SAO─戦士達の物語
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MR編
百四十七話 それでも尚、望むもの
前書き
はい、どうもです。
美幸の過去編、三話目、これで最後になります。
今回は少し長めです。
では、どうぞ!!
其れから凡そ半月の間の美幸は、少しだけよく眠れるようになっていた。多くを求めることが出来なくても、自分が誰より信頼する人が同じ世界に居ること、時々キリトの様子を見に尋ねてきてくれる事から生まれる安心感が、一時、彼女から死に対する恐怖を少しだけ遠ざけてくれていたからだ。
ただ、果たしてそれが長続きしたかと言えばそうではなく、あくまでもそれはほんのわずかな期間だけ彼女の胸の中を温めてくれた蝋燭のようなものだ。寧ろその蝋燭の火が消えてしまってからは、より一層に恐怖という寒さが逃げ場もないままの彼女の身体を痛めつけた。
日に日に強くなる死への恐怖が限界を迎えたのは、5月のとある日だった。
初めに集合していた他校のPC部の安全域での狩りに徹していたメンバーの中にいた中学時代の同級生、彼女が単独で採集をしていた時にたまたまモンスターの縄張りに踏み込み、多数のモンスターに襲われ「死亡した」という知らせが届いたのだ。
自分でも浅ましいと思うが、その知らせを聞いた時、サチの胸に強い衝撃を残したのは、「顔見知りが死んだ」という事実よりも「低層粋に居ても死んだ」という事実だった。自分よりも下の層に居て、自分よりも圧倒的に死のリスクが低い場所に居た人間ですら、本の些細なミスが原因で死んでしまった。
『駄目なんだ』
サチはその事実を受け止めた瞬間に、唐突に理解した。
何度か話したことがあるので知っている。死んだ彼女は自分と同じくらいに臆病な人間だった。だからこそ彼女は低層域に居たのだ。自分と同じように死ぬことが怖いから、その身を守るために低層に居たのだ。なのに、死んだ。つまりはどんなにあがいても、もがいても、きっとやがて、自分達は必ず死に追いつかれるのだ。逃走は其処に至るまでの時間を延ばすだけで、結局の所は無意味。本当に必要なのは逃げることではなく、その自分に追いついてくる死と対峙し、打ち破る意志であり強さなのだ。ならば自分にそれを得られるか?
『そんなの……無理だよ……』
つまり自分は、やがて来るであろうその日までおびえ続け、そしてその時が来れば、何の意味も残すことなく、ただ死ぬのだ。逃げ場はない。これは美幸が美幸であるために起こる、きっと確定した未来だ。
『なんで……』
どうして、こんな事になってしまったのか。いくら考えても分からなかった。ただ、突きつけられた未来に全身が震え、睡眠は完全に取れなくなった、その事実を黒猫団のメンバーから隠そうと距離を置こうとするうちに、サチはギルドの拠点である宿から逃げ出していた。
────
2023年5月17日 麻野美幸 16歳
「(疲れた……)」
気が付くと、サチの脚は主街区の外れにある用水路に向いていた。こんな場所にきてどうしようというのか。そんな考えが頭の奥にちらりと顔を出したが、それ以上に今は仲間たちの前に居たくなかった。背中を壁にこすりつけるように、ズルズルと腰を下ろす。天井と水路の奥に繋がる暗闇が怖くなって、抱えた膝に向けて顔を伏せた。水路の小さな水音が、やけに大きな音になって響く。体はここ数日のほとんど不眠の状態の所為で疲れ切っている筈なのに、恐怖が先行していくら顔を伏せても意識は落ちなかった。
自分でも、何がしたいのかまるで分からない、逃げ出したいのかもしれなかったが、そうした後に友人たちに与えるであろう失望とその表情を思い浮かべると、それを実行する勇気もわいてこない。かといってすべてを捨てて死ぬことが出来るかと言えば、そうすることも怖くて出来ない。前に進もうにも、進むためにはやがて来る死に立ち向かう意志が必要で、それがあるならこんなに悩んでいないだろう。
死にたくはない、けれど最早何のためにどうやって生きればいいのか、サチには分からなくなっていた。
「……サチ」
「…………ッ」
その声を聞いた瞬間にサチの胸に去来した驚きに、一抹の期待と自己嫌悪が混じったのは、その声が期待した人物の声ではなかったからであり、同時に、そんな期待を抱いていたあまりにも身勝手で浅ましい自分を自覚したからである。
「キリト……どうしてこんな所……」
「……カン、かな」
受け売りだけど、と言って苦笑するキリトに、なるほど、どうやら彼は確かにあの青年の身内のようだと、妙な安心感を覚えてサチは力なく笑って、再び顔を伏せる。
「……みんな心配してるよ、迷宮区に探しに行ったんだ。早く戻ろう」
「…………」
分かっている、戻らなければならないことも、自分を彼らが捜しているだろうことも分かっていた。どの道他に行く場所があるわけでもないのだ。やがては自分はあそこに戻るしかない。戻って、また外に踏み出すしかないのだ……その未来に対する不安が頭の中でぐるぐると回り、無意識のうちに口を開いていた。
「キリト、一緒にどっか逃げよ」
「……?逃げるって、何から?」
「この街から、黒猫団のみんなから、モンスターから……SAOから」
口に出して、自分が何故ここに居るのかが何となくわかったような気がした。自分は今逃げ出したいのだ。何もかも、全てが怖いから、それらから逃げ出したい。それが自分に今ある望みの全てであり、唯一逃げられる者から意識しないままに逃げ出しただけ。しかしそんなただの臆病に、目の前の少年はどこか緊張したように聞き返した。
「それは……心中、ってこと?」
「……ふふっ」
あぁ……そう言われてみれば、今の発言はそう言う意味にとられても仕方ないのかと、まるで他人事のようにサチは内心苦笑する。リョウとの関係からして、おそらく年下だろう少年に、自分はまるで昼ドラのような要求をしたわけだ。そう考えると、なんとも自分が滑稽でサチは自嘲気味に小さく笑って、本気で緊張した様相の少年に微笑み返した。
「……それも、いいかもね」
「ッ……」
その瞬間に起きたキリトの顔をどう表現したものか、どう自分を説得しようと考えている顔と、疑問の表情が入り混じったようなその顔に、サチは少しだけ楽しくなったが、その感情は泡のように一瞬で弾けて消える。
「……ううん、ごめん、嘘。死ぬ勇気があるなら、こんな圏内に隠れてたりしないよね……」
「…………」
再び黙り込んだ自分に、律儀に付き合うようにキリトが脇に腰を下ろす。再び数分の間沈黙してから、サチは殆ど無意識のうちに、静かに溜まっていた水が杯から溢れるような、損な調子で自分の今の事情を語り始めた。
死ぬ事がとても怖い事。
以前からその恐怖で不眠症になり易く、ここ数カ月はきっかけ(あえて、リョウの名前は伏せた)が有り落ち着いていたものの、最近またしても、しかも今度は完全に眠れなくなった事。
そして、キリトに問うた。何故こんな事になったのか、何故ゲームから出られないのか、何故ゲームで本当に死ななければならないのか、こんな事をした張本人に、一体どんな得が有ると言うのか、そもそもこんな事に……何か意味が有るのか。
全てを語ってから、サチは自分の軽率な行いを深く後悔した。ずっと胸の内に誰にも言わずにこの恐怖を隠し続けてきたのは、それを打ち明けることが、周囲の人々の期待や思いやりを裏切ることになると感じていたからだ。
ケイタも、目の前にいるキリトも、本質的には優しい人間だという事をサチは間違いなく知っている。
ケイタは自分の恐怖に気が付いてはくれなかったが、それでも自分が臆病であることは知っている。その上で、わざわざ彼が足手まといになりかねない自分を宥めすかしてこの前線へ連れてきてくれたのは、一重に少しでもサチに、そして黒猫団のメンバーにこの世界でマシな生活をしてほしかったからであり、集団からドロップアウトすることで心細い思いや辛い思いをさせないためだ。
キリトもまた、途中加入でありながら自分達のことを守る為にとても尽力してくれている、盾に転向しようとする自分に対する指導もとても熱心だが、サチの臆病さを察してか、強要だけは決してしなかった。
そんな優しい人達の期待や思いやりを裏切ってしまうことはサチにとっては心苦しい……いや、あるいはそれすら醜い言い訳に過ぎないかもしれない。自分は結局の所、どっちつかずなのだ。自分が死ぬのは怖いくせに、それを避けたために自分の居場所がなくなるのも怖くて怖くてたまらない、誰との繋がりも持てなくなることは、この過酷な世界ではあまりにも怖い。
全てが怖い。人から離れることも、自分から全てを捨てて死ぬことも、やがて来る死と対峙することも。
だから……
「……君は死なないよ」
その言葉が口にされた時、彼女は目を見開いていた。
「……どう、して、そんなことが言えるの……?」
「……黒猫団は、今のままでも十分に強いギルドだから。安全マージンも必要数値より多くとってるし、君はあのギルドに居れば安全だよ。俺とテツオが居るんだし、無理に剣士に転向する必要もないんだ」
自分に掛かる負担もあるだろうに、キリトはそう言ってくれた。その言葉ははっきりとした根拠があって、またどうしてか、自分を少しだけ納得させる確信じみた何かがあった。
だから……縋ってしまった。
「……ほんとに?ほんとに私は死なずに済むの?いつか、現実に戻れるの?」
「あぁ……意味は死なない、いつかきっと、このゲームがクリアされる時まで」
「…………」
それ以上、サチは何も言わずただ少しだけキリトの傍によって、その肩に身を預けると、小さく泣いた。
「(ごめんね……ごめんね……)」
心の中で、何度も何度も謝りながら。
────
翌日からサチは、毎晩眠る時、キリトに頼るようになった。
この頃のキリトに詫びなければならなかった理由が、サチには二つある。一つは、自分が自分の安堵感の為にキリトの優しさを利用し、それによってキリトに対して自分の存在が負担になることが分かっているにも関わらず、彼の存在に縋り続けた事。そしてもう一つは、そもそも彼の言葉をこの時点でサチは、信じ切れてはいなかったという事だ。
キリトはその日から眠るとき何時も、自分に「死なない」「いつか現実に戻ることが出来る」と声を掛けてくれた。しかし、サチはずっと、恐らくその言葉が現実になることとして認識できない節があった。サチの認識している「死」とはつまり、彼女自身の「生きる意志」の欠如によってもたらされる未来である、つまりそれは、周囲の人間が強いとか、そう言うことで解決できる問題ではないのだ。何故ならそれは他の誰でもない、自分自身の問題なのだから。
その確信だけはどれだけキリトが声を掛けてくれても、キリトのステータスを偶然知って、彼が自分達と比べても圧倒的に強者であるという事を知った後も、揺らいではくれなかった。
それが分かっていたのに、分かっているにも関わらず、サチはキリトの優しさに甘えるのをやめることが出来なかった。そうすることでしか、もう安堵感を覚える事も、死におびえずに眠ることも出来なくなっていたのだ。
しかし……キリトにそうして甘えている内に、サチにもやがて気が付くことがあった。自分が死んだ後で、この少年が果たしてどうなってしまうのか、ということだ。
自惚れるなと言われてしまうのを覚悟で、しかしそれでも考えてしまう。ここまで世話を焼いてもらった時点で、既に自分は彼と赤の他人というには関わりすぎてしまっていると思えた。そして当然だが、人と人はかかわる時間が増えるほど、相手に対する理解が深まっていくものだ。サチが見た限り、キリトは他人と深く関わりすぎるのを避けようとする割に、とても心優しい少年だった。
黒猫団のメンバーと共に行動しているときの彼は、何時もどこか一線を引いていて、リーダーであるケイタやテツオを立てて口を出さない。しかし有事の際には率先して前に出ていくし、全体の事をよく見ていて、HPや武器の耐久力だけでなく、メンバーの精神的な消耗を察して積極的に指摘し、常に安全を重視して行動するように全体を誘導してくれた。
そのおかげで、キリトが入って以降の黒猫団は目覚ましい勢いで成長していき、メンバーにも自信が付き始めていたのだ。
なんというか、キリトは黒猫団のメンバーにとって、引率の先生というか、お父さんのような存在だなとずっとサチは感じていた。後ろからそっとメンバーを見守りつつ、いざとなれば助けてくれる、そんな優しい父親のような存在だ。
だが同時に、それはつまりキリトは自分から、自分達の命を背負い込みながら戦っているのではないか、という懸念を生んだ。もし自分が死んでしまうような事態に遭遇したとして、仮にその場にキリトが居たとしても、きっと彼は生き残ることが出来る……出来てしまうだろう。
自分にとって大切な誰かが死んだあとも生きる事が、どれだけ苦しく、どれだけ辛いのか……それは、少なくともこのメンバ―の中では、サチが一番よく知っている。ともすればこんな世界では、簡単に自分から命を捨てることすら選んでしまいかねないほど、本当に苦しいのだ。
『それは……ダメだよね』
キリトには、伝えなければならない。自分が死ぬであろうことも、それが何故なのかも。そしてそれが、彼の責任ではないことも。本当は直接自分の口から伝えようと思ったが、それは止めた。「それ」を口に出して打ち明けるときはつまり、「自分の生を本当に諦める時」だと思ったからだ。今すぐに生を諦めるなら、少しだけ未来にそれを先延ばししようと考えた。目標は12月25日、アインクラッドでは、イベント性を大事にするためかその日は雪が降ることを、一度来たクリスマスのおかげでサチは知っていた。
ロマンス語るをつもりはないけれど、サチは一度、キリトと真っ白な街を歩いてみたいと思っていたのだ。
それまでに自分が死んでしまった時に備えて、若干苦しい言い訳をして設定したキリトとの共通アイテムタブに、時限式のメッセージ記録結晶を残しておいた。
『なんか、お爺ちゃんが「終活」してた時に似てる……』
母の実家に行った時、祖父がそんなことをしていたことを思い出して、サチは小さく笑った。……あるいは、あの頃、自分と話していた千陽美も、こんな気持ちだったのだろうか……?そんな考えが頭をよぎったが、答えは出なかった。
「…………」
全てのメッセージを入力し、共通ストレージの設定が終わってから、サチはふと、手元にあるもう一つのクリスタルを見た。そこに在るのは、キリトの後に録音したある青年に向けたメッセージだ。彼に伝えるべき……否、伝えたいと思っている、大切な言葉がそこに録音されている。どうせ死ぬのならと思い立って、思い切って録音したものだ。
「…………」
キリトへのクリスタルと一緒に、このクリスタルを入れ、時限式のメッセージを設定しておけば、きっと彼はこれを、目的の青年に届けてくれるだろう。死んだあとまで彼の厚意に甘えてしまうことになるが……きっと言葉は伝わるはずだ。
「…………」
彼女はそれを──
────
そしてそのほんの一週間後、黒猫団は殆ど全てのメンバーを失い、壊滅することになる。
────
あの日の事を、今も稀に夢に見ることがある。視界を埋め尽くす赤い光と、無数のモンスター、そして断末魔と共に命をガラスのように散らしていく仲間たちの最後の表情。自分と繋がりを持った大切な友人たちが、次々に消えて行くあの光景を忘れることは、多分一生出来ないのだと思う。
あの事件から二週間以上、サチの心は、着実に壊れていた。
2023年 6月28日 16歳
「はっ……はっ……うっ……」
吐きそうになる体を丸く縮こまらせて、サチは水場にへたり込む。恐怖と後悔、悲哀に委縮した身体が、再び動かせるようになるまでには、何分もの時間がかかった。
今朝もまた、自分の悲鳴で目が覚めた。
頭の中で今もぐるぐると回るあの日の光景を必死に頭を振って振り払おうとするが、そんなことは無駄であると自分が一番よく分かっている。記憶というフィルムに焼き付いたそれは、何時まで経ってもサチの脳裏にこびりついて離れない。自分でも自覚できる、完全なトラウマになっていた。あの日キリトと別れてから、サチはリョウと共に、宿で休み、翌日黒鉄宮で、ケイタの死を知った。記されていた死因は自殺、ケイタはキリトとサチから話を聞いた直後に、自らアインクラッドから身を投げたのだ。
それからサチは、ケイタが購入し、カギをギルドストレージに置いていったこの黒猫団のホームになるはずだった一軒家に住み、日々を送っていた。
『リョウは……出かけたのかな……?』
同じ家の別の部屋に、今はリョウが泊まっている。彼自身は何も言わなかったが、彼が状態の人間を放っておけるようなタイプの人間でないことはよくわかっている、それが、自分が彼に迷惑を掛けているという事であることも……
『今日は、どうしよう……』
とりあえず、この気持ちの悪い冷汗(正確には、SAOは生理現象が省略されているので、そんな気がするだけだが)をどうにかしたいと感じて、彼女は風呂場へと向かう。脱衣所には、六月にしては寒いこの日の陽気の所為か、ひやりとした空気が漂っていた。しかし浴場に出ると、それが湿気と熱を纏った空気に変わる。
まだ慣れない、二人くらいならゆうに入れそうな大きめのバスタブの前まで来ると、彼女は全身の装備を解除して、気だるいままで歩き出す。陶器で出来ているのだろう縁を乗り越えると、女神像の持つ瓶から溢れだすお湯の滝へ頭から突っ込んで、その湯を浴び始めた。
「…………」
全身の体表面を流れて行くお湯 (のような)感覚に身を委ねつつ、サチは瞳を閉じる。
この風呂も、ケイタがきっと気を利かせて選んでくれたものだ。ギルドホームにする物件についての意見を聞かれた時、自分が「風呂」と言ったことを覚えている。あの時は、みんなが好きに意見を言っていたけれど、キリトとテツオだけは何も言わなくて……
「ッ…………」
あぁ、まただ。自分で分かる、自分は今泣いている。お湯に交じって自分の涙が流れているのが分かる。SAOの感情表現がオーバーなせいなのか、それとも本当にダメなのか、涙がどうあがいても止まらない。膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちて行く……
彼女の最近は、何時もこんな具合だった。
泣きだして、何とか自分を落ち着かせ、また泣きだしてはまた自分を落ち着かせるの繰り返し。寝ている間ですら、起きてみれば自分が泣いていたことに気が付く有様だ。自分でも何故泣いているのか分からないのに、気が付いたら泣いていることすらある。
思考はまとまらず、心臓は突然早鐘を打ったかと思えば、締め付けられるように痛くなる。息が苦しくなったかと思えば、頭が重くなり、気持ちは殆ど常に沈んで、本を読んでいても、食事をしても、それが楽しいと感じられない。生きているというよりは、死んでいるのに近いような、そんな状態が、あの日以降ずっと続いていた。
「…………」
うつろな目で天井を見上げて、サチは何をするでもなく、ぼうっと中空に視線を彷徨わせる。あれから十数分を掛けて風呂から上がり、風呂に入ったはずなのに疲れきった体でダイニングに座りこんで……ずっとそのままだ。
『私、何してるんだろう……?』
誰かが言う。ただ座って、何もしないで、息をして、食事をしているだけだと。何も為さず、何も生まず、ただ幼馴染の肩に寄りかかって、生きているだけだと。何かしようにも、何をしたらいいのか分からない、そもそも、何かできる気がしない。何かしようとするたびに、悲哀と涙が自分の邪魔をすることを知っているからだ。
このままではいけないと分かっているのに、このままでしかいられない。
『私、何のために此処に居るんだろう……?』
誰かが言う、何のためでもないと。ただ置物と同じように、居るだけだと。当然だ、物と動物とを分けるのは「自分から何かをする事」なのだ、自分では何もできない今の自分は、物と全く変わりはない。
『……あれ?』
何を見ているか認識していないまま天井を見ながら、彼女はふと思った。
『……私、何で生きてるんだろう?』
ずっと、死が怖くて、生に執着してきた。けれど生きながらにして死んでいるのと変わらない今の自分が、どうして今も生にしがみつく理由があるだろう?今の自分が死んでいるのと同じで、死が今の自分と同じなのだとしたら、死の何がそれほど恐ろしいというのだろうか……?
……もしも、「それ」を受け入れれば、黒猫団の皆にも、千陽美にも、会えるのだろうか……?
「…………」
気が付くと、サチは玄関の前に立っていた。何も考えない頭を無視して、身体が自然と目の前のドアノブに手を掛ける。身体が震えているようだったが、それがどこか遠くの事に思えていた。
『あれ?私何してるんだろ……?』
多分外に出ようとしているのだと思う。この二週間、自分から外に出ようとしても、身体がすくんでろくに動けなかったのに、どうしてか今は身体が素直に動いているようだ。ただそれもどちらかというと遠くの事のようで、自分で体を動かしているような気はしないのだが……
「…………」
ドアノブに触れた掌が、かちゃりと小さな音を立ててそれを回し……
「……あ?なんだお前、外出る気になったのか?」
「…………」
扉を開けたそこに、リョウが居た。
気が付くと外は夕暮れになっていて、橙色よりも夜闇が周囲尾包み込み始めている。そんな中ぽかんとした顔で自分を眺めるリョウは、どこか滑稽に見えた。
「?おい、サチ?」
「…………」
「……?おい?」
黙ったままのどこかうつろな瞳で自分を……いや、自分の方を見ているサチを見ながら、リョウは首を傾げる。目の焦点があっていない。こちらを認識していないようなその瞳が、ひどく危ういもののように見えた。
「おい!」
「ッ!?……あ、リョウ、おかえり……?あれ?夜……?」
「……お前……」
「あ、れ……?私……」
どこか混乱したように周囲をキョロキョロと見回して、自分がどこに居るのか確認しようとしている彼女は、まるで道に迷った少女のように頼りなく、しばらくそれを繰り返す。そして……
「私……わた、し……」
ふいにその動作を止めると、今度はカタカタと震え始め、まるで頭痛を起こしたように頭を抑えた。
「わた、わたし……今……い、ま……!」
「お、おい!?」
ガタンッ!と音を立てて、サチがしりもちをついた。腰を抜かしたように、地面にへたり込む彼女に、慌ててリョウが脇にしゃがみ込む。彼女は何かを恐れるように、自分の身体を抱き込んでいた。
「お前、どした……?」
「わかんない……でも、私……今……!」
震えたたどたどしい言葉で、サチが言葉を続ける、しかしそれ以上の言葉を紡ぐ事が出来ない。当然だ、口にするのすら恐ろしいそれを、サチはずっと恐れてきたはずなのだ。なのに、だというのに……
「違うの……私……!怖くて、もう、いやなの……分からないの……生きるのも、死ぬのも……もう……!」
「……ッ」
絶句するリョウをよそに、サチは抱え込んだ体をカタカタと震わせ、それを必死に抑えようとするかのように肩を抱く。焦点が合わないまま、自らがしでかそうとしたことに恐怖し震える瞳を見て、リョウは一瞬だけ瞑目して小さくうなづいた。
「よし……サチ、深呼吸しろ、先ずは落ち着け」
「う、ん……」
言われるがままに、乱れた思考をまとめようとサチは必死に深呼吸をする。けれど一度散り散りになったその思考は、なかなかまとまらず、また頭がパニックを起こしそうになる、そこに……
落ち着いたか……?なら、飯食うべ」
「え……?わ……」
突然、身体がふわりと浮き上がるのを、サチは感じた。勿論、正確には浮き上がったのではない、リョウによって、サチの身体が抱き上げられたのである。突然の事に少しだけ驚いたせいなのか、思考に空白が生まれ、パニックが止まった。
「りょう……?」
「…………」
現実感が無くどこか自分の事ではないような、そんな感覚を感じている内に、ちょこんと暖炉の前のソファ座らされて、リョウがキッチンの方で料理を作り始める。
「……?リョウが作るの?」
「おう…………スキルはねーから、期待すんなよ」
どこか言い訳のようにそう言って、リョウは干し肉を小鍋の中にぶち込んでいく。しばらくするとサチの前には肉入りのスープと、ベーコンの乗ったパンがあった
「…………えっと」
「……なんだ、夕飯にしては貧相だとかいわれても、野戦料理だから仕方ねぇってしか言えねーぞ」
「そ、そんな事思ってないよ!?」
ぶんぶん首を振ってサチは目の前の料理を見直す。
「ただ、リョウが料理してるの見たの、凄く久しぶりだったから、驚いちゃって……」
「あー、そうだっけか……?忘れたな」
とぼけるようにそう言って、隣に座るリョウに苦笑する。
「でも、どうして急に……?」
「別に……ただな……」
「……?」
首を傾げるサチを一瞥して、どこか言い難そうにリョウは頭を掻いて言った。
「……お前、最近冷や飯しか食ってなかったろ……だから、なんか、とりあえず美味いもん食えよって、な」
「…………」
言われて目の前の食事に視線を戻す、未だホカホカと湯気を沸かせるスープとパンは確かに、とてもおいしそうに見えた。
「……ほら、さっさと食わねーと、冷めんだろ」
「……うん……リョウ、ありがとね……」
「……別に」
言いながら、二人は両手を合わせる。
「「いただきます」」
自然と、声は揃っていた。
「……おいしいね」
「嘘つけ……」
それまでろくに喉も通らなかった食事が、今だけは素直に口に入った。口に出した言葉に、リョウはふてくされたように視線を逸らす。確かに、スープは必要以上に塩辛かったし、パンも少し焦げていた、けれどその食事はおいしかったと、サチは今もはっきりとその味を覚えている。どれだけ手を尽くした料理よりも、言葉よりも、その時は、幼馴染が自分の為に作ってくれた料理がおいしかった。
「…………ッ」
「…………」
ジワリ、と、また涙がにじむのが分かる。それを抑えようとして、けれど、やはりあふれたそれが零れ落ちる。
何も言わないまま、隣からリョウが頭を撫でた。
「……ッ」
それに身を預けるように、彼の肩に頭を押し付ける。押し殺した嗚咽が、静かに部屋に響いていた。
────
「……私ね……もう、よく分からなくなっちゃった……」
「…………」
「私より先に、みんなが居なくなっちゃうなんて、思って無かったからかな……今まで、みんなが居たから頑張ってこれた……黒猫団のみんなの事、好きだったし……みんな、良い人だったし……でも、もう、みんな居ないんだよね」
ぽつ、ぽつ、と漏れ出すような言葉を紡ぐサチはリョウの服の裾をつかみながら、濡れた声で続けた。
「変だね……絶対死んじゃうと思ってた私が生きてて、皆が死んじゃって……皆が居ないと、私……なんで……」
「…………」
「分からなくなっちゃった……私もう、なんで生きてるのかなって……なんのために生きてればいいのかなって……」
ただ、漠然と死が怖かった。二度と笑い合うことも、話すことも出来なくなる運命を強要されるそれが、どうしようもなく怖かった。けれどこれまで自分が抱いていたのは、少なくともこの世界においては、「自分が死ぬこと」に対する恐怖だったのだ。まさか寄りによってもう一度、友人が死ぬことの方を経験させられるとは思っていなかった、いや、想像している余裕が無かったのだ。自分の事に、ずっと手いっぱいだったのだから。そしてそれを想像しないまま受けたその衝撃は、「あの時」と同じように、重く、辛かった。
「ねぇ、リョウ……」
「ん……?」
「なんで、なのかな……なんで、こんな事になっちゃったのかな……?なんで……」
そうして彼女は、うつむいていた顔を上げる、もう、何も分からなかった。
「なんで……私の友達は……皆、いなくなっちゃうのかな……!?」
「…………ッ」
その顔を見て、リョウが何を思ったのかは知らないし、知りえない。ただ彼はどこか強く苦汁をにじませた表情をして、右手をサチの頭に回して、抱え込むようにその胸に抱いた。
「……すまねぇ」
「…………」
どうして、なんでリョウが謝るのと、そう尋ねようとした言葉はしかし、声にはならなかった。言葉が胸中で全身を包み込む暖かさに溶かされていくのを、彼女は不思議な感慨と共に感じ取る。眠るように瞳を閉じる彼女に、普段よりも幾分かゆっくりとした声が降り注ぐ。
「……此処に居ろ」
「え……?」
「……俺は……彼奴らじゃねぇ、代わりにも成れねぇし、なろうとも思わねぇ。けど、昔みたいに一日の一部だけでも、お前の近くに居てやる。だから……此処に居て、“俺を待ってろ”……俺は、此処に戻ってくる。居なくならねぇからよ」
その言葉を聞いた瞬間に、自分がどんな顔をしていたのか、今も、思い出せない。或いは、言葉で言い表すことなど出来ないのかもしれない。
「……良いの?」
「あぁ」
「私、何もできないよ……?一緒に、戦えない……」
「構わねぇよ」
「モンスターが怖いから、外にも、出られない」
「あぁ、安全なとこに居ろ」
「私、もう何の役にもたてない……ただの足手まといなんだよ……?」
「あぁ、良い。もう十分だ。お前は、よくやった、だから……」
その瞬間に、自分を抱くリョウの力が強くなった気がしたのはきっと、気の所為ではないと、そう思う。
「……死ぬな、美幸」
「…………!!」
どうしてなのかは分からない。けれどその言葉は、親友に言われた言葉よりも、少年に言われた言葉よりも、他のどの言葉よりも、強く強く胸を打ち、やがて……
「─────!!!」
「…………」
大声で、彼女は泣いた。ようやく見つけた、自分が、「ただ生きる事」を願ってくれる、どうしようもなくダメな自分を受け入れてくれるその場所に縋りつくように、誰はばかることもなく、大声で。
彼女が泣き止むまでの十数分間ずっと、リョウは彼女を抱きしめ続けていた。
────
2026年 1月14日 麻野美幸 19歳
「……やっぱり、ちょっと長くなっちゃったね……ごめんね?」
「…………」
アスナは、絶句していた。
サチの過去に、そして、自らに最も近いと思っていた親友のその余りにも悲壮と、別れに満ちた日々と、それを今の今まで知らなかった、自分の無知さ、無神経さに対してだ。
過去の出来事として話している間ですら、サチは何度も顔色を悪くし、体調が悪化した。それほどに、思い出すことすら憚られる絶望に満ちた過去。これに比べれば、自分のSAO時代などまだ可愛いものだ。少なくとも自分には、死の恐怖に立ち向かう意志も、戦う力も、そして支えてくれる人もいたのだから。ほんのひと時始まりの街にこもっていた自分の物とは、根本的に違う、サチがSAOに居る限り持ち続けていたであろう恐怖と、それについに打ち勝てなかった彼女と彼女の友人たちの出会いと別れの記録。
自分はこれまで、SAOで過ごした日々を、決して無意味なものでも、悲観的な物でもないと思ってきた。そう思える程度には、あの世界で得た者は大きく、自分にとって大切で、何より優しかったからだ。
しかしきっと、サチにとっては違う。彼女にとってあの世界の記憶は、その殆どが別れと、悲しみと絶望に満ち満ちたもので、それゆえに、彼女は彼に守られ続けながら生きるしかなかったのだ。
そしてアスナはリョウが言った言葉の、その一端を、ようやく察した。
「……リョウがアスナにあんなことを言ったのはね?きっと、この事があったせいだと思うんだ……」
「…………」
「私が一回、友達をなくして、本当にダメになりそうになった時の姿を、リョウは見てたから……だから、ちゃんと心の準備が出来て初めて、ユウキとかかわるべきだって……それが出来ないならいっそ、って……そう、思っちゃったんだと思うの」
「…………う、ん」
『どっちかっつーと、お前とか、美幸だな』
『お前、ちょっと理想論に傾き過ぎるとこがあるからな』
『……覚悟の話だ』
『その覚悟が出来ねーなら、あの嬢ちゃんにこれ以上深入りしとくのはやめとけ』
あの時、リョウはずっと、美幸と明日奈、両方の心配をしていたのだ。だからこそ、あんな風な物言いをしたのだ
『俺はその覚悟を、持っていてほしいと思うだろうな……』
『……それは、どうして?』
『それは……』
そう……
『大事な妹に、傷付いてほしくないからさ』
自分達を、傷つけまいとして。
『リョウみたいに、私は人の死を見ても何も感じないほど、強くない!!!!』
「ッ……!!!」
反射的に自分の口を押えた。
「わ、私……何てこと……」
「……ごめんね、ホントはずっと前に、アスナにも話していればよかった……私が、あの時の事、思い出すのもつらくて、ずっと勇気が出なくて、話せなかった……本当に、ごめんね……」
「そんな……!」
そんなことは無い、悪いのは自分の方だ。友人だのと抜かしておきながら、知らなかった、知ろうともしなかった。いくらでもチャンスはあったのに、彼女達の一番触れてはいけない部分に触れようとしている気がして、それに触れることを恐れて自分は……
「私……」
自責で彼女は自らを焼き焦がす、その時だった。
「……え?」
「…………」
「え?ッ!?」
驚いたように、サチが声を上げた、その方向を見て、更なる衝撃がアスナを襲った。
「……ユウキ……」
「……アスナ、サチ、ごめん、ボク……」
あまりにも悲壮な表情を浮かべる彼女の顔を見て、アスナは自分の失態を悟った。あの時、ユウキは自分達の菓子作りに興味深々の様子だった。あわよくばつまみ食い狙いで、きっと買い物組と分かれて付いてきたのだ。しかしだとしたら……
「ユウキ、全部、聞いてたの……?」
「ゴメン、ボク二人が、そんな話するなんて思って無くて……」
どこか自嘲をはらんだその声に、咄嗟に危機感を感じて、アスナは一歩前に踏み出す。その瞬間、ユウキが一歩、後ろに引いた。
「ユウ、キ……?」
「……アスナ、サチ、ごめん……やっぱり、ボク、皆といるのは……ダメだね……」
「待って、そんな事……!」
「そんな事あるよ!」
「ッ……」
普段より、少しだけ語気を強めて返した彼女の言葉に、さりとて押し返されるように、アスナの脚が止まった。涙を浮かべたユウキの瞳が、真っすぐにアスナを見る。
「……ゴメン、でも、ボク、アスナ達に喧嘩してまで、ボク達に付き合ってほしいわけじゃないんだ……後で辛い思いをさせるなら……アスナを泣かせちゃうならボク……やっぱり、アスナとは出会わない方が──」
「…………!」
待って、だめ、その先を言わないで。そう思って踏み出そうとした、その瞬間──
「──違うよ」
「ッ……」
いつの間にか踏み出していたサチが、ユウキの身体をやわらかく抱きしめていた。小さく首を横に振って、彼女は続ける。
「ごめんね……ホントは、こんな話、ユウキに聞かせたくなかった……ユウキに、そう思わせちゃうって分かってたから……でもね?それは違うの……」
「だって……サチは……」
泣きそうな声で、ユウキが何かを言おうとする。しかしそれ以上が声にならないうちに。再びサチが首を振った。
「うん……確かに、凄く辛かったし、悲しかったよ……?死んじゃいたいって思うくらいに……でもね?私、今なら分かるの……それでもやっぱり、みんなと出会えて良かった……出会わなければよかったって思ったことは、私は一度もないんだって」
「…………ッ」
アスナの位置からも、ユウキの位置からも、その瞬間、美幸の表情は見えなかった。けれどきっと、微笑んでいたはずだと、そう断言できる。それほどに、それは慈愛に満ちた声だった。
「みんなとの出会いがあったから、今私は此処に居るの。あの出会いがあったから、沢山の事を学べて、沢山の物を貰えて、沢山の人と今を生きていられる……だからね?ユウキ、私思うの……もし昔の私に戻れて、その時から人生のやり直しが出来るとしても……それでも、私はきっと、また出会いたいって望むんだろうなって……ケイタに、テツに、ササマルに、ダッカ―に、ちよちゃんに……ランにも」
「……姉、ちゃん……?」
「うん……ランも、私に大事なことを教えてくれた人……大事な瞬間を、くれた人だから……」
「…………」
その意味は、今はまだ、ユウキにもアスナにも分からなかった。しかしそれに対してサチが何かを言うことは無く、ただ、こう続けた。
「ユウキにも居るよね?そう言う人……」
「…………!」
サチの肩越しに、こちらを見ていたユウキの視線が、アスナを捕える。開いた右手を赤ん坊のように伸ばして、相変わらず泣きそうな声で、ユウキはその名を紡いだ。
「……アスナ……」
「~~っ、ユウキッ!」
サチを巻き込みながら抱き合った二人は、無意識のうちに額を合わせる。
「ゴメン、ボク、嘘ついた……アスナに出会わなければよかったなんて、全然思えない……!何回やり直せるとしても、またアスナに、出会いたい……!」
「うん……!私もそうだよ……何度やり直せたとしても、またユウキと出会いたいよ……!」
そう口に出した瞬間に、アスナは、自分の答えにたどり着いた気がした。自分がユウキと、どう向き合いたいのか、その答えが、ふっと浮かんだのだ
ようやく泣き出しそうなユウキが落ち着いてから離れた三人の中でアスナは両手をぐっと握って、虚空に向かってうなづいた。
「……うん、そうだよ、私は……」
「アスナ……?」
何か強い意志を感じさせる声で言葉を紡ぎだす彼女に、ユウキが疑問の声を上げる。しかしサチは逆に安心したように微笑み、アスナと笑い合った。
「……ありがとう、サチ……ごめんね、辛い話させちゃった……」
「ううん。もっと早く話せてたら、こうはならなかったはずだから……私が弱いせい。ごめんなさい」
申し訳なさそうに、言ったサチはしかし、次の瞬間アスナを見て、小さく笑った。
「でももう、大丈夫だよね?」
「うん!明日、ちゃんとリョウに話すことにする。でもその前に……」
微笑み返したアスナは、キッチンの方を見て、小さく笑った。
「そろそろ大急ぎで、準備しないとね?」
「うんっ!」
「あ……ボ、ボクも!」
息ぴったりに作業に取り掛かる二人を前に、慌てたようにユウキが続く。そんな様子をほほえましく見ながら、胸中でアスナは小さく呟く。
『それでも、私は……!』
────
「そう言えば、サチ、その頃からなの?」
「えっ?」
菓子を作る傍ら、ユウキに水アイテムを近くの補給用井戸にとりに行ってもらっていた時、ふいにアスナが、そんな問いを投げてきた。
「その、リョウと暮らし始めたの」
「あぁ……うん、そうなるのかな。ただ……」
「?」
ふと、再びサチは過去に想いを巡らせる。たしか、あの直後……
────
2023年 6月29日
「そういやよ、サチ」
「え?」
そうリョウが切り出したのは、リョウに泣きついた日の深夜だった。
「お前、今日誕生日だろ」
「えっ!?」
気が付くと、午前0時を回っていた。確かに、今日6月29日は、美幸の誕生日だ。他の事にばかり目が行って、全く気が付いていなかった。しかし……
「覚えてて、くれたの……?」
「おう、まぁな……まぁ、あれだ。17歳な、おめでとさん」
「あ、ありがとう……」
あんな事があった後で気恥ずかしいやら4年もあっていなかったのに覚えていてもらえたことが嬉しいやらで、サチは頬を紅く染めてうつむく。その様子に気が付いたのか付いていないのか、リョウは肩をすくめて行った。
「けど、悪い、プレゼントもケーキもねぇわ。なんなら、なんか今日中に買ってくっか?」
「う、ううん!いいよ、平気」
今日から世話になるのだ、そこまで甘えるわけには行かないと、美幸は首を横に振る。
「……さよか、んじゃま、お休みだな」
「うん……」
そうして、二人は別の部屋へと入っていく。しかしその寸前で、サチが声を上げた。
「あ、あの、やっぱり……!」
「ん……?」
声はしっかり聞こえたらしく、部屋に入りかけていたリョウがこちらに振り向く。
暗闇で見えないことを期待しながら、サチは顔を真っ赤にして言った。
「わ、私の部屋、ベッドが二つあって、ちょっと寂しいの、だから……」
「あ……?」
「……い、一緒に、寝ませんか……?」
「…………」
本当は、キリトが居なくなってからさみしくなってしまった隣を、誰かに埋めてもらいたかっただけかもしれない。ただこの時は夢中で、そう口走っていた。
「……それが誕生日のプレゼントって……お前たまにすげぇ事言うよな」
「……ふぁっ!?」
そうだ、考えてみればこの場合はそれ自体がプレゼントという事になるわけで、つまり事実上自分は彼の束縛を要求していることになり、それってつまり実は凄く重い要求なんじゃないかっていったい私は何を考えて……そんな様々な言葉が頭の中をグルグルと回り、「やっぱりいいです」が口に出かけたその瞬間……
「ま、いいか」
「へ……?」
「んじゃ、お邪魔―」
彼はそう言って、何の抵抗もなく部屋に入っていった。思いがけず要求を受け入れられてしまって、サチは目を白黒させるしかない。
「…………」
とくとくと、心臓が普段より少しだけ早鐘を打っている。ただの緊張や、いつもの恐怖とは少し違う、久しく感じていなかった、暖かい血が体に巡っていく感覚。けれどこの感覚は覚えがある。子供の頃、何度も感じた感覚だ。
「早くしろよ、灯り消すぞ~」
「う、うん」
けれど、今の自分は、彼は子供ではない。あの頃とは色々な事が違う筈。けれど……
『あぁ、うん、分かってたよね、きっと……』
何度も何度も、思い出していた。いつもいつも、忘れられなかった。きっと別れた日からまた出会った日まで……今日まで、ずっとそうだったのだ。
『私、この人が好きなんだ……』
小さな少女だったあの日抱いた想いは、今も残って、むしろ強い火になって今も胸の内に或る。けれどこの想いを打ち明けるのには、少しだけ時間が必要だ。
せめて自分が彼に寄りかかるだけの子供で無くなるまで、せめて自分が、彼を支えられるような女性になれるまで。そうで無ければ、今日、リョウにとっての戻る場所……「楔」になってしまった自分は、それ以上に彼を縛り付け、単なるお荷物のままで彼の重荷になる事になってしまう。
隣に並べない自分に、彼に想いを告げる権利はまだない。
「んじゃ、おやすみな~」
「うん、お休み……」
布団に顔をうずめながら、サチは自分が彼のために出来ることは何かを考え始める。
其れは彼女が久々に考え始めた、前向きなことだった。
────
「サチ……?」
「……うぅん、なんでもない」
「?」
小さく微笑んで、サチは作業を再開する。
自分は少しでも、彼のお荷物を卒業できているだろうか……?そんなことを考えながら……
……ヤドリギは今日も育っている。
後書き
はい、いかがだったでしょうか!
全三話にわたってお送りしてまいりました美幸/サチの過去編。美幸が小学校で涼人と別れてから原作の「赤鼻のトナカイ」で登場するに至るまでの4年くらいの物語を、ざっと流した具合になりました。
この過去編は元々、原作で殆どその過去が明かされていないキャラクターであるサチを、麻野美幸という原作キャラでありながらオリジナルのヒロインとして完全に独立させるためにどうしても必要だったお話であり、同時に今回のリョウとアスナの意見の食い違いに対する根本的な原因を公開意図のお話です。
勿論、この話の内容を前提にしてもリョウのしてることが若干やり方の下手くそなおせっかいであることに変わりはないのですが、一応は彼にも彼なりの心配事や思う所あっての行動だったんだよ。と言うのを現すためのまぁ、ある種の説明会ですね。これまでの要因からリョウ言動の理由を予想していた方は、申し訳ありません、作者、隠し事がありました(笑)。
しかしそれはあくまでも後半のお話(まぁ通しで見ると全ては此処に至るための話なのですが)殆どは、美幸さんの思い出話です。
中学時代から始まった話ですが、恐らく原作の黒猫団の面子は、小学校時代位からの幼馴染集団だったのではないかなと思っています。何時も一緒に遊んでいたメンバーに、たまたま近所に住んでいた女の子も参加していて、男の子と付き合えたぐらいですから、原作のサチは案外男の子の中でも気にしない、やんちゃガールだったのかもしれません。
しかしこの話では、あくまでも高校からの関係、なので中学時代には、少し今の「女の子として」の成長をするために女子の友人を作りました。佐川千陽美さん、この子が起点となって、サチの中学時代を盛り上げてくれたという設定です。歌が上手い理由も、ようやく説明できましたw
そっから、高校時代の黒猫団、もとい、PC研メンバーの話、どうやってナ―ヴギアを手に入れたのか正直疑問だったのですが、そこはそれ、部費で解決しました(※ちなみに実際はよほどのことが無いとナ―ヴギア5台も買えるような部費出ません)後は原作のお話に一直線、そして、サチが一番辛かった時期、という風に続きます。須郷の実験で痛みや恐怖に過剰な反応を示したのも、この話の後なら納得していただけるかと思います。
人に歴史ありと言いますが、これもまた、サチの歴史、楽しんでいただけたなら幸いです。
ではっ!
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