鋼殻のレギオス IFの物語
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第二章 【Nameless Immortal】
参 振り下ろされた兆し
前書き
父に該当する大人は不器用な人だった、と思う。家に常にいたわけでは無い。お金の扱いが得意では無く、よくその事で問題が起きていた。
言い争いの声を聞くのは嫌いだった。自分にかかる費用を切り捨てて欲しいと願った事もある。
それでも、怪我した自分の肌に薬を塗り、包帯を巻いてくれることもあって、決して嫌いでは無かった。
武芸者であるという事で、期待を向けられたことも多かった。
寧ろ今思えば、自分は誰かを嫌いになったことなど無かったように思う。
どんな理由であれ、どんな思いであれ。その理由が他者には分からずとも、誰も一生懸命に生きている。
少なくとも物質的に満ち足りた生活、という環境からきっと遠かっただろう自分は、多くの例を見て知識があった。
それに加え、血か本能か、性根の問題もあったのだろう。
何をされても、どんな状況にあっても、不思議なほどに、誰かを憎もうと思えなかった。
家族以外から憐れみを受けた事もある。
普通というものがどういうものか分からなかった。同年代の友人という存在は遠くのものだった。
けれど少なくともこの場所から逃げたいと思ったことなど一度も無かった。
武芸者としての鍛錬を積む中で、ずっと心が辛かった。
前に進めている気がしなくて、期待に応えられる気がしなくて悲しかった。
悲しげな瞳が自分を見つめるのにただただ不甲斐なさを感じた。
皮膚が裂け、血が流れ、骨に罅を入れ、涙を枯らせ。それでも願いは酷く遠い。
遅々として進まぬ、その場で足踏みを続けている様な焦燥感が身を焦がした。
だからだろう。初めて嫌いになった相手は『自分』だった。
長く成長の見られぬまま歳月が経った、自分の歳が十になる前のある日の事。
今にも泣きそうな母に告げられた。
自分の剄脈に病があることを。それが武芸者としての成長を阻害していると。
その日から、治療が始まった。
旅行の準備といえば一般的には何を示すだろう。
行程表を組む事か、事前調査をする事か、道具を用意する事か。
時間確保のための休暇を取るという事もあるだろう。
何にせよ突発的なそれでない限り、旅行には大なり小なり労力が伴う。
それが決行間近で「あ、やっぱ無しで」とされた時、思う事は人それぞれだろう。
「旅行は中止、ですか?」
「そうなるかな。何とも悪いね」
理由を問う困惑した声と悪気の無い声が部屋に響く。
レイフォンはその様子を某として眺めていた。
時は太陽が天頂を過ぎて暫くしての事。
昼食を終えた昼下がり、クラリーベルとレイフォンはカリアンに呼ばれ生徒会長室に居た。
バイトを控えているレイフォンは制服、暇を潰していたクラリーベルは私服である。
応接用のソファの片方にクラリーベルとレイフォンが並んで座り、目前のテーブルには在庫処理代わりのエナジードリンクが二本置かれている。
握っていたペンをカリアンは置き、ファンシーな弁当箱など雑多な執務机から腰を上げる。封筒を持ちもう対面側のソファに座る。
「ツェルニの進行方向が変化したと報告があってね。出かけて貰う必要が消えたんだ」
封筒をクラリーベルに渡したカリアンは疲れた様子で言う。
胸元を軽く叩くカリアンを横目にしたクラリーベルが中の書類に目を通す。
レイフォンも横から書類を覗き込む。
記載内容は進路変化の時刻、変化角、汚染獣との距離、etc.
結論として汚染獣と遭遇する可能性が極めて低い事が記載されている。
「もう少し早く教えてくれてもよかったのでは?」
「再度進路が変わる可能性もあった。ある程度の見込みが出るまでは伝えられないよ。生憎と私には電子精霊と通ずる力はないのでね」
「それはそうですが……ん?」
「どうかしたかい? ああ、中にある進路予想図だと一目で分かるよレイフォン君」
封筒の中から進路予想図をレイフォンは取り出す。
大雑把な地図――地図と言えるほど詳細ではないが雑な形は分かる――に以前の予想進路と現時点での予想進路が書かれている。
進路は途中で大きく変化し、汚染獣の地点から離れていくのが分かる。
「確かにこれなら問題無さそうですね」
カリアンとレイフォンの間をクラリーベルの視線が動く。
「その対応……いやまあ、レイフォンが良いならいいのですが。取りあえず、私たちが出る必要はもう無いという事でいいんですね?」
「サットン君たちにはフェリから伝える。緊急事態があれば別途伝えるが、今回はこれで終わりだ。ご苦労だったね。謝礼も前金分は払うよ。残りの休暇を楽しんでほしい」
溜息を吐きつつカリアンは眼鏡を外し目元を揉む。
疲れを滲ませているがどこか安堵の色がある。カリアンとしても懸念事項が一つ減っていた。
「かなり疲れてますけど大丈夫ですか?」
「そうですね。事後対応は一段落するころでは?」
「それ以外にも多いよ。この間の情報強盗に関した対応や派生の問題もある。そのせいか何でも私の元に上がってくる現状さ。暴走族、連続窃盗犯、機関部への侵入。本来は都市警の管轄なんだがね」
「……ああ、なるほど。ご苦労様です」
ドリンク剤や胃薬の薬瓶の横、書類が積まれている机をクラリーベルが見る。
「失礼な物言いだがそろそろ退席して貰えるかな? 詮索されれば困る関係だ」
レイフォン側からしても反対する理由はない。
書類一式を返還しドリンクの残りを二人は喉に流し込む。
視線だけの見送りを背にレイフォン達は会長室を出て廊下を歩いていく。
「会長大変そうだったね。具合悪そうだったし」
「顔色も悪かったですね。それはそうと、予定空きましたね。色々とありがたい事ですが」
「危険は無い方が良いしね。明日からバイト探さなきゃ」
汚染獣に備え予定を暫くの間空白にしたがこうなれば暇が生まれるだけだ。
後で適当なバイトを探して入れようとレイフォンは思う。
「僕はこの後バイトだけどそっちは?」
「特に用もないので一旦帰ります」
二人が階段手前に差し掛かった時、近くの部屋の扉が開く。
出てきたのは生徒会役員である女子生徒が三人だ。中にはレヴィの姿もある。
「あれま、何で二人がいるの。会長に用でもあった? 都市警や生徒会への陳情なら一階で……」
「まあそんな所です。レヴィさん達はどこか行くんですか?」
「皆で遅い昼食だよ。雑務多くてさ……来週入れば一区切りなんだけどね。あ、そうだ。お姉さんがいいものあげるよ」
レヴィが部屋の中へ戻っていく。
よく分からないまま待つレイフォン達に女子役員が近寄る。
どこかお嬢様然とした雰囲気を持つ先輩が小声で二人に告げる。
「あの、今のうちに帰った方が良いですよ? 後輩がぎせ……」
女子役員が言い終わるより早く小袋を持ったレヴィが戻ってくる。
何もなかったようにそそくさと女子役員は元の位置に戻る。
「私の愛をアルセイヌ君にもあげよう。会長は美味しいって言ってたよ」
レヴィがレイフォンの腕を掴み前に引き出す。
拳を開かれて小袋を乗せられ、そのままレヴィに無理やり握らせれる。
その際、指や掌内側にある絆創膏にレイフォンは気づく。
だがそれよりもレヴィの言葉の後半、先ほどの先輩が涙を拭うように目元を抑えたのがレイフォンには気になった。
「頑張って作ったから良かったらロンスマイアさんもどうぞ。美味しいよ! じゃあねー」
軽く手を振り役員三人は階段を下りていく。
三人を見送りながらレイフォンは袋を開く。
中に入っていたのは焼き菓子だ。
否、正確には焦がし菓子だ。何か全体的に黒かった。
「ええ……?」
覗き込んだクラリーベルが困惑して呟く。
「クッキーか何かですね。あ、私はお腹減っていないのでレイフォンがどうぞ」
「嘘だよね。二人でって言ってたよ」
「愛情を握らされたのはレイフォンです。どうぞどうぞ。無下にするつもりで?」
「いやまあ、食べるけどさ」
黒いが炭化とまではいっていない。食べようと思えば食べられる。
昔の経験からして食べ物を無下に捨てるなどレイフォンには出来ない。
取りあえずと黒いのを一枚レイフォンは口に入れる。
ガリっとした硬質的な音が響く。
「硬い、苦い、痛い……あとしょっぱい」
「砂糖と塩間違えてませんかそれ。飲み込んで平気ですか?」
「多分。……でもまあ、頑張って作ったんだろうし。食べられる部分だけは一応ね」
止まっていた足を動かし二人も階段を下りていく。
レイフォンは特に黒い部分を落とし比較的食べられる部分を食べていく。
本来、塩よりは砂糖の方が格段に焦げやすい。
どれだけ焼いたのだろうかと思いつつレイフォンは処理していく。
「クラリーベルも食べます?」
「全部レイフォンがどうぞ。にしてもそれが美味しいって会長の舌は平気なんですかね?」
「普段何食べてるんだろうね。珍味好きなのかな」
段々気分が悪くなってきたレイフォンは袋の口を閉じてポケットに仕舞う。
生徒会棟の前でクラリーベルと別れレイフォンは駐車場に向かう。
駐輪していたシティローラーを吹かし乗り待ち合わせ場所へ走らせる。
半時間ほど走らせレイフォンは商業区の端に着く。
視線の先、店の壁に背を預けているのはニールだ。いつも通り水筒を腰に下げて雑誌を読んでいる。
本日のバイトは教務課で紹介されたもので彼との合同である。
レイフォンの到着に気付きニールは雑誌を閉じて歩いてくる。
「面白い記事でもあった?」
「新しい茶屋が開く。それと都市伝説調書とやらでは多種の幽霊目撃があるそうだ」
「おもしろ……面白いの? 誰がそんなの読むのさ」
「それと情報強盗に逃げられた事が書いてある。都市警が頼りないとの事だ」
「ああ、それはさっき聞いたなあ」
「後はどこぞの高級飯屋の閉店やら汚染獣の死体を使った実験が云々だと」
情報誌のつもりかは不明だが、随分と雑多な内容だとレイフォンは思う。
そういえばと思いレイフォンはポケットから小袋を取り出す。
「ロクなこと書いてないね。あと、よければこれあげるよ」
「なんだこれは」
「塩分補給の補助食品、かな。御茶請けにでもどうぞ。貰いものの余りだけど」
「忝い。甘味も合うが塩気も合う」
雑誌を仕舞いニールがレイフォンの後ろに乗る。
少し早いが無駄話をしているよりは目的地に行った方が良い。
違反全開の二人乗りのままレイフォンは鈍いアクセルを吹かしていった。
自室がある倉庫区ビルにクラリーベルは一人戻っていた。
レイフォンとは違いクラリーベルにこの後の予定は入っていない。
サークル部屋にでも行きボードゲームにでも興じようと考えていた。
後日の予定も真っ白になったのだ。キャンペーンシナオリに頭から参加してもいい。
だが、と。クラリーベルはアイシャ・ミューネスの部屋の前に立つ。
彼女にはその前にしなければならない事があった。
部屋内の気配を確認しクラリーベルは呼び鈴を押す。
何を聞くべきか思案している内に扉が開く。
シンプルな部屋着を纏った少し眠そうなアイシャが顔を覗かせる。
「少し話があるのですが、今大丈夫ですか?」
「……いいよ。入って」
招かれるままクラリーベルは中に入る。
ベッドに腰掛けながらクラリーベルは部屋を見る。
個人の特色が薄い部屋だ。目に付く物と言えば本が詰まった本棚と脇にある軽いトレーニング用具くらいだろう。
本棚には伝奇や幻想小説の他、推理物や医学書、料理本などが雑多に入っている。
無造作に置かれたぬいぐるみは友人からの贈呈品であり、部屋には合っていない。
部屋が狭くなるからとクラリーベルが預けた雑貨も異色を放っている。
だがそれでも広い部屋に対し物は少なく、部屋の中は片付いていた。
目立たぬよう隅に置かれた複数のゴミ袋が何処となく生活感を出していた。
少ししてカップを二つ持ったアイシャが部屋に戻ってくる。
「この間、ミィ達が来てお茶菓子は切れてる。カップ麺でも食べる?」
「何故その選択になるんですか。お茶だけで結構ですので。どうも」
テーブルの上に紅茶の入ったカップが二つ置かれる。
アイシャは片方を持ってデスクの椅子に座り、カップに口を付ける。
「それで、話って何?」
「ちょっと聞きたいことがありまして」
湯気の立つ紅茶をクラリーベルは軽く口に含む。
何を言うべきか、何を確かめるべきか。
香り立つ滴を嚥下すると共に、潤した喉でクラリーベルは言う。
「率直に聞きますが昨日の夜、何をしていましたか?」
「……それは質問? それとも確認?」
「現状は両方ですね。まあ、暇を潰す他愛も無いお話ですよ」
クラリーベル自身それを知ってはいない。
それが一体何なのか。何が可能なのかを。
「知ってます? 昨日の夜、都市の進路が変わったんですよ。それで汚染獣との遭遇も無くなったそうです」
「良かったね。強いのと戦わなくていいんでしょ?」
「本当にありがたい話です。それと知っていますか? 機関部に侵入者が出たそうですよ」
「へえ、そうなんだ。物騒だね」
「全くですね。そう言えばですが、ゴミ出し忘れたんですか? 袋が残ってますけど」
クラリーベルの視線が部屋の隅のゴミ袋に向けられる。
袋は一つを除き袋は口が閉められておらず、中はスカスカだ。
半透明のビニールは少し透け、クラリーベルには中身が薄らと見える。
粉々に砕かれた色付きプラスチック、千切られた金属片、細切れに裁断された各種の布地、etc.
それらが分けられ複数の袋に収められている。
「眠そうですが一晩中切ってました? 小出しにするのは良いと思いますよ」
「率直じゃないね。面倒だから認めるよ。眠いし、手が痛い」
「どうも。まあ本当に確認だけなので。現状では余り責めるつもりはありません。事前に言って貰えると有り難いとは思いますが」
規則を元に単に良い悪い、ならクラリーベルもその輪に入る。
完全な許容は出来ないが、だからとただ責めるのもまた別の話だ。
何をしたのか大枠だけクラリーベルは聞いていく。
聞く事を聞き、最低限成すべきことをクラリーベルは終える。
確認さえ済めばしなければならないことは無い。後は己の疑念だけ。
気楽に紅茶を啜りながらクラリーベルは少し砕けて言葉を続ける。
「可能なら全体的に穏便に済まして下さい。前のニーナさんの時もそうですよ」
「やり過ぎだと言われたね。会えば謝っておくよ」
「そういう事ではありません。あれじゃ敵を作ります」
先日の過激な言葉はニーナの意識を引くためだろうとクラリーベルは認識している。
ニーナの言葉でレイフォンは精神的に揺れていた。
話題を変え意識の中心をずらしそれを防ごうとしたのだ。
しかしそれなら穏便に話し合いの中ですれば済む話である。
だが、
「出来ないよ、私には」
クラリーベルの言葉を少し悲しげにアイシャは否定した。
「多分、クラリーベルは出来ると思う。けど、私には、話を誘導する技量は無い」
「そうじゃなくて他の手段をって事です。それに割り切る前にまず試してみませんと」
「時間が無い時に、試すなんて私は出来ない。私は私を、信用してない」
「信用ですか。その点、少しばかり興味がありますね」
続きを促すようにクラリーベルは視線を向ける。
どんな行動であれ人は理屈に沿って生きている。
不条理であれ、他者には理解できずとも、当人にとっては理屈だ。
他者の思考の在り方や方向性を知れば行動を予測できるかもしれない。
それは――と、クラリーベルは半ば義務的な思考で考える。
アイシャ自身にとってその質問の意味は大したものでないのだろう。
或いはクラリーベル・ロンスマイアの意図を察したのかもしれない。
聞かれたから答えた、とばかりに言葉を続けていく。
「考え方の違いだよ。多分、そこでやってみようって思える人は、能力がある人だと思う。私は、しなきゃいけないことがあるなら、何とかなるかも何て思えない。そんな能力は私には無い。可能性より、確実性を優先する」
「それが悪手でもですか?」
「やらないといけない事、なのに「駄目かもしれない手段」の時点で違う。手段の是非を問うなら、前提が変だと思う」
物事に対して取れる手段が一つだけ、何て事体はそうそうない。
多種多様な手段があり、選択の基準の一つに法・規則・道徳性がある。
それらを鑑みて残る「正当な手段」は時に「不当な手段」に可能性で劣る事がある。
だが仮に「絶対に成さねばならぬ事物」があったとする。
その事物に対し「可能性が低い手段」を敢えて選択する――その裏には「失敗しても仕方が無い」という意識があるのではないか?
仮にだが、失敗を暗に許容しているのなら「絶対に成す」という前提自体が矛盾する。
そうアイシャはクラリーベルに告げたいのだろう。
だが、とクラリーベルは思う。
そして薄々とだがクラリーベルの中である懸念が明確な形になって行く。
「……理屈は分かります。けどそもそも、そう思うほどの事でしたか?」
「意図を理解してたんだよね。でもクラリーベルは動かなかった。多分、あれに耐えるのが必要だと判断した、と私は思ってる。でも私は思って、だからやった。それだけ」
あの時、それを必要だとしてクラリーベルが見過ごしたのは事実だ。
多分大丈夫だろう。慣れさせなければ。そう判断した。
「話の流れを変えるって、大変だよ。無理に変えれば、相手に意図を探られる。だから、その思考も吹き飛ばさないと」
「だからあれ、ですか」
「話を聞いていて分かった。あの人は正義感があって、人や使命を大事にしてる。だから、そこを否定するのが一番確実で、早いと思った」
アイシャの行動理念は一つの解なのだろう。
人の想いや心情を考慮せず、効率だけで行動すれば結果は早い。
だが、それは短期的な視点でもある。
「確かに実際そうでした。けど、そのやり方は長い目で見れば孤立します」
「別にいいよ、それで」
「はい?」
「二人に害が及ぶなら、その時は切り捨てて欲しい。私よりクラリーベルの方が頭が良い。正しい判断が出来ると思うから、従うよ」
薄ら寒い物をクラリーベルは感じた。
冗談で言っているのではないとクラリーベルには分かったからだ。
だからこそ、最後の確認のつもりで問う。
「……不足の補いで自分を切り落す。そこまでの必要あります?」
「私は自分の身を使うしかない。それで役割が果たせるならいいよ」
役割。告げられた迷いの無さにクラリーベルは確信する。
アイシャは自らの行いを「したい」ではなく「しなければならない」と認識している。
自分には果たさねばならない役割がある。そう思っているのだ。
似た考えを抱いていた人間が従兄に居たからこそ、クラリーベルには分かる。
初めは拗れた恋煩いかと思っていた。しかし、似ているがこれは違う。
正しく言うならば、思慕の感情もそれなりに含まれているだろう。
だが、行動の根幹を占めているこれは――――
(――強迫観念、ですか)
何某かに端を発する歪んだ使命感。
ああ面倒だ。今後を想いそうクラリーベルは思ってしまう。
「そもそもあなたは何がやりたいんですか?」
「……最初はさ」
視線を逸らしたアイシャが初めて歯切れ悪い言葉を告げた。
少しして、湯気を立てている手元のカップを眺めながら、独り言の様にアイシャは言う。
「最初は、初めの村娘になりかったの。けど、その役割は、とっくに埋まってた。私なんかじゃ、到底役者不足だった。だから探して、翁の役に……」
「すみません、初めの村娘の時点でよく意味が」
「私も上手く説明できない。……ねえ、私からも一つ聞いて良い?」
「どうぞ。聞いてばかっりでしたし、答えられる範囲でしたら」
露骨な終了勧告だなとクラリーベルは思う。本当に話題転換がヘタだ。
何はともあれクラリーベルからの質問は終わりという事だろう。
結局、余り深くは分かっていない。
クラリーベルの意識はそれを認識した上で、無意識的に話は終わりだという認識を下す。
「クラリーベルは、レイフォンの監督役でいるんだよね。グレンダン女王の命令があるから」
「そうですよ。今更隠す事でもありませんしね」
「だよね。じゃあさ――」
既にクラリーベルは完全に雑談の思考であった。
この質問が終われば部室に行くべく、クラリーベルはカップの残りを喉に流し込んでいく。
クラリーベルとしては完全に自分の用事は終えたのだ。気にすることは無く、張っていた意識を緩めて答えていた。
「全部で幾つ、命令を受けたの?」
だからその質問に一瞬、思考が止まった。
「……どういう意味でしょうか」
「予想が正しいなら二つ、ううん、三つあると思うの」
動揺する意識を落ちつけクラリーベルは緩んだ思考を張りつめさせる。
聞く以上、ある程度の確信があるはずだ。
誤魔化しても無理だろうとクラリーベルは判断し聞き方を変える。
「私、いつから変でしたか?」
「確信したのは今日。最初に違和感があったのは、ツェルニに来た頃」
「……最初から、ですか」
「意識してみれば、明らかに変だったから」
淡々とアイシャは告げる。
「私もクラリーベルと同じで、確認したかっただけ。クラリーベルが必要だと判断するなら、それでいい」
「そう言われても困りますがね」
「ごめんなさい。……話は少しだったよね。用があるから、もう終わりでいい?」
「そうですね。そろそろお暇させて貰います」
クラリーベルは立ち上がり玄関へと向かう。
玄関を開け、廊下に出る。
それに続き、ゴミ袋を詰めたカモフラージュバッグを手にしたアイシャも出てくる
「ああ、それ捨てに行くんですね」
「早い方が良いかなって。大きいゴミ捨て場近いし、埋めてくる」
「……気付かれないで下さいよ」
「うん。じゃあね。ばいばい」
ビルの前で別れ、去っていく背中にクラリーベルは軽く手を振る。
さて、とクラリーベルは意識を切り替える。
こんがらがった頭を解し緩める事を精神は欲していた。
今日はクソルーニープレイでもしよう。
そう思いつつクラリーベルはバス停へ向かった。
昨日もバイト、今日もバイト、明日もバイト。
都市を生かす経済活動。一時的な労働力の貸借契約。
皆大好きなお金を得る労働。皆大嫌いな労働でお金を得る行為。
目指せS級バックラー。掴むは外界と断ち切る冷たい鉄の輪。
「バイト楽しいって思った事ある」
「いつも思っているな。前向きだからな」
「へえ。じゃあ嫌だって思った事は?」
「思わなかったことが無いな。前向きだからな」
「へえ」
「どうでもよさそうだな」
「僕も前向きだからね」
飛んできたペットボトルにレイフォンは払い除けるように拳を叩き込む。
二割ほど残っていた中身を撒き散らしながらペットボトルが横へ吹っ飛んでいく。
近くで余所見をしていたニールがスポドリ大回転スプラッシュの餌食を受ける。
「うわ、べたつきそう」
「アメでも降ったか。今日は空模様が珍しいな」
「……どちらに怒りを降らしてやろうか」
レイフォンとルシルは互いを指さす。
上着を脱いだニールはタオルを手にして無言で拭いていく。
本日、三人は移動を伴うバイトを行っていた。
簡単に言うならば不法投棄場の確認調査だ。
ゴミが溜まると色々と問題もある。そのため該当場所が無いか調査――足で探したり一般学生からの報告を元に――するのがこの仕事だ。
特に「割れ窓理論」の懸念もある問題だ。
本来ならば都市警の管轄だが最近は人手不足もあり、特に投棄されているらしい。
ニールが持ってきたバイトであり、足持ちの他二人はホイホイそれに乗った。
上記理由で三人は都市を回り始め、今は畜産科保有の丘陵地帯で休憩中だ。
言い換えるなら座ってサボっている途中だ。
「そうそう。ルシル、明日以降で何か良いバイトあれば紹介してよ」
「電子工作部推薦のデバック作業があるぞ。壁に当た……まあゲームするだけだな」
「へー。何か簡単そうだね。……一応聞くけど裏は無い?」
「無い無い。椅子に座って手を動かすだけで簡単だ。代わってやろう」
よく分からないが嘘臭いなとレイフォンは思う。
「というか用があるって言ってなかったか? 予定空けていたろ」
「急に予定が無くなってさ。だから探してる。ニールは何かない?」
シャツ姿で茶を飲んでいたニールが視線を向けてくる。
「街路の掃除なら募集していたはずだ。落描きが多いらしくてな。他は知らないが聞けばあるだろう。そも、二人ともそんなに入用なのか?」
「ちょっと欲しい物があってさ」
「俺は色々買い過ぎて金がない」
「そうか。そういえばルシルはさっさと滞納している分を払え」
「……そのうちな」
「まあいい。仕事なら掲示板見に行って探すのもいいだろう。……そろそろ行こう」
三人は立ち上がり止めておいたシティローラーの方へ向かう。
微妙に甘ったるいベタつきのあるニールを押し付け合う熱いジャンケン勝負の後、二輪が発進していく。
レイフォンが前だと危険という事で先導はルシルである。
人気の少ない長閑な丘陵地帯を二台のシティローラーが走っていく。
放置されているのか、牧地とされている箇所以外は木々が多い。
左右には樹木が並び、時折その向こうに牧地が映る。自生した植物と土の地面が見える。
路は緩やかなアップダウンを形成し、標高の高い場所に差し掛かった際、木々の向こうに建造物が視界に映る。
やや舗装の甘い道は振動を直に伝え、ハンドルを握る手に力が入る。
二輪の出すエンジン音だけが空間に響く。
周りの目が無い空間につい意識せず、速度が上がり気味になる
車両用の防護柵など無い。某と周囲に意識を取られれば地面を転げていくだろう。
「……また詰まっているぞ」
背後からの声でレイフォンは気持ち速度を緩める。
やたらと縮まっていた先行車との距離が開いていく。
なお、押しつけジャンケンの敗者はレイフォンである。
「遅いのが悪いんだよ」
「馬鹿を言うな。あいつも速度を出し過ぎているほどだ」
忌々しげにニールが言う。
シティローラーには――車種(免許)ごとの――速度制限がある。
下位免許ではあるが言うまでもなく、現状二人はそれを突破していた。
緩やかなカーブに差し掛かるハンドルを切る。
タイヤを変えてから滑りが無くなったのでさほど速度を落とさずに済むのがレイフォンは嬉しかった。
ニールに体を掴まれているレイフォンは痛みを覚えながら曲がっていく。
「そう言えばあの茶菓子を食べたぞ」
「どうだった。先輩に感想伝えておくよ」
「今持っていたら無理やりお前に食わせていたほどの美味だったよ」
「人に薦めたいほど美味しかった、って言っとくよ」
Y字路で止まったルシル目がけレイフォンはスピードを上げる。
地図を見ているルシルのすぐ横まで接近する。
「どっち」
地図を仕舞いながらルシルが左を示す。
「さっき何話してたんだ?」
「自称可愛い先輩について」
「そうか。出会い欲しいな」
「ふうん。降ってくるといいね」
中指を立てたルシルがアクセルを回し左路に入る。
路は緩やかな下り坂だ。小さな峠路の様にうねり、右に左にと曲がる路を下りていく。
車両用の防護柵などは無い。崖――の様な斜面。或いは横の壁面――に気を付けつつ、豆腐運搬訓練をする如くレイフォンはカーブ練習していく。
「出会いねえ」
「ルシルはコネが好きだからな。楽して生きたいそうだ」
「女性の話かと思ったけどそっちか。まあらしいかな」
正直は美点と言われるがどうなのだろうとレイフォンは思う。
「そも、そちらの関連が望める環境は今ない。ふふ、少なくとも空は無い」
「出来れば忘れて。そもそも降って来るわけないし」
ふと、レイフォンの耳が鳴き声を捉えた。
小さな音だ。レイフォンが視線を向けた先、草木が揺れて猫が飛び出してくる。
遅れてルシルも気づいたのかヘルメットが僅かに動く。
猫は一瞬、二人を一瞥する。
だが足を止めずそのまま一目散に目の前を横切って行った。
(まるで――――)
――――何かから逃げているようだ。
そんな考えが脳裏をよぎる。
次の瞬間、その答えが三人の前に現れた。
ヘルメット越しでも届いた軽快な声が降り注ぐ。
「待ってー!!」
聞こえたのは前方斜め上。視界に映るは重力に揺られた空想の姿。
見ていた三人は一斉に思った。
そんな馬鹿な、と。
空から、少女が降ってきた。
降下中を示す如くその髪は風に揺られていた。
はためくジャケットが示すようにその姿は飛び下りの真っ最中であり、崖の上――少なく見積もっても4メルはある――から落ちて来ていた。
覗く顔は同年代に見えた。中性的だが、恐らく女性だろうと思えた。
落下中の少女の視線がレイフォン達を向く。「何で人がいるの?」とでも言いたげに驚愕に目を見開く。
レイフォン達も驚愕して凝視する。
一つ問題を出そう。
休暇中に出会いを語りつつ二輪を運転していると空から少女が降ってきた。
そんな時、当事者の少年は何を思うだろうか。
ただしその少女の落下点はどう考えても車線上であり彼我の距離は短い。
また、人間には飛行能力は無く、車両は急には止まれないとする。
1.少年と少女は出会い特別な物語を作る。
2.特に何事も無くそれぞれの日常を過ごす。
3.外界とを断ち切る冷たい鉄の輪が両手にかけられる。
(あ、これ轢く)
言うまでも無く3である。
「うおおおおおおお!?!?」
咄嗟にフルブレーキを掛ける。シティローラーが激しく揺れる。
だが法定速度越え且つ坂道では直ぐには止まらない。
まず一足先に少女が落下点に着地する。
そのまま駆け抜けてくれとレイフォンとルシルは願う。
だがアホ二人の願いを叶える神など存在しない。
少女は衝撃を殺すべく着地と同時に膝を曲げる。次いで腰から地面に転げようとする。
その動きは堂に入った素早いものであり、普段なら成功していた事が伺えた。
だが動揺していたのだろう。「あ、痛」みたいな顔をして少女は手をつき普通に転んだ。
知ってた、とばかりにレイフォンは内心涙を流しつつハンドルを切る。
そこからの流れは酷く簡潔で短い物だった。
まず、ニールが跳んだ。
ニールは素早く体を浮かせて捻り、車体を蹴った。
レイフォンなど知らんとばかりに芝生や雑草が生えた道横の斜面へと跳んでいった。
次にルシルが消えた。
少女を避けるべくルシルはハンドルを斜面方向に切り急ブレーキをかけた。
凄まじいドリフトの如く車体は滑り、間違えて回ったアクセルに車体後部が持ち上がった。
慌てて手を緩めたのか車体をその場に残し器用にルシルだけ斜面に吹っ飛んで行った。
最後にレイフォンが残った。
ニールに蹴られ揺れる車体を制御しつつブレーキを握った。
正直、何とかなるとレイフォンは思っていた。
急ブレーキやらドリフト走行をレイフォンは何度も行っていた。
上手くハンドルを切れば少女をギリギリ避けられると思っていた。
だがそう思った瞬間、レイフォンは車体後部が浮くのを感じとった。
何故――車体から伝わる絶妙なタッチがレイフォンに答えを告げていた。
(――ふふ、そういう事か)
やられた。レイフォンはその皮肉に内心嗤う。
前輪のブレーキが利きすぎている。先日の点検とタイヤの新調が此処で効いていた。
すり減ったタイヤと効きの悪いブレーキでの滑りに慣れ過ぎていた。
咄嗟の判断でレイフォンは前輪ブレーキを緩めリヤブレーキを強くかける。
結果から言えばそれが間違いだった。
壮絶なブレーキターンをするかのごとく車体が旋回する。
そして旋回した車体の後ろ側が少女の体を横からガツンと叩き飛ばした。
「あふぅ」
ゴロンゴロンと少女が転がっていく。
少女の衝突にレイフォンが気を取られる間に車体は半旋回して止まる。
殺せぬ勢いに車体から投げ出され転がる。
幸い衝撃だけで痛みはない。仰向けになったレイフォンは思う。
――ああ、空、綺麗だな
などと現実逃避している場合では無く。
まず自身の体を確認する。衝撃による痛みはあるが異常はない。掌から少し血が出ているが舐めておけば治る程度だ。
レイフォンはさっさと体を起き上がらせ他の者達の元へ向かう。
一番先に行動していたのはニールだった。転がって倒れたままの少女の元へ向かっている。
ルシルは斜面のだいぶ下の方に居り、仰向けに倒れたまま何かに勝ち誇る様に拳を上げていた。
馬鹿は無視してレイフォンも少女の元へ向かう。
件の少女は雑草に顔を突っ込んで俯せに倒れていた。
シャツの上に薄手のジャケットを纏い、腰にはウエストポーチが付いている。動きやすそうな長ズボンもそうだが全身に草が張り付いている。
周囲にはポケットやポーチに入っていただろう荷物がぶちまけられている。
声を掛けながら少女の肩をニールが揺する。
返事の呻き声を上げながら少女がもぞもぞと動く。起き上がって周囲を見回す。
「あれ、ナコは?」
「……猫の事なら逃げて行きました。大丈夫ですか?」
「この程度は大丈夫だよ。そっちも無事そうでよかったけど、そっか……」
少女は悲しげに打ちひしがれる。
だが足音に気付いたのか、レイフォンが近づくと顔を上げた。
パッと見で判別に困る少女であった。柔和に整った端整な相貌は見た目の性差に薄い。
声変わり前の様な落ち着いた声色で、服装も機動性重視で全身を覆っている。
だが雑なポニテ髪や纏う雰囲気で改めて少女だろうとレイフォンは認識する。
服装の御蔭か少女に目立つ怪我はなくレイフォンは安堵する。実際、レイフォンが見ていた限りではダイレクト車体アタックをした際、少女は咄嗟に腕で防御していた。
だがそう思ったと同時、少女の口端から血が一筋流れる。
血と痛みに気付いた少女が口内に指を入れて探る。
「あの、怪我してますが大丈夫でしょうか……」
「ん……転んでる時に噛んじゃったかな。痛いけど慣れてるからこのくらいは平気さ」
指を抜いた少女は散らばった荷物を集め始める。
レイフォンもニールと回収しながら小声で話をする。
「……この場合、事故の責任ってどうなるのかな」
「あの飛び出しだと相手有責も十分望めるが……速度違反がある」
「そこってバレるの?」
「ブレーキ痕から割り出せる。それに二人乗りだ。俺は証言で嘘を言うわけにいかぬよ。間違いなくこちらの過失も問われる」
「そっか。そっかー……今はまずいんだけどな」
「事情は知らぬが元々、対人事故で車両側無過失の裁定などまず無い」
ちらりとニールが少女を見る。
「……まあ、合意が得られれば別ではあるが。怪我も殆どないようだしあの飛び出しはこちらも被害者と言える。それはそれとしてだ、ちと何か忘れている事がある気がするのだが」
「今はあの子以外に大事な事はないでしょ」
断言すると同時、レイフォンは背中を蹴り飛ばされる。
次いでニールに小さい玉が投げつけられる。
振り返るとヘルメットを付けたままのルシルが立っていた。
「一番手とは言わんが、お前ら俺の様子も見に来い」
「ああ、生きてたんだ」
「良かったではないかルシル。お前が望んでいた出会いだろう。あとこれは何だ」
「こんにちはから始めて欲しかったがな。ちなみにそれは落ちていた飴玉だ」
ルシル含め三人で荷物を拾い集める。少女と合流してそれを渡す。
ポシェット容量や内ポケットが多いのか荷物がすぐさま収められる。少女はポシェットから出した飴玉を一つ口に含む。
未だヘルメット外さぬままのルシルが少女に一歩近づく。
「改めましてこんにちは。ルシルと言います。よろしくお願いします」
そっちから始めるのかとレイフォン達は思った。
少女がルシルの手を取ってブンブンと振る。
「ボクはカノン。よく分からないけど宜しく、それと荷物ありがとね。飴でも舐めるかい?」
「口の中切ってるので今は遠慮します。ちなみにこいつらは下僕のニールとレイフォン」
ニールがルシルの膝裏を蹴る。アホが転ぶ。
改めて名乗ったニールとレイフォンの手を相手、カノンと名乗った少女は強引にとって握手をする。
レイフォンと握手した手をカノンは離さない。雰囲気を変えじっと見つめる。
「へぇ……少しお話いいかな? ぶつかった子だよね」
「えっ、あ、いや……そ、そんな気もしたような……よくないといえば、その……いや、はい」
「こっちも悪かったけど、知られるとマズイんじゃないかな? それで、ちょっと『お願い』があるんだけど」
レイフォンはルシル達に視線を向ける。無言で頷かれる。
「僕……僕たちに出来る事なら喜んで」
「約束だよ。嘘は嫌だからね」
早々にレイフォンは白旗を上げる。
お願いの内容にもよるが、無かった事にしてくれるなら寧ろありがたくもある。
ただ折角なので他二人も逃がさずに巻き込んで発言する。
悪戯気な笑みをカノンは浮かべてレイフォンの手を離す。
不思議な感覚だとレイフォンは思った。
天性の物だろう。カノンの言葉や笑みにはその裏が無いと感じさせる何かがあった。
言葉や笑みがストンと心の底に落ちてくる。
心の中で他者と自分の間に引いた線があったとして、いつの間にかそっと内側に一歩踏み込まれている。
或いは気付けばこちらから一歩踏み出している。
警戒心を抱かせない、そんながカノンには雰囲気があった。
「ふふ、ごめんごめん。意地悪な事言ったね。そうそう、良かったらルシル君以外も飴いるかな? 美味しいよ」
カノンがポシェットを開く。
甘い物が苦手だというニールは断り、取りあえず貰える物は貰っておこうとレイフォンは一つだけ出された飴玉をポケットにしまう。
「実はこの都市でやりたいこともあってさ、都市警に目を付けられたくないんだ。流せるならボクもそれが良かったんだ」
「つまり来訪者ってわけか。カノンさんは何でこんなとこに居たんだ?」
砕けた口調でルシルが言う。
恐らくだが、合意が得られるまでのつもりの敬語だったのだろう。
「動物を見に来たんだけどね、可愛い猫がいたから追いかけてたんだ」
「それで俺は死にかけたのか。一瞬、曾爺さんの顔が見えたぞ」
「そこは本当にごめんね。まあ共犯者って事でさ。曾御爺さんは何か言ってた? そういうの凄く興味あるんだ」
「知らん。今度実家に手紙で聞いとくから、知りたければ宛先教えてくれ」
死に際に身内の顔が浮かんだ事あったかな、と何となくレイフォンは思った。
無駄な会話をしている最中、ニールが横から口を挟む。
「少しいいですか。一応、カノンさんのお願いが何なのか聞きたいのですが」
「ん? うん、確かにそれは大事だね。実は君たちに二つ頼みたいことがあるんだ。一つ目はその……バイト紹介してくれないかな?」
聞けば滞在費が残り少ないとの事。
色々好き放題に使った結果、切り詰めて残り数日分は有るが底をつくのは時間の問題。
お金を稼ぎたいが、勝手知らぬ外の都市。聞くなら地元民にということらしい。
「一応、そういう来訪者向けの仕事もあった気がするけどそっちは?」
よほどの事が無い限り返金の可能性が皆無な来訪者向けの金貸しは行われない。
だが窃盗を始めとした様々な理由で資金が無くなる来訪者も居ないわけでは無い。
そういった相手を対象とした仕事の斡旋も多くの都市で行われている。
レイフォンが嘗て行っていた出稼ぎも考えようによってはその一種であり、都市によっては仕組みの一部として組み込まれている。
生徒中心の学園都市では他都市に比べ少ないが、ツェルニにも一応は存在している。
「一応見たけど、時給が低めでさ……それにボクの歳じゃ弾かれることも多そうで」
よく分かる。分かり過ぎると内心レイフォンは頷く。
「そういえば何歳なのか聞いても?」
「……えっと、多分十五かな? 十六になったんだっけ?」
「同年代ですか」
「そうなの? なら、何とかお願いできない? それに、もし可能なら、同い年の子に混じって何かしたいなって思ってさ」
少し、寂しげな様子でカノンが言う。
ニールが手でタイムをかけ、少し離れた所にレイフォン達を召集する。
カノンに聞こえぬ様にひそひそと三人で話し合う。
「受けてもいいんじゃないか? それで事故(仮)が無くなる万々歳だろ」
「来訪者だとセキュリティというか、制限的にどうなの?」
「単発なら確認無いだろ。有る所は避ける。人手があればいいって所もある」
「休講中で私服の学生も多い。年齢的にも問題はないが……いや、本当にいいのか私は……ううむ」
グダグダとした会話を三人は続ける。
少しして結論を出し、カノンの元へ戻る。
「分かりました。バイトに関しては受けます」
「うん、ありがとう。良かった、断られたらどうしようって思ったよ」
条件を飲ませるだけならば事故の件を最後まで脅しに使い続けた方が便利だ。
実は都市警に関わりたく無かったなんて自分の事情を話さない方が良い。
それでもカノンが事情を話したのは一度「約束」したからなのだろう。
破られると思っていないのか、相手の善性を信じているのか。
朗らかなカノンの笑みを見てそこはかとなくそんな性格を感じる。
「それと、出来れば普通に話してくれた方が嬉しいかな。さんもいいよ」
「わかり……分かった。それで二つ目は何だろうか」
「良かったらでいいんだけど、この都市を案内してくれないかな? 全然知らないからさ」
「それについて自分としては構わないが」
ニールがレイフォン達の方を見て投げ出されたままの二輪を軽く指差す。
移動の足を持っている二人の意見を聞きたいという事だろう。
最も、バスを使っても問題ないわけではあるが。
「いいんじゃね? 暇だし俺は構わない」
「僕もいいよ。観光って言っても余り知らないけど」
「やった! ありがとう。色々な場所を見てみたいんだ」
「なら取りあえずバイトの途中だし、その次いででこの周辺回るか。四人なら二ケツ二台で丁度だし、手伝ってくれるなら連れてくが」
「いいの? 二人乗り初めてだよ」
四人で坂を上がり転がったままのバイクの元へ向かう。
その途中、レイフォンはルシルの許に寄る。
「良かったの? バイトの途中なのに」
「いいんじゃないか。今日に限ればバイト代無しの労力だ」
なるほどとレイフォンは納得する。
「それにお前が言った通り空から降ってきたしな。これも何かの縁だ」
「本当に落ちてきて驚いたよ。そういえばいつまでヘルメット付けてるの?」
「……接触部が壊れたのか外れないんだよこれ」
転がっていた二人のシティローラーは傷こそあったが問題なく動いた。
一回止まったという事でニールが場所を交換。ニールがルシルの後ろに乗り、カノンはレイフォンの後ろに乗った。
何も反省していないような二人乗り二台のシティローラーの構成で四人は発進した。
その後、四人は二輪を走らせ周辺を回った。
自然あふれる場所や高台からの眺めを見て回り、不法投棄物の調査も行った。
陽が落ちた後、観光とバイト紹介も兼ねた明日の約束をし、その日は分かれることとなった。
次の日、レイフォンは予定より早く集合場所に着いていた。
場所は商業区外れにあるバス停近く。時間は昼前の約束だ。
今日は都市バスを使う事になっている。そのせいもあってレイフォンは早く着いていた。
傷だけで済んだと思った二輪の出力が落ち、エンジンもかかりづらくなっていたからだ。
集合場所には既に着いていたらしいカノンが一人だけいた。
昨日とは違ったパーカーを纏い、髪は背中側だけを束ねたアップにして帽子を被っている。
道の隅でしゃがみ込んでいるので近づくと、カノンはシャムトラの猫にちょっかいをかけていた。
「何してるの?」
「やあ、レイフォンおはよう。この子と遊んでるのさ」
服装の違い故か、カノンの雰囲気が昨日とどこか違うようにレイフォンは感じた。
耳に傷痕のある猫は止めろとばかりにパンチをしている。だが意にも介さずカノンは猫の毛や肉球に手を伸ばしている。
「間違いないね。この子はナコだよ。私には分かる」
「ナコ? ……ああ、昨日の。奇遇だね。でも場所がかなり離れてると思うけど」
犬と違い猫の行動範囲は狭い。一般的には半径二百メル前後だ。
昨日見た場所からここまでは優にその数倍はある。
その範囲を超える事があるのは外敵に追われるなどの緊急時位だ。
動きがどこか特徴的な猫と戯れるカノンをレイフォンは眺める。
「昨日は追いかけていたのによく逃げないね」
「ボクの仁徳かな? さっきもボクの手から御飯の残りを食べたよ」
どう考えてそれが理由だなと思いつつ、レイフォンも腰をかがめて手を伸ばす。
――ヴー
威嚇した猫はのっそりとカノンの方へ移動する。
「何でさ」
「ナコが嫌いな匂いでもしてるんじゃないかな。朝は何食べたんだい? それにしても人懐っこいなぁ」
「飼い猫なんじゃないの。でも首輪とかもないし……捨てられた野良かも」
「そんなことあるの? こんなに可愛いのに、何でだろうね」
「僕に聞かれても。お金がかかったとか、面倒だったとかじゃない? それか眼」
カノンが猫の顎を触りながらその顔を見る。瞳は左右で色が違った。
一方が黄色で他方が単青色。所謂オッドアイだ。
「希少価値とかで人気あるけど、オッドアイの猫って確か聴覚障害の確率が高いんだよ」
「ふむ、そうなんだね。よく知ってるね」
「こじ……実家の近くで偶に野良は見ることがあってさ。姉さん達から聞いた」
レイフォンが育った孤児院は裕福な区画にあったわけでは無い。
捨て猫や野良猫を見る事も間々ある環境だった。
迷い猫を探して手間賃を稼いだりした事もあり、多少の知識は知っていた。
「希少価値で喜ばれて、でも生まれ持った障害で、か」
「あくまで予想だよ。障害も絶対じゃないし流石にそんな理由は滅多にない」
「……そうだね。……ッ!」
痺れを切らしたたのだろう。鋭く鳴いた猫はカノンの手に尖った爪で猫パンワンパンして道向こうの茂みの中へ消えて行った。
カノンの人差し指に三本の赤い線が引かれ、血の玉が浮かぶ。
「野良だろうし消毒した方が良いよ。少し歩くけど薬局あったはず」
「気にしないで。持ってるから平気だよ」
カノンは腰に付けたポーチから携帯用の簡易救急セットを出す。
消毒して絆創膏を巻く。処置を終えて道具を仕舞う。
ポーチを閉じる前に棒付飴玉を一つ出してカノンは口に放り込む。
「結構怪我することが多くて持ってるんだ。それにしても逃げられちゃったね」
立ち上がったカノンは猫が逃げた方を悲しげに見つめる。
「変に餌付けとかしない方が良いよ。情も移るし」
「そっか……」
カノンは帽子を被り直す。視線をバス停の方へ向け、商業区の門の方へと動かしていく。
視線の先には商業区の中の方へ向かう学生や、喫茶店のテラス席でお茶を飲む女生徒の姿もある。
もう少しすれば食事時だ。人通りもそれなりに多い。
「沢山いるね。皆、此処以外の都市から来てるんだよね。……レイフォンはさ、何処か来たの? 遠い?」
「グレンダンから来たよ。槍殻都市とも言われてる。かなり遠いはず」
「……ごめん、知らないや。ボクの故郷は燐光都市シャイルだけど知ってる?」
「僕も知らないや」
そっか、まあ、そうだよね。そうカノンは少し寂しげに言う。
レイフォンとしてもグレンダンは有名な方だと思っていただけに少し驚きであった。
「そういえばさっき言ってたけど、レイフォンはお姉さんが多いの?」
「結構沢山いるよ。言っちゃうと孤児院だから血は繋がってないけどね。皆、もう出て行ったよ」
別に隠す事でもないだろうとレイフォンは告げる。
それを聞いたカノンは自身を指さしながら嬉しげに微笑む。
「一緒一緒。ボクも半分血が繋がった姉さんが三人と妹が一人、それと血が繋がらない姉さんが一人いるよ。皆、もう家には居ない」
「女系家族って言うんだっけ? 僕が言うのも何だけどそれはそれで珍しいね」
「そうかな? それ以外にも家族はいたし、こんなボクを皆愛してくれたよ。最初の頃は家が貧しかったから、その分何も出来ない自分が嫌だったけど」
「ああ、僕もあったよそれ。自分は貰えるのに、返せないからさ」
だから、どんどん重くなっていく。その降ろし方が分からなくなる。
昔を思い出し懐かしいなとレイフォンは思う。
「……うん、最初に会った時から何となくそんな匂いはしてたけど、君はボクと結構似てる気がするよ」
「そう? 言われてもよく分からないけど」
「ボクのこういう勘は働くんだ。ふふふ、実は何を隠そう、ボクは困っている人を助ける宿命を持った扶翼の使者なのさ。レイフォンはさ、何でツェルニに来たの?」
指を銃の形にしたカノンは楽しげに、不敵に笑いレイフォンを指さす。
好奇心の残骸、薄らと赤い絆創膏のついた指が伸ばされる。
だが頬が飴玉の分だけ小さく膨らみ様になっていない。
「死の大地を通って、故郷を遠くにおいて。それに代わる何かを求め、或いは此処で成すために居るんだろう? ――君の夢は何だい?」
「……希望に沿えず悪いけど、僕は世間知らずでさ。少しは外を見てこいって追い出されたんだ」
予め決められている理由をレイフォンは述べる。
「うーん、予想が外れちゃったかな」
「逆に聞くけど、そっちはどんな理由で故郷から出たの?」
「叶えたい夢があったんだ。それと、少しでもボクの事を多くの人に知って貰いたかったからかな。……それについてはまた今度、話そうよ」
カノンの指先が差す方向が変わる。
そちらに視線を向ければニールとルシルがこちらへ歩いて来ていた。
「取りあえずはバイトからだな」
パスタを無駄に大巻にしながらルシルが言う。
時間柄、昼食をとる為に四人は喫茶店の中に居た。
話しているのは今日の行動についてだ。
カノンだけでなくレイフォンもバイトを探している。
観光とバイトという話ではあったが、まずは急を要する方をという事だ。
「僕としては教務課が一番安易だと思うけど」
零れたレタスを指で摘まみつつレイフォンはサンドイッチを食していく。
味は普通で値段は安価、量は大目のこの店で一番コスパが良さ気な一品だ。
「私の記憶ではあそこは学生証の掲示を求められる事が殆どだ」
「でも直接連絡を取るやつも有ったと思うけど」
「その大半は研究補助やその助手だろう」
「それだとボクは厳しそうかな。ちょっと気になりはするけれど」
辛子をこれでもかと撒けた赤い饂飩に赤の追加オーダーをカノンはする。
ちなみに今日、わざわざカノンの為に三人が集まったのは昨日の事故に対する対価の支払いをきちんとするためだ。
カノンのバイトを探す関係上、この三人の存在が重要にもなる。
「内容にもよるだろうし、確認するだけしてみようよ。僕の分としてはそれでもいいし」
「そうだな。ただ、カノンに関してはここの三人で探すしかない」
「一人で行っても追い返される可能性が高いしね」
バイト誌の類もあるが、あれの殆どはある程度の長期採用が前提だ。
それに来訪者を雇うくらいならツェルニの学生を雇った方が信頼性はある。
カノン一人でバイトを探しに行ったところで渋られるか教務課の対外窓口の斡旋に行けと言われるのがオチだ。
時間効率を考えるなら、此処の学生である三人からの紹介が楽である。
信頼性の面からも、最初の一つ二つ程度は三人の誰かが付いている必要があるかもしれない。
「私も幾つか伝はあるが……ちなみにだが、カノンは何かやってみたいバイトはあるのか?」
更なる赤の追加オーダーを仕掛けていたカノンの手をニールが掴んで止める。
「むむぅ……何でもいい、って所だけど、希望を言えるならある程度人と関われる仕事が良いかな。皆と一緒にやれるって、楽しそうだからね。それか珍しい仕事」
「珍しければ良いなら幾つか知ってるぞ。まあ、見て呉れ採用のとこもあるだろうし短期でも行けるだろ」
「取りあえず何とかなりそうだね」
もぐもぐと四人は各々の昼食を食べていく。
「観光の方はどうする?」
「バイトの方の目途がつき次第だな。道中の移動がてら見る程度だろう」
「なら明日の対抗試合は? ああいうのってそこそこ珍しいと思うけど」
サンドイッチに刺さっていた楊枝を指先で遊びながらレイフォンは言う。
少し前、汚染獣対策で野戦グラウンドに赴いた時のリントやカリアンの発言もあり少し気になっていた。
十七小隊が明日出る事は無いだろうが、観光としてはまずまずだ。
武芸者による試合やそれを用いた興業的な催しは大抵の都市にある。だが純粋な力試しの類が多い。
勿論、多人数による試合もあるだろう。地形を利用したものもあるかもしれない。
しかしその両方を用いた競技形式は学園都市以外では少ないだろう。
ルシルが頼んだ唐揚げを楊枝でそれとなく狙いつつ、レイフォンはカノンに対抗試合の概要を話す。
案の定好感触の反応が返ってくる。
「いいねいいね! 凄く興味があるよ。見に行こうじゃないか」
「なら行こうか。明日なら暇だし」
「悪いが私は不参加だ。明日の午後はバイトがある。三人で行ってくれ」
「そっか、それは残念だね」
全員が食べ終わり席を立つ。支払いをして店を出る。
一同は仕事を求めて街へと旅立った。
数時間後、ルシル以外の三人は路面電車の中に居た。
あれから伝を回り、伝の伝を探し、時折寄り道をしつつ、イベントの事前準備やとある研究補助など幾つかのバイトは確保できた。
ルシルは他の用事があるという事でそこで帰って行った。
残った暇人学生の二人はカノンの観光に付き合っていた。
「飲むか?」
「いや、いいよ」
「ボクは貰うよ。ありがと」
ニールから差し出された熱いお茶をレイフォンは断りカノンは受け取る。
窓の外は既に日が落ちかけていた。人影は少なく、路面電車の中にもほんの数人しか客はいない。
見上げる空は未だ青いが陰を帯びた藍色であり、地平の果てでは陽が夕焼けへと変わっている。
「あの街道は良かったね。小川の畔を歩くようで、ボクは好きだな」
小さくカノンが告げる。
湧水樹が吐き出した水が溜められた池。その水が機械による濾過処理場へ送られる過程にある僅かな水路。
静かなせせらぎが空気に溶け込み、風に揺れる樹木の枝葉が耳を和らがせる。
煉瓦敷きの通りの傍ら、川が流れる様なその横での散策をカノンは気に入っていた。
元々、時間が少ないという事で大した場所は周れていない。一、二ヵ所ほど景観の良い場所を回っただけだ。
レイフォン達からしたら良くはあるが感嘆するほどでは無い光景だった。
それでもカノンはとても楽しげだったのだから、巡ったかいは在ったのだろう。
帽子を外したカノンは息でお茶を冷ます。口元に紛れようとする長い髪を手で除けつつ、静かに茶を嚥下していく。
温かに頬を緩ませ、心を落ち着かせる小さな息を吐く。浮かぶ楽しげな横顔が絵になっていた。
停留所に着いた三人は降りて少し歩いていく。
夕焼けが空を覆っていた。次の場所で今日は最後だ。
誰もが知っている一番有名な場所が見たい。
それがカノンの要望であった。
「多分、一番はあれだと思うよ。知名度としてはだけど」
都市の中央部に辿り着く。
レイフォンが指差した先には生徒会の棟があった。
正確にはそのシンボルともいえる高い時計棟だ。
「……綺麗だね」
目を細めたカノンが感心したように言う。
夕焼けを背とした陰の中、時計棟の上部に付けられた文字盤が淡く輝いている。
どんな時であれ目印になるようにとその光が絶やされることは無い。
事実、都市内の何処であれ、大抵の場合は建物の屋上に登れば時の燈火を拝める。
その旨を伝えるとカノンは小さく頷いた。「拠所だね」と呟き、瞳に移る光景を脳裏に刻むように静かに見つめ続ける。
実際の所、生徒達からしたら校舎に近くて身近なため、有名ではあるが特に名所といったほどではない。
内部に忍び込み時間を変えようとして謹慎を受けた生徒も何人かいる。
だがアンティークなデザインと単純な大きさが作り出す何となくの特別感がある。
「うん、満足したよ。そろそろ行こうじゃないか」
朗らかでどこか寂しげな笑みをカノンは浮かべる。
停留所へ向かうため三人は来た道を戻り始める。
今日はこれで終わり。後は帰るだけだ。夕焼けさえも暗くなり始めている。
停留所の手前でカノンが止まる。右足の調子を確かめるように軽く動かす。
ポシェットから出した飴玉を口に含み再び歩き出す。
「どうかしたのか?」
「ちょっと疲れちゃったみたいだね。心配ありがとう」
三人は停留所に着く。時刻表を見れば次の路面電車はもう少しのようだ。
ここで乗るのはカノンだけだ。各々の帰宅先は大きく離れているため、停留所も別のを使わなければいけない。
数分を待つため停留所の中に入って三人はベンチに座る。
「二人とも……正確には三人だけど、今日はありがとう。御蔭で助かったよ」
「気にしないでいいよ。こっちとしても口を噤んで貰うわけだし」
「レイフォン、悪い言い方をするな。話し合いによる和解というべきだろう」
煙に巻く言い方に小さく笑う。
「ふふ、そうだね。けどあれも良い縁だったとボクは思うよ。昨日から色々と話せてボクの中に君たちを知れた。多くを見れて、前までとは違うボクになったよ。話し足りなくもあるけれど」
「明日の観戦もあるからその時だな。最も、私はいないが」
「そういえば明日もあるんだっけ。対抗試合の観るの久しぶりだな」
「ボクも楽しみさ」
音が鳴り路面電車が到着する。自動的にドアが開く。
カノンが立ち上がる。他二人もベンチから腰を上げる。
最後にとカノンが二人と握手し、レイフォンの掌に張られた絆創膏に気付く。昨日の怪我によるものだ。既に完治しているが、朝の段階で貼っていたのがそのままになっていた。
小さく「ごめんね」と言ってカノンの柔らかな手がレイフォンの手を強く握る。そして離される。
「さようなら。今日は楽しかったよ。また、明日のボクによろしく」
寂しげに告げ、手を振ってカノンが車内に乗り込む。ドアが閉まり車体が発進する。
そのままカノンの姿は見えなくなって行った。
「私達も解散するか。……どうした、手を見つめて」
「いや何となく気になって。まあいっか」
レイフォン達は停留所を出る。
「ここで解散だな。……そう言えば今さらだが、二輪は平気なのか?」
「直ぐには無理だけど、僕に関しては何とかなるから平気だよ。ルシルは知らない」
「あいつはあいつで何とかするだろう。まあいいか。それでは失礼する」
ニールが去っていく。
明日を想いつつレイフォンは帰途に就いた。
後書き
記憶は薄いが、幼少期の私の家庭は一般論から言って「幸福」に該当するモノであっただろう。
父は有力な武芸者で在ったと聞いた。母は気弱だが優しく料理の上手い人であった。
三人家族で温かな料理を囲み、整理整頓の行き届いた綺麗な家で暮らしていた記憶がある。
多少の口喧嘩程度はあったが次の日には仲直りしていた。
笑顔は何も特別な物では無く、普通のものとして存在していた。
記憶は朧ではあるが、その顔を見るのが私はとても好きであった事だけは思えている。
父親の体は堅く、所々に傷痕があった。
稽古で付いた傷、汚染獣戦で刻まれた傷、都市警護で残った傷。
一緒に風呂に入り、その傷痕の由来を私は聞くのが好きだった。
父は思い出を懐かしむように、自分の成果を誇る様に、時折恥ずかしげに私に教えてくれた。
私は武芸者では無かった。この身に剄脈は無く、父の背中を追う事は出来なかった。
父の友人達の家庭にいた武芸者の子供を見る度に、私はそれが酷く惜しかった。
気にするなと父は言ってくれた。お前はお前だと。
だが同僚たちの家庭を、父が子に武芸を教える姿を羨ましげに私の父が見ていたのを覚えている。
きっと、私の家庭は幸せな物であったのだろう。
ある日、父が病にかかり体調を崩した。治りはしたが小さな後遺症が残った。
武芸者としての能力が少しずつ、少しずつ落ち始めて行った。
父は落ち込みはしていたが、母の支えもあり、さほど大きな変化はなかった。
無かったはず、なのだ。
ただ私が気付けなかっただけなのだろう。
家族間の会話が減り、父が笑顔を見せる頻度が減っていた。
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