SNOW ROSE
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花園の章
Ⅲ
王都に近い街ブルーメは、別名<水の都>とも呼ばれている。
内陸にありながらこの別名で呼ばれるのは、この地に多くの湖が存在するためである。それは人工的に作られたものであり、湖同士を運河で結び、それが街の至るところへ延びているのが<水の都>の呼び名の由縁であった。王都が干ばつの被害にあわないのは、このブルーメのお陰と言っても過言ではない。
さて、その一つの人工湖の岸辺に、一人の男が打ち上げられていた。
「お前、大丈夫か!?まさか流されて来たんじゃ…。全く、運の良い奴だ…。」
最初に男を見つけたのは、この湖の近くに住んでいたマルコ・ウォーレンという人物で、マルコは直ぐ様倒れていた男を家まで運び、街の医師を呼んだのであった。
「ユディ先生。この方の容体は…?」
「うーん…未だ何ともねぇ…。かなり弱っている上に、この肩の傷がねぇ…。暫くは様子見だな。今日は傷口が化膿しないように塗り薬と、目が覚めた時に飲ませてほしい粉薬を置いてくから。」
「代価は如何程ですか?」
「いや、気にしなくていいよ。この人にかかるのは僕が賄うからさ。」
「それでは先生が…。」
「構わないさ。代価を考えてちゃ、この人の治療なんて出来ないでしょうが。それじゃ、何かあったら直ぐに呼んでくれ。」
ユディはそう言うと、そのままこの家を後にしたのであった。
この助けられた男は、その後八日程眠り続けていた。あちらこちら打撲や骨折をしており、そのため熱も高いままであった。
医師をのユディは、毎日往診に訪れては肩の傷や打撲、骨折などの具合を見ていたが、さすがに眠っている相手に飲み薬を無理やり飲ませることは出来なかったため、まずは外から治せる部分に集中していたのであった。
「外傷は大丈夫そうだな。骨の方は、あと十日もすればよくなるだろう。」
「それは良かった。しかし先生、このまま目を覚まさないようでしたら、一体どうしたら宜しいですかねぇ。」
「そうだねぇ…。あと数日目覚めなかったら診療所へ運ぶよ。もう動かしても問題は無いからね。」
ユディがそうマルコへと返答した時、扉の向こうで話を聞いていたこの家の一人娘であるアリシアが、話していた二人の前へと姿を見せたのであった。
「待って下さい。父さん、私…私がこの方の面倒を看ますので、移動なんてしないで下さい。」
ユディもマルコも、このアリシアの発言に驚いた。ただでさえ厄介事だと言うのに、このアリシアはそれを自分が遣りたいのだと言っているのである。
アリシアはこの年二十一になる。この歳になるまで婚姻を結ばないのは、この街ではかなり珍しかったが、その娘が素性も知れぬ男を自ら看病したいとは…親からすれば、些か考えさせられるところである。
ここで言うのも憚られるが、動けない病人を看病するとなれば、下の世話もせねばならない。どの様な親であれ、年頃の娘にその様なことをさせるわけにはゆかぬと思うのは、至極当然の感情であろう。
「アリシア。この方も先生の所の方が治りも早かろう。それに、お前は年頃の娘ではないか。病人の世話をなど到底させられんよ。」
「いいえ!何と言われましても、この方の面倒は私が看ます!」
ユディとマルコは、言い張るアリシアに溜め息を洩らしたのであった。一度言い出すと、アリシアはあきらめることはない。言わば強情な性格なのである。それを知っていたユディは、アリシアへと溜め息混じりに言ったのであった。
「仕方の無い子だね…。アリシア、なぜこの男の看病なんて…?」
ユディの問い掛けに、アリシアはうっすらと頬を紅く染めた。それを見たマルコは、あまりのことに目を丸くして言った。
「アリシア…お前まさかこの方を…?」
「はい…。素性すら知れませんが、私はこの方を好いております。想い届かずとも、私はこの方の力になりたいのです。」
「だからと言って…」
マルコはどう言って良いやら分からなくなった。今までどの様な結婚相手を連れて来ても、全く見向きもしなかった娘が、助けた旅の男に想いを寄せてしまうとは…。全くの想定外と言える事実に、マルコは喜んで良いやら悪いやら…。
「分かった。アリシア、お前が責任を持って面倒を看なさい。しかし、何かあれば直ぐにユディ先生のところへ連れて行くからな?」
呆れ顔でアリシアへと言ったマルコに、これまた呆れ顔のユディが言った。
「マルコさん、本当に宜しいので?」
「こうなっては仕方の無いことです。アーリーンも理解してくれるでしょう。」
「お父さん、ありがとう!」
あまりに嬉しそうなアリシアの笑みに、ユディもマルコも苦笑せざるを得なかった。
その日より二日後、男はようやく深い眠りから目覚めた。
「俺は…どうなったんだ…。」
男は目が覚めるや、そう呟いた。近くで花瓶の花を取り替えていたアリシアがそれに気付き、男の傍に寄って言った。
「お気付きなりましたか。ここはブルーメの街です。あなたは湖の畔で倒れていたそうですよ?」
「湖…?ブルーメ…?」
男は傍らにいたアリシアの言葉に暫し戸惑っていたが、直ぐ様起き上がろうと身体に力を入れようとして断念した。目に見える傷はかなり癒えてはいるが、骨はそう簡単に治るものではなく、急に動かそうとして激痛が走ったのである。
「急に起き上がろうとしてはいけません!貴方は多くの傷を負い、打撲に骨折までしていたんです。恐らく、谷川に落ちて湖に流されたのでしょう。今暫くは安静にしていなくては…。」
「…そうか…。俺は…どれ程眠っていたんだ…?」
「八日程です。そのお陰で傷も随分と良くなりましたわ。私は貴方が目を覚ましたことを父と母に告げてきますので、そのまま休んでいて下さいね。」
「厄介を掛けてしまったな…。申し訳ない…。」
「良いんですよ。あ、お名前を伺っても宜しいですか?私はアリシア。アリシア・ウォーレンと申します。」
「俺は…ミックだ。ミック・エリンゲル。」
男はアリシアにそう名を告げたが、その表情に引っ掛かるものを感じて言った。
「失礼とは思いますが、本名ではありませんね?」
「…!?」
アリシアの言葉に、男は顔を強張らせた。まるで悪戯を見透かされた子供のような表情に、それを見たアリシアは思わず笑ってしまったのであった。
「そのように分かりやすい表情をすれば、誰しも何か事情があると思いますわ。深くは聞きません。話せる時が来たらお話下さい。私では何の役にも立ちませんが、話せば幾らかは心も軽くなるというものですし…。それでは…」
アリシアがそこまで言って戸口へ手を掛けると、男は慌ててこう言ったのであった。
「ミヒャエルだ。本当の名はミヒャエルだ。訳あって姓は名乗れないが、君には本当の名を知っていてほしい…。」
男の不器用ではあるが素直な言葉に、アリシアは静かに微笑んだ。
「教えて下さって嬉しいですわ。呼び名はミックさん…ですわね?ミック・エリンゲルさん、貴方の憂いが晴れるまで、私は貴方の本当の名を口に致しません。心配しないて下さい。それでは、呼んできますね…。」
そう言ってアリシアは部屋から出ていったのであった。
男は、トリスから出て山道から谷川へと落とされたミヒャエルであった。
彼は部屋の中、少しずつ記憶を辿って行き、何とか現在の状況を把握しようと努めていた。しかし、何分体に痛みが走るため、何度も思考を中断せざるを得なかった。
「もし、ここへ流れ着かなければ…俺は…死んでいたか…。」
開かれた窓から風がそよぎ、レースのカーテンを揺らしていた。窓からは青い空が見え、そこへ流れる白い雲にミヒャエルは、どこか懐かしいような気持ちになっていた。こうやって再び空を眺めることが出来るのも、この家の人々のお陰であり、それを遣わしてくれた神の御心の賜物と言えた。
正直、ミヒャエルはそれ程信仰心の強い人物ではなかった。しかし、この時ばかりは神に心から感謝を捧げたのであった。
暫く空を眺めていると、部屋の扉が開かれアリシアと共に二人の人物が顔を見せた。
「良かったわ!やっと目を覚ましてくれたのね。一時はどうなるかと思ったけど、これで一安心ね。」
「全くだ。あの大怪我で、よく生きていたと言うもの。ま、完治するまでゆっくり養生しなさい。何の心配もないのだからね。」
姿を見せたのはアリシアの両親であったが、ウォーレン夫妻がミヒャエルのことを知ってはいても、当然ミヒャエルは眠り続けていたために面識の無い相手と言うことになる。故に、ミヒャエルは一先ず今の状況を確認しようと夫妻へ言った。
「先ずは御親切に感謝致します。それで…俺はどんな経緯でここに居るのか、今一つ理解しかねているのですが…。」
そのミヒャエルの問いに、アーリーンが言った。
「そうでしたわね。私達は未だ名乗ってもいませんものねぇ…。私はアーリーン。こちらは夫のマルコで、娘のアリシアとはもう話されましたわね。ミックさん。」
どうやらアリシアが夫妻に名を話してくれたらしい。
このミックという名であるが、ミヒャエルの愛称であり、友人がこの名で呼んでいたのであった。ミヒャエルも気に入ったようで、王都に近い街などでは、常にこの愛称を使っていたのである。故に、嘘と言うわけでもないのであるが、謂わば命の恩人たる人達に対し、ミヒャエルは些か心苦しく感じていたのであった。
だが、ここで本名を明かせば、万が一と言うことも考えられる。ヘルベルトに生きていることを気付かれでもしたら、この親子もただでは済むまい…。巻き込まぬためにも、名も身分も偽り通すことが、今のミヒャエルに出来る精一杯であった。
それに気掛かりなこともある。ミヒャエルと共にいた二人の騎士のことである。だが、体がこの状態では動かすことも儘ならず、ヘルベルトに見付かれば次はないことは知れている。
気は急いても空回りするだけであり、ミヒャエルは心苦しくも暫く厄介になることに決めたのであった。
「助けて頂き感謝します。何分この様な身で返礼も儘なりませんが、今暫くご迷惑を掛けてしまうことを先にお詫びします。」
「怪我人が何を言ってる。困った時は助け合うのが人ってものだ。医師のユディ先生が全部面倒みて下さると言っているし、君は何の心配もせずに養生していればいい。」
マルコが笑いながらミヒャエルに言うと、ミヒャエルはその言葉に顔付きを変えて言った。
「ユディ…と言いましたか?」
「ああ。この街唯一のお医者先生だ。その先生が何か?」
「あ…いや、恐らく人違いですね。この名も多いですから…。」
ミヒャエルが苦笑混じりに言うと、アリシアがミヒャエルの寝ている布団の上掛けを直しながら言った。
「そうですわね。さぁ、もうお休みになって下さい。あまり長く喋っていると、体力も落ちてしまいますからね。」
「全くです。後でユディ先生もいらっしゃると思いますし、何にせよ、体を治すことが先決ですわよ?」
アーリーンも心配そうにミヒャエルを見ていた。未だ顔色の悪いミヒャエルに、長い間喋らせることは体に障ると感じたのである。
さて、このユディの名にミヒャエルが反応したのは、彼の親友の名と同じだったからであった。その親友も同じく医師を志し、単身モルヴェリへと医学を学びに赴いたのであるが、それっきり音沙汰が途絶えていたのであった。同じ頃にミヒャエルも王城を出て旅を始めており、互いに連絡の取り合える環境には無かったのであるが…。
少し眠っていたようで、ミヒャエルは扉を叩く音で目を覚ました。
「眠ってましたか?これ私が作ったスープですが、食べられるようなら少しでも召し上がって下さい。食べなきゃ体力が回復しませんからね。」
扉から現れたのはアリシアであり、ミヒャエルのために食事を運んできてくれたのであった。ミヒャエルはアリシアの手を借りて何とか上半身を枕を背にして起こすと、未だ痛みの残る手でスープを受け取った。
アリシアは食べさせようとしていたようだが、さすがにそこまでは厄介になれない。正直な話、ミヒャエルは恥ずかしくて半ば拒絶したのである。その仕草が面白かったのか、アリシアは少々笑いを溢していた。
何とかスープの皿を受け取ったミヒャエルは、それを一口啜って言った。
「美味い…!」
それは野菜を蕩けるまで煮込んだスープであり、どうやら滋養に良い何種かの薬草も入れてあるようであった。ミヒャエルの反応にアリシアは、うっすらと頬を赤らめて、どこか嬉しそうにミヒャエルを見ていたのであった。
それから一時間程後、医師のユディがウォーレン家を訪れた。
「やっと目を覚ましたか。」
そう言って部屋に入って来た人物を一目見て、ミヒャエルは言葉を失ってしまっていた。
「やれやれ、どこかで頭でも打ったかねぇ。ここのご家族には、随分良くしてもらっていたかと思ったが、話せないんじゃなぁ。」
「ユディ・アルサル!」
ミヒャエルはやっとのことで、目の前で笑っている男の名を呼んだ。
そこに居たのは、ミヒャエルの親友であるユディであった。まさかとは思っていたが、本当に本人がくるとは考えてもいなかったミヒャエルは、その驚きを隠すことなど出来はしなかった。ユディはそれが面白いらしく、暫くの間笑い続けていたのであった。
「いやぁ…はぁ…。君の驚きようときたら…やはり面白い!」
「そうじゃなく!なんでお前がこんなとこで街医者なんかやってんだ!?」
「まぁ、話せば長くなるんで…面倒だから省略。」
「略すどころか、まだ何も言ってない!」
「今話すことじゃないからなぁ。取り敢えず、先ずは診察するから。一応飲み薬も用意しといたから、必ず飲むようにな。外傷はもう大したことないようだし、骨も後二三日位でどうにかなるだろう。痛みは和らぐが、まだ二週間は安静にしてないとだめだからな。」
ユディは診察しながらミヒャエルへと的確に語った。それは正に医者の姿であり、ミヒャエルは親友の夢が叶っている姿に、一時の喜びを見い出していたのであった。
「だが…診てくれたのがお前で良かったよ。」
「こっちはウォーレンさんが怪我人担ぎ込んだって呼ばれた時、まさか君だとは思いもしなかったからな。それが目の前には国の第三王子…」
「ユディ、それは…」
「大丈夫だ。マルコ氏とアーリーン氏は仕事に出ているし、娘さんは薬草を採りに行っている。でだ、この肩の傷はどうしたんだ?崖から落ちた傷じゃないだろ?」
今までとは打って代わり、ユディは真剣な表情でミヒャエルへと問った。
ミヒャエルは何とか話をはぐらかそうと試みたが、医師として傷が何でつけられたものかを解っていたユディに、そのような試みは通用しなかった。
「ミック?正直に言わないと、骨の二、三本も折ってしまいそうだよ?」
「医師が脅迫するなっ!」
しかし、この医師ユディ・アルサルであるが、明かしてしまえば十二貴族の一人、アウグス伯ミレーネ・フォン・マウゼンの次男なのである。長男が爵位を継ぐため、ユディは自由に夢を追うこと許されていたのである。
彼が名を変えているのは、何かあった時に実家…伯爵家に迷惑を掛けないためであり、別に疎遠になっていると言うわけではない。正式にはユーディアス・フォン・マウゼンであり、ユディと言うのはミヒャエルに呼ばれていたニックネームで、家では愛称として呼ばれていた名であった。
この時のミヒャエルにとって、十二貴族の力はどうしても借りたいのは言うまでもないが、親友を巻き込むことに躊躇いが無いわけではない。しかし、そう考えて言い出せないミヒャエルよりユディの方が上手なようで、無言のミヒャエルへとこう言ったのであった。
「王家ではヘルベルト第二王子が騒動を起こしているのだろ?君の命が狙われているなんてのは、その傷を見たときから検討はついてる。なんせ使ってあった毒が特有のものだったからなぁ。恐らく短剣か何かに塗ってあったのだろうがね。」
「夢は叶ったようだな…ユディ。」
「お陰様で。君の方は大分苦労しているようだね。まぁいい、ここでもう暫く養生することだ。内密に君のことを父上には書簡で知らせてあるから、完治したらカスタスへ行け。」
ユディの言ったカスタスとは、アウグス地方の東にある大きな街であり、コロニアス大聖堂があることでも知られている。隣国のヨハネス公国との国境に面しているが、コロニアス大聖堂があるこの街は、宗教上の不文律のために戦時でも安全であった。
言ってしまえば、カスタスを統治しているのはコロニアス大聖堂であるとも言え、それは現アウグス伯も認めているのである。故に、この国…いや、この大陸で一番安全な場所と言えばカスタスと言えたのであった。
「いや、それは出来ない。俺と共に、二人の騎士が襲撃に遭ったんだ。先ずはその二人の安否を確認しなくては…。」
ミヒャエルは襲撃時のことを思いだし、ヘルマンとシオンが無事でいることを願った。ともすれば二人とも…という考えが頭を擡げたが、それでも探さぬわけにはゆかない。
彼らが生き延びていれば、他の仲間とも直ぐにでも合流出来るはずである。運悪くそうでなかったとすれば、騎士達を召集するのは至難と言えるのであった。
ミヒャエルとて二人の死なぞ望まないが、相手は碧桜騎士団暗殺部隊であり、たとえ手練れの騎士とはいえ、たった二人だけで相手が出来るとは考え難いのが純然たる事実であった。
「ミック、それならば心当たりがある。七日ほど前だが、レクツィの村にいる医者の知り合いから、運び込まれた男を見てほしいと書簡が届いて見に言ったんだ。熱が全く下がらないと言うんで診たんだが、君と同じ毒にやられてたんだよ。」
「一人だったのか?二人じゃなく?」
「ああ。聞けば二人いたとのことだが、一人は既に亡くなっていたとのことだ。しかし、運び込まれた男だって、あの怪我でよく生きていたと言える。発見した人が良かったのだろうな。確か…何かの経営者と旅楽士の夫妻だったと聞いたが…。」
「旅楽士の夫妻…だと?まさか、レヴィン夫妻じゃ…」
「そうだ。確かそんな名前だった。なんだ、知り合いだったのか?」
ミヒャエルは言葉に詰まった。様々な思いが交錯し、言葉に出来ない想いが溢れだしていた。
- まさか…あのレヴィン夫妻の名をここで聞くなんて…。 -
ミヒャエルは暫く目を閉じ、そして意を決したようにユディへと言った。
「ユディ、レヴィン夫妻に近々会うことは出来ないか?」
「大丈夫だろう。男が完治するまで面倒を見ると言っていたからな。僕は明日レクツィへ様子を見に行くが、落ち着いていたらご足労願ってくるさ。」
「済まないな…。」
「何を言っている。ミック、君には大きな借りがあるからな。これくらい大したことじゃない。」
ユディのこの言葉は、友であり支援者でもあったミヒャエルへの感謝の念に他ならなかった。
ユディは医師を志てリチェッリへと旅立つ際、その旅費や学費をミヒャエルに出してもらったのだ。伯爵家はそれどころではなかったため、一金貨も出せる状態ではなかったのである。
「ユディ。あれはお前に才能があったから、俺が勝手に出したんだ。あの時も言ったが、お前が医師になって人々を助けられれば、俺は見返りを求めない。そして今、お前は充分にそれを果たしているんだから、恩義に感じないでほしい。」
ミヒャエルはユディへと言った。その言葉を聞き、ユディは微笑みながら静かに言葉を返した。
「何も変わらんな。だが、これだって僕が勝手に思って遣っていることだ。医師の志を甘く見るなよ?」
ユディにそう返され、ミヒャエルは変わらぬ親友の人柄に懐かしさと安堵を感じたのであった。
そうしているうちに、ウォーレン家の人々が帰ってきたため、ユディはミヒャエルへと薬を手渡して、そのまま部屋を出ていったのであった。
さて、ウォーレン家の人々は、先ずミヒャエルのためにあれこれと世話をした。始めにマルコが着替えをさせ、その後にシーツと上掛けを交換した。それをアーリーンが洗濯のために持って行き、それを洗濯して干したのであった。
アリシアは台所で夕食の支度に掛かりきりとなり、まるでそれがいつものことだと言うように、ミヒャエルが気を使う隙を見せないようにしている姿は、まるで家族の愛を注がれているようにさえミヒャエルは感じたのであった。
しかし、それは逆に、ミヒャエルの心を苦しめる結果にもなっていたのである。
もし、ミヒャエルが第三王位継承者だと知られれば、この家族の対応はがらりと変わってしまうだろう。そして、それを言うことの出来ぬ自分が、大いに腹立たしく思えていたのであった。
- いずれ必ず…この恩に報いよう…。 -
この時、彼が心の中で呟いたこの言葉は、後にこの家族だけでなく、国全体を幸福へと導く切っ掛けとなるのであるが、それは未だ遠い先の話である。
十日ほど経った後の話である。ミヒャエルはかなり回復し、家の内外を歩き回れるようにまでなっていた。そのためか、ミヒャエルは家の人々が出掛けると、庭に出て花壇や庭木の手入れをしたり、家の細かな部分の掃除をしたりと、リハビリがてら出来ることをやっていた。
アリシアに見つかってしまうと安静にしていなくてはと叱られてしまうのだが、ミヒャエルは何故かそれが心地好く、ついつい動き回ってしまうのであった。
そんなある日、ミヒャエルの元へユディが客人を連れてきたのであった。
「お久しゅうございます。ミヒャエル王子…。」
ミヒャエルの前にて礼を取ったのは、紛れもなくレヴィン夫妻であった。
当初、レヴィン夫妻はユディから話を聞いたその日に出発するつもりだったのであったが、連日の看病の疲れもあってかヨゼフもエディアも体調を崩し、数日休養してからの出発となってしまったのであった。怪我をした男の看病には、ジーグが看護の出来る者を二人雇ったため、今は何の心配もない。
しかし、二人共に顔色は悪く、本調子とは行かない様であった。
「わざわざ出向いて頂き、誠に恐縮です。どうぞ礼など取らず、あの時のように気楽に接して下さい。今はただのミックですから。その様に畏まられるような立場にはありません。」
だが、夫妻はそのミヒャエルの言葉を受け、頭を上げることなく答えたのであった。
「ミヒャエル王子。僭越ながら申し上げれば、貴方様は今や、この王国を救える唯一の希望なのです。どうぞ礼をお受け下さい。」
このヨゼフの言葉に、ミヒャエルは嫌な予感を覚えた。今居るブルーメの街は王都に近いとは言え、あまり情報の入ってこない田舎でもあった。本街道に近いレクツィの方が、返って情報が入りやすい環境にあることは明らかである。
レヴィン夫妻は様々な情報を持って、このブルーメへと来たに違いなく、故にミヒャエルは勝手と承知でその話題に触れることにした。
「旅でお疲れのところ悪いのですが、巷で何が起きているのか話して頂けますか?」
「はい。先ず我らがレクツィへと入りました時、王都にて封鎖が始まったとの話を聞きました。十二貴族の召集無しに封鎖されたため、十二貴族の次期当主たちが理由の公開を求めるべく集まっているようです。今はラタンの街へ留まって居るとのことですが、どうやら王都へ入れないようだと…。故に、今や王家の内情は誰も知らぬとのことでございます。」
淡々と語るヨゼフの言葉に、ミヒャエルはとうとう始まったのだと確信した。
だが、一つ気掛かりなことがあった。執政を仕切っていたベッツェン公のことである。
ベッツェンは王家と縁の深い土地であり、アンハルト家も由緒ある大貴族であった。故に、他の貴族より強大な力を持ち、常に貴族同士の争いを仲裁する役目を負っていた。
「ヨゼフさん。ベッツェン公の話は耳にしていませんか?」
ミヒャエルはヨゼフへと問ってみたが、ヨゼフは「残念ながら…。」と済まなさそうに答えたのであった。
さすがに王都内のことは分からないと思っていたミヒャエルに、黙していたユディが口を開いた。
「ミック…。ベッツェン公クリストフ・フォン=アンハルト殿だが、どうやら幽閉されているようだ。無論だが、王も妃も皆、幽閉されていると考えて間違いないだろう。」
「それじゃ、命に問題はないと?」
「いや、あの第二王子のことだ。いつ処刑に持ち込むか分からん。今や王都を封鎖出来るだけの権力を得ているのだから、それに従わぬ者も居るまい。」
ユディの言葉に、ミヒャエルは眉間に皺を寄せて深い溜め息を吐いた。
確かに、王都を封鎖するなどということは、相当権力が強くなくては出来ようもない。それどころか、国王以外でそのような命を下せるなぞ、本来あってはならぬことである。ミヒャエルはとある考えに至り、それを振り払おうとしたが、それが頭から離れることはなかった。
「ユディ…。もしや、ベッツェン公はヘルベルト兄上の側に…。」
「有り得る。もしそうであれば、これだけの強権を発動させられるかも知れない。だが…代々王家へ仕えてきたベッツェン公家が、ここで現王を蔑ろにするなど、少々考えにくいとも言えるがな。」
「そうだ…。だが、現に兄上は着実に動いている。これを止めなくば、この国は崩壊するかも知れないのだ…。」
ミヒャエルがそこまで言うと、黙していたヨゼフが口を開いた。
「ミヒャエル王子。私はある方から、この剣をお渡しする様にと言付かり参ったのです。この剣はこの先、この件のお役に立つとのことで、貴方様の手にある方が相応しいと…。」
「剣…だと?」
ヨゼフはエディアへ剣を持ってくるよう合図を送ると、エディアは直ぐ様上等な布に包まれた剣をミヒャエルの前へと差し出したのであった。ミヒャエルはそれを受け取って布を取ってみると、驚きのあまり声を荒げてしまったのであった。
「これを誰に渡されたのだ!」
「は、はい。フォルスタの宿の主人、ハインツ・ケリッヒ氏より託されたものに御座います。」
「まさか…ハインツが伝説の聖騎士、あのマルスの末裔だったとは…。」
そのミヒャエルの言葉に、ユディもレヴィン夫妻も目を丸くしたのであった。
ミヒャエルの手にある古びた剣には、ミヒャエルにしか解らないある紋章が刻まれていたのである。そこへ刻まれていた紋章は、現王家の祖にあたる旧王家の紋章が刻まれていたのであった。
「ミック…。マルスは現王家の内部抗争を終結させる際、聖エフィーリアの加護を受けて奇跡を起こしたと伝えられているが…。その剣、聖騎士マルスのものに間違いないのか?」
「間違いない。旧王家の紋章はマルスの剣以外、もう王城にある玉座に刻まれているものだけだ。十二貴族ですら、当主にのみ知ることを許されいる神聖な紋章であり、現王家の祖である別大陸の王家から伝えられたものなのだからな…。」
「それじゃ…これが奇跡の剣なのか…。」
ユディの言葉を受け、皆はミヒャエルの持つ剣へと視線を向けた。託されていたレヴィン夫妻さえ、その剣を包んでいた布を外したことはない。故に、どのような剣かは、全く知らなかったのであった。まさかこの様な伝説の剣が現れようとは、露程も考えてはいなかったのである。
「ミヒャエル王子…私は…」
あまりのことにヨゼフが口を開きかけた時、部屋の戸口で何かが落ちた音がした。皆は直ぐ様そちらへと視線を移すと、そこには薬草を採りに出ていた筈のアリシアが立っていたのであった。
「王子って…ミック…あなた…」
落とした物は果物であった。恐らくミヒャエルのために買ってきたのであろうそれは、部屋の床の上を転がって壁際で止まっていた。
「アリシア…別に騙すつもりでは…」
「言わなくていい!最初から…何と無く気付いていたのよ…。貴方は一般の人とは違うって…。でも…でも、よりによって王子だなんて…。」
誰一人、その場で口を開ける者は居なかった。面識の無いレヴィン夫妻は言うに及ばず、ユディすらどうしたものか思案に暮れていた。目の前ではアリシアが大粒の涙を溢し、自身ですらどうしたら良いのか分からぬ状態であった。
ミヒャエルはアリシアの想いに、本当は前から気付いていた。しかし、ミヒャエルを取り巻く状況は切羽詰まったものであり、アリシアの想いに答えを出している余裕などなかったのであった。
いや、それだけではない。今でもミヒャエルの胸の奥には、あのマーガレットの姿がある。故に、アリシアの想いに気付かぬふりをし、答えを出さぬ様にしていたとも言えたのであった。
暫くし、いつまでも涙を流し続けるアリシアへと、ミヒャエルは静かに歩み寄って告げた。
「済まないと思っている…。俺の真の名は、ミヒャエル・エリンガー・フォン=プレトリウス。この国の第三王位継承権を持つ者。告げることが出来ず、ずっと心苦しかったんだ…。アリシア…君には特にな…。」
「そんなの…今更だわ…。」
アリシアはミヒャエルへそれだけ呟く様に言うと、そのまま蹲ってしまったのであった。ミヒャエルはアリシアと共に蹲る様にして、彼女のことを抱いて言った。
「本当に済まない…。君の御両親にも…。」
「謝らないで…。だって…貴方は…この国の王子じゃない…。私みたいな庶民に、そう容易く頭を下げちゃいけないわ…。」
「そんなことはない。貴族とか庶民とか…そういうのは関係ないんだ。ただ、俺が詫びたいだけんだ。これが今の俺に出来る、精一杯のことだからな…。」
ミヒャエルはそう言ってアリシアの顔を覗くと、アリシアは泣き顔に微笑みを作ってミヒャエルへと抱きついた。
「バカ…。そんなことじゃ、この先もっと大変になっちゃうわよ?」
「分かってるよ。」
「ほんと…優しくてお節介で…手の掛かる王子様ね。」
アリシアはそこまで言うとミヒャエルから腕をほどき、そのままスッと立ち上がった。そして続いて立ち上がったミヒャエルを見上げ、静かに問ったのであった。
「直ぐに行くの?」
その顔は先程とは打って代わり、何かを吹っ切った様な清々しい表情を浮かべていた。瞳は未だ赤くなってはいたが、そこにはもう気弱な彼女は居なかった。
「明日にでも出発しようと思う。」
「そう。それじゃ、父さんと母さんにも話さなきゃね。今日は張り切って夕食作るわ。ユディ先生もお客人のお二方も、是非ご一緒に。」
皆はその言葉を聞き、暫し呆気に取られていた。先程まで涙を流していた女性とは、とても同じ人物には思えなかったからである。
「いえ…それでは御両親に迷惑が…。」
後ろへ下がっていたエディアが控え目にアリシアへと言うと、彼女は微笑んでこう返したのであった。
「いいえ、これは私からの持て成しです。これから先、一体何があるか分かりません。今の私に出来ることは、手料理で持て成す位しか出来ませんから…。だから、どうか受けて下さい。」
アリシアがそこまで言った時、背後から二人の人物が姿を現して皆を驚かせた。それはこの家の主とその妻であった。どうやら話を聞いていた様で、部屋へ入って直ぐ、ミヒャエルの前へと赴いて略式の礼を取ったのであった。
「ミヒャエル殿下、今までのご無礼を御許し下さい。知らぬこととは申せ、高貴な身分のお方にあの様な振舞い…決して赦されることでは御座いませぬ。」
突然のことに、ミヒャエルは慌てて二人を制した。
「頭を上げて下さい。あなた方は俺の命を救ってくれた恩人です。俺に頭を下げる必要なありません。」
「滅相も御座いません!もし存じていたのであれば、我が家よりユディ先生の診療所へ人を集めて運び込んでおりましたでしょう。」
「いや、俺はこうして家族のように接してくれたことを、とても感謝しているんだ。知られてしまったのだから打ち明けるが、俺は命を狙われている。だから、人目につきやすい診療所より、この家へ運んでくれて本当に助かったんだよ。あなた方を巻き込みたくはなかったが…。」
「王子…勿体無い御言葉です…。」
彼らの会話が一段落したのを見て、今まで黙していたユディが口を開いた。ユディはミヒャエルとは長い付き合いであり、彼の気性も良く知っていた。ミヒャエルは王子でありながら、こういった風に接せられることが苦手である。貴族やら地位やらで礼を取るのは、自分自身を見てのことではないと感じていたからである。それをユディは昔から知っていたのであった。
「ウォーレンさん。ミックはそういう風に接せられことを、あまり嬉しくは思わないんですよ。今まで通り、ただのミックとして接っしてやって下さいよ。」
「先生…あなたは…」
「僕はただの医者ですよ。まぁ、ミックとは長い付き合いがありますからね。あと、病み上がりの人にあまり気を使わせちゃ駄目ですよ。」
そう言って、ユディは笑ったのであった。言われたウォーレン夫妻は暫し目を瞬かせ、そして頷いたのであった。
「ユディ…ありがとう。」
「いえいえ、どういたしまして。」
そのユディの気の抜けた返答に、その場に居合わせた皆は笑ったのであった。
その夜のことである。アリシアは言った通り、腕によりをかけた料理で皆を持て成した。マルコは自ら作った山葡萄のワインを振舞い、アーリーンも手製のパンとチーズを出して皆を喜ばせたという。
この篤い持て成しに、レヴィン夫妻は音楽を返礼として奏したとされるが、何を奏したかは伝えられてはいない。推測ではあるが、そこでは愉しげな音楽が奏でられ、皆の心を楽しませたに違いない。
この晩餐については、あまり詳しいことは伝えられてはいない。語る必要がある場面ではなかったのであろう。この夜が明けると、ミヒャエル、ユディ、そしてレヴィン夫妻は連れ立ってレクツィへと向かうのである。
次頁から始まるのは少し飛び、そのレクツィの村から始まるが、肝心のミヒャエルとアリシアのことについては全く触れられていないのである。長い間に欠落したのか、人為的に削除されたかは、現在でも歴史家の意見の別れるところである。
この時に何があったかは、神のみぞ知ることである。
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