セノイピープル
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Chapter 1
俺はなけなしの金で、
街中の赤い薔薇を買い占めた。
あなたは薔薇の部屋に佇む。
溢れる芳香に、大きく体をそらして息を吸い込むと、
気の遠くなるような目をしていた。
「ああ、あの金持ちのしわざね」
口元に笑みを浮かべ、部屋を眺め回した。
俺は全財産を失って、
それで、
あなたが真紅の薔薇の中に佇む光景を眼に焼き付けて、
それで、
思い出の中に生きていく。
俺の記憶の瞬間は、
あの真紅を、
今も色あせないままにしているだろうか?
苦笑するしかない。
真紅だけが、脳裏に残っている。
それ以外の何もかも、心の奥に沈みきって、もう、何も甦らない。
俺が生きているのは、
現実、それ以外の何か。
Chapter 1
じっと指の先、親指の緩い曲線を見つめていて、ふいに目を閉じてみる。まぶたの中に、数秒の間、丸みのある指の腹が残っている。
多分、これも現実。
都営大江戸線の狭い車内だった。平日の昼過ぎ、乗客は数えるほどしかいない。深い深い地の底を、列車が轟音をたてて走っている。車内は快適だった。大きなカーブで少しだけつま先に力が入るけれど、ほとんど揺れを感じることはなかった。
僕は疲れていた。眠っているのか眠っていないのか、ちょうどその半ばでうつらうつらしていた。
仕事には、もう何年もの間、慢性的に忙殺されていた。いつも、何かに急き立てられ、早足であることが癖になった。四十を越えて、部下も増え、多額の金額に関わる案件についても、それこそ脂汗滲ませるくらい、重責を感じる、そういう、社会での年頃だった。
寝不足のせいかもしれない、目を閉じていたような気がする。
だけど、鮮明な光景がくっきりと浮かびあがる。
僕は、明日のプレゼンテーションの段取りについて、何度も、準備にもれはないか、頭の中で反復していた。提案書の細部の修正を思いついて、プロジェクトメンバーの一人に携帯からメールをしようとして目を開いた。すぐに、あとでいいと思い直した。
向かいに、三人の人間が並んで座っている。一番左、いかにも品の良さそうな、髪の毛が真っ白な女性、一番右、カジュアルなジャケットを着た、短髪な、僕と同じくらいの年齢の男、真ん中に、長い紺のプリーツに白いブラウスの女がいた。
いや、もう一人、ベビーカーが若い女の前で、彼女の手で微かに揺れていた。
「あ…」
若いお母さんは、漏れるような、静かな声をあげ、
「笑ってる」
ベビーカーの奥を覗き込む。
「あらあら、本とだね、ぐずってた子が」
白髪の老人がほとんどお母さんと頬を摺り寄せるくらい近づいて、ベビーカーの中に目を細めた。
その直後だった。僕は、ちょうどベビーカーの背の位置に座る男と目が合った。落ち着いていて、社会性に溢れた雰囲気の男だった。彼の一重の目が、僕としばらく重なり、そして男は、口元を一瞬歪めて視線をそらしていった。
僕は眠い目を上げ、あたりを見渡した。それから、視線をベビーカーの方へと、ゆっくりと降ろしていった。
体中の血が、一瞬で沸きあがっていくようだった。
赤子は瞬きひとつしない。大きな瞳をぱっちりと開いたまま、何か虚空を眺めるように無表情だった。プラスチック製のつやつやしたほっぺたに、母親の細い指があたる。その指先、ほんの少しだけ沈んでいった。
僕は目をきつく閉じて、かすかに首を横に何度か振った。
もう一度、目を開いて、今度は盗み見るように、顎を少し上げてベビーカーの方に視線を合わせた。
「電車の揺れがちょうどいいみたい」
女は目を細め、人形に目線を近づけていく。僕は見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて顔を上げた。
また、男と視線が合った。僕は凍りついたような無表情していた。彼も、歪んだ口元以外は、まるで遠い夢想に耽るような、気分の窺い知れない顔つきで、じっと僕を見つめていた。
何を考えていたのか、男の心理のひだに、そっと指を上げたい衝動が、僕の手首を軽く痙攣させていた。僕はその手を、まるで自由の利かない生き物を押さえ込むみたいにして、もう片方の手でとると、ぐっと力をこめて握り締めた。
やがて、上野御徒町へ到着を告げる車内アナウンスが流れ始めた。ここで降りなければならなかった。JR線に乗り換える。
席を立つ。彼らから遠い方の出入り口から、僕はホームへと降り立った。額に手をやると、ひどく汗をかいていて、それはすでに冷え切っていた。
乗り換えまでの道のりは長い。地底の通路を少し大またで歩く。行き交う人々も、同じように早足で僕の横を通り過ぎていく。みな、何かに取り残されてしまう気がしている。
階段を登る。眩しい夏の日差しが、頭上にくっきりと浮かび上がる。僕は額にもう一度手をやった。たった今、車内で見た光景が嘘のように、砂上の楼閣が、風にかき消されていくように、脳裏から崩れていく映像がよぎっていった。跡形もなくなった瀟洒な砂の城のあとには、提案書が積まれていた。
僕は携帯電話を手にすると、チームメイトに電話を入れた。
「うそ…」
妻の咲子はカウンターキッチンによりかかると、まずはそう口にした。
「いやでも、何度か見直したけど、やっぱ作りもんだったよ」
僕は椅子に深く背をもたれかかせた。
食器洗いを終えた彼女は、手を拭きながら、僕の向かいに座ると、テーブルに両肘をついて、じっと僕を見つめた。
「疲れてる?」
「ふふっ、いくら疲れてるからって」
僕は片方の手を振って見せ、
「人形であるくらいわかるよ」
と言った。
「なんか色々考えてみたんだ…、多分さ、流産かなんかして、」
僕がそこまで言いかけると、咲子の眉に深い皺が寄った。かまわず、続けて、
「赤ちゃんが死んじゃったとかかなって、それで、お母さん」
僕はここで一度首を振り、
「お母さんになるはずだった女の人、きっと、その事実を受け入れられなくて」
「違うよ」
ここで、咲子が割ってはいった。
「いやいや、ほんとに人形だったんだって」
「あのね、そうじゃなくて、人形は信じる、だけど、そうじゃなくてね、私は、流産じゃないと思うの」
「…、」
「たぶん、産まれてたんじゃないかな、て思う。流産してたら、形がわからないじゃない?たぶん、ちっちゃい赤ちゃんが、何か病気したとかで、それで」
咲子はここまで言うと黙った。僕は大きく息を吐き出した。それ想像しながら、昼間の地下鉄での光景を蘇らせていた。
「受け入れるのは、難しいだろうね」
僕はぼそっと口にして、一日一本にしている缶ビールが空になったのを振って確かめていた。
「もう一本飲む?」
咲子が立ち上がる。
「え、いいの?」
「いいよ、外で呑んで来られるより、全然…、」
冷蔵庫から取り出したばかりの、冷えたビールがテーブルに置かれる。
「どんな気持ちがするんだろうか、子ども、ちっちゃい子ども死んじゃったら、耐えるとか、耐えないとか、そんな問題じゃなくて、だから、事実を受け入れてないってことだろうか」
僕は中々新しい缶の蓋を開けないまま、口にしていた。
「ほんとは、知ってるんだよね、きっと」
咲子が言う。僕は彼女を見つめた。
「ほんとは、分かってて、心の奥じゃ知ってるけど、だけど知ってるって認めたら、それでほんとになっちゃう、みたいな、」
僕がじっと見つめていたせいか、咲子は照れたように小さく笑うと、
「よく、わからないよね、」
と言った。
「いや、知ってるけど、知らない、」
僕が自問するみたいに言いかけると、
「もういいんじゃない、」
彼女は話を打ち消した。
「明日も早いんでしょ、明日、プレゼンなんでしょ」
「そうそう」
僕はようやく空けた缶ビールを飲み始めた。
「大丈夫そう?」
「どうだろうね、元々そんなに勝ち目感じてやってたわけじゃないから…、」
「なんで、弱気」
「いや、そういう仕事もあるよ、形だけやるみたいなのも」
「でも毎晩遅かったから」
僕はここで無理に笑顔になって、
「そういうもんだからね、仕事は、大きな意思、まあそれって見えなくて、会社の意思決定みたいなもんだろうけど、それに自分の意思なぞっていって、そこに少しの創造力持つみたいな、そんな感じだから」
咲子は軽く首を傾げた。おそらく、あまり意味が分からないんだろう。だからと言って、聞きなおしてくることもないし、僕が、敢えて説明することもなかった。
彼女とは、結婚前からずっとそんな接し方だった。
それは、心が本当に通じてないとか、そういう問題ではなくて、人間の距離感というものが、総じてほどよい気がして、何の違和感もなかった。
「俺は別に偉くなりたいとかじゃなかったのに、どうしてこうも、忠誠心が高いのかって、ほんと自分でも関心するよ」
「ふふっ」
「ただ言い訳するとさ、いろんな条件ってのか、制約があるから、ゲームみたいなもんなのかね、て思ったりもする」
「ゲーム?」
咲子も一本あけて、ほのかに頬が薄桃色していた。
「そ、だってただ平坦な道をボタン押して歩ってくゲームなんてないじゃない、なにか色んな障害物乗り越えるから楽しいんでしょ、それと一緒、みんなゲームは楽しいってするのに、社会では誰が悪い、何がまずい、みたいなことばっか言うから」
「悟りね」
「悪い意味?」
僕は彼女の見澄ましたような口調がいやで、そう聞き返した。
咲子は飛び切りの笑顔になった。
「いい意味だよ、すごく、」
僕はその答えに、ただ力なく笑った。
暗い照明の中、彼女の顔、徐々に影のようになって、表情がぼやけるようだった。
「あれ、猫どした?」
僕は座ったまま首を伸ばして居間を見渡した。
「ねこ?」
「あいつだよ」
「やだ、なんで急に変なこと言って」
咲子は弾みのある笑いを交え、
「猫なんていないでしょ、もう、酔ってる」
僕はそれで一瞬、自らの視線、それは、薄暗い居間という現実を見ていた視界が、ふいに脳の中をぐるりと巡るような、奇妙な錯覚を感じていた。
朝、目覚めると、窓の外、けたたましい小鳥の囀りが聞こえてくる。暑くて寝苦しい夜だった。夜中にリモコン探り当てて、クーラーをかけた気でいたけど、すでに停まっていた。
三毛猫が僕の頬のあたり、ざらざらした、小さなベロで舐めていた。
つづく
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