SNOW ROSE
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乙女の章
Ⅷ.Bourree
「ドリス。そこはもう少し強くして、次の節の三拍目から弱くするのよ。」
「えっと…こう?」
礼拝堂にフルートの音が響いている。ここで新しい乙女であるドリスを教えているのは、もう一人の乙女であるシュカであった。
ゲオルク神父亡き後、音楽は二人のシスターと二人の乙女によって、ほぼ毎日行われていた。週に二回は三人の神父も加わり、月の終わりには原初の神へ音楽を捧げているのであった。
「そうそう!楽譜にも書き込んでおいてね。」
そうシュカに言われたドリスは、早速羽ペンで指示を書き入れた。今ドリスが使っている楽譜はシュカが書き写したものであり、練習用としてドリスへ贈ったものである。
「じゃ、次は第三楽章へ移るけど大丈夫?」
「はい。ちゃんと予習もしてきたから大丈夫よ!」
横では二人のシスターが、優しく微笑みながら乙女達を見守っていた。
ゲオルク神父、ラノンと立て続けに去ってしまった後、シュカは随分と大人びてしまった。街で暮らす同世代の子供達とは比べられぬ程に責任感は強く、それでいて優しさと慈しみを湛えた女性へと変化していたのである。その上、神への祈りは人一倍熱心であり、自らの路を定めた決意が、彼女の瞳を強く輝かせていたのであった。
二人のシスターはそんなシュカを見て、時折こう思うことがあった。
“今のシュカであれば、王家に入ったとしても申し分無いであろう"と…。
しかし、それは有り得ない話しなのである。シュカは神に全てを差し出す乙女であり、彼女はそれを容認してここで修行をしているだから…。
だが反面、王からの書簡を受け取った時のシュカの顔が忘れられないのも事実である。
ヴェルナー神父から王の書簡を受け取った時の、シュカのあのはにかんだ微笑み…。誰が見ても、愛しい者からの書簡を受けた女性にしか見えなかったのである。
暫くすると、シュカから声が掛かった。
「シスター。お二方も楽器を持って来てくださいますか?」
二人が思いに耽っていた時、不意に呼ばれたので二人共ハッとなって顔を上げた。
「あ…ええ、分かったわ。」
シスター・ミュライはヴァイオリンを、シスター・アルテはヴィオラを持って乙女達へと歩み寄り、側の椅子へと腰を下ろした。
「ねぇ、シュカ。今日はどの曲をやるの?」
ドリスがシュカへと尋ねてきたので、シュカは微笑んで答えた。
「今日はグロリア・ソナタの第五番よ。四人だとこれしか演奏出来ないから…。この前練習したから覚えてるわね?」
「うん!」
シュカはドリスの返事を聞いて再び微笑み、それから二人のシスターへ「宜しいですか?」と問いかけた。二人のシスターも「大丈夫よ。」と返答したため、シュカはそのまま演奏に入ることにしたのであった。
シュカはクラヴィコードの前に座り、全員に合図を送って演奏を始めた。
実を言えば、このソナタの通奏低音にはチェンバロが必要で、本来はヴィオラ・ダ・ガンバかチェロが入るのが通例であった。しかし、この曲以外のソナタは少なくとも五人の演奏者が必要となり、切り詰めて四人でも演奏可能な曲がこの第五番なのであった。
第一楽章と第三楽章は然程問題はないのだが、第二楽章と第四楽章ではやはり低音の音量が欲しいところである。特に第四楽章のフーガに至っては、クラヴィコードではやはり線を出すことが出来なかった。
「やっぱり…スピネットくらいは欲しいものですね…。」
演奏を終えた直後、シスター・ミュライが言った。
その言葉を受け、隣に座っていたシスター・アルテも口を開いた。
「そうですわね。本来ならオルガンを使用する曲ですしねぇ…。シスター・ミュライ、どうでしょうか?街の古楽器店に頼んで、一台チェンバロを入れましょうか。」
この提案に、シュカもドリスも目を丸くしてしまった。
チェンバロは安くとも、一台で金貨二十枚は軽くしてしまう代物である。おいそれと購入出来るものではないのである。
無論オルガンよりは安いといえ、当然、教会からすれば高額な買い物に代わりない。
「シスター。お気持ちは嬉しいのですが、とてもそれを賄うお金はありませんし、手の出る楽器ではありませんから…。」
シュカが困った顔をして言うと、シスター・アルテは微笑んでこう言ったのであった。
「実は…あるんですよ。楽器を買うお金は。」
それを聞いたシュカとドリスは唖然とした。
「なんで?それって…買ってもいいってこと?」
ドリスは目をぱちくりしながらシスター達に問い掛けた。
シスター達は互いに頷き合ってから、目の前の乙女達に事情を説明したのであった。
「先代の乙女ラノンが、自ら生家へと書簡を送っていたのです。」
今は亡き乙女ラノンは、由緒あるジュプリーン侯爵家の二番目の娘であった。最期にラノンは、侯爵である父に書簡をしたためたのであった。
その書簡には幾つかの願いが書かれていたが、その中に、この教会にて音楽を絶すことなく続けられるよう援助してほしいと書かれていたのである。
その他、この教会の人々がどれだけ優しく、温かい人々かを切々と綴り、自分がどれ程感謝しているのかを書き記していたのであった。
その書簡を読んだ両親は感激のあまり涙を流し、直ぐに教会へと返書を書き、寄付のための金貨二百枚と共にこの教会へと送ったのであった。
シュカはその話を聞き、あまりのことに涙を溢れさせた。
「シュカ、大丈夫…?」
ドリスが心配そうにシュカを覗き込むと、シュカは「大丈夫よ。」と言って涙を拭ったのであった。
数ヶ月経ったある日のことであった。
シュカとドリスの二人は、朝早くにシスター達に呼ばれて礼拝堂へと赴いた。まだ眠気の取れない二人の乙女は、礼拝堂に入ると一気に眠気が飛んでしまったのであった。
そこには鮮やかな装飾の施されたチェンバロがあり、聖壇の左側の壁には小型ながら美しい細工がなされたパイプ・オルガンが設置されていたのである。
「いつのまに…。」
シュカとドリスは言葉にならないほど驚いた。そんな呆然としている二人の乙女に、シスター・アルテが優しく微笑んで言った。
「チェンバロは街の楽器職人さんが、古いものを修復して下さったものです。オルガンは街の領主であられるジェームズ公爵様からの贈り物ですよ。」
ジェームズ公爵とは、シュカより数え五代前の乙女の父で、セレガの街を納める大貴族である。
乙女ラノンの育ったジュプリーン侯爵家とも面識があり、ラノンの書簡の話を聞き付けるやオルガンの寄贈をジュプリーン侯爵家に伝えてきたのであった。
これから長年使用されるであろうこれらの楽器は、双方共に丈夫な素材で作られていた。その上、とても美しい装飾が施されていたため、恰も美術品のような様相を呈していた。
二人の乙女は大変喜び、先ずはチェンバロの前に歩み寄ったのであった。
オルガンは送風するふいご役が必要なため、今は音を出すことが出来なかったためでもあるが。
「わぁ…綺麗ねぇ…。あ、これって聖グロリアじゃない?」
ドリスがチェンバロの反響板の裏に描かれた絵を指差して言った。そこには、優しい微笑みを湛えた女性の姿が描かれていたのである。
シュカもその絵を見ると、正にその女性は聖グロリアであった。
「よく分かったわね。私も一度しか聖画像を見たことはないけど…これは聖グロリアに間違いないわねぇ…。ん?」
シュカはその絵をじっくりと見ていたが、少し違う点を発見したのであった。
「ここに天秤が置かれてるわ…。それに、手に持ってるのは白百合じゃないわねぇ…。」
聖グロリアの聖画像には通常、何かしらの楽器が描かれるが、ここには代わりに天秤が描かれていたのである。
また、手には聖花として用いられていた白百合を描くのが通例であったが、そこにはなぜか存在しない白薔薇が描かれていたのである。
不思議そうに呟くシュカに、シスター・ミュライが微笑んで答えたのであった。
「その聖グロリアは、シュカ、あなたのために描かれたものなのです。」
「え?私のためにって…どなたがこの聖グロリアを?」
傍らに立つドリスも首を傾げているが、それは当然の反応と言えるだろう。
「この絵はハンス王が自ら描いたものなのです。」
「!!」
シスター・ミュライの答えに二人の乙女は驚いた。一国の王が反響板裏に絵を描くなど前代未聞である。それも…シュカ個人のためにとは、さすがの本人も言葉がでなかった。
隣にいたドリスは何か思ったらしく、シュカに向かって静かな口調で言葉を紡いだ。
「ねぇ、シュカ…。それって、私が言うのもどうかと思うんだけど、すっごく想われてるってことでしょ?それに…この聖グロリア、とっても温かくて優しい目をしてるよ。」
「そう…ねぇ…。」
ドリスの言葉に、シュカは呟くように答えるのがやっとであった。
- 好き…。だけど…行けないもの…。私は… -
シュカの心は、まるで嵐の如く吹き荒れていた。
ハンス王の心を受け入れたい自分、それに反するように神への忠誠を誓う自分とが拮抗していたのであった。
何も喋らないシュカを気にしてか、シスター・アルテが口を開いた。
「シュカ、何か演奏してみては?」
その語りかけにハッとして、シュカは顔を上げてシスターを見た。
「そ…そうですね…。」
傍らではドリスが心配そうにしている。どうやら自分の言ったことが、シュカを傷付けたのではと心配しているようであった。
そんなドリスに優しく微笑み掛けて、シュカは鍵盤に手を触れた。
クラヴコードよりも強く、澄んだよく響く音。
そうしてシュカは考えることを止め、鍵盤の上に指を滑らせたのであった。
その後、シュカはハンス王に礼の書簡をしたため、その書簡に小さな絵を一緒に入れて送ったのであった。
その書簡に入れられた絵とは、シスター・ミュライに描いてもらったシュカ自身の肖像画である。
この肖像画は、今はコロニアス大聖堂にて見ることが出来る。一度は大戦の際に消失したと思われていたのだが、新皇暦三十一年に旧ミッシェの村の遺跡から出てきたのである。
それはツゲで作られた頑丈な小箱にシルクの布に包んで納められており、いかに大切に扱われていたかが偲ばれるものであったという。
この先、この二人はどうなったか。また、この時代がどう流れたか…。
さぁ、あと少し語るとしようか…。
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