トシサダ戦国浪漫奇譚
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第一章 天下統一編
第二十三話 降伏
曽根昌世の見立て通り江川英吉は砦を脱出していなかった。予想外の獲物だ。北条氏規に近しい江川英吉を生け捕りにし降伏させたことは大きな戦果といえる。
「江川殿、お顔を上げください」
俺の表情は温和なものに変わった。
俺は江川英吉に対し親しみを持って駆け寄った。江川英吉は俺の変わりように困惑している様子だった。
先程まで自分の命を奪おうと高圧的な態度を取っていた相手が掌を返した態度をとれば誰でもそうなる。
「よくぞ英断を下された。今より貴殿は私の客人だ」
「屋敷の中に居る者達も同じく遇していただけるのでしょうか?」
江川英吉は表情を固くし俺を凝視していた。彼は俺から視線を一瞬でも逸らそうとしない。俺の言葉を一言一句気にするところから彼の老練さを実感した。古今東西の歴史において勝者が敗者に対し約束したことを反故にする事例は幾らでもある。だからこその確認だろう。屋敷の者達の身柄の安全を保証できなかれば俺に降伏した意味がない。彼にとって一番重要なことに違いない。
「当然だ。貴殿一人が客人であるわけがない。屋敷の中に居る者達全てが私の客人だ。私の客人に不埒な真似をする者がいれば、この私が軌って捨てることを天地神明にかけて誓わせてもらう」
俺は江川英吉に強く頷き表情を少し緩めた。この際だ。このまま一気に本題に入ろうと思う。
「江川殿、貴殿達は私の客人だ。身柄の安全は私が保証する」
俺は言葉を切り一瞬思案する態度をとった。
「申し訳ないが江川殿の本領を安堵出来るかまでは保証できない」
「覚悟しております」
「私に貴殿の処遇を任せてもらえれば、貴殿の韮山の領地は全て安堵してさしあげましょう。ただ、それには関白殿下に口添えする材料が必要になる」
俺は意味深な笑顔で江川英吉を見た。俺は彼に知行安堵の代わりに、その対価を要求する。江川英吉も俺の意図に気づいた様子だった。
「私にどうしろと?」
江川英吉は間髪を入れずに答えた。ここまで来れば毒を食らわば皿までということだろう。いい反応だ。国人領主らしいといえる。この時代の武士に主君へ忠義を貫くという考えは定着していない。その考えは今からもっと後の時代、江戸時代、に徳川幕府が朱子学を武士の思想教育に取り入れたからだ。
「さして難しいことでない。私は明日の早朝には天ヶ岳砦を落とす。その意味はお分かりだな?」
俺は目を細め江川英吉を視線で捉えると凝視する。江川英吉は俺が言いたいことを理解したようだった。天ヶ岳砦が落ちれば韮山城は裸城同然であろう。韮山城の防衛の要は天ヶ岳砦だ。この天ヶ岳砦は韮山城周辺を見渡せる場所に建設され、本丸と一本道で繋がっている。細工なしに本丸と繋ぐと言うことは天ヶ岳砦がそれだけ重要な場所ということだ。ここが落ちるということは城が落ちると同義と見ていい。敵の進軍を阻むことが出来なくなるんだからな。
「私に美濃守様への降伏の使者となれということでしょうか?」
俺は江川英吉に頷いた。江川英吉の表情が強張った。さっきまで主君であった北条氏規へ使者として出向けば裏切り者として殺される可能性がある。だが、その心配はないだろう。俺が使者として北条氏規に対面した時、彼は常に冷静な態度を取っていた。一時の感情に流されて使者、江川英吉、を斬ることはない。
「北条美濃守殿が貴殿を斬るとは思わない。私の使者である貴殿を斬る意味が理解できないほど、北条美濃守殿は愚かではない。それに貴殿の嫡男は徳川殿の元に仕官している。徳川殿の感情の硬化を誘うような愚行は犯さないだろう」
俺は目を細め江川英吉に言った。江川英吉の俺を見る目に恐怖を感じている様子だった。
「江川殿、何を恐れる」
俺は江川英吉の左肩に手をあてると、江川英吉はびくりと身体を反応させた。俺が彼の息子が徳川家康の元に居ることに気づいていることが、それ程驚くべきことなのだろうか。
「貴殿の嫡男、江川英長、は徳川家康の旗本として仕えている。少し調べれば分かることだろう。そう構えることはない。私は責めているのではない。江川殿は戦国の倣いに沿っただけ。私は貴殿に協力して欲しいだけだ」
そこで俺は言葉を切る。
「武士にとって土地は命。『一所懸命』とも言う。貴殿も先祖伝来の土地を失うことは死に勝る苦しみであろう。北条美濃守殿が降伏すれば、それを功として関白殿下に貴殿の本領を安堵出来るように頼むことを約束しよう。私なら必ず約束を守ることができる」
「そのご自信の根拠をお聞かせくださいますか?」
江川英吉は俺の言葉が信じれない様子だ。そうだろうな。俺のような子供に「知行を安堵してやる」と言われても信じることができるわけがない。
「私は関白殿下より直々に伊豆を領地として与えると朱印状をいただいている」
「不躾な頼みでございますが、拝見させていただくことは可能でしょうか?」
「問題無い。貴殿とゆっくりと話がしたい。その屋敷の中で話ができないか? 客人の顔を覚えておきたい」
「屋敷にございますか?」
江川英吉は困惑気味に彼が出てきた屋敷に視線を向けた。銃弾でぼろぼろになった屋敷に灯りはない。屋敷の中に誰がいるか分からない。
「灯りならば松明がある。これを使えばいい。こんな所で朱印状を見せる訳にはいかない。貴殿も屋敷の方がこのような場所より落ち着くのではないか?」
俺は江川英吉に足軽達が持つ松明を一瞥し言った。
「お気遣いいただき感謝いたします。汚い場所ですが、どうぞお入りください」
俺は柳生宗章と松明を持った足軽五名を連れ屋敷の中に入った。屋敷内は本当に酷い状態になっていた。
屋敷内に足を踏み入れると人の気配がした。ただ視線を感じた。一人や二人じゃない。そこそこの人数が隠れている気がした。屋敷内を見回すが暗くて何も見えない。
「小出相模守様、こちらにございます」
江川英吉の案内で奥の部屋に案内された。俺は足軽に目配せして部屋の中に先に入らせることにした。部屋に入ると十畳くらい広さだった。松明の明かりだけでは部屋の中が薄暗い。だが、これで我慢するしかない。
「小出相模守様、どうぞ奥へ」
俺は江川英吉に進められるまま上座に腰をかけた。俺の右前に柳生宗章が腰をかけた。そして、俺と対面するように江川英吉が座る。足軽達は部屋の隅に立ち灯りの役目をしていた。
俺は徐に具足の隙間から朱印状を取り出した。戦場にも朱印状を持ってきている。内容が内容だから陣所に置いてくる訳にもいかなかった。盗まれると大変なことになるからな。
「関白殿下より私にいただいた朱印状である。謹んで検分するがいい」
俺は厳かな口調で江川英吉に朱印状を差し出した。江川英吉はすり足で俺に近づくと平伏したまま朱印状を受け取り中身を検分した。しばし彼は朱印状を凝視し沈黙していた。
「中に疑わしき点があるか?」
「関白殿下が発給された朱印状であるかの真贋は確かめる術を私は持っておりません。しかし、あなた様が関白殿下から伊豆を与えられことはわかりました。信用させていただきます」
江川英吉は俺に平伏した後、俺に朱印状を返した。それを俺は受け取ると懐にしまい込んだ。
「真贋を確かめずとも信用できるというのか?」
「あなた様が朱印状を偽造する利益がありません」
江川英吉は即答した。彼が言わんとしていることは分かった。朱印状は為政者にとって権威の象徴ともいえる。それを偽造した者の末路は極刑以外にない。俺が危険を犯してまで偽造する理由がない。
「私は徳川様が新たな伊豆の主と考えておりました。徳川様も同じであったでしょう。ですが、関白殿下は、あなた様をご指名になられた」
「そう考えることが普通だろう」
俺は言葉を切り江川英吉を見据えた。
「江川殿、返事を聞かせて欲しい」
「北条美濃守様との降伏の交渉をお引き受けいたします」
江川英吉は俺に平伏し降伏交渉の役目を応諾した。俺は肩の荷が下りた気分になった。彼は北条氏規との降伏交渉の役目にうってつけの人物だ。北条氏規への信頼もあるだろうからな。それに俺が北条氏規に降伏をせまるより、彼の方が降伏を受け入れ易いはずだ。城に籠城する将兵の中には、俺に裏切った江川英吉のことに殺意を抱く者もいるだろうが、北条氏規はそんな愚行を決して犯さないだろう。それを見逃せば韮山城に籠城する者達の末路は皆殺ししかない。
「小出相模守様、どうして私に降伏交渉を任せようとお考えになったのでしょうか? あなた様は初めから私に任せるつもりであったかのように思いました」
「選択肢の一つと考えていただけだ。降伏した者が使えそうなら使うだけのこと。それに江川殿が私に降伏するとは限らない。違うかな?」
俺は笑みを浮かべ江川英吉に質問を投げかけた。
「今思えば、あなた様は私に降伏させることにこだわられたように思います」
「拘ってなどいない。あの交渉では人の生死が関わっているのだ。無駄な犠牲を出さずに済む道があるなら選ぶように努力するべきと思っているからだ。それに戦場で苦しむのは女子供と相場が決まっている」
俺は自嘲するように江川英吉に小さく笑った。俺の言葉に江川英吉は感慨深そうに俺のことを見ていた。
「だから、あの時に私達を脅迫されたのですか?」
「さて、どうかな。買い被りすぎだ。江川殿の協力を得たかっただけかもしれんぞ」
俺は視線を逸らした。
「江川英吉、小出相模守様にご尽力いたします。郎党の者達のことをよろしくお頼み申し上げます。それと天ヶ岳砦への道案内をさせていただきたい」
江川英吉は俺に平伏し屋敷の者達のことを頼むと言った。言われずとも約束する。しかし、天ヶ岳砦への道案内も了承してくれるとは予想外だった。
「貴殿が仮に死んだとしても客人は客人のままだ。折りを見て私に仕官を望む者は召し抱える」
江川英吉は安堵の表情を浮かべ「感謝いたします」と返事した。
江川英吉の協力を取り付けた俺は北条氏規への降伏を促す書状を書いた。
武装解除を行い城を開城することを条件に、
一つ、城主及び、城兵、その他の者の身柄の安全を保証する。
一つ、速やかに投降すれば韮山城内における乱取りをさせない。
一つ、北条家の家名を残せるように尽力する。
この三点を約束すると記した。そして、俺はもう一通の書状を記した。宛先は秀吉である。大手門と砦を突破し明朝には天ヶ岳砦を奪うと記した上で北条氏規を投降させるために韮山城内への乱取りを禁止する許可が欲しいと願い出た。秀吉への書状は藤林正保に預け、彼の配下が直ぐさま秀吉が居る小田原に発った。
俺は雑務を終えると江川砦内に設営された仮設の陣所で仮眠を取ることにした。疲労と緊張のせいで強い眠気に誘われ記憶が途切れた。その眠りも俺を呼ぶ誰かの声で意識を呼び戻された。
「殿、もう直ぐ朝駆けの時刻にございます」
俺は仰向けのまま眠気眼で天井を虚ろな目で眺めた。
「殿、もう直ぐ朝駆けの時刻にございます。起きてください」
俺は横向きになり声が聞こえる方に顔を向けると視線上に誰かの姿が見えた。だが、薄暗くよく見えない。その顔を俺は凝視した。
「お前は誰だ?」
俺は目を細め寝ぼけながら相手に質問した。
「殿、何を寝ぼけておられるのです。長門守にございます」
「長門守?」
俺は目の前の顔を目を凝らして見た。藤林正保がそこにいた。
「もう時間か?」
「はい、直ぐにでもお支度をお整えください。兵達の準備は内匠助殿が指示を出しております。そのようなしまりの無い顔では兵達に示しがつきませんぞ」
藤林正保は厳しい表情で俺に言った。
まだ眠い。
だが、このままでは機会を逃すことになるから起きるとしよう。
身体が重い。城攻めが終わったら爆睡してやる。
俺は、大あくびをすると、重い体をゆっくりと起こしゆっくりとした足取りで具足が置いている場所に近づいた。
「殿の出立のご準備をせよ」
藤林正保の声とともに引き戸の扉が開き、小姓達が俺の寝所に入ってきた。彼らはたったままの俺に具足をつけていってくれる。次に陣羽織、その次は兜と慣れた手つきで俺の軍装を整えていってくれた。そして、最後に俺に刀が渡される。俺はそれを受け取り腰に差すと自分の姿を下から首元へ向け視線を動かし軍装の確認を行った。
問題ないな。
俺は藤林正保の方を向いた。
「殿、ご立派にございます。兵達は殿の出馬を今か今かと待っております」
「大げさだな」
俺は苦笑しながら藤林正保を見た。
「何を言っておられるのです。四万の大軍で突破できなかった大手門をあっという間に突破し砦を一つ落としたのです。その上、砦の守将を降伏させたのです。兵達は殿の知謀振りに感服しております」
藤林正保の褒め千切られた俺はこそばゆくなり頬をかいた。
「わかった。わかった。長門守、さっさと天ヶ岳砦を落とそうではないか」
既に緒戦での目標は達した。後は天ヶ岳砦を落とし、本丸に籠る北条氏規に降伏を迫ればいい。江川英吉の話では北条氏規は城を枕に討ち死にする気はないと思っている。
北条氏規の狙いはどんな形でも北条家を残すことができればいいと考えているようだ。そのために籠城にて戦い抜き北条家の意地を秀吉に示したい。要するにささやかな抵抗ということだ。
だが、それが不可能ならば、北条氏規はいかがして御家を守るという目的を達するかということだ。
俺は江川英吉を通し北条氏規に北条家の家名を残せるように尽力することを約束することにした。
北条氏規は俺の助け舟に乗ることだろう。そのために北条氏規には俺の武勇を天下に示すために力を貸してもらうことにする。
その方が北条氏規にとってもいいはずだ。世間が北条氏規は名将に敗れたと認知すれば、北条氏規の敗北は仕方なかったことになり彼の面子も立つからだ。
北条氏規が書状の内容を飲むならば彼は本丸開城し俺に降伏するだろう。
その光景を見た韮山城を包囲する豊臣軍の武将達は俺の力を認めざる負えなくなる。
後から加わった武将の功績など水泡に帰す。なぜなら北条氏規は俺の天ヶ岳砦を落としたことで抗い難しと考えての降伏と印象づけられるからだ。
城攻めの手柄は俺の総通りになる。福島正則・蜂須賀正勝には悪いと思うが何かで埋め合わせさせてもらう。
ここまで上手くいくとは思っていなかった。
だが油断は禁物だ。
俺は自分の兜の紐を締めなおした。
さて、行くとするか。
俺が陣所の外にでると家臣達が群をなし俺の元に駆け寄ってきた。全員、俺を尊敬の目で見ている。
すごく恥ずかしい。
「皆の者、準備は整っているか?」
俺が言うと「万事整っております!」と主だった家臣達が凛々しい表情で俺のことを見ていた。全員が俺の快挙を喜び歓喜しているようだった。
数日前と兵達に漂う空気が全く違う。兵達の気持ちが一つになった印象がある。
これならいける。
俺は唇を真一文字に閉めた。
「皆の者、目指すは天ヶ岳砦。小出軍は一兵も失わずして朝日を拝むぞ!」
俺は息を吸い込むと声を大にして叫んだ。その声に応えるかのように兵達はありったけの力を振り絞るように雄叫びを上げた。彼らの声の大きさに俺の体を揺さぶるような感覚を覚えた。
俺の口元が綻びた。自然と俺は笑い声を上げていた。
「小出軍は寄せ集めの軍にあらず。名将・小出相模守俊定の精鋭ぞ! お前達は俺の自慢の家臣達だ。この俺についてきてくれるか?」
俺はついつい地の口調で兵達に声をかけた。兵達は俺に応えるように更に雄叫びを上げた。
「いざ、出陣!」
俺の檄とともに曽根昌世が兵達に激を飛ばした。兵達は彼の命令に従い規則正しい動きで江川砦を出立する。
俺達は江川砦を抜けると江川英吉の案内で天ヶ岳砦に続く麓に着陣した。ここで柳生宗矩が煙硝蔵を爆破するのを待つことにした。程なくして本丸から爆音が鳴り響き、それに遅れて黒い煙が立ち上っていた。それに合わせ俺達は天ヶ岳砦へ侵攻した。天ヶ岳砦は抵抗らしい抵抗が出来ずに半刻(一時間)で陥落した。こんなに脆いものなのかと感じてしまった。
俺は天ヶ岳砦に立っている。
眩しい陽光を身体一杯に浴びている。今日ほど朝の光景が美しいと感じたことはない。生きていることを実感した。
「良い眺めだ」
俺は天ヶ岳砦から望む韮山城下の光景を一望した。韮山に布陣する豊臣軍の動きが手に取るように分かる。これでは大手門を正面突破できるわけがない。韮山城は城内に侵入した大軍を狭路に誘い込む構造をしている。面倒な構造だ。だが、被害を度外視して城攻めを行えば城を落とすことは可能だろう。
「殿、北条の旗を下げ代わりに我らの旗を上げました」
藤林正保が俺に声をかけてきた。俺が視線を天ヶ岳砦内を見回すと小出の家紋が入った旗が彼方此方に掲げられていた。
「ご苦労」
これで北条氏規は天ヶ岳砦が落ちたと理解するだろう。北条氏規に考える暇を与えるつもりはない。
「江川英吉はいるか」
「下で待っております」
俺は櫓を下りることにした。櫓を下りると江川英吉が片膝を折り待っていた。
「江川英吉、北条美濃守殿に降伏の書状を届けて欲しい」
俺は具足の脇から一通の油紙に包まれた書状を取り出し、江川英吉に差し出した。彼はすり足で進み出ると書状を受け取り懐にしまい込んだ。
「小出相模守様、必ずや吉報をお届けいたします」
「頼んだぞ」
俺が江川英吉を見送って半刻(一時間)、そろそろ豊臣軍にも韮山城の様子の変化に気づいているころだろう。北条氏規は未だ降伏しないのか。俺の軍単独で城を落とすからこそ乱取りを防ぐことが出来るんだ。それを読み取れない北条氏規じゃない。
俺は焦り深く深呼吸した。
「殿、如何なさいました」
「眠たいだけだ」
俺は笑みを浮かべた。
「無理をなされますな」
曽根昌世は俺を見透かすような目で見ながら言った。
「気をつける。城に動きはあったか?」
「いいえ、ありません」
「北条氏規はどう動くだろうか?」
「この状況で選べる手はないでしょう。殿の助け船を蹴れば、韮山に布陣する豊臣軍に嬲り殺しにされるだけ。意地を見せ戦う道を選ぶというならば叩き潰すだけのこと」
曽根昌世は真剣な表情で俺のことを見た。
そうだな。北条氏規が徹底抗戦を選ぶならば力攻めをする以外にない。
だが、北条氏規を拘束する必要が俺にはある。
福島正則と蜂須賀家政を呼ぶか。俺の手勢だけで本丸を落とすことは難しい。
「殿!」
俺が援軍を福島正則と蜂須賀家政に要請するか思案していると、物見の家臣が俺のところに慌てて走ってきた。
「何か城に変化があったのか?」
「敵将・北条美濃守が降伏いたしました」
俺はつい立ち上がってしまった。
「北条美濃守は江川英吉に伴われ、この砦に向かっております」
北条氏規が自ら城を出てくるとは思わなかった。俺は脱力し床几に腰掛けた。
「藤林長門守、北条美濃守殿を丁重にお招きしろ。失礼のないようにな」
俺が藤林正保に頼むと彼は「かしこまりました」と返事、北条氏規を迎えに行った。彼の後ろ姿を見送っていると曽根昌世が俺に声をかける。
「殿、これで腹を切らずに済みましたな」
曽根昌世は笑いながら軽口を叩いた。
「そうだな。これも家臣達が頑張ってくれたおかげだ」
「家臣達が良い働きをしたと思われるならば、それは殿の器に御座います。三十日前までは面識もないただの寄せ集めを束ねられたのは間違いなく殿にございます」
曽根昌世は佇まいを正し真剣な表情で俺に言った。彼が俺へ敬意を抱いていることを強く感じることができた。
「俺は家臣達の働きに報いことができたか?」
「十分過ぎるほど報いておられると思います。家臣達の顔を見れば分かるはずですぞ」
俺は曽根昌世に言われるままに動き回る家臣達の様子を見た。彼らが生き生きとしている様子が手に取るように分かった。
「そうか」
俺は小さくつぶやくと右手で目を覆った。身体から緊張が一気に抜けた。人は嬉しくても泣けるんだな。こんな気持ちは初めてだ。
曽根昌世は俺に何も声をかけなかった。
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