相模英二幻想事件簿
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File.2 「見えない古文書」
Ⅰ 同日 PM7:45
「珈琲をお持ちしました。」
男性がそう言って、私の前にカップを置いた。
この男性は執事の岸野さんだ。この如月家に四十年以上も仕えているとか。
私は今、食事を終えて如月夫人や夫人の娘である七海さんと他愛もない話をしていた。主に、この館に仕えている人達のことで、コックから庭師まで…紹介とまではいかないが、私に情報を与えるために夫人が話を振ったのだ。それでどれだけの人が要るかは分かったが、肝心の依頼内容は未だ聞いていない。
と言うのもあの部屋…大丈夫と言ったにも関わらず、結局は如月夫人と柳瀬さんとで真っ二つに仕切りを作って整理し直していたからなんだが…。
「如月夫人…あのお話しなんですが…。」
話が途切れた時、私はそれとなく依頼の件を切り出した。このままでは仕事に取り掛かれないからなぁ…。
「七海、岸野さん。少し席を外して下さいな。」
「お母様、私もですか?」
「そうよ。相模様はお仕事でも来られてるのよ?七海、あなたは米沢さんに言って、明日の献立とお茶に添えるお菓子を決めて来てちょうだい。」
「分かりましたわ…。」
そう言うと、七海さんは岸野さんと共に退室した。どうやら聞かせてはならないらしい。私は二人が出ていったことを確認し、徐に夫人へと問い掛けた。
「それで…私は一体何を調査すれば宜しいんですか?」
「どうお話しすべきか…。実はここ数ヶ月、七海の周囲で奇妙なことが立て続けに起こっておりまして、誰かに悪戯でもされているのではと…。それを結城弁護士にご相談しましたら、貴方様を推薦されたのです。内容を提示しなかったことは御詫び申しますが…何分娘のことですので…。」
「それはいいですが…警察には届けたんですか?」
「いえ…これといって害がある訳ではないので、一応は話をしたという程度です。」
私は溜め息を吐きつつ腕を組み、依頼内容について考えた。何かはあるが、これといった人的被害はない。まぁ…こんな小さな町の警察がそんなに力を入れているとも考えにくいから、夫人はそれを危惧しているのだろう。何か大きな事件が起こる前に、それを未然に防ぎたいと考えて結城に相談したと言うことなんだろう…我が子に危険が及ぶかも知れないと感じれば、どんな親でも守りたいと思うものだからな。
「私に七海さんの周辺を調査してほしい…そう言うことですか?」
「はい。犯人さえ見付かれば、娘も私も安心して暮らせます。使用人達には、相模様のことを再従兄弟と言ってあります。」
「あ…それでは先程は失言でしたね…。」
「いえ…もう気付かれているようですわ。一応、二週間の滞在になると伝えてあります。私は探偵というものの相場を知りませんので…失礼ながら、前金としてこれだけご用意させて頂きました。どうか宜しくお願い致します。」
そう言うと、夫人は私の前に大きめの茶封筒を差し出した。それも…分厚い…。
「如月夫人。私は前金を頂かない主義なんですよ。諸経費がかさむと分かっている時は別として、今回は部屋も食事も提供して下さってますので…。」
「そうは仰られても、時に何があるか分かりませんでしょ?どうか…お受け取り下さい。」
夫人はそう言って、頑として意思を曲げるつもりは無いようだった。
私はそんな夫人に、何か違和感を感じた。確かに、彼女は資産家で、この程度の金額はどうとでもなるだろう。だが…そう言うことではない気がするのだ。何と言うか、どことなく必死さがあるのだ。それを表に出さない様にしてはいるが…この前払金も、何らかの保証が欲しいと思ってのことなんだろう。
私は目の前の封筒を見詰めながら、腕を組んだまま暫し考え込んだ。そして…その封筒を手に取り、返答を待っている夫人へと言った。
「では、これはお預りすると言うことにしましょう。自分で納得のいく結果が出せなかった場合、これはお返しすることになりますが…それで宜しいですね?」
「仕方ありませんわね…。ですが、私は相模様を信用しております。結城弁護士も貴方ならばと推薦して下さったので、きっと良い結果が出ると思いますわ。」
「あまり過度な期待は禁物ですよ。調査は始まったばかりですので。」
私がそう言うと、夫人は目をパチクリさせて言ってきた。
「あら…もう始められていたのですか?」
「ええ…。町の様子、この館の部屋数と間取り、そして周辺の様子もチェックしていました。こうして一つ一つデータを収集することが肝心なんですよ。」
私は苦笑しつつそう言うと、夫人は「そうなんですの…。」と本気で驚いている風だった。探偵ってもんを、一体何だと思ってたのやら…。
話の済んだ後、夫人は使用人数人と話が出来る様にしてくれた。まぁ…正面切って聞くわけにもいかないため、結局は世間話程度なのだが…。
「相模様。珈琲のおかわりは如何ですか?」
「有り難う御座います。しかしこの珈琲、とても美味しいですね。」
私はカップを差し出しながらそう言うと、目の前の女性は笑いながら言った。
「これは洋一様が、留学先のオランダから送られたものなんですよ。」
「洋一さんて…如月夫人の息子さんでしたね。今はオランダなんですか。」
私はそう言うと、カップに注がれた香りの良い珈琲を口にした。
「ええ。洋一様は毎月、奥様へこの珈琲とチョコレートを送っておいでです。随分と沢山送ってくるもので、奥様は私達にも分けて下さるんですよ。」
目の前で楽しそうに話す女性は、使用人の米沢さんだ。家政婦として雇われているそうで、十年近く住み込みで働いているという。ま、この館の使用人は全員住み込みらしいが。
もともとこの土地の出身である米沢さんは、私に色々な情報を与えてくれた。その中でも、私はある唄について興味を引かれたのだった。
唄とは…この町に伝わる数え唄で、米沢さんはそれを歌ってくれたのだ。その唄を聴いた時、私は不意に思い出した。町に入った時に、これと同じ唄を耳にしたことを。
「それ…この町の方だったら、誰もが知っている唄ですか?」
「若い人は知らないかも知れませんねぇ。内容が内容ですから、あまり歌われなくなったので。私も一番しか覚えてませんしねぇ。あ…そう言えば数年前、この唄が何かを示す地図なんじゃないかと、何人かの学者先生が調査に来ていました。」
「地図…?」
米沢さんの話に、私は思わず首を傾げて聞き返した。まぁ、童歌に財宝なんかの隠し場所を潜ませている…というありきたりな話なんだろう。こんな小さな町にこんな奇妙な唄が伝わってるのだから、何かがあると考えるのは不思議じゃない。だが…財宝は考え過ぎだな。
「私がここへ来る途中で、どこかの家から聞こえてきたんですよ。この唄が…。」
「え?ここ近年、子供は刑部家に生まれたくらいで、その刑部の皆様は今、神奈川の本宅へ行っている筈です…。歌う方がいるとは考え難いのですが…。」
訝しそうに首を傾げる米沢さんを見て、私は何だか背筋に寒気を覚えた。
では…あれは誰が誰の為に歌っていたというのだろう?いや…それ以前に、もう歌われなくなって久しいこの唄を、わざわざ歌う必要はどこにあるのだ…?
「あ…でも、どこかのお爺さんやお婆さんが、懐かしがって歌ったのかも知れないですねぇ。」
米沢さんは笑いながらそう言ったが…それならそれでいい…。だが、私が町に入って早々に耳にした唄だ。もしかしたら、それに何か意味があるのかも知れない。
「米沢さん。この唄、この後の歌詞は?」
「先程言いました通り、私は一番しか覚えてないんですよ。奥様でしたら覚えてらっしゃるかもしれませんが…。どうかされましたか?」
「あ…いや、別にいいんです。ちょっとした好奇心ってやつですよ。」
私がそう言って苦笑すると、米沢さんは再び首を傾げたのだった。
その時、不意に壁掛け時計が鳴り響き、もう二十二時を回ったことを知った。
「もうこんな時間か…。米沢さん、お話しを聞かせて下さって有り難う御座いました。仕事の方は大丈夫ですか?」
「はい。後はお台所を少し片付ければ終わりますので。相模様はお部屋へ戻ってお休み下さい。」
米沢さんはそう言うや、空になったカップを持って部屋を出た。私も暫くして立ち上がり、用意された部屋へと向かったのだった。
私は部屋へ着くと、風呂にでも入ろうと着替えを用意していた。客室に備え付けの風呂があるなんて、ほんと…金持ちは違うよな…。
そんなことをぼんやりと考えていた時、どこからか悲鳴らしき声が聞こえてきた。私は直ぐ様部屋を飛び出し、悲鳴が上がった方へと急いだ。こことは反対の西側から聞こえてきたため、悲鳴は如月夫人か七海さんであることは想像出来た。
「何があったんです!?」
行ってみると、七海さんの部屋の前に使用人達が数人集まっていた。皆一様に心配そうな表情を浮かべ、静かに中を覗いていた。
「相模様…。」
私に気付いた岸野さんが集まる人達を割って、私に中の様子が確認出来る様に通してくれたため、私は直ぐに部屋の中へと入った。
「どうしたんですか?」
私が入ると、そこには七海さんと如月夫人がベッドに座っていた。七海さんは真っ青な顔をして震えており、それを夫人が抱いて落ち着かせていたのだ。
「相模様…。七海が…窓に人影を見たと申しまして…。」
「人影…?」
私は失礼とは思ったが、そのまま奥まで入り窓を確認した。
先ずは鍵を確認し、それから窓を開いて上下左右を見回したが、これといって何も見付からなかった。
それもそうだろう。ここは…二階なんだからな。足を掛けられるような場所もなければ、よじ登れるような丈夫な蔦もない。この窓から誰かが覗くなんて少々考え難いのだ。
梯子を掛ければ覗けなくはないが…どうしたって何らかの形跡が残る筈だし、真下は花壇になっている。この短時間でそんな大きな梯子を持って移動出来るものか?それも全く音を立てずに…。
「七海さん…。一体、何を見たんですか?」
私の考えとは裏腹に、七海さんは未だ真っ青な顔で震えているため、私は夫人とは反対の方へと回って静かに問い直した。すると、七海さんは震える唇で答えたのだった。
「あまり…よくは分かりませんでしたが…。あれは…老婆でした…。まるで…窓に張り付いている様な…。」
「老婆…ですか…。」
この七海さんの答えに、私だけでなく、夫人も集まった使用人達も首を傾げるしかなかった。
私は再び窓を開き、細かい部分までを見てみたが、仕掛けがあったとは考えられない。
尤も、上は屋根で下は使用人の部屋なのだから、そんな場所に仕掛けなど出来はしないだろう。
「七海さん。このカーテンは、いつも閉めてお休みに?」
ふと思って七海さんへと尋ねると、彼女は「いつも閉めます…。」と答えてくれた。
「如月夫人…。このカーテン、夫人が来た時には開いてましたか?」
「はい…。」
そうなると、このカーテンは…ひとりでに開いたことになる。七海さんの勘違いと言うこともあるだろうが、習慣というものは意外と正確だ。
あまり考えたくはないが、この事件…探偵の領分じゃないかも知れない…。
「七海さん。恐らく、今日はもう安心して大丈夫でしょう。ですが、この部屋では眠れないのでしたら、誰かに別の寝室を用意してもらった方が…」
「いえ…大丈夫です。音楽でも聴いていれば気も紛れますので…。」
まだ顔色は良くないものの、七海さんは立ち上がって戸棚へと歩いた。良く見れば、戸棚の中にはCDぎっしりと並び、横のテーブルにはオーボエが置いてあった。備え付けの棚には楽譜や音楽関係の本が詰め込まれている。
「音楽を遣られてるんですか?」
私がそう尋ねると、七海さんは幾分顔を綻ばせて「オーボエを少し。」と答え、戸棚から取り出したCDをプレイヤーへと入れた。
「相模様は、藤崎京之介と言う音楽家をご存知ですか?」
急に問われ、私は面食らってしまった。奴め…こんなとこにまで名が知られてるなんて…。何だか羨ま…いや、悔しいじゃないか!
「知ってるも何も…友人ですよ。」
私が苦笑混じりに答えると、七海さんだけでなく、如月夫人も使用人達も目を丸くしてしまった。
「まぁ…!そうだったのですか!?では、演奏もお聴きになったことが?」
「ええ。主に大学でのオルガン演奏ですが。時には演奏会のチケットを送ってくるんですが、仕事柄なかなか行けなくて…。」
「羨ましい限りですわねぇ…。」
七海さんは溜め息を洩らした。それも七海さんだけでなく、周囲もまた同じ反応をしたのだった。
京のやつ…どんだけ有名になってんだ…?
私は何となく…そう、何となく…藤崎に嫉妬してしまったのだった。
ま、七海さんも落ち着きを取り戻したみたいだし、これはこれでいいか。
そうしている内に、米沢さんが七海さんへと飲み物を持ってきてくれた。
「お嬢様、ココアを作って参りましたよ。」
「有り難う、春さん。」
米沢さんの名前は春代だ。七海さんは春さんと呼んでいるようだな…。
「七海。もう大丈夫なようね?」
七海さんがココアに口をつけた時、如月夫人は微笑みながら言った。その言葉に、七海さんは「はい。皆様のお陰で。」と言って答えたため、夫人はその場を解散させたのだった。
「それでは、僕も部屋と戻ります。何かありましたら、いつでも呼んで下さい。」
私がそう言うと、七海さんは「有り難うございました。」と言って会釈し、母親である夫人には「母さん、もう平気だから。」と言って苦笑を浮かべていた。そんな親子に挨拶し、私はその場から退いた。
だが…七海さんが見たものとは、一体なんだったのだろう?夢現で見た幻影?しかし、あれくらいの歳になって、夢であれだけの恐怖を見せるだろうか?これが夫人の言っていた<奇妙なこと>なんだろうか?
だが、本当の恐怖を知るのは、まだ少し先の話しだ…。
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