星がこぼれる音を聞いたから
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8. ポリッシュと布
トノサマ洋装店から戻って時計を見た。夕方4時。今日は古鷹に夕食の準備を頼んでおいたから俺は時間が空いている。古鷹なら大失敗はないはずだ。心配はいらないだろう。
「提督、おかえり」
「ああ。……飛鷹、俺はこれから指輪を磨く」
「指輪? ……ああ、隼鷹の指輪ね?」
「ああ。だから俺は通常業務をこなせない」
書類への捺印の手を止め、飛鷹が俺の顔を見た。ジッと見るその眼差しはまっすぐで、なんとなく『隼鷹の姉』の説得力があった。
「……分かったわ。書類は私が全部処理しとくから」
「頼む。晩飯もいらないから」
その後飛鷹は目を閉じたままフッと笑い、再び捺印処理に戻った。心持ち捺印がポンポンとリズミカルで、それを行う飛鷹がなぜか楽しげに見えた。
「……提督」
「ん?」
「しっかりね」
「んー」
飛鷹の隣にあたる自分の席に座り、おれはさっき店主から預かったポリッシュと布……そして飛鷹から預かった隼鷹の指輪を机の上に広げた。
改めて指輪を見る。三式弾の炎で炙られた指輪はひどく汚れている。じっくりと見ると、ススの付着はそうひどくないようだ。
「……いきなりこの布でふけばいいのかなぁ……」
どう扱えばいいか分からず、とりあえずティッシュを一枚取ってススをこすってみた。カリカリという手応えがあるが、やはりススは取れない。
「麻紐はある?」
俺の隣で書類を片付けている飛鷹が、捺印の手を止めずに俺にそう問いかけた。
「麻紐?」
「ええ。麻紐で拭けば、スス汚れは取れるわよ?」
「そっか。ドックに行けばあるかな?」
「あと、アクセサリーは優しく丁寧に扱うのよ? 案外デリケートだから」
「そっか……ありがとう」
「いいえ」
飛鷹のアドバイスを受け、おれは一度ドックに行って麻紐を探したのだが……当然というか何というか、そんなものはなかった……。
途方に暮れていると、ヒマを持て余した球磨型巡洋艦の長女が『麻紐なら球磨が提督に進呈するクマ』と自分の部屋から麻紐の束を持ってきてくれた。これを何に使ってるんだお前は……
「秘密だクマっ」
球磨から麻紐を受け取った俺は、再度執務室に戻り、指輪を磨く作業に入る。
「がんばってね」
「ああ」
まず麻紐で指輪を丁寧に拭く。ススが落ちる程度の強さで……でも傷つかないように優しく……
「……よし」
しばらく麻紐で磨き、指輪のススは完全に取れた。窓の外を見ると、すでに陽が落ちている。時計を見たら午後6時。思ったより時間がかかった……飛鷹がいない。俺が気づかないうちに夕食に向かったようだ。
指輪を改めて観察した。ススが落ちた指輪はある程度輝きを取り戻しているが、元の輝きにはまだ戻っていない。一部変色しているのは、炎で炙られたからか……あと全体的に黒くくすんでいる。
「よし……ここで出番か……」
店主から借りた布に、同じく店主から借りたポリッシュとかいう液体を垂らしてみた。白い液体が布の上にこぼれ、染みこんでいく……
急いで指輪をその濡れた部分に置き、そして静かに磨き始める俺。数分磨いたところで、指輪の様子を見た。
「……ぉお」
指輪は本来の輝きを少しだけ取り戻したようで、先程よりは輝いて見える。
……でも、まだ星には程遠い。
再度ポリッシュを布の上に取り、それで指輪を磨く。ポリッシュの水分が布を通して俺の指に冷たさと指輪の汚れを移していった。
「……」
ある程度磨いたら布を開いて指輪の輝きを確認し……再度また磨いて……その繰り返しだ。何度も中身を確認し、そして繰り返し磨き続ける。
「……」
執務室でたった一人、指輪を磨き続ける俺。頭の中に、不意に隼鷹の声が響いた気がした。
――もらっちゃおうか
布を開いて指輪を見る。ポリッシュがついた布に汚れを移した指輪は、少しずつ少しずつ星の輝きを取り戻しているようだ。
――ありがと……冗談でも任務でも、うれしいよ
なあ隼鷹? お前、俺の薬指に指輪を通した時、たしかにそう言ったよな? 口には出してないかもしれないけれど、俺の耳には届いたぞ? 星がこぼれる音と一緒に。
指輪を磨き続ける。力を入れず、丁寧にゆっくりと。でもこびりついた汚れがキチンと落ちるように適度な力で。
――はじめまして。飛鷹型航空母艦の隼鷹と申します
お前あの時、一瞬だけ俺の方見て嬉しそうに微笑ってたよな? なんでだ?
――隼鷹さんはあんたに似合う淑女だよー……
なんせ必ず帰ってくるからねー……
そうだな。ヒドい怪我を負っても、ちゃんと帰ってきてくれたな。榛名や神通、瑞鳳や鳳翔……戻ってこれなかったみんなとは違って……ちゃんと俺の隣に帰ってきてくれたな。
―― このまんまさ。どっか行こうよ
お前あの時、どんな気持ちだった? 俺にどう返事して欲しかった?
――……あたしでよかったの?
お前がそのセリフをどういうつもりで言ったのか、俺は知らない。けど、お前からしか星がこぼれる音は聞こえない……俺は、お前の横で、お前から聞こえるその音が聞きたいんだ。
―― 大丈夫。あんたの淑女の隼鷹さんは、ちゃんと紳士のもとに帰ってくるよ
待ってるよ……待ってる。だから早く俺の隣に帰ってきてくれ。また俺の耳に、星がこぼれる音を聞かせてくれ。
言葉を発さず他のものを見ず、俺はただひたすらに指輪を磨き続けた。そして……
「……よし」
夜9時を回った頃……指輪が元々の星の輝きを取り戻した。店主が言ったように一部変色は残ってしまったが……それでも、輝きは元に戻った。
指輪の輝きを見て、俺の胸に大きな安堵が訪れた。よかった……これで俺はまた、あいつから星がこぼれる音を聞くことが出来る。
「……提督?」
ドアが開く音と同時に、よく聞き慣れた声が聞こえてきた。声から察するに飛鷹だ。指輪から視線を外したくなくて、俺は指輪を見つめながら飛鷹の問いに返答した。
「おかえり。書類仕事ってまだ残ってたのか?」
「いや、そうじゃないけど……指輪、ずっと磨いてたの?」
「ああ」
「なんで?」
「俺のワガママだけど……隼鷹には、キラキラ光る星みたいなのをつけててほしいんだ」
「……なんで?」
あれ? 声色は飛鷹にそっくりだけど、なんか途中から違う?
「……音が聞こえるんだ」
「音?」
「ああ。星がこぼれる音が……」
「ぷっ……なにそれ?」
違和感を覚え、顔を上げた。執務室の開いたドアの前にいたのは、飛鷹じゃなかった。アクセサリーこそ身につけてはいないが、キラキラと輝いているかのように星がこぼれる音を鳴らし続ける隼鷹が、執務室の入り口に笑顔で立っていた。
「隼鷹……」
「提督、ただいま。心配かけたね」
落ち着け。身体を制御しろ……
「もう……大丈夫か?」
「入渠したからね。もう大丈夫だよ。一応飛鷹にさっきまでついていてもらったけどね。傷も綺麗に治った!」
ドアのところに立っている隼鷹が、今も着ている戦闘服の袖をまくった。あの時の焼けただれた傷がウソのように、隼鷹の右手の肌は綺麗になっていた。
おれは指輪を布の綺麗な部分で再度磨いた。指輪に残っていたポリッシュが綺麗に拭き取られ、指輪が一際輝いた。
……逸るな……落ち着け……。
「飛鷹から聞いたけど、晩飯食ってないんだって?」
「おう」
「んじゃさ、快気祝いに晩飯がてら晩酌に付き合って!」
落ち着いて指輪を右手に握り、気持ちを抑えて俺は立ち上がって隼鷹のそばまで来た。
「……」
「なーなー、いいだ……」
抑えられなかった。気がついた時、俺の両手は、すぐ目の前に立っていた隼鷹の身体を、あらん限りの力で抱きしめていた。
「……」
「ちょ……ていと……苦し……ッ」
「……」
「……」
それこそ、口では嫌がりながらも俺に身体を委ねる隼鷹を、そのまま潰してしまいそうなほどに。お互いの身体にお互いの感触を刻みつけるように。強く強く抱きしめていた。
「提督……」
「……心配した」
「言ったろ? あんたの淑女の隼鷹さんは、ちゃんと紳士の元に帰ってくるって」
「でも待たせ過ぎだ」
「淑女はを紳士待たせるものだって洋装店の店主も言ってたろ?」
「言ってたな」
「なら待たなきゃ」
「待ったよ。指輪磨いて」
「うん」
俺の右耳のすぐそばにある隼鷹の口からは、紛れもない隼鷹の声が聞こえてきた。顔は見えないけれど……酒臭くもないけれど……この声は隼鷹だ。……ずっと聞きたかった、隼鷹の声だ。
「ねえ提督?」
「ん?」
俺の耳元で、隼鷹が優しく囁いた。
「指輪」
そして隼鷹の左手がもぞもぞと動いて俺の右手を自分の身体から離し、そして優しく握った。
「返してくれる?」
「……」
「その指輪……あたしにとっても大切なものだから」
隼鷹の手が、指輪を握っている俺の左手を優しく開く。手が開かれた俺はそのまま隼鷹の手を握り、そしてそのまま指輪を……
「……」
「ん……」
隼鷹の薬指に通した。
「……ありがと」
その直後、星がこぼれる音が聞こえた。
俺が聞きたかった音が、やっと聞こえた。
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