Fate/Flood myth
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第三話『終わりと、生誕』
「……で、如何なる用だ裁定者よ。わざわざ令呪まで使って我が身を呼び寄せておいて、『ただ呼び寄せただけ』と言う事はあるまい」
「それは勿論だよバーサーカー……いや、アヴェンジャー。いくら僕でも、無意味に大切な令呪をも切るなんて真似はしない。今このタイミングで君が此処に必要だったから、令呪を行使したんだ」
監督役――ルーラーは隠すような素振りも無く、平然とそれらを口にする。その令呪とバーサーカーの招来が偽りでなく真実ならば、ルーラーが監督役として配属されている事になる。別に魔術協会が無いわけでもなし、本来そのような状況に陥る筈がないのだ。
ルーラーはちらりとあたりを見回すと、一つ苦笑してこちらに視線を戻す。
バーサーカーもまた周囲を見回して、その目つきを険しくした。彼女はそうしていると不機嫌そうに舌打ちし、その右腕に厳かな魔力を放つ鉄剣を実体化させる。
彼女の羽織るコートの裾から漆黒の鱗に包まれた一本の竜尾が伸び、突如虚空を薙ぎ払う。と同時に、何もない筈の空間が歪に歪み、「何か」がその身を両断されていた。忌々しげにその「何か」を睨んだバーサーカーは、その尾を消して鉄剣をソレに突き刺す。
「成る程、そういう事か。確かに異常事態だ、貴様が召喚されるのも無理はあるまいよ」
彼女は突き刺した剣をそのまま持ち上げ、貫いたその形容し難いモノを、伸ばした漆黒の龍鱗に包まれた片腕で握り潰す。汚らわしいものに触れたかのようにバーサーカーがその手を払い、鉄剣を非実体化させた。
あまりに奇怪な状態を掴めぬ「ソレ」に兆仕が冷や汗を垂らし、己がサーヴァントに問い掛ける。
「……バーサーカー、何なんだ、そいつは」
「汝らを愛し、汝らを滅ぼすものだよ、マスター。……しかし、これを我らに伝えた所で、何を望むと言うのだ、裁定者よ。我らサーヴァントが募った所で意味のない話だ、それは貴様が一番良く分かっているだろう」
そう自身の考えを述べたバーサーカーは、訝しむ様な視線を彼に向ける。ソレが何なのか兆仕には予測もつかないが、少なくとも彼が令呪を行使してまで伝えるべき重大な内容である事は、何となくではあるが把握した。
純粋な魔術師であるならばもう少し分かるのかもしれないが、兆仕はそれを恥じる事などない。寧ろ知らなくて良かったとも思う。あの魔術師達と同類など、今のマスターという現状だけでも嫌だというのに。
「勿論。ただ、ソレはまだ未発達だ、普通に聖杯戦争をする分には何の影響もない。しかし一応、サーヴァントである君に"見つけ次第片端から殺すように"、そして"ソレを決してマスターに近付けないように"という警告も兼ねて、呼ばせて貰った」
「仕事が多いな、ソレを現界させぬよう計らい、尚且つマスターから目を離さず、そして聖杯戦争に勝利する――全く、面倒な事になった」
そう言った彼女はやれやれとでも言うかのように頭を振り、しかし口元に獰猛な笑みを浮かべる。真っ白な牙が剥かれ、鋭い目が更に細まっていく。その様子を見て尚表情を崩さないルーラーに、バーサーカーは尚更嗤った。
「クハハッ!良いだろう、障害が多ければ多いほど、我が復讐の旅も映えるというもの!――卑劣な騙し討ちでは意味が無い、あらゆる敵を真っ正面から、策略すら叩き潰し、そして完全なる勝利の下に報復を完遂する!……なれば、その程度の障害など、乗り越えねばなるまいて」
「この化け物を『その程度』扱いか。余程傲慢な英霊のようだ」
「阿呆、未だ成熟もしておらぬ獣に怯えて何が出来る。多少の障害にはなろうが、越えられぬものでは無い……が、我が全霊を込めて超えるに相応しい相手ではあろうよ。ならば、意気込むも知恵持つ者の性だ……行くぞ、マスター」
まるで意味が分からないままに、バーサーカーは兆仕の肩を支えて立ち上がらせる。未だ聖杯戦争の概要について聞いていないとバーサーカーに進言するも、彼女は「既に監督役などこの地に居らんよ、諦めろ」とまた意味のわからない事を告げる。ルーラーも既に話をする気はないようで、薄気味悪い笑顔を浮かべてこちらに手を振っていた。
どうにも事情が掴めないが、目的は達されなかった。ならば、聖杯戦争についてのルールは諦めよう。ただひたすら出会った魔術師を殺せば良い。幸い、バーサーカー以外にもその為の力の『アテ』はある。サーヴァントの相手と、願いを叶える願望器などは、彼女に任せる。念話を通じて、面白そうに頰を歪める彼女の了承も取った。
世に蔓延る魔術師の一掃という形でのみ、彼の復讐は果たされる。そして、聖杯を用いた超常の方法によってのみ、彼女の復讐は果たされる。
方針は決まった。
バーサーカーの支えを貰いつつも階段を登って、魔術によって隠蔽された本殿の裏口から外に出る。松葉杖でしっかりと体重を支えて下山しようと、歩み始めた所で、バーサーカーが小さく眉を上げた。
「――驚くほど微弱だが……サーヴァント反応だ、マスター。頂上に居るぞ」
「……クラスは分かるか?」
「……三騎士、頂上に陣取って居るという事は、アーチャーといった所か。ただ、恐ろしく弱っている。我は弱りきったモノを殺す趣味はない、汝がアーチャーのマスターを探すというのならば乗るが?」
「僕にそんなポリシーは無い。……見つけ次第殺す、守れ」
「クハハッ!愚問であったか、いいとも、了承した。必ずやお前を頂上まで守り切ろう、マスター」
そう彼女が宣言した次の瞬間には、二人はその場から消え失せていた。
────────────────────────
「……サーヴァントの反応を感じた、こちらに上がってくるようだ」
「何……っ!?く、くそっ!もう見つかったのか……!役立たずめ!アーチャーッ!全てはお前が原因なのだぞ!どう責任を取るつもりだ!?」
オールバックに整えられていた髪を掻き毟り、無駄に華美な装飾に身を包む魔道士が、半狂乱になって乱暴な言葉を吐く。しかしそれに対するアーチャーの対応は冷ややかなもので、「そうは言われても、こればかりは俺にもどうしようもないからね」と、首だけで器用におどけて見せる。
無論、首しかない訳ではない。体が動かないから、首だけで応答する他無いのだ。
手足に感覚は無く、ただ座っているしか無い。サーヴァントとして召喚された割には酷く脆弱な体で、きっと今アーチャーが座る椅子の横に立て掛けてある弓すら、引く事は叶わないだろう。
「私はこの通り、戦う事も逃げる事も叶わない。マスター、貴方は逃げるといい。幸い、アーチャークラスには単独行動のスキルが与えられている。なんとか見逃して貰うことができれば、後から合流することも出来るだろう」
「馬鹿な!指先一本すら動かせないサーヴァントであるお前を、敵が見逃すはずが無いだろうが!貴様、私に聖杯を諦めろと言うつもりか!?」
「そうは言っていないよ」
彼が――ルクシオラの家系の末席であるレイドが聖杯戦争に参加するマスターとして選ばれたのは、幸運と言う他あるまい。ルクシオラからは幾人ものマスター候補が選定されており、幾ら魔法の才が末席にしてはズバ抜けていたからといって、その何人もの候補から自身が選ばれた事を、レイドは天に感謝した。
願いを汲む願望器『聖杯』は、聖杯戦争に勝ち抜いたマスターの願いを叶える。
自分は、こんな末席などで収まる器などでは無い。もっと高みに登れる、才能ある、選ばれし者である筈だ。そんな根拠のない自信だけがレイドを突き動かし、その魔術の才を磨くモチベーションとなっていたのだ。
聖杯を用いて、自身にあらゆる天才を超える、圧倒的なまでの力を。そんな想いと共に、英霊召喚を行なった。
それが、蓋を開けてみればこのサーヴァントだ。
短く切られたクセのある銀髪に、蒼い瞳。か細い肉体には必要最低限の鎧が纏われており、成程その弓は確かに立派なものだ。
三騎士である事は良かった、希望を言えばセイバーが最良ではあったのだが、アーチャーでもまだやりようはある。実際、前回の第七次聖杯戦争に於いて、優勝者はアーチャー陣営だった筈だ。だが、それでも、だからと言って、これはないだろう。
英雄のクセに、一般人どころかそれ以下の身体スペック。ステータスは驚愕のオールE、いや、実際にはそれ以下だろう。そもそも体が動かないのだから、Eも何もない。
役立たずの英霊モドキ、それがレイドが己のサーヴァントに下した評価だ。
だが腐っても英雄、英雄として祀られるからには、何かしらの理由が存在する。それがスキルによるものか或いは宝具によるものか、それは分からない。が、それが弱いと言う事はあるまい。せめてそれまで、この協会の監督が滞在する山――伏見稲荷神社の山頂に滞在できれば。
そう思ってはいたが、しかし当然ながら事はそう上手く運ばなかったらしい。
ここで己がサーヴァントを失えば、レイドは聖杯戦争には戻れない。命は助かるのかもしれないが、それでは意味が無いのだ。ならばせめて、すぐにここを離れて、令呪を行使しサーヴァントの強制転移を――
「……っ!?」
小屋の扉を開けると、そこには一人の青年が居た。
平凡な青年だ。背も特に高いと言うほどで無く、体もか細い。松葉杖で体を支えている所を見るに、怪我でもしているのだろう。多少長めの黒髪から覗く瞳は、暗い輝きを灯している。
ここは参道からは大きく離れた山小屋だ、人が訪れる事など有り得ない。そも参道は遭難するような道では無いし、この小屋には人除けの結界も貼ってあるのだ、遭難してここに辿り着く事も考え辛い。
つまりは、敵。
「くっ……!ほ、『焔よ――」
即座に下がり、詠唱を開始する。が、即座に魔力の込められた腕が伸び、レイドの顔面に突き刺さる。重々しい音と共に頭蓋骨が陥没し、即座にレイドの命を奪い去った。
既に抜け殻となったレイドの体が惨めに吹き飛び、反対側の木製の壁に突っ込む。埃と木片を舞い上げ、衝撃が粉砕した血と肉片を床に叩きつけた。
アーチャー陣営は、この一瞬で崩壊した。
「……呆気ない、サーヴァントの援護すら無いものなのか」
『奥に居る、どうやら身動きが取れないらしいな』
そう言いつつ、バーサーカーが実体化する。暗闇に包まれた小屋の奥に目をやり、そこで椅子に腰掛けるサーヴァントを捉えた。
人のことを言えた義理では無いが、貧弱そうな体だ。質素な、しかし質は良いらしい鎧や弓から想像出来る、屈強な戦士とはとても思えない。
バーサーカーは訝しむような視線を向けると、小さな溜息を吐いた。
「……時限性の呪い、それも自前のものか。これは確かに、最序盤を生き残るのは辛かろうな」
「……セイバー、いや、セイバーという感じでは無いか。その剣から見るに、ライダーかバーサーカー……うん、バーサーカーが有力だね」
「如何にも。この身は、バーサーカーのサーヴァントだ。その弓からして、貴様はアーチャーと見受けるが」
「ああ、私はアーチャーのサーヴァント。故あって今は身動き一つ取れない。……私はマスターを失った、新たなマスターとの契約を恐れるのならば、この首、その剣で落とすが良い」
三騎士の一角、弓兵のサーヴァント。聖杯戦争に於いて召喚される七騎の英霊の内、三騎士と呼ばれるセイバー、アーチャー、ランサーの内、遠距離からの攻撃を得意とするクラス。その宝具は特殊なものが多く、聖杯戦争に於いてはジョーカー的役割を果たす事も多い。
――逆に言えば、こういったアクシデントが起こる可能性もあるという事だ。
潔く自身の命を何でもないかのように差し出すアーチャーに、つまらなさそうにバーサーカーが溜息を吐く。彼女は鉄剣を晒した肩にそのまま担ぐと、アーチャーに冷ややかな目を向ける。
本当に、ゾッとするほどに冷たい瞳だった。
「……そのような首、この手に要らぬわ。闘争の果てに得た首であれば喜んで斬り落としてやるが、ただ捧げられるだけの首を落として何になる。なんと無駄な手間か、なんと無意味な一刀か。……新たなマスターなりなんなりを見つけるが良い、見るに、その呪いもいずれ解けよう」
そう言い残して、バーサーカーは武装を解く。優雅な漆黒の着物姿が揺らぎ、下からは兆仕が着させた深緑のコート姿が現れた。担いでいた鉄剣は消失し、あの名も知らぬ魔術師を殺すために地面に捨てた松葉杖の片割れを拾い上げ、兆仕に持たせる。
バーサーカーは兆仕の肩を支えると、小屋の外に足を踏み出した。
内心を正直に告げると、少しばかり驚いている。
バーサーカーは反英霊だ。基本的には人間に仇なす者であり、人間を貪り尽くす化け物達の総称。であれば、人間の如き慈悲の心も、人間の如き精神性も持ち合わせている筈がない。それが、『戦えない者を殺して何になる』などと、騎士道とは言わないがそれに似た言葉を吐いたのだ。
彼女の真名は、一応予想が付いている。古事記を触媒として召喚出来、そして八の竜尾を持つ復讐者。そんな伝承を持つ反英霊など、日本神話にはたった一人――否、たった一体しか知らない。
しかし、彼女はそれを明かさない。であれば、これ以上思考は先に進めない。兆仕は彼女利用しているだけに過ぎず、彼女も兆仕を利用しているだけに過ぎない。
お互いの利点を追求し、知るべき事は知る、知る必要無き事は知らぬ。それでいい。
復讐の為に死後の魂すら燃やす彼女は、今や同胞――いや、共犯者だ。その関係性に余計な物は必要ない。ただ目の前に吊るされた餌を食い尽くし、先を求め、辿り着き、食い尽くす。その繰り返し。
この聖杯戦争は、兆仕にとって、それだけの事なのだから。
「――しかし、随分と奇天烈な力だな、マスター。確かに強力ではあるが、全く使いこなせていない」
「……っ、ぎ、……煩、い、使いこなす、必要はないんだよ……どうせ後には、残らない力だ」
「世の全ての魔術師を一掃する――か。傲慢な願いだ」
自身の体を覆っていた魔力を解くと同時に、全身を耐え難い苦痛が襲う。無理な魔術行使が全身の神経を摩耗させ、タダでさえ負傷していた体が更に悲鳴を上げた。
歪兆仕に、魔術の才能は『基本的には』無い。しかしとある一点にのみ焦点を当てるならば、彼は如何なる魔術師をも超える才能を持つと言えるのかもしれない。だが、その"とある一点"は使用者に莫大な負担を齎す。しかも、その負担に対しての恩恵が、強力とはいえ負担に釣り合わないのだ。だから、この魔術を行使する事はこれまで一度たりとも無かった。
だが、魔術師達の殲滅に近づけるというのならば僥倖。何の躊躇いもなく、この力を使おう。
「……アーチャー、は、残しておいて、良かったのか」
「構わぬ、あの時点で殺してもそれは勝利したとは言えぬ。聖杯も、今のアーチャーの霊基では願いを叶えるに十分な力を補えまいよ」
聖杯は敗退したサーヴァントの霊基を燃料として、優勝者の願望を叶える。バーサーカーから聞いたその話に準ずると、あのアーチャーの霊基は、聖杯の腹を満たすには足りないらしい。であれば放っておけばその霊基が増幅する者なのかと疑問に思ったところで、彼女の言っていた『時限性の呪い』という言葉を思い出す。成程、あの呪いがアーチャーの霊基を蝕んでいるという事なのか。
アーチャーには、単独行動のスキルが与えられる。例えマスターから離れようと暫くの間は行動可能であり、今の彼のようにマスターを失ったとしても、一定期間ならば現界できる。その期間中に呪いが解け、新たなマスターを見つける事が叶ったならば、アーチャーは再びこの戦場に現れるだろう。
バーサーカーは、それを期待しているのだ。捻くれている。
「……バーサーカー、僕はまず、傷を癒す。お前はその間、各サーヴァントの偵察と、マスターの居場所の特定をしろ。出来るな?」
「無論だ、本来はアサシンの領分であろうが……構わぬ、命を果たすとしよう」
バーサーカーは何でもないように言うと、再び歩みを進める。兆仕もまたその歩みに沿って、己が拠点たら工房へと足を進めた。
無駄足は踏まない。ただし、これは契約だ。
バーサーカーの願いは兆仕と同一のものであるが、そこに至る手段に相違がある。兆仕は全ての無駄足を好まず、バーサーカーはあらゆる障害をすり抜けるではなく、叩き潰す事による踏破、そしてその果ての報復だ。
兆仕はバーサーカーのその手段を尊重する代わりに、確実な復讐を求める。
バーサーカーはその復讐を果たす代わりに、望む手段を以て願いを果たす。
何も変わらない。
さぁ、次の報復の準備だ。
「――――っ、ぁ……ぁ……」
寒い。
冷たい石畳が、直接触れる肌に暴力的なまでの冷気を感じさせてくる。今や肌から感覚は遠ざかり、とっくに動かなくなってしまった体はもう置物のようにしか思えない。
耐え難い喪失感。悍ましい虚無感。
体から無理矢理に引き剥がされた魔術回路の残滓が、更に奪われたものの大きさを知らしめてくる。下腹部へ重い痛みが常に響き、枯れきった涙は目尻を赤く腫れさせていた。
悲鳴をあげる事すら許されなかった地獄は既に終わっている。けれどその果てに救いなどなく、ましてやどんな傷付いた未来すらも許されていない。何故ならば、この身はあと数刻もせぬ内に朽ち果てるのみなのだから。
ずっと、天才と持て囃されてきた。実際才能があると言う事は自分でもわかっていたし、気分も悪くなかった。家族から褒められて嬉しくない訳がない。
双子の兄に才能はなかったが、彼は私に優しく接してくれた。本来なら家を継ぐ事になっていたのだろう彼を差し置いて、そんな大層な扱いを受ける事にはかなりの抵抗があり、兄には申し訳ないと言う気持ちもあった。けれど、兄はそんな事知った事ではないと、よく話し相手にもなってくれた。
兄は、今どうしているだろうか。
「……おにい、ちゃん」
昔、わたしが一般人として学校に通っていた頃がある。魔術師としての力を身に付けてからは通う事も無くなったが、それまでにわたしは、クラスメイト達に虐められてしまっていた事がある。しかし厳格な両親にそんな事を言ってしまえば、失望されてしまうかもしれない。だからわたしは、その事を誰にも話さなかった。
『――ばか、何で僕に言わなかったんだよ』
ボロボロに傷付いた兄がそんな事を言ったのは、本当に突然だった。
彼はわたしが虐められている事に自分で気付き、その裏を取り、立ち向かって行ったのだ。いじめっ子達の集団相手にも物怖じせず、全身を痣だらけにしてそれでも引かず、執念の果てにそのいじめをやめさせてくれた。
わたしは、それはもう泣いた。自分のせいで迷惑を掛けてしまった、自分のせいで傷付けてしまった。何度も何度も謝って、泣いた。
兄は、そんなわたしをぎゅっと抱きしめて、少し不本意そうな声で怒ったのだ。
『……なんで泣いちゃうんだよ、頑張った僕がばかみたいじゃないか』
その時から、兄の隣だけが、わたしの本当に安らげる場所になった。
魔術の才能があると言われてからも、この力は兄のために使おうと決めた。魔術の才能が無い兄を、今度はわたしが守れるようにと。そう信じて、わたしは魔術の研鑽を続けてきた。
そうして、しばらくして。
――『歪』の家代表のマスターを名乗る、あの男が、やってきたのだ。
無理矢理に純潔を奪われ、唯一の取り柄である魔術回路も奪われ、わたしの命はもうこの先立ち行かない。待ち受けているのは『死』のみ。命の終わりが着実に忍び寄り、ただ恐怖だけが心を埋め尽くした。
怖いよ。
痛いよ。
死にたくない。
助けて。
そんな言葉を口にしようとしても、喉はマトモに震わず、掠れ声すらも出ない。その事実に絶望が膨れ上がり、この世界に対する理不尽がふつふつと湧き上がる。
"――その命を奪われ"
嫌だ、生きたい。生き残りたい。死にたくない。
お兄ちゃんは、何処?お願い、ここに居るから、たすけて、お兄ちゃん、わたし、お別れしたくないよ。
"――その未来を奪われ"
まぶたが重くなっていく。冷たい死はココロの奥底に忍び込み、『もう、諦めようよ』と囁き掛けてくる。いやだ、諦められない。まだしたい事、見たいもの、感じたい事、いっぱいあるのに。
"――絶望の果てに追い込まれても、尚"
声が、聞こえる。幻聴なのかもしれない。終わりが近付き、弱り切ったこの心が生み出した、細やかな虚しい幻影なのかもしれない。けれど、その声に縋るように、わたしは耳を傾ける。
"――あなたは、何を、望むの?"
……何を、望む?
決まってる。わたしが望むのは、たった一つだけ。人並みでいい、特別幸運でなくてもいい。だからせめて、他には何も望まないから、大切な人と共に。
「…………生き……たい……っ!」
焼け付くような、しかし細やかな痛みを感じる。既に奪われ、存在する筈のない魔力回路が肉体に通っていく。暖かな輝きが冷え切った体を温めていく。
脳裏に鈴のような美しい声が響き渡り、『誰か』の指先が目尻の涙を拭った。
そうして。
"――あなたの願い、聞き届けたわ。擬似霊基、『ランサー』、女神の名の下に、あなたを掬い上げて見せましょう"
左腕に刻まれた、紅い印と共に。
"――あとは、任せて"
少女は、生まれ変わる。
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