。
「…大きい一枚岩が入口にあるだろ?でも隙間があってさ、昏くて中は見えないんだけど…俺あれ動くんじゃないかって何度も押したり引いたりバール突っ込んだりしたんだけど、子供の力じゃ全然で」
「開け方にコツがあるんだよ」
うららかな陽を浴びる本殿から、鬱蒼とした裏側に回り込む。まだ早春だというのに、この辺りは年中不自然に草深い。何年も開け慣れた洞の岩戸に手を添えて力を込めると、岩戸は轟音を立てながら横にずれた。
「ほおぉ…」
今泉が目を輝かせて洞を覗き込んだ。
「なんだこれ…本が、岩壁に貼りついてるじゃん」
奉が読み散らかした本が、岩壁に沁み込むように融け、覆っている。まるで本で出来た洞窟だ。小さい頃から通っていたのでその異様さに慣れ切っていたが、考えてみれば何と奇怪な洞窟だろうか。
「本と壁の境目が無いぞ…融合してんのか!?」
「深く追求するな。足元悪いから気を付けな」
豆電球程の微かな灯りを頼りに洞窟を進むと、古びた木製の扉。その脇に、目の隙間から赤光を放つ遮光式土器が一つ、睨みをきかせている。
「なにこれ」
「去年、境内に大量に放置されたんだ。これだけ残して他はヤフオクで売った」
「へー…売れたんだ」


「―――二束三文の値付けだったからねぇ」


古い扉が、内側から押し開けられた。
煙色の眼鏡に土偶の赤光を宿した奉が、俺達を見下ろしていた。
「……志ほ瀬屋の豆大福は、持って来たんだろうねぇ」
開口一番、それか。
「うんばっちり♪」
軽いな今泉!!
「志ほ瀬屋なら、羊羹が旨いのに。これ、俺のオススメの塩羊羹も入れといたから!」
そう云いながら今泉は、奉に重い紙袋を差し出した。
「猫も杓子も塩ブームだねぇ…」
ぶつぶつ云いながらも、奉は満更でもなさそうだ。さすがのコミュ力。…というより、気のせいだろうか、今日の奉は少し機嫌がいい気がする。
「お茶をお淹れしました」
奉の背中越しに、澄んだ声が聞こえた。奉はドアから静かに身を引く。入口の洞よりは少し明るい広間の真ん中に設えた炬燵の上で、茶碗に4杯分の湯気が立ち昇っていた。
紺色のワンピースに身を包んだ、きじとらさんが広間の奥に控えていた。
「わぁ…秘密基地にメイド付きかよ金持ちすげぇ!」
今泉が迷いなく広間に飛び込んだ。
「ここも本ばっかだな。…少~し、あったかい…かな?」
入口の洞のように本が無造作に壁に沁みこんでいるわけではないが、この広間も本棚で埋め尽くされている。恐らく最初はドーム状の洞だったのだろうが、長い時間をかけて『誰か』が正方形に成型したのだろう。目的は勿論、居室を本棚で埋め尽くすためだ。部屋の四方は、岩で穿った据え付けの本棚で囲まれている。
今泉が『少しあったかい』などと云ったが、それはあくまで入口の洞と比較しての気温差だ。一応、電気を引いているのでエアコンも入るのだが、いかんせん冷たい岩の洞に無理矢理穿った居室だ。エアコンが頑張って暖める速度に負けぬ速度で冷える。
「すげぇな玉群基地。こんな岩、どうやって削ったんだよ。窓があれば云う事なしだよなぁ」
「そのうち天井あたりに、あかり取りの窓を穿とうと思う。北極星が視える角度でねぇ」
「よせよ奉…ここマジでファラオの墓みたいになるぞ…」
くっくっく…と小さく笑い、奉は炬燵の上座に戻った。
「墓みたいなもんよ。この下に何体の『奉』が眠っていると思う?」
「まじか初耳だよ!!…何でそういう大事なことを雑にするんだお前は!普通に墓に葬れよ!」
「玉群の墓に葬られるわけにはいかないだろう」
「何の話してるんだ?」
早速、炬燵に入り込んで茶を啜っていた今泉が、豆大福を頬張っていた。いつの間にか、きじとらさんが茶菓子を用意してくれていたらしい。俺も炬燵に肩まで潜り込んだ。
……俺は、酷く深刻な霊現象に関する相談を受けていたのではなかったのか。これじゃ楽しいお泊り会じゃないか。
「可愛いね、あのメイドさん。…狙っていい?」
「お前そればっかりだなぁ…彼女とかいないのかよ」
「んー、特定ってのはね。そういうの重いじゃん。キープは多少ね」
「今泉。俺は今歯ぎしりが出る程、お前が妬ましい」
「お前ら、何をしに来たんだ」
奉が、静かに湯呑を置いた。
「恋バナをしに来たのか、玉群基地を探索に来たのか。ちなみにこの奥には洞窟湖もあるぞ、小さいが」
「えっまじで!?でも寒いからあとにする!」
今泉もだが奉も微妙にテンションがおかしい。珍しくも、この無感動な堕落神がはしゃいでいるのか。本筋に戻そうとして、自ら更に脱線にかかっている。俺が本筋に戻さなければ。
「まてまて…昨日電話で話した通りだ。もう少し丁寧に説明しようか」
「いや、結構…なぁ今泉。その…死んだ草間にそっくりな頭か。それ見た時、どう思った」
今泉は暫く視線を泳がせて、ふと思い出したように俺の方を見た。
「俺さ、霊感あるみたいなんだよね」
「質問に答えろよ、自由か」
つい、俺が突っ込んでしまった。
「んー、だからさー。…あれ、視えちゃったって感じ」
「そういうこと、割とあるのか」
「多くはないけどね。…ただ、今回はあまりに続くしそれに」
草間にそっくりなのが気になってね。そう云いながら今泉は、今日初めて深刻な表情を浮かべた。二つ目の豆大福に手を伸ばしながら、奉は今泉の顔を覗き込んだ。…不思議な風景だ。小さい頃、同じクラスにありながら言葉を交わすことすらなかった、対極の性質をもつ二人が今更、同じ炬燵にあたっている。
「…草間に何か、恨まれるような覚えは」
唐突な奉の質問に、今泉は一瞬身を竦めるが、少し何かを思い出すような顔をして、ゆるりと首を振った。
「―――多分、ないよ。ちょこちょこした喧嘩はあったけど、化けてでる程のは」
「おい奉!」
欺瞞だろ、そんな質問。だって俺達は知っているじゃないか。草間の魂はもう…。
「いいから」
俺を制するように、奉が小声で呟いた。煙色の眼鏡の奥は、やはり伺えない。
「草間に似てるけど草間じゃない…か。なぁ、今泉。そいつは今日も出ると思うか」
「んー…どうだろう。あれ、いつも窓に貼りついてるんだよな。でもこの部屋には窓がないから」
「あるよ」
「えっ!?」「へっ!?」
俺と今泉が同時に叫んだ。お、俺この部屋に20年近く通っているのに、窓があったなんてついぞ知らなかったが!?奉はうっすらと笑いを浮かべ、向かいの壁を指した。奉が示す壁には、取って付けたような天鵞絨の小さいカーテンが下がっていた。
「………へぇ」
うっすらと、今泉の額に汗の玉が浮かぶのを見た。…この異様な閉鎖空間に入り込んだとき、今泉は戸惑いもしたが、同時に少しホッとしたような表情を浮かべていたのだ。それはやはり、この部屋に窓がないからだろう。
だが、この部屋にも窓があった。
『窓』を凝視したまま口を噤む今泉、そんな今泉を、興味深げに凝視する奉。この世間から隔離されたような岩の洞窟に、沈黙が降りた。…やがて奉がするりと衣擦れの音をさせて立ち上がり、窓の傍らに立った。
「―――カーテンを開く前に、ある妖の話をしようか」


『ろくろ首』と呼ばれる妖がいる。
人が寝静まった深夜、その長い首を差し伸べて…長く、長く差し伸べて、蛇のように長く伸ばす妖。本人も寝ている間にろくろ首と化す為、本人にすら自覚がないことが多い。実際、ろくろ首となっている時に見聞きした事は、本人は夢と認識しているという。
「この、日本の『ろくろ首』の元となった妖が、中国に居る。…飛頭蛮、という」
こちらは首自体が体から離れ、その首に翼が生えて飛び回る妖である。行きあった虫を食う以外、大した悪さをするわけではなく、ものの本では『そういう部族』という記述すらされている。妖、というよりある病気を持った人、という扱いだ。
「ある病気?」
「離魂病、という」
「りこんびょう?」
お前らがよく知る言葉で云えば、幽体離脱だねぇ…と、何故か妙に面映ゆそうに奉が呟いた。思いがけずスピリチュアルな単語を口にすることになって、落ち着かない気分なのだろう。
「体から魂が離れ、勝手に動き回る様を『視える人間』が飛頭蛮、もしくはろくろ首の形で伝えたのではないかねぇ…」
「俺が視てる草間に似た頭ってのも、そういう…?」
「ま、生霊の類だろうねぇ」
「生霊!?」
「ちなみに飛頭蛮にせよろくろ首にせよ、圧倒的に女が多い。草間に似た頭が女のものである、というお前の見立ては恐らく間違ってはいないねぇ…それとお前」
―――子供の頃、周りと話が合わなくて、大人に心配されなかったか…?
「………」
今泉の眉が、僅かに動いた。
「どうして、そう思ったの?」
質問には答えず、質問で返した。すぐに質問に答えないのは今泉の癖なのかもしれない。
「お前にとっては嫌な話をするかもしれないが、お前…視えるはずのないものが視えてるだろう。霊感とかじゃなく」
「……何でそれを?」
「そうなのか今泉!?」
今泉は俺の様子を伺うように盗み見て、小さくため息をついた。
「そっか、俺転校してきたから、皆知らなくて当然か。…そだよ。俺、そういうところがある」
「それに、恐ろしく耳がいい。…不幸にも」
今泉が観念したように頷いた。耳がいいのが、駄目なのか?俺にはもう、彼らの間で何が語られているのか見当もつかない。
「なぁ、奉。さっきから何を云っているんだ?」
くっくっく…と人を馬鹿にしたような笑いを漏らし、奉はカーテンを揺らした。


「―――視てみるか?お前らに、同じものが視えているのかどうか」


そしてゆっくりとカーテンを開けた。
「……あぁ…駄目だったかぁ……」
今泉の口元から、小さなため息が漏れた。
窓の向こうに、空虚な目で正面を見据える生首が浮いていた。
奉は口元に薄い笑いを浮かべている。俺は…ただ、首を傾げていた。どうも、おかしい。俺と奉と、今泉は同じものを視ている筈だが。しかし…。
「……なぁ、今泉」
「おーう」
「全然、似てないじゃないか」
今泉が目を見開いて、振り返った。
「瓜二つ、じゃないのか…?」
「俺は『視る』質なので何となく視えるんだ。…口元は少し似てるけど、本当に少し面影がある程度だぞ。…お前、一体何を視ているんだ?」
「当然だ。今泉には本当は、何も見えちゃいないんだからねぇ」
にやり、と奉が顔を歪ませた。
「そんな…だって…確かに…」
声を強張らせて、途切れ途切れに否定する。…今まで見たことがなかった、今泉が何かを拒絶するような表情。もしかして俺は、今泉を追い詰めるようなとんでもないことをしでかしてしまったのか。…こめかみを汗が伝う。
「勘違いをするなよ。お前が嘘つきだと云っているわけじゃない。ただお前が視ている世界と、常人が視ている世界には決定的な隔たりがあるんだよ。…気が付いているんだろう?」
「俺は…嘘つきじゃない…?」
今泉は惚けたように繰り返した。
「お前みたいな感覚の持ち主を、こう云うんだ」


―――共感覚。


「きょうかんかく?」
「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。これらを五感というだろう。この五感が相互に混じり合う、特殊な感覚を持つ人間が、稀にいるんだよねぇ。そういう感覚を『共感覚』という」
奉は共感覚の説明を続ける。
数字やひらがなに色彩を感じる、音に味を感じる…人によってその感じ方は様々で、成長につれて消えてしまうこともあるのだが、大人になってもその感覚を保持し続ける例もあるらしい。…そういう感覚の持ち主が居ることは聞いていたが、まさか今泉が共感覚の持ち主だったとは…。
「お前の場合はそうだな、とても、耳がいいんだろう?音に、映像を感じるようなことはないか?」
今泉が弛緩しきった子供のような表情で頷いた。
「やはりねぇ…恐らく人の感情だとか、霊の気配なんかを周波数として無意識に感知するんだろ。意識しなくても人の感情が読めるから、怒りや不安に先回りしてほぐしてやることが出来る。だからお前の周りには人が絶えないんだろうよ」
「へへ」
「笑うな腹立つねぇ。…で、お前は霊を視覚じゃなく、聴覚で捉えている。それと音が映像になる共感覚が変に作用して、今お前が視ている飛頭蛮を生み出しているんだろう。草間とそっくりなのは、そいつが出す周波数が、草間と似ているからだ」
「じゃあ、この人は…」
「草間とごく親しい血縁者。もっと云えば、母親だろう」
それを聞いた時、俺と今泉は全てを了解した。
心を読む術などない俺にだって分かる程、草間の母親は草間の変死に納得がいっていなかった。表向き『不幸な事故』として誰も恨むことは出来ないことは理性では分かっていても、感情では理解出来ないでいたに違いない。草間に異変が起こった直後、今泉は草間の実家に電話をかけた。つまり草間の母親にとって、今泉は草間の死をもたらした『死神』なのだ。


この男が、息子の寒中水泳参加を止めていれば。


そんな理不尽過ぎて決して周りには云えない恨みは、誰にも云えないままその心を蝕んでいることだろう。
「…うん。俺知ってた」
今泉は静かに項垂れた。はちきれんばかりの恨みの周波数は焼香中の今泉に、容赦なく襲い掛かった。今泉は恐ろしくて、母親の方を見られなかったのだという。
「それでお前は草間の母親の顔を知らなかったんだねぇ。知っていれば、少し違った容姿になったかもしれないな」
窓に映る草間の母親を、もう一度見る。歪んでしまった恨みは無意識に生霊を飛ばす程、この人を蝕んでしまった。どうすればいい、と奉に訊く前から、どうしようもないのだろうなと分かっていた。周りからどう説得されても、彼女は表向き納得している振りをして、今泉を恨み続ける。
「窓の外…ってのも、今泉の中に何か思い込みがあるんだろう。お化けは窓の外に出るもの…ってねぇ」
そう云って奉は、窓枠に手を掛け…なんとガチャリと外した。
「えっ!?」
「あれ、窓!?」
窓枠はいとも簡単に外れ、その向こうは何の変哲もない岩壁になっていた。
「え、で、でも今泉はともかく、俺だって窓の外に居たように視えて…あれ!?」
「それは俺が少し、悪戯をした。彼女がこの空間に入り込むには、ここしかなかったんだよねぇ」
くっくっく…と小さく笑い、奉が外れた窓の表面に手を当てると、彼女の生首は掻き消えた。
「この部屋には元々、強い結界が張られている。だが今日、この場所だけそれを緩めておいた」
だから場所など関係なく、彼女が強く恨む度にお前の傍らに現れていたんだよ…そう云って奉は窓枠を本棚の隙間に押し込んだ。…こいつ、この悪戯のためだけに、ホームセンターあたりで窓枠買ってきたのだろうか。
「理性でお前に非がないことが分かっている以上、危害を加えてくることはないよ。…厭ならお前の部屋に結界を張ってやることは出来るが、拒まれた生霊がどんな行動に出るかはちょっと分からんねぇ。どうする?」
今泉は少し考えるような顔をして、やがて首を振った。





「…本当によかったのか」
すっかり暗くなった石の階段を一段ずつ踏みしめ、俺と今泉は帰途についていた。街灯も存在しない急な参道は、懐中電灯でもなければ命取りだ。俺は慎重に今泉の足元を照らす。
「よく分からないけどさ、草間の母ちゃんには、恨む必要があるんだろ?こういうの、そのうち時間が解決するし、俺は自分の事を嫌いな人には関心がないから平気だよ」
無理に声を張っているのが、透けて見えるようだ。もうこれ以上、草間の事を話題にあげるのはやめておこう。
「人の顔がさ、お面に視えてたんだよ」
「急だし何云ってんのか分からねぇよ。そういうとこだぞ、いつも主語がないと云われるのは」
「あぁ、悪い。…共感覚の話。人の気持ちを音で感じて、それが視覚と一緒になって…っての。俺さ、人は皆、お面を被って生きてるように視えてたんだ」
「お面?」
「うん。表面に視えてる顔の後ろ側に、本当の顔があるの。俺にはそう視えるの」
表面の顔は笑ってても裏側の顔は激怒してる人とか、仲良しそうにしてる二人が心の中でめっちゃ睨み合ってたりとか。そう云って今泉は、少し寂しそうな顔をした。
「でもそれって、知っちゃいけないことらしいんだよ。俺が視えてる通りのことを親に云ったらさ、それまで見た事ないようなすごい顔で怒られて、でも裏側の顔はすごく怯えてて。お前は嘘つきだ、嘘つきだって云われて。俺怖くて、泣いちゃった」
「そんな事が」
「だから俺、ずっと誰にも云わないでいたんだ。嘘つきって云われるのが怖くて」
俺には何も云えなかった。俺の家は玉群との付き合いが深いこともあり、俺の『視える』性質は割と鷹揚に受け入れられている。そういう土壌がなかった今泉は、どんな不安な思いで自分の共感覚と向き合って来たことだろう。
「だから共感覚なんていう言葉も知らなくて、だから俺…今日、すげぇホッとしてるの。俺と同じ感覚の持ち主、他にもいるんだって分かったし、俺は嘘つきでも狂ってもいないんだって」
今泉の声に明るさが戻って来た。俺だって心底、ホッとしていた。
「…青島って、変わってるんだよな」
「なんだよ唐突だしお前に云われたくないし」
「お前も表面と本心が随分違うんだけどさ…」
お前って、自分の為には仮面を使わないんだよ。そう云って今泉は笑った。
「誰かを心配させないように、とか誰かを元気づける為に、とかで自分の不安とか、ムッとした気持ちとかを隠すんだよ。誰かを陥れたり、自分が得したりする為じゃなく。だから好きなんだ」
聞いてて顔が赤くなるような賛辞を手前勝手にぶつけて自分は上機嫌でずんずん歩いていく。懐中電灯が追いつかず、少し小走りになって今泉の後を追った。
「玉群は…もっと変わってる」
ふっ…と今泉が真顔に戻る。
「あいつには、仮面がないんだ」
「……ない?」
「視えないんだよ、裏側の顔が。あいつの顔は常に一つなんだ」
月明かりが、冴え冴えと無人の石段を照らす。その光を吸い込むかのように石段はなお昏い。…奉に人と同じ情動が感じられないのは当然だ。神なのだから。だがその違和感を完全に見切ることが出来る今泉は、この先…うまく云えないが、


奉と同じ位相の存在に、危険視されるようなことはないだろうか?


「玉群には云うなよ」
俺はぐっと頷き、今泉にも注意を促した。
決して、その力を他の誰かに明かすな、と。

この胸騒ぎの意味をもっとよく掘り下げるべきだった、と悔やむのは、もう少し先のことになる。

 
 

 
後書き
現在不定期連載中です 
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