Sword Art Rider-Awakening Clock Up
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スイルベーン
少し笑いが収まったと思うと、またキリトの悲鳴が聞こえてきて、笑いの発作がぶり返す。
足をジタバタさせて爆笑しながらリーファは、こんなに笑ったのはいつ以来かなあ、と考えていた。少なくとも、この世界では初めてなのは間違いなかった。
散々笑って満足すると、リーファは無軌道に飛び回るキリトの襟首を捕まえて停止させ、改めて随意飛行のコツを伝授した。俺ほどではないが、初心者にしては中々筋が良く、充分ほどのレクチャーでどうにか自由に飛べるようになった。
「おお……これは……これはいいな!」
旋回やループを繰り返しながらキリトは大声で叫んだ。
「そーでしょ!」
リーファも笑いながら叫び返す。
「何ていうか……感動的だな。このままずっと飛んでいたいよ」
「……その気持ちはわかる」
近くを飛んでいた俺も、こればかりは否定のしようがなかった。
「うんうん!」
嬉しくなって、リーファも翅を鳴らして俺とキリトに近づくと、軌道を合わせて平行飛行に入った。
「あー、ずるいです、わたしも!」
ユイも3人の間に位置を取り、飛び始める。
「慣れてきたら、背筋と肩甲骨の動きを極力小さくできるように練習するといいよ。あんまり大きく動かしてると、空中戦闘に時ちゃんと剣を振れないから。……それじゃあ、このままスイルベーンまで飛ぼっか。ついてきて!」
リーファはクルリとタイトターンして方向を見定めると、森の彼方を目指して巡航に入った。飛び始めて間もないキリトに合わせて速度を少しだけ落としていた俺とリーファだが、すぐに真横に追いついてきたキリトが言った。
「もっとスピード出していいぜ」
「ほほう」
リーファはニヤッと笑うと翅を鋭角にたたみ、ゆるい加速に入って俺さえも追い抜いてしまう。2人が音を上げるとこを見てやろうと、ジワジワと速度を増していく。全身を叩く風圧が強まり、風切り音が耳元で唸る。
しかし驚いたことに、リーファがマックススピードの七割程度にまで達しても、2人は真横で追随してきた。システム的に設定された最高速度に到達する以前に、普通は心理的圧迫を感じて加速が鈍るものだが、初めての随意飛行でこのレンジにまでついてくるとは尋常な精神力ではない。
リーファは口元を引き締め、最大加速に入った。未だかつてこのスピード領域で編隊飛行をしたことはない。それに耐えられる仲間がいなかったからだ。
眼下の樹海が激流となって吹っ飛んでいく。キュイイイ、という弦楽器の高音にも似たシルフの飛翔音と、ヒュウウウという管楽器を思わせるスプリガンの翅音が美しい重奏をかなでる。
「はうー、わたしもうダメです〜」
ユイという名のピクシーがキリトの胸ポケットにスポンと飛び込んだ。俺が横目で睨む中、リーファとキリトは顔を見合わせ、笑う。
気づくと、前方で森が切れ、その向こうに色とりどりの光点の群が姿を現しつつあった。中央から一際明るい光のタワーが伸びている。シルフ領の首都《スイルベーン》と、そのシンボルである《風の塔》だ。街にぐんぐん近づき、すぐに大きな目抜き通りと、そこを行き交う大勢のプレイヤーまでも見て取れるようになってくる。
「お、見えてきたな!」
風切り音に負けない大声でキリトが言った。
「真中の塔の根元に着陸するわよ!……って……」
不意にあることに気づいて、リーファは笑顔を固まらせた。
「キリト君、ネザーさん、ライティングのやり方わかる……?」
「問題ない」
と俺は答えたが、キリトは顔を強張らせた。
「わかりません……」
「えーと……」
「………」
すでに、視界の半ば以上が巨大な塔に占められている。
「ごめん、もう遅いや。幸運を祈るよ」
「あばよ」
ニヘヘと笑うリーファと、無関心な俺は急降下に入った。翅をいっぱいに広げて制動をかけ、足を前に出す姿勢で広場めがけて降下を開始する。
「そ……そんなバカなあぁぁぁーーーー」
黒衣のスプリガンが絶叫と共に塔の外壁に目掛けて突っ込んでいくのを見送りながら、心の中で合掌。
数秒後、ピターン!!という大音響が空気を震わせた。
「うっうっ、ひどいよリーファ、ネザー……飛行恐怖症になるよ……」
翡翠色の塔の根元、色とりどりの花が吹き乱れる花壇に座り込んだキリトが恨みがましい顔で言った。
「眼が回りました〜」
キリトの肩に座るピクシーも頭をふらふらさせている。リーファは両手を腰に当て、笑いを嚙み殺しながら答えた。
「キミが調子に乗りすぎなんだよ〜。もっとネザーさんを見習うべきよ。それにしてもよく生きてたねぇ。絶対死んだと思った」
「うわっ、そりゃあんまりだ」
「こいつは死なねぇよ。バカだから」
最高速度で壁面に激突しておきながら、キリトのHPバーはまだ半分以上残っていた。運がいいのか受け身が上手なのか、本当に謎の多い初心者である。
「まあまあ、回復してあげるから」
リーファは右手をキリトに向けて翳すと回復スペルを唱えた。青く光る雫が掌から放たれ、キリトに降りかかる。
「お、すごい。これが魔法か」
興味津々という風にキリトが自分の体を見回す。
「高位の治癒魔法はウンディーネじゃないとなかなか使えないんだけどね。必須スペルだから君も覚えたほうがいいよ」
「へぇ、種族によって魔法の得手不得手があるのか。ちなみにスプリガンとインプは何が得意なんだ?」
「インプは闇魔法、それに暗視と暗中飛行に長けた種族だから、夜や洞窟みたいな暗い場所での戦闘に役立つよ」
「ほお、良いこと聞いたぜ」
珍しく俺は、自分が選んだ種族に関心した。
「スプリガンはトレジャーハント関連と幻惑魔法かな。どっちも戦闘には不向きなんで不人気種族ナンバーワンなんだよね」
「うへ、やっぱり下調べは大事だな」
「情報は大事だろ。前の世界で散々学んだはずだろ」
俺が呆れたように言うと、キリトは真剣な顔で頷き、顔を竦めながら立ち上がった。大きく一つ伸びをして、周囲にぐるりと視線を向ける。
「おお、ここがシルフの街かぁ。綺麗な所だなぁ」
「でしょ!」
リーファも改めて住み慣れたホームタウンを眺める。
スイルベーンは、別名《翡翠の都》と呼ばれている。華奢な尖塔群が空中回廊で複雑に繋がり合って構成される街並みは、色合いの差こそあれ皆艶やかなジェイドグリーンに輝き、それらが夜間の中に浮かび上がる有様は幻想的の一言だ。ことに、風の塔の裏手に広がる《領主館》の壮麗さは、アルヴヘイムのどんな建物にも引けを取らないとリーファは信じている。
3人と1人が声もなく光の街を行き交う人々に見入っていると、不意に右手から声をかける者がいた。
「リーファちゃん!無事だったんだね!」
顔を向けると、手をぶんぶん振りながら近寄ってくる黄緑色の髪の少年シルフが見えた。
「あ、レコン。うん、どうにかね」
リーファの前で立ち止まったレコンは眼を輝かせながら言った。
「すごいや、あれだけの人数から逃げ延びるなんてさすがリーファちゃん……って……」
今更のようにリーファの傍らに立つ黒衣のスプリガンと紫衣のインプの人影に気づき、口を開けたまま数秒間立ち尽くす。
「な……スプリガンにインプじゃないか!?なんで……!?」
飛び退り、腰のダガーに手をかけようとするレコンをリーファは慌てて制した。
「あ、いいのよレコン。この人達が助けてくれたの」
「へっ……」
唖然とするレコンを指差し、俺とキリトに言う。
「こいつはレコン。あたしの仲間なんだけど、2人と出会う前にサラマンダーにやられちゃったんだ」
「鈍い奴だな」
「そう言うなよ。よろしく、俺はキリト。こっちはネザーだ」
俺の毒舌を制したキリトが、レコンに手を差し出しながら挨拶した。
「あっ、どもども」
レコンはキリトの差し出す手右手を握り、ペコリと頭を下げてから、
「いやそうじゃなくて……」
また飛び退る。
「何かのコントか?」
「コントじゃないって!大丈夫なのリーファちゃん!?2種族のスパイとかじゃないの!?」
「あたしも最初は疑ったんだけどね。ネザーさんはともかく、キリト君はスパイにしてはちょっと天然ボケ入りすぎてるしね」
「あっ、ひでぇ!」
「俺はスパイに見えるのかよ。……まあ、否定はしないが」
あははは、と笑うリーファを、レコンはしばらく疑わしそうな眼で見ていたが、やがて咳払いして言った。
「リーファちゃん、シグルド達は先に《水仙館》で席取ってるから、分配はそこでやろうって」
「あ、そっか。うーん……」
キャラクターの所持している非装備アイテムは、敵プレイヤーに殺されるとランダムに30パーセントが奪われてしまうが、パーティーを組んでいる場合に限って保険枠というものがあり、そこに入れているアイテムは死亡しても自動的に仲間に転送されるようになっている。
リーファ達も今日の狩りで入手したアイテムのうち価値のあるものは保険扱いにしておいたので、最終的にはリーファが全ての稼ぎを預かることとなり、サラマンダー連中もそれを知っている故にしつこく追ってきたわけだが、キリトとネザーの助力によって全てをスイルベーンまで持ち帰ることができた。
このような場合は、死亡して先に転送された仲間と馴染みの店で改めてアイテム分配をするのが慣例となってい
たが、リーファは少々悩んだすえにレコンに言った。
「あたし、今日の分配はいいわ。スキルに合ったアイテムもなかったしね。あんたに預けるから4人で分けて」
「へ……リーファちゃんは来ないの?」
「うん。お礼に2人に一杯奢る約束してるんだ」
「………」
先ほどは多少色合いの異なる警戒心を滲ませながらレコンが2人を見る。
「ちょっと、妙な勘繰りしないでよね」
リーファはレコンのつま先をブーツでこつんと蹴っておいて、トレードウィンドウを出すと稼いだアイテムの全てを転送した。
「次の狩りの時間とか決まったらメールしといて。行けそうだったら参加するからさ、じゃあ、おつかれ!」
「あ、リーファちゃん……」
なんだか照れ臭くなってきてしまったリーファは、強引に会話を打ち切るとキリトと俺の袖を引っ張って歩き出した。
「さっきの子は、リーファの彼氏?」
「恋人さんなんですか?」
「はぁ!?」
キリトと、その肩口から顔を出したユイに異口同音に訊ねられ、リーファは思わず石畳に足を引っ掛けた。慌てて翅を広げて体勢を立て直す。
「ち、違うわよ!パーティーメンバーよ、単なる」
「それにしちゃずいぶん仲良さそうだったよ」
「リアルでも知り合いって言うか、学校の同級生なの。でもそれだけよ」
「へぇ……クラスメイトとVRMMOやってるのか、いいな」
どこかしみじみした口調で言うキリトに、軽く顔をしかめて見せる。
「うーん、いろいろ弊害もあるよ。宿題のこと思い出しちゃったりね」
「ははは、なるほどね」
「そこまでにしろ」
これ以上は聞いておられず、俺が話に区切りをつけた。
会話を交わしながら裏通りを歩いていく。時折りすれ違うシルフのプレイヤーは、俺とキリトを見るとギョッとした表情を浮かべるが、隣で歩くリーファに気づくと不審がりながらも何も言わずに去っていく。それほどアクティブに活動しているわけではないリーファだが、スイルベーンで定期的に行われる武闘大会イベントで何度か優勝しているので顔はそこそこ通っているのだ。
やがて、前方に小ぢんまりとした酒場兼宿屋が見えてくる。デザート類が充実しているのでリーファが贔屓にしている《すずらん亭》という店だ。
スイングドアを押し開けて店内を見渡すと、プレイヤーの客は一組もいなかった。まだリアル時間では夕方になったばかりなので、冒険を終えて一杯やろうという人間が増えるにはしばらく時間がある。
奥まった窓際の席に3人が腰掛ける。
「さ、ここはあたしが持つから何でも自由に頼んでね」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「あんまり食いすぎると、ログアウトしてから辛いと思うぞ」
メニューの魅力的なデザート類を睨みながら俺がしばし唸る。
実に不思議なのだが、アルヴヘイムで食事をすると仮想の満腹感が発生し、それは現実に戻ってからもしばらく消えることはない。カロリーの心配なしに甘い物が好き放題食べられるというのは、リーファにとってはVRMMO最大の魅力の1つなのだが、それで現実世界での食欲がなくなると母親にこっ酷く怒られてしまうのだ。
実際このシステムをダイエットに利用したプレイヤーが栄養失調に陥ったり、あるいは生活の全てをゲームに捧げた一人暮らしのヘビープレイヤーが食事を忘れて衰弱死したりというニュースはいまやあまり珍しくない。
結局リーファはフルーツババロア、キリトは木の実のタルト、俺はビターチョコケーキ、少々驚いたがユイはチーズクッキーをオーダーし、飲み物は香草ワインのボトルを一本取ることにした。NPCのウェイトレスが即座に注文の品々をテーブルに並べる。
「それじゃあ、改めて、助けてくれてありがとね」
不思議な緑色のワインを注いだグラスをかちんと合わせ、リーファは冷たい液体を乾いた喉に一気に放り込んだ。同じく一息でグラスを干すと、キリトははにかむように笑ながら言った。
「いやまあ、成り行きだったし……」
礼などどうでもよく、俺は話題を変えようと口を挟んだ。
「それよりさっきのサラマンダー達、やけに好戦的だったが……。集団PKはよくあることか?」
「うーん、もともとサラマンダーとシルフは仲悪いのは確かなんだけどね。領地が隣り合ってるから中立域の狩場じゃよく出くわすし、勢力も長い間、拮抗してたし。でもああいう組織的なPKが出るようになったのは最近だよ。きっと……近いうちに世界樹攻略を狙ってるんじゃないかな……」
「それだ、その世界樹について教えてほしいんだ」
「そういや、そんなこと言ってたね。でも、なんで?」
「世界樹の上に行きたいんだよ」
リーファは少々呆れながらキリトの顔を見た。冗談を言ってるわけではないらしく、黒い瞳に真剣な色が宿っている。俺の顔を見なかったのは、俺が世界樹についてすでに何かを悟ってると思ったからだろう。
「……それは、多分全プレイヤーがそう思ってるよきっと。っていうか、それがこのALOっていうゲームのグランド・クエストなのよ」
「と言うと?」
「滞空制限があるのは知ってるでしょ?どんな種族でも、連続して飛べるのはせいぜい10分が限界なの。でも、世界樹の上にある空中都市に最初に到達して、《妖精王オベイロン》に謁見した種族は全員、《アルフ》っていう高位種族に生まれ変われる。そうなれば、滞空制限がなくなって、いつまでも自由に空を飛ぶことができるようになるの」
「なるほど」
ナッツタルトを一口齧り、キリトが頷いた。
「それは確かに魅力的な話だな」
「世界樹の上に行くのがこのゲームの最大クエストなら、かなり難易度も高いはずだ」
「ええ、その通り」
リーファは頷くと、俺は更に質問した。
「世界樹の上に行くルートはどこにあるんだ?」
「世界樹の内側、根元のところが大きなドームになってるの。その頂上に入り口があって、そこから内部を登るんだけどそのドームを守ってるNPCのガーディアン軍団がすごい強さなのよ。今まで色んな種族が何度も挑んでるんだけど、みんな呆気なく全滅。サラマンダーは今最大勢力だからね、なりふり構わずお金を貯めて、装備とアイテムを整え、次こそはって思ってるんじゃないかな」
「そのガーディアンは……そんなに強いのか?」
「もう無茶苦茶よ。だって考えてみてよ。ALOってオープンしてから1年経つのよ。1年かけてクリアできないクエストなんてありだと思う?」
「それは確かに……」
「実はね、去年の秋頃、大手のALO運営サイトが署名集めて、レクトプログレスにバランス改善要求を出したんだ。でも回答は、『当ゲームは適切なバランスのもとに運営されおり』何たらかんたら。最近じゃあ、今のやり方じゃあ世界樹攻略はできないっていう意見も多いわ」
「何かキークエストを見落としてるとか……」
「あるいは、単一の種族だけでは攻略できない……」
ババロアを口元に運ぼうとしていた手を止め、リーファは改めて2人の顔を見た。
「へぇ、いい勘してるじゃない。クエスト見落としのほうは、躍起になって検証してるけどね。後の方だとすると……絶対に無理ね」
「なぜ?」
「だって矛盾してるもん。『最初に到達した種族しかクリアできない』クエストを、他の種族と協力して攻略しようなんて」
「……じゃあ、事実上世界樹の攻略は……不可能ってことか」
俺がそう言うと、うんとリーファは頷く。
「あたしはそう思うよ。そりゃ、クエストは他にもいっぱいあるし、生産スキル上げるとかの楽しみ方も色々あるけど……でも、諦めきれないよね。いったん飛ぶことの楽しさを知っちゃうとね……。例え何年かかっても、きっと……」
「それじゃ遅すぎるんだ!」
不意にキリトが押し殺した声で叫んだ。リーファがびっくりして視線を上げると、眉間に深い谷が刻まれ、口元が震えるほど歯を食い縛ったキリトの顔がそこにあった。
「パパ……」
両手でチーズクッキーを抱えて端をかりかり齧っていたピクシーが、クッキーを置いて飛び上がり、キリトの肩に座った。宥めるように黒衣の少年の頬に小さな手を這わせる。やがて、キリトの体からふっと力が抜けた。
「……驚かせてごめん」
キリトが低い声で言った。
「でも俺……いや、俺達、どうしても世界樹の上に行かなきゃいけないんだ」
研ぎ上げた刃のように鋭い輝きを放つキリトの黒い瞳にまっすぐ見つめられ、リーファの心臓は不意にわけもなく早鐘のように鳴り響き始めた。動揺を静めようとワインを一口ごくりと飲んでから、どうにか口を開く。
「なんで、そこまで……?」
と訊かれ、少々戸惑うキリトに代わって俺が言った。
「俺達、ある人を探しているんだ」
「え、どういうこと?」
「……詳しくは言えない」
俺が言い終えた後、キリトはリーファを見てかすかに微笑んだ。だがその瞳は、深い絶望の色に染まっているように見えた。いつか、どこかで眼にしたことがある瞳だった。
「……ありがとうリーファ、色々教えてもらって助かったよ。ごちそうさま、ここで最初に会ったのが君でよかったよ」
立ち上がりかけたキリトの腕を、リーファは無意識のうちに掴んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。世界樹に……行く気なの?」
「ああ。この眼で確かめないと」
「……右に同じだ」
俺も無意識に言葉を発した。
「無茶だよ、そんな……。ものすごく遠いし、途中で強いモンスターもいっぱい出るし、そりゃ2人も強いけど……」
あっ、と思った時にはもう口が勝手に動いていた。
「…………じゃあ、あたしが連れてってあげる」
「「え……」」
俺とキリトの眼が丸くなる。
「いや、でも、会ったばかりの人にそこまで世話になるわけには……」
「見ず知らずの俺らと一緒にわざわざ同行することは……」
「いいの、もう決めたの!!」
時間差でかあっと熱くなってきた頬を隠すようにリーファは顔を背けた。ALOには、翅があるかわりに瞬間移動手段は一切存在しない。世界樹が存在するアルヴヘイムの央都《アルン》まで行くのは、現実世界での小旅行に匹敵するほどの旅となる。なのに、まだ出会って数時間の少年2人に同行を申し出るとは、自分でも信じられない行動だった。
でも__なぜか放っておけなかった。
「あの、明日も入れる?」
「あ、う、うん」
「問題ない」
「じゃあ午後3時にここでね。あたし、もう落ちなきゃいけないから、あの、ログアウトには上の宿屋を使ってね。じゃあ、また明日ね!」
立て続けに言うと、リーファは左手を振ってウィンドウを出した。シルフ領内ではどこでも即時ログアウトが可能なので、そのままボタンに触れる。
「あ、待って!」
声に顔を上げると、キリトはにこり笑いながら言った。
「……ありがとう」
リーファもどうにか笑みを浮かべ、コクリと一回頷くと、OKボタンを押した。世界が虹色の光に包まれ、次いでブラックアウトした。リーファとしての肉体感覚が徐々に薄れる中、頬の熱さと心臓の鼓動だけが最後まで残っていた。
__ゆっくりと瞼を開ける。
見慣れた自室の天井、そこに貼った大きなポスターが眼に飛び込んでくる。B全版に引き伸ばし、プリントしてもらったスクリーンショットだ。無限の空をゆく鳥の群、その中央に長いポニーテールをなびかせて飛翔する妖精の少女が写っている。
《桐ヶ谷直葉》は両手を上げ、ゆっくりと頭からアミュスフィアを外した。2つのリングが並んだ円冠状のその機械は、初代ナーブギアと比べるとあまりに華奢だが、その分拘束具めいた印象は減っている。
仮想世界から戻っても、頬の火照りは消えていなかった。直葉はベッドの上で上体を起こすと、おもむろに両手で顔を挟み込み、胸の奥で無言の喚き声を上げた。
……うわ____!
今更だが、自分の行動にとてつもない気恥ずかしさが込み上げてくる。以前から、リーファでいる時の直葉は大胆差が5割増しだとレコンこと同級生の《長田慎一》に言われていたが、今日のは極め付きだった。両足をバタバタさせながらひとしきり悶える。
ネザーという無愛想な少年と違い、もう1人はとても不思議な少年だった。いや、プレイヤーとしての彼が少年かどうかはわからないが、直葉の勘は自分大差ない年齢だろうと告げている。しかしその割りには落ち着いた物腰、かと思うとやんちゃな言動、どうにも掴み所がなかった。
謎なのは性格だけではない。剣を交えても多分勝てない、と思わされた相手は1年のALO歴の中でも初めてだった。ごく小さく、自分が興味を持つその少年の名前を口に出す。
「キリト君……か……」
仮想世界を自分の眼で見てみたい、と直葉が初めて思ったのは、SAO事件後1年が経とうとした頃だった。
それまでの直葉にとって、VRMMOゲームというのは、比喩ではなく文字通りに兄を奪っていった憎悪の対象でしかなかった。だが病室で眠る和人の手を握り、語りかけるうちに、いつしか和人がそこまで愛した世界というのはどういうものなのだろうか、という気持ちが芽生えはじめたのだった。和人のことを、もっと知りたい__そのためには、彼の世界を自分の眼で見なければ。自分から、兄との距離を縮める努力をしなくてはと、そう思ったのだ。
アミュスフィアが欲しい、と言った時、母はしばらくじっと直葉の顔を見ていたが、やがてゆっくり頷き、時間と体にだけは気をつけなさい、と笑った。
その翌日、学校の昼休みに直葉は、クラスで1番のゲームマニアと称され__あるいは揶揄されていた長田慎一の机の前に立ち、聞きたいことがあるから屋上まで付き合って、と告げた。その時クラスに満ちた沈黙、次いで驚愕は今でも語り草となっている。
屋上の金網にもたれた直葉は、妙な期待に眼を輝かせながら直立不動で立つ長田慎一に向かって、VRMMOのことを教えてほしいと言った。長田は数秒間の百面相の後、どういうタイプのが希望なのか、と訊いてきた。
直葉としては、勉強と剣道部の練習に割く時間を減らすわけにはいかなかったのでそのように言うと、長田は眼鏡をせわしなく押し上げながら「ふむ、じゃあ、あんまり廃仕様じゃなくて、スキル制のやつがいいよね」等々とぶつぶつ呟いた挙句、推薦してきたのがアルヴヘイム・オンラインだったというわけだ。
よもや長田が一緒にALOを始めるとは思わなかったが、彼の懇切丁寧なレクチャーもあって、直葉は自分でも驚くほどの速さで仮想ゲーム世界に適合してしまった。その理由は主に2つ。
1つ目は、直葉が長年ずっと研鑽を積んだ剣道の技が、ALO内部でも有効に機能したからだ。
一般的に、プレイヤー同士の戦闘では、基本的に回避ということは考えない。敵の攻撃を食らいつつ自分の武器をヒットさせ、累積したダメージの総量で決着がつくことになる。しかし直葉の場合、鍛え上げた反射速度と勘によって容易く攻撃を避けることができたため、反則的なまでの強さを発揮するのはむしろ当然と言えた。
無論ALO以外のレベル制MMOであれば、ゲームに費やせる絶対的な時間の少ない直葉はとてもコアなプレイヤーには太刀打ちできなかっただろう。事実リーファの数値的ステータスは、古参プレイヤーとしては平凡を下回る。それでもシルフ五傑と言われるほどの実力を維持できるのは完全スキル制のゲームであればこそだ。
そして、直葉がALOに魅せられた2つ目の理由__、それは無論あのゲームだけが持つフライト・システムである。
初めて随意飛行のコツを会得し、空を思うままに飛び回った時の感動は未だ容易に思い出すことができる。
体の小さい直葉は、剣道の試合でもリーチ差に苦しめられることが多く、打ち込みをもっと速く、というのは遥か昔から体に染み付いた欲求だった。それゆえ、ALOにおいて愛用の長刀を大上段に構え__片手が塞がる補助飛行ではこれができない__超々ロングレンジからの突進を行うのは筆舌に尽くしがたい快感だった。無論それに留まらず、体がバラバラになりそうな鋭角タイプや、あるいは鳥の群に混じってのんびりと高空をクルーズしたりと、飛翔行為そのものに直葉は深く魅せられてしまった。
飛ぶのが苦手なレコンあたりは直葉のことを《スピードホリック》などと言うが、直葉に言わせれば飛ばずしてALOの楽しみを語るなかれというところだ。
ともかく、それから1年が経ち、直葉はもういっぱしのVRMMOプレイヤーだと言っていい。最初は兄との距離を縮めるためにだけ訪れた仮想世界を、今の直葉は深く愛している。
直葉の元に帰ってきた和人に、ALOの話をしたい。やっと自分にもわかるようになった異世界での辛さや楽しさを共有したい__と日に何度も思う。しかし彼の瞳によぎる影を見ると、どうしても言葉を切り出すことができない。
SAO事件という、あれだけの凄まじい体験を経ても、和人の仮想世界への愛情が変わっていないのは確かだと思う。全て回収されたはずのナーブギアを、どんな手段を用いてか自室に持ち帰っていることや、フォトスタンドに挟んで卓上に飾られたSAOのROMカードがそれを示している。
だが、和人にとっては、多分まだSAO事件は終わってないのだ。《あの人》が眠りから目覚める、その時まで__。
そのことを考えると直葉の心は千々に乱れる。昨夜のような、深い絶望に囚われて泣く和人は二度と見たくない。いつも笑っていてほしい。そのためにも、あの人が速く目覚めてほしいと思う。
しかしその時は、和人の心はまた直葉の手の届かないところに行ってしまう。
いっそ本当の兄妹のままだったら。それなら、この気持ちに気づくこともなかった。この、和人を独占したい、という気持ちが生まれることもなかったのに__。
ベッドの上に横たわり、アルヴヘイムの空を写したポスターを見上げながら、なぜ現実の人間には翅がないのかな、と直葉は思った。リアルの空をどこまでも飛んで、ぐちゃぐちゃに絡まった心の糸をいっぺんに解いてしまいたかった。
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