SNOW ROSE
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花園の章
I
王暦五七九年八月の終わり。王都から北に少し離れた街トリスに彼の姿はあった。
彼の名はミヒャエル・エリンガー・フォン=プレトリウス。プレトリス王国第三王位継承者であり、水面下では国賊として追手を放たれる身になっていた。しかし、大々的に国賊とされている訳ではなく、飽くまで水面下での話である。
なぜ大々的に国賊と出来なかったかには、大きく二つの理由があった。
まず第一に、この国を支える十二貴族が第三王位継承者であるミヒャエルを信頼し、支持しているためである。いかな王子と言えど、この十二貴族の承認無しでは王位に着くことなぞ出来ない。それだけ強い権力を与えられている者たちである。
第二に、コロニアス大聖堂及び聖グロリア教会より、ミヒャエルへと聖騎士の称号が与えられていることである。この聖騎士の称号は、国の繁栄と宗教への貢献により与えられる最高位であり、これを覆せるのは、二つの宗教の大本山であるサンクト大聖堂に住まう法王だけであり、この位に就いたものは国王ですら易々とは手出し出来ない。
それを甚だしく思いミヒャエルを国賊として追う人物とは無論、第二王位継承者であるヘルベルト・シュミット・フォン=プレトリウスである。
ヘルベルトは表面上、父王に刃向かう素振りは見せてはいなかった。だが、大半の貴族は彼が何を考えているかは薄々気付いてはいたのだが、それを口にすることなく黙しているのが精々であった。
第一王位継承者であったヴィーデウス・アラウ・フォン=プレトリウスの死以降、表立ってヘルベルトへと意見する者は、王城の中には居なかった。彼の手兵である<碧桜騎士団>を恐れていたからである。
この<碧桜騎士団>は、三分の一を以前は暗殺を生業としていた者達によって構成され、他三分の二も大半が流れの傭兵であり、騎士団と呼ぶにはかなり語弊がある。だが、この碧桜騎士団に消されたと思われる貴族は多く、十二貴族以外にはほぼ、第二王位継承者であるヘルベルトを支持する結果となっていたのであった。
この不穏当な状況を解決すべく現王シュネーベルガーⅣ世は、ミヒャエル付きであった白薔薇騎士団を内密に召集し、ミヒャエルを至急探し出して保護するよう命じたのであった。
さて、当のミヒャエルだが、彼はトリスにある一軒の宿屋にいた。
このトリスという街であるが、ここは十二貴族の一人で現王の弟にあたるルーン公アンドレアス・フリードリヒ・フォン=プレトリウスの統治下にある街である。故に、ここでは流石のヘルベルトも、そう簡単にミヒャエルへと手出しは出来ないのである。
そういった理由もあり、ミヒャエルはこの街に留まって王都の情報を集めていたのであった。
「ルース、何か飲み物をくれ。」
「はいよ。しかし、ミックさんも大変だねぇ。この暑い最中、毎日野外の仕事なんて。」
ミヒャエルはルースに飲み物を頼むと、空いている椅子へと座った。
ルースとは、この宿の主人である。陽気な性格で、誰でも気さくに話せる人物であるが、決して口が軽いと言うわけではない。むしろ他人の秘密は絶対に洩らさない、信頼の置ける人物である。
「いやぁ、こうでもしないと、ここの宿代も儘ならないしな。」
ミヒャエルは苦笑しながらそう言うと、ルースが出してくれた飲み物を口にした。それはオレンジやマンゴーなどのフルーツを搾った果汁を、地下水で冷やして炭酸水で割ったものであった。
「はぁ…生き返る…!」
ミヒャエルの言葉に、今度はルースが苦笑しながら言った。
「ミックさん、宿代は気にすることはありゃしませんて。ルーン公様から大方の話は聞いてますんで、気がすむまで居てくれて構いませんよ。」
「そう言ってくれるのは有難いんだが…厄介ばかり掛けられないしな。ま、人の中にいた方が逆に目立たないと思うし、情報も集め易いってもんだろ?」
「ミックさんがそう言うんでしたら…。しかし旦那、あの碧桜騎士団の奴らにゃ、中だろうが外だろうが関係無ぇそうですぜ?噂じゃ、ヘルベルト様に逆らったラタン子爵は領内で、それも民衆の面前で殺されたとかで…。」
ルースの言った事件は、この年の前年、王暦五七八年二月に起こったもので、ヘルベルトが表立って動いた最初の事件と言えるものである。
これが一連の騒動の幕開けであり、この後、同年四月には第一王位継承者であったヴィーデウスの事故死が起こるのである。
事故死…と書いたが、無論そうではない。それは後にも出てくるので、ここで詳細は語らずにおこう。
「ルース、心配してくれてるのは分かってるよ。だが、ここは子爵領じゃない。公爵である叔父上が守っている立派な街だ。兵だって常に巡回して民を守っているし、そう容易く手出しは出来ないだろう。」
「それならいいんですがねぇ…。」
そのルースの言葉に、ミヒャエルは再び苦笑いを浮かべたのであった。
確かに、ミヒャエルが王都周辺まで戻って来る時、様々な不穏な噂をミヒャエルは耳にしていた…。
第一に、ヘルベルトが治める三つの街が封鎖されているということ。噂によれば、ヘルベルトはこれらの街の民を使役し、何かを作っているらしいという。しかし、それが何かというのは全く分かってはいない。
第二に、第二王妃ナルシアの死。このナルシアという王妃は、第一王子ヴィーデウスの母である。しかし、亡くなったという情報までで、どうして亡くなったかは分からずじまいであった。
そして第三に、国王が病で伏せたというもの。これもまた、どういった病なのかも知らされてはいないようで、誰一人として、王の病名を知らなかったのであった。
さて、時は夕暮れ。ミヒャエルは仕事帰りに、いつものように情報を集めていた。ここ数日、王都では二つの騎士団の動きが慌ただしいようだとの噂を聞き、何かしらの進展があるかも知れぬと期待していた。
だが最も気掛かりなことが全く伝わってこないことに、ミヒャエルは眉を潜めていたのでもあった。国王であるシュネーベルガⅣ世の容態のことである。
病に伏していることは皆が知ってはいるが、その後の容態を伝え聞いた者は皆無なのである。
現在、国の執政は十二貴族の一人であるベッツェン公、クリストフ・フォン=アンハルトが国王の代行を務めて行っている。
国法によれば、国王がなんらかの理由により執務をこなせなくなった場合、王が十二貴族より代行を指名するよう書かれている。シュネーベルガⅣ世の場合、予め代行を決めていたと伝えられているが、それがどのような理由によるものかは知られてはいない。
さて、ミヒャエルは様々な思いを抱えながら、とある一軒の居酒屋へと立ち寄った。
「いらっしゃい!」
景気のいい掛け声とともに、人々の雑多な喧騒が耳に入ってきた。そこに居るものは、大半が仕事を終えて夕食がてら来ている労働者達であった。この地区で働く労働者は、その殆んどが各地からの出稼ぎが多く、そのため、方々の噂話などを集めるには適していると言えた。
しかし、今日に限ってミヒャエルは、話をする前に見知った顔に呼び止められたのであった。
「ミヒャエル様!」
名を呼ばれたミヒャエルが驚き様振り返ると、そこに居たのは以前自分の配下であった白薔薇騎士団副長、ヘルマン・ビッターが立っていたのであった。
「何故お前がここに!?」
ミヒャエルはあまりのことにそう言って後、暫くは言葉に詰まって何も言えなくなってしまった。それも無理の無い話である。
そもそも“白薔薇騎士団"は、ミヒャエルが城を出る際に国王へと返還していたのである。国王に大事があった際、国王直属の“神聖騎士団"と共に国を護るためであり、国王が病に伏している現在、こんなところへそれも副長が居る筈はないのである。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。私がこの街に居るのには理由がありまして、ここで詳しくは申し上げられないので…。出来れば人気の無い場所でお話したいのですが…。」
「あぁ…分かった。それじゃ、俺が厄介になっている宿へ行こう。そこなら安心して話せるだろうからな。」
「分かりました。では、場所を移しましょう。」
そう言い終えると、二人は直ぐ様その居酒屋を出て、ルースの宿へと向かったのであった。
外へ出ると、空気は昼の暑さを残してはいるものの、月明かりの下に吹く風は涼しく心地好かった。
風にあたりながら二人が歩いていると、ふと芳しい花の薫りに気が付いて足を止めた。
「金木犀か…。もう、そんな季節なのか…。」
歩きながらミヒャエルが静かに呟くと、ヘルマンはふと思い出したように言った。
「マーガレット様がお好きな花ですね。」
その言葉に、ミヒャエルは体を強張らせて立ち止まってしまった。
この時、ヘルマンは未だマーガレットが殺されたことを知らないのである。それどころか、父である侯爵にさえ娘の死は知らされていなかったのであった。
それは予想の範囲内ではあったミヒャエルではあるが、愛した人の名を聞かされるとやはり胸が痛み、心の傷は簡単に癒せぬものと実感させられたのであった。
「ヘルマン。マーガレットは死んだんだ…。フォルスタで俺を庇ってな…。」
「……!」
ミヒャエルの沈痛な声に、ヘルマンは返す言葉が見つからなかった。
以前、ヘルマンも暫くの間ミヒャエルと共にマーガレットの旅に同行していたことがあった。それは、王都からミヒャエルへと旅費を渡しに行った時である。
その時、国王にミヒャエルの様子を伝えるべく、約二ヶ月程二人の旅路に加わっていたのだ。それ故、マーガレットの人となりをよく知っており、ミヒャエルの言葉に動揺を隠せなかったのであった。
「ヘルマン。このことも含め、後で全て話す。」
「はい…。」
それ切り二人は話すことなく、そのまま宿へと足を早めたのであった。
暫くして宿へ着くと、そこには宿の主であるルースが仕事をしていた。奥にある食堂兼居酒屋からは、何人もの談笑が洩れ聞こえていた。
「お帰りなさい。湯は持って行かせますかい?」
「いや、いい。少し立て込んだ話をするから、暫く誰も来させないでほしいんだ。」
「分かりました。」
ミヒャエルはルースにそう言うと、ヘルマンを伴って二階の部屋へと向かったのであった。
ミヒャエルが借りている部屋は、二階の一番端にある。そう広い部屋ではないが、男一人寝泊まりするには充分な広さと言えた。
「そこの椅子にでも掛けてくれ。」
部屋に入るやそう言われたヘルマンは、近くにあった椅子へと腰を掛けた。それを確認したミヒャエルは、自身も椅子に腰掛けてヘルマンへと向き合った。
そうして後、ミヒャエルはヘルマンへと質問を投げ掛けた。
「何故お前が王都の外で動いているのだ?俺はお前達に言った筈だ。王に予期せぬことがあった場合、王を護れとな。」
ミヒャエルの口調は少々強くなっていた。
それもその筈である。現在、その護れと言ったその国王が病に倒れて臥せっているのだから、口調が強くなることは当然と言えよう。
だが待たずして、その問いに答えるべくヘルマンが口を開いた。
「ミヒャエル様。これは陛下の御命令なのです。我ら白薔薇騎士団は王の命により、早々にミヒャエル様を見付け出し、そして全力で護れとの御命令にて動いております。」
「父の…命令だと…?」
この時、ミヒャエルの脳裏には嫌な考えが過った。王はベルンハルトが何を企んでいるのかを知り、わざとそれに乗ったのではないか…と言うことである。
だとすれば、国王たるシュネーベルガⅣ世は、現在かなり危険な状態におかれていると言うことになる。今この瞬間でさえ、ベルンハルトに命を奪われ兼ねないと言えるのだ。
「ではヘルマン。今、他の団員達は何処へ?」
「団長は、恐らくルーンの街へ行っている筈です。何かあった場合、ルーンでしたら王都との連絡が可能ですし、王都内に留まっているよりは伝令の受け渡しも容易に出来ますので。他の団員達はハランやキシュなどに散らばっております。」
「そうか…。で、この街にはお前一人なのか?」
「いいえ。シオンも共に来ております。今は別行動をしておりますが。」
「シオン・バイシャルか…。では、明日にでも合流出来るよう手配をしておいてほしい。」
「畏まりました。」
二人はそこで話を切った。
室内はランプのか細い明かりに照らされていたが、ミヒャエルがふと見ると、窓から月の光が室内へと落ちていた。
ミヒャエルは窓辺に寄って空を仰ぐと、そこには無数の星々を統べて大きな月が浮かんでおり、その輝きは、まるで愛しい者を包み込むかのような優しさに溢れ、否応なしに愛した人の姿を胸に浮かび上がらせた。
「それでも…愛していた…。」
月明かりの中、ミヒャエルはポツリと呟いた。その呟きに、ヘルマンはビクリとした。ここへ向かう途中、あの金木犀の薫りの中、ミヒャエルは「全て話す」と言っていたからである。
ヘルマンとて、それは知りたいと思っていた。
だがしかし、それを聞いてしまえば二度と、彼女…マーガレットの名さえ口に出来なくなってしまうのではと。それ程に、マーガレットのことを聞いた時のミヒャエルの横顔は苦痛に歪んでいるように見えたのであった。
ヘルマンはマーガレットのことを好いていた。それは恋愛感情とは違い、一種の憧憬にも似ていた。
ヘルマンはマーガレットと同じく、歴史には大変興味を持っており、彼女の熱意と博学ぶりには敬意の念さえ抱いていたのである。強いて言えば、同じ学問を愛する「同胞」としての愛とも言うべきか。
だが、これを聞かねば前へと進めぬことも事実だと考え、ヘルマンは「お話し頂けますか?」と、ミヒャエルへ静かに言ったのであった。
「あれは…フォルスタでのことだ…。」
ヘルマンの言葉に、ミヒャエルは彼と視線を合わせることなく、空へ浮かぶ月を見詰めながら口を開いた。
それは恰も誰かが書いた小説でも読むかのような口調で、そこに感情の起伏は感じられなかった。
しかし、ヘルマンには分かっていた。ミヒャエルが今、自身の感情を必死で圧し殺しているのだということを。
ミヒャエルはヘルマンにフォルスタで出会った夫妻のことや、この夫妻と連れ立って向かった廃墟のことなどを語った。その廃墟で起こったことや、宿泊していた宿へ自分が居たために火が放たれたことも。
そうして話は、いよいよマーガレットの死の瞬間へと至ったのであった。
「その時…狙われた俺を庇い、マーガレットは自分の身を盾にして、ヘルベルトの剣から守ってくれたのだ。ヘルベルトはそんなマーガレットに罵声を浴びせかけ、剣を力任せに俺へと突き立てようとした。それがなかったら…マーガレットは死なずに済んだかも知れなかった…。」
全てを聞いたヘルマンは、何も言葉にすることが出来なかった。
マーガレットは端から見たら、ミヒャエルに気はないように見えた。だが、この二人と旅路を共にしたヘルマンから見れば、二人は幸福な恋人同士に見えていたのである。
マーガレットは、自分の気持ちを素直に表面へ出すことが下手な性格であった。それ故、自らの心をミヒャエルへと直接伝えることは無かった。
彼女自身、身分を表に出すような人物では無かったが、やはり王子が相手というのは自身には相応しくないのではと、心のどこかで感じ続けていたのかも知れない。
だが、時折垣間見せるミヒャエルへの屈託の無い笑みはとても幸せそうで、それを思い出すと、ヘルマンは遣り切れない思いに駆られるのであった。
「もう…誰にも死んでほしくはないな…。」
その言葉は深く、とても重いものであった。
「ミヒャエル様…。」
ヘルマンは彼の言葉に、ただ名を呼ぶことしか出来なかった。
ミヒャエルは静かに月を仰ぎ見ながら、心でそっと考えていた。母が違うとは言えど兄弟が互いにいがみ合い、こうして殺し合わねばならないとは…。これが王家と言うもの、人の上に立つと言うものなのならば、いっそのこと滅びた方が良いのではないか…と。
だが、ただ無くなれば良いというのでは、それはあまりにも無責任であると言うことも理解はしていた。故にミヒャエルは、この先の様々な艱難にも立ち向かう覚悟はあった。
「俺は甘いな。なぁ、ヘルマン。」
「確かに…。ミヒャエル様は優し過ぎるのだと思います。しかしその心は、その優しさ故に強いのだとも思っております。」
「そうだろうか…?ま、この騒ぎが収まれば、この国も少しはマシになるかもな…。それには何としても、首謀者であるヘルベルト兄上を止めなくてはならない。ヘルマン、これから先も力を貸してくれ。」
「無論です。私はミヒャエル様以外、お仕えする気は御座いませんので。」
ヘルマンはそうキッパリと言い切ると、ミヒャエルへと家臣の礼を取ったのであった。
翌日、ミヒャエルはいつもの様に街中の建設現場で働いていた。
青空から太陽の日差しが容赦無く降り注ぎ、大地はうだるような暑さに陽炎が揺らいで見えていた。
だが、そのような暑さにも関わらず、ミヒャエルは平然と誰よりも仕事をこなしていたのであった。長旅の成果であろう。
「ミック!今日はここらで終わりにしようや。」
「了解しました!しかし親方、宿舎の補修はどうすんですか?まだ夕刻には早いですけど…。」
「これから行っても、夕刻までにゃ終らんよ。お偉いさんだって、疲れて帰ったら大工が居たなんてぇのは嫌だろうし、明日の朝一にでも手を入れるさ。」
親方と呼ばれた男は笑いながら、前に来たミヒャエルへと言った。
この男の名はハッシュと言い、この街の腕利きの大工である。ミヒャエルはそんなハッシュに、苦笑いしながら答えて言った。
「それじゃ、明朝は宿舎へ行けばいいですかね?」
「おう、そうしてくれ。お前が入ってから仕事がはかどって助かる。何せこの暑さで、体を壊して来れねぇ奴も多くてなぁ。ま、宜しく頼まぁ!」
「はい、親方。」
ミヒャエルはそう言うと、ハッシュに別れの挨拶をしてからその場を後にしたのであった。
今ミヒャエルが居た場所は、新たに教会を建てている現場であった。
この時代、教会と言えば時の王リグレットを奉ずるリーテ教の建築を指したが、ここで建設されたのは聖マルス教会であり、聖マルスはヴァイス教の守護聖人の一人である。ヴァイス教は聖エフィーリアを奉ずる宗派であり、この時代には珍しいと言える。
ハッシュはその聖マルス教会と同時に、先程話していた街の宿舎や他数件の民家の建築も手掛けていた。
ハッシュは街一番の大工職人であり、年がら年中お呼びの掛かる人物で、要は彼の仕事場は万年人手不足であったのである。この街に入ってそれを聞き付けたミヒャエルは、直ぐ様ハッシュの元へと仕事を世話してほしいと頼みに行ったと言うわけである。
それ以来数ヵ月の間、ミヒャエルはハッシュの下で働いていたのだが、そこはまた、この街以外から出稼ぎに来ている労働者も多いため、遠くの街や村、そして王都の情報も多く入手することが出来たのである。
まさか国の第三王子が、このような建設現場で働いていようとは…一体誰に想像出来ようものであろうか。その点に関しても、ミヒャエルには好都合と言えたのである。
しかしこの時以降、ハッシュがミヒャエルの姿を見ることは無かったのであった。
その日の夕刻。
ミヒャエルは宿へと戻り、そこでささやかな夕食を楽しんでいた。
その最中、ルースが客人が訪れたことを知らせにミヒャエルの元へとやって来たため、直ぐ様席を立って食堂を出た。するとそこには昨日再会したヘルマンと、そしてもう一人、懐かしい人物が共にあった。
「シオン!来てくれたか。」
それはこの街に来ていたもう一人の騎士、シオン・バイシャルであった。
「お久しぶりです、ミヒャエル様。方々動いていたためにこのような時刻となりまして、大変申し訳御座いません。」
「気にするな。ヘルマンも疲れているだろうし、二人とも、先ずは食事にしよう。」
そう言うやミヒャエルは、直ぐ様二人をテーブルへと連れて行き、ルースに二人前の追加オーダーをしたのであった。
暫くは三人で食事を楽しみながら談笑し、肝心のヘルベルトについての話は一切口にしなかった。既に大勢の客が入っていたためである。
しかし、時にはこういう食事も悪いものではないと、その場は三人でその雰囲気を堪能したのであった。
食事の後、三人はルースへ挨拶すると、そのまま二階の客室へと移動した。昨日同様、ミヒャエルが借りている東側の部屋である。
「さて…これから先の話だが、このままの状態で王都へ入るのは、些か準備不足だな。先ずは、散らばっている団員達を呼び戻さなくては…。」
「ミヒャエル様。それに関しては御心配には及びません。召集伝達のルートは確保してありますので、直ぐにでも伝えられるようになっております。」
ミヒャエルの言葉に、直ぐ様シオンが返答した。
「そうか。それで、どこへ集まるようになっているんだ?」
「ラタンになっております。」
「あの子爵が治める街か…。馬車で三日程だな…。」
ミヒャエルはそう言うや、暫く考え込んでしまった。最近収集した情報から察しても、事は急を要する事態に陥っていたのである。出来れば早々に白薔薇騎士団員を召集し、ヘルベルトの行動を阻止せねばならず、かといってこちらが急激に動けば、ヘルベルトに足下を掬われ兼ねないのである。
それに、この街の人々には大変世話になったこともあり、別れも告げられずに出立するのには、些かの抵抗があったことも否めぬ事実であった。特に、数ヵ月働かせてくれたハッシュへは、可能であれば別れを告げて行きたかったが、事は国に関わること。それも王家が滅亡するかも知れない大事である。
-マーガレット…君ならどうしただろうか?別れを告げず、密やかに出る方が良いのは分かっているが、やはり…-
月影の中、ミヒャエルは胸中でそっと呟いた。すると、それに答えるかのように、彼の耳元へ誰かが囁いた。
-生きていれば、また必ず出会えるでしょ?その時に謝ったりすれば良いのよ。迷わないで…私の王子様…-
「マーガレット…?」
ミヒャエルはふと振り向き、辺りを見回した。
だがそこには、不思議そうに彼を見詰める二人の騎士の他には誰も居なかった。
それは月影が聞かせた幻聴だったのかも知れない。もう聞くことの出来ない愛した人の声…。聞こえる筈もなく、ましてや答えてくれる筈もないのである…。
そう思い直し、ミヒャエルは軽く苦笑した。そして、それらを振り切る様に二人の騎士へと告げたのであった。
「明日の夜明け前、この宿を出よう。」
その言葉に、ヘルマンとシオンは膝をつき、ミヒャエルへと頭を垂れて「畏まりました。」と返したのであった。
その日の真夜中、ミヒャエルは宿の主人ルースに街を出ることを告げた。
ルースはそれを聞くと、少し淋しげな表情を見せた。ルースはこの街でただ一人、ミヒャエルの真実を知っている人物であり、彼のことを案じていた。
ルースがただの宿の主人であるにも関わらずミヒャエルのことを知り得たのは、この人物が以前、ルーン公に仕えていた騎士であったからである。訳あって騎士を辞し、こうして宿の主人となっても、時折ルーン公のために働いていたのである。
それがどういうものであったかは知られていないが、恐らくは街の治安に関わることであろうと言われている。
そのルーン公の甥にあたるミヒャエルは、ルースにとってやはり特別な存在であったやも知れない。
それはさておき、ミヒャエルに出立を告げられたルースは、戸棚から一つの皮袋を取り出してミヒャエルへと渡した。
「この時のために、ルーン公様からお預りしておりました。」
「これは…?」
それは拳二つ分程の袋で、持つとずっしりと重かった。ミヒャエルは不思議そうに皮袋の口紐をほどいて見ると、中には金貨が詰まっていたのであった。甥を案じ、どうにか手助け出来ぬものかと思いを巡らせたルーン公の配慮であり、それとともにエールを贈っているのでもあった。甥を信じている証とも言えよう。
「しかし…いつこれを?」
「数日前に届けられたんですよ。私宛の書簡にゃ“そろそろ必要になるだろうから"と書いてありました。それから…」
そこでルースは口ごもった。あまり良い話ではないとミヒャエルは感じたが、それを聞かぬわけにはゆかない。そのため、ミヒャエルはルースに「何だ?」と、先を促すために言葉を掛けたのであった。
「それですがねぇ…。どうもですね、王家情報伝達組織が全く沈黙しちまったと言うことなんで。王城の内部事情は、十二貴族ですら判らない状態であるとのことで…。」
「何だと!?それじゃ…国王の病状が伝わってこないのは…」
「どうも…そう言ったことが原因かと…。ミックさん…いや、ミヒャエル殿下。この先、くれぐれもお気をつけ下さい。あまり大声じゃ言えませんが、俺はミヒャエル殿下が次期国王に相応しと考えております。あの第二王子とミヒャエル殿下を比ぶべくもなく、ミヒャエル殿下の方が、この国を豊かにするにしろ護るにしろ適していると思いますので。」
「国王…ねぇ…。俺にその器があるかは、国の十二貴族の長達が決めることだ。」
「それは分かっています。ですが覚えておいて下さい。俺のように、ミヒャエル殿下を信頼して助力を惜しまない者は大勢います。何があろうと、決して命を落としてはなりません。」
「分かっているさ。俺はここで死ぬつもりなどない。ヘルベルト兄上を止めなくてはならないからな。地を這ってでも生き抜いてやるさ。」
そうミヒャエルが言うと、二人は笑って互いの拳をぶつけ合ったのであった。これは古くから騎士に伝わる、互いが相手を信頼している表現であった。
「それじゃルース。今までの宿代を…」
「いいんですよ。生きていれば、いつだって支払いに来れますからね。これが収まったら、必ず払いに来て下さいよ?」
ルースにそう言われたミヒャエルは、暫く言葉を躊躇った。ルースは真実にミヒャエルのことを思ってくれ、ミヒャエルがこの争いに終止符を打つことを確信しているように見えたからであった。それだけ信頼が厚い証拠でもあり、ミヒャエルは心から感謝した。
「ありがとう…ルース。」
「礼を言われるようなことじゃないですよ。それでは…お気をつけて。御武運を…。」
それがここでの会話の終わりを告げた。
ミヒャエルはそのままその場を去り、ルースは再び仕事へと戻って、もう顔を合わせることは無かったのであった。
「ヘルマン、シオン。それじゃ…行くか。」
「はい。」
ミヒャエルが合図すると、二人は同時に返答してミヒャエルへと付き従った。
未だ明けきらぬ朝の静けさの中、三人は何も言わずに歩き出した。目指すはヘルベルトの待つ王都、プレトリスである。
夜明け少し前に出発して暫くは、何事もなく順調に進んでいた。尤も、この周辺の山々もルーン公の治める領内であるため、そう容易くヘルベルトの手兵も動けない筈である。
しかし、そう思っていたのも束の間、朝日が山間を染め上げた頃であった。
ルーン公領と隣のバッサナーレ伯領の境付近で、不意に三人へと襲い掛かる者達がいたのであった。
「何者だ!?」
ヘルマンとシオンが剣を抜き払って威嚇するが、目の前に現れた者達は黙したまま、不意に三人へと斬りかかってきたのであった。
その者達からは殺気が微塵も感じられず、闘うヘルマンとシオンは戸惑ってしまった。だが、ミヒャエルだけはその感覚に覚えがあったのであった。
「碧桜騎士団か!」
そう…目の前に対峙していたのは、あの碧桜騎士団暗殺部隊であった。
何人もの貴族を闇へと葬った、第二王子ヘルベルトの精鋭部隊であり、どのような騎士団よりも厄介で危険な相手だと言えた。
「ミヒャエル様、お下がりください!」
しかし、ここは狭い山道であり、下がろうにも背後は崖になっているのであった。それをこの暗殺部隊が逃す筈も無く、ジリジリと前へ前へと競り出して来る。
「己…何故にミヒャエル様を!」
ヘルマンがそう口走った殺那、一人のアサシンが隙を突いてミヒャエルへと短刀を投げつけ、それがミヒャエルの肩へと深く突き刺さり、そしてその反動でミヒャエルは背後の谷へと落下してしまったのであった。
「ミヒャエル様!」
ヘルマンとシオンが同時に叫んだ。
しかし、ミヒャエルの姿はどこにも見い出すことは出来ず、ただ茫然と谷底を見詰めるしか出来なかった。
しかしその瞬間を逃すことはせず、アサシン達は音もなく二人を背後から襲い、その躰に深々と剣を突き立てた。
二人はその失態に後悔すらすることも出来ず、その精神は暗い闇の底へと沈んでいったのであった。
その後、アサシン達は二人の生死の確認をとることもせず、一斉にその場から姿を消した。その理由は、遠くから馬車の音が聞こえてきたためである。
主であるヘルベルトの命令は、ミヒャエルを消せとのもので、目撃されぬ限りは迂濶に民を殺さぬように命令していた。十二貴族が動き出していたためである。
それもあって、アサシン達は直ぐ様身を翻し、山中へと姿を消したのである。
王暦五七九年九月の始め。未だ暑さの厳しい季節の中、ヘルベルトの起こした第五の事件として伝えられている。
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