死人
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第二章
「世の中間違っておる。ましてやわしは大きなことをしてきたのだぞ」
その自分を認めない、尊敬しないのはどうかというのだ。弟子も彼の為してきたことは知っている。これは誰もがだ。そのことは認められていたのだ。
だがそれでも認められないことがある。江漢はそのことがわかっていなかった。
だからだ。こう言うのだった。
「そのわしを認めず除け者にする世の中は間違っておる」
「では先生はどうされるのですか?」
「わしの真の価値を認めさせてやる」
そうするとだ。彼は弟子に告げた。
「何としてもな」
「ではやはりもう少し落ち着かれた方が」
弟子は何とか言う。だが、だった。
江漢は弟子の言うことを聞かない。人の話を聞いていれば今に至らない。それでだ。
一人で不満に満ちて考えていきだ。それでだった。
彼はまずはこうした。そのしたことは。
「あの、年齢をですか」
「わしは歳を取ることにした」
弟子に言う。彼は急に九歳も歳を取ったのだ。
「年長であれば年長であるだけに敬われるからな」
今の年齢ではまだ誰にも敬われないというのだ。
「しかし九歳も歳を取ればじゃ」
「誰もがだというのですか」
「そうじゃ。だからわしは歳を取るぞ」
「しかしそれでは何か仙人みたいですね」
歳を取っているのならと、弟子は師匠の目を覗き見ながら問うた。
「そうなると」
「仙人なら尚よい」
仙人は誰からも尊敬される、だからだというのだ。
「神仙になるとしようか」
「そうですか。それでは」
「そうするぞ」
こうしてだ。彼は急に九歳程歳を取った。するとだった。
その話を聞いた大槻は呆れてしまった。それでこう自分の弟子に言うのだった。
「一体何を考えておるのか」
「あの、歳を取られていますが」
「確かに歳を取ると敬われる」
それはその通りだとだ。大槻も認める。
だがそれでもだとだ。彼は弟子に言うのだった。
「しかしそれはだ」
「そこに敬われるものが備わるからですね」
「そうだ。しかしな」
「あの方は」
「残念だがそれがない」
大槻は難しい顔で弟子に述べる。
「そう言うしかない」
「それがわかっておられないのですね」
「蘭学者としても絵師としても見事なのだが」
両方の才はある。だが、だというのだ。
「人の世は上手くはいかぬものだな」
「どなたか止められないのでしょうか」
「そうした方もおられた」
言いながらだ。大槻は己の師の一人の名前を出した。
「前野良沢先生がな」
「あの方ですか」
「あの方なら叱ってくれたのだが」
「ですが前野先生ももう」
この世を去っている。それならばどうにもならなかった。
「だからですか」
「私では無理だ。こうなってはだ」
「見ているしかできませんか」
「うむ。私もあの御仁はどうにもならないと思っているからな」
匙を投げたというのだ。だからもう何も言わないというのだ。こうして江漢の奇矯な振る舞いは誰にも止められなかった。そしてこれが止められないと。
その振る舞いはさらに酷くなった。今度はだった。
江漢はだ。弟子にこう言ったのだった。
「わしは死ぬぞ」
「えっ、先生まさか」
自決するのかとだ。弟子は血相を変えた。確かに変人になっているがそれでも江漢は彼にとっては師だ。そう言われて驚き心配しない筈がなかった。
ページ上へ戻る