あえて身を引き
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第二章
「ではまずはどうしますか」
「風呂はあるか」
「これから炊きます」
「では風呂を待つ間飯にしよう」
森谷はみや、俗におみやさんと呼ばれる女にこう返した。
「まずはな」
「そうですか」
「そして風呂に入りな」
「それからですね」
「酒だ」
それにするというのだ。
「そうしよう」
「わかりました」
「そしてな」
「後は」
「床じゃ」
この言葉だけで充分だった、森谷はみやと共に一夜を過ごした。それはこの日だけでなく月の三分の一はそうだった。
家族当然妻も承知のことで何も思わないし周りも下の者達もだ、誰もこのことを咎めない。この頃では普通のことだったからだ。
むしろだ、森谷にこう言う者すらあった。
「おみやさんとの間にお子様は」
「それが出来ぬのだ」
少し困った笑みになってだ、森谷も応えた。
「女房との間には三人おるがな」
「しかしですか」
「あれとの間には出来ぬ」
「そうなのですか」
「これまで妾はおったが」
それでもというのだ。
「妾との間に出来たことはない」
「そしておみやさんとも」
「出来ておらん」
「そうですか」
「あくまで今のところはじゃがな」
それでもというのだ。
「おらん」
「残念なことですね」
「全くじゃ、一人は欲しいが」
しかしというのだった。
「こればかりはな」
「子供は授かりものということですか」
「伊藤さんもあれだけでもな」
無類の女好きとして有名だ、それこそ行く先々で若いまだ誰も手をつけていない様な芸者を毎晩の様にだ。
しかしだ、その好色な伊藤であるがだ。
「お子は多くないのう」
「代わりに松方さんが」
「そうじゃ、あの御仁は子沢山でな」
「伊藤公がとは」
「そういうものじゃ、子は結局な」
「天からの授かりものですか」
「そういうことだ、まあ仕方ない」
出来ないのならばというのだった。
「そういうことでな、しかしおみやはな」
「これからも」
「妾としておく」
こう言ってだ、森谷はこの日も夜はみやの家で過ごした。そうした日々を過ごしつつ国政にあたっていたがある日だ。
彼の家の書生の一人がだ、こんなことを言ってきた。
「これは告げ口になるでしょうか」
「告げ口はよくないぞ」
前以てだ、森谷は書生に言った。
「そう思うなら言うな」
「はい、ですがどうしてもです」
「わしの耳に入れておきたい話か」
「左様です」
「では何を言っても怒らぬ、告げ口と思えば忘れる」
森谷は書生にこう返した。
「だからな」
「申し上げていいですか」
「何でも言ってみよ」
「はい、実は先日おみやさんのお家の前を通ったのですが」
書生は学生だ、森谷と同郷でありその縁で屋敷に住まわせていてそこから東京の大学に通っているのだ。将来は官吏か学者かと言われている。その通学の時であったのだ。彼の大学の近くにみやの家があるのだ。
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