フロンティアを駆け抜けて
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初めてのファン?
ジェムの朝は早い。自然に彼女が目を覚ますと時計は朝6時半を示していた。ダイバはまだ眠っているようだ。自分の家のそれよりもふかふかのベッドから出る。
「おはよう、ラティ」
ボールの中でまだ寝ているラティアスに声をかける。起こすことはしない。自分のポケナビを見るとそこには、大量の着信履歴が残っていた。ジェムの母親からだ。
「あ……そうだ。夜に電話するって約束してたんだ……」
電話をかけてこないジェムを思ってのことだろう。母親はジェムのことになると心配性なところがあるため、不安にさせてしまったはずだ。すぐにメールを打ち、自分の無事を知らせる。
「後で電話してごめんなさいって言わないと」
そう言いながら服を着替えて、モンスターボールを腰につける。朝起きたら目を覚ますために軽く散歩をするのが日課になっていた。ホテルから出て、ゆっくりとバトルフロンティアの町を歩く。さすがにこの時間は人通りもほぼなく、ジェムにバトルを挑んでくる者はいなかった。
「今日はどの施設に挑戦しようかな?」
近くには天まで伸びる塔や、ピラミッドのような形をした施設がある。それらでのバトルに思いを馳せながら歩いていると、前の方から歩いて来た女の子に声をかけられた。
「あの……あなた、ジェム・クオールさんなのです?」
「うん、そうよ。……私とバトルするの?」
声をかけてきた少女はジェムより少し背が高く、ピンク色の長いくせっけを無理やりツインテールにしている。ドラコの立派なマントとは違った、ぼろきれのような茶色い布を纏っていて服装はよくわからない。少女は警戒するジェムに対して慌てて手を前に出して振った。。
「いえいえ、とんでもないのですよ。……昨日のあなたのポケモンバトル、見させてもらいました。素晴らしかったのです」
「え?その……ありがとう」
施設内のポケモンバトルの様子がいたるところで映し出されているのは知っているが、見知らぬ人にバトルを褒められれば面喰いながらも照れてしまう。
「一日で二人ものブレーンに挑戦し、一人には勝利。……わたし、あなたのファンになっちゃったのです」
「ファ……ファン。ありがとう……」
むず痒い言葉だ。だけどチャンピオンの父を持つジェムにとっては、父のように誰かに憧れられることに憧れていた部分もある。照れくささに顔を赤らめるジェム。
「よければゆっくり、お話しさせていただきたいのですよ。構いませんか?」
「うん。いいわよ。ファンは大切にしないといけないってお父様も言ってたし」
「ふふ、ありがとうございますですよ」
ジェムの返事を聞いた少女は、瞳孔を見せない細い目で柔らかく微笑んだ。丁度近くにベンチがあったので、2人で並んでそこに座る。
「申しおくれましたね。まずは自己紹介をさせてもらうのです。私の名前はアルカ・ロイドというのですよ」
「アルカさん……か。あなたもポケモントレーナーなの?ここにはやっぱり挑戦しに?」
「トレーナーではありますけど、挑戦はしないつもりなのです。あなたのようなきれ……強い人を見るためにやってきたので」
何か言いかけるアルカ。ジェムは首を傾げた。ごまかすようにアルカはマントの下から水筒を取り出す。
「そうだ。わたし、ポケモンと一緒にお茶を作るのが趣味なのです。良かったら飲んでもらえませんか?」
「ポケモンのお茶?面白そう!」
「手前味噌ですが、お茶には自信があるのですよ~」
そう言ってアルカはコップにお茶を注ぎ、そして安全を証明するように自らも直接飲んで見せる。お茶の見た目は濃い緑色をしていた。受け取ったジェムは、疑うことなく口をつける。
「……おいしい!こんなにおいしいお茶、始めて飲んだかも」
「それは良かったのです」
お茶の味は濃い色からは予想できないほどすっきりした甘さと苦みがあった。ジェムは苦いのは苦手だったが、こんな苦みなら美味しいと思えた。
「ねえねえ、あなたはどんなポケモンを持ってるの?」
「そうですね、実際にお見せしましょうか。出てきてくださいですよ、ティオ、ペンテス」
アルカはボールを二つ取り出し、ポケモンを出す。マスキッパとウツボットだ。
「こっちのマスキッパがティオ、ウツボットがペンテスなのですよ。ほら二人とも、ご挨拶なのです」
「ウツ……」
「キパー?」
ウツボットの方は大人しそうで、静かに身をかがめた。マスキッパは命令をあまり理解していないのか、間の抜けたような声で頭を下げる勢いでそのままアルカに頭で噛みつこうとした。突然のことに驚くジェム。アルカは平然と、噛みつきを手で払う。
「もう、出てくるたびに噛みついたらダメって言ってるのですよ」
「び、びっくりした……」
「ごめんなさい、こういう子で。でも可愛いし、お茶も作れるのですよ?」
「そうなんだ……あ、なんだかいい香り」
ジェムの鼻孔を甘い香りがくすぐる。アルカはウツボットの頭の葉を撫でた。
「甘い香りはペンテスの力なのです。さて、そろそろあなたのお話を聞かせてほしいですよ」
「えっと、何を話せばいいかな……」
初めての経験に戸惑うジェム。昨日のバトルを見ていたなら手持ちのポケモンについては知っているだろう。そんなジェムに、アルカは自分から質問する。
「そうですね、あなたは聞けばチャンピオンの娘だとか。やっぱりバトルは、彼に教えてもらったんですか?」
「うーん……直接お父様に教わったことはあんまりないかな。忙しい人だから」
答えるジェムの声は、憧れと寂しさが混ざっていた。チャンピオンの仕事は何も挑戦者を待つだけではない。何かポケモンによる事件があれば解決に当たるし興行として町に出向くこともある。それはホウエンだけでなく、別の地方に行くこともあり一か月以上家に帰ってこないことも珍しくない。
「でもね、お父様のことはお母様やジャックさん……私のバトルの師匠が教えてくれるし、たまに帰ってきたときは一杯遊んだり相手をしてくれるから淋しくないわ。本当よ?」
「……そうですか。羨ましいのです」
「羨ましい……?」
「わたし、お父さんとお母さんの顔を知らないのです。どういう人だったのかもわかりません。物心ついた時には、一人でしたから」
アルカは淡々と言う。羨ましいと言っているものの、特段の感情はこもっていないように聞こえた。何も知らない分、気持ちの込めようがないのかもしれない。ジェムはそれを悲しいことだと思った。ダイバとは違った意味で、彼女は親子の愛情を知らないのだから。
「おっと、余計なことを話してしまいました。チャンピオンは今ので優しそうな人ってわかりましたけど、お母さんはどんな人なのです?」
「お母様はお父様と違ってちょっと偏屈なの。落ち込みやすくて不器用で心配性なところがあるけど……でも、優しいお母様よ」
「仲が良いんですね」
「あの……あなたには、誰か家族の様な人はいないの?」
聞くべきかは躊躇われるところでもあったがやはり気になってしまった。アルカはため息をつく。やはり聞くべきではなかったかと思ったが、割とすらすらと答えた。
「一応、拾ってくれた人はいるのですよ。そのことには感謝してますけど、これがまあ困った人でして」
「そ、そうなんだ……でも、嫌いじゃないんだよね?」
アルカの言い方は辟易こそすれ、愛想を尽かしているように聞こえなかった。アルカも肯定する
「まあそうですね。恩義はありますし、協力はしてあげてもいいと思っています。ところでジェムさん。もう一つ質問してもいいですか?」
「どうしたの改まって。もちろんいいわよ?」
「そうですか……では」
アルカはジェムを細めた目で見つめる。そして一言、蠱惑的に呟いた。
「身体が痺れませんか?」
ジェムは一瞬、質問の意味がわからなかった。アルカは立ち上がり、ジェムの正面で前かがみになって鼻先が触れるほど近づける。驚いてジェムが身を避けようとすると――その体が、動かない。蛇に睨まれた蛙のように。そして持っていた水筒のコップを取り落してしまう。
「あ、あれ……」
「ちゃんと効いているみたいですね。良かったのです」
恍惚としたアルカの吐息がジェムにかかる。さっき飲んだお茶の香りを強くしたような、甘ったるい匂い。それを嗅ぐと意識がぼんやりとする。
「そのお茶にはわたしのポケモンのしびれごなとねむりごなが入っています。一口でも口をつければ、このようになるのですよ。私以外はね」
「なん、で?」
ジェムの頭に浮かんだのはこんなものを飲まされた怒りではなく、疑問だった。それを聞いたアルカは心底愉快そうな、愛おしそうな笑みを浮かべた。ただしその愛は、今までジェムが受けたことのあるものとは明確に違っていた。それは例えるなら、小さな雄の蜘蛛を見る雌の蜘蛛のようだった。
「昨日あんな目に合ったのにまだ気づかないのですか?鈍いですねえ……でも、そんなところも可愛いです」
「……!」
そこまで言われて、ジェムはある可能性、いや真実に気がつく。だけど体が、口が、麻酔でも受けたように動かない。まだ起きてから30分もたっていないのに、徹夜した時のように瞼が重かった。
「まあそろそろ喋れないでしょうし、続きはもっと落ち着いて話せるところにしましょうか。でないと、アマノもうるさいですしね」
「……」
アルカが彼の名を呟いた時、既にジェムの意識は闇に堕ちていた。マスキッパの蔦がやんわりとジェムの体に巻き付き抱える。ついでに腰につけているモンスターボールを一つだけ残して取っておいた。
「さあ、もう一度来てもらいましょう。わたし達の住処へ。だけど安心してください。わたしがいる以上、あなたをあの男の趣味には付き合わせないのです」
意味深に呟いて、アルカは自分とアマノの隠れ家まで戻っていった。
「……あれ、いない」
ダイバの朝はジェムに比べると遅い。彼が目を覚ました時、時計は朝8時を示していた。そして隣のベッドにジェムがいない。ベッドに触ると、そこに熱は残っていなかった。つまり、ベッドから出てそれなりに時間は立っていることになる。なのに戻ってきていないのは不自然だと思った。
「……面倒くさいな」
勝手な行動をするジェムにため息をつく。それでも放っておけないのはやはり執着からか。ダイバはのそのそとパジャマから着替え、そして外へ出ていった。彼女を探すために。
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