―――お前は彼女をつくらないのか。
サークルの呑み会で不意に掛けられた言葉が、二日酔いのようにがんがん響いていた。
ああそういえば出来ないねぇ、高校の頃は居たんだけどタイミングの問題じゃないかな。いい子いたら紹介してよはははは……俺は、うまく流せた気になっていた。
流せた、どころの話じゃない。流したつもりが下流のほうで引っかかりまくって流れをせき止めて今にも氾濫しそうな勢いだ。……どこでだ、どこで俺は彼女を作ることに全く関心が持てなくなったのだ!?
起き抜けの頭にこんな疑問が浮かんでくる時点でもう最悪の寝覚めなのだが、更に最悪なことが俺の横で起こっている。
知らない女が、俺のベッドを占拠して寝ているのだ。
この女を見つけた瞬間、咄嗟に自分の着衣の乱れをチェックした。…いやいやいや、きちんとパジャマを着ているし、そもそも酔っていたとはいえ意識を失うほどじゃなかった。俺は一人で帰ってきて、ピンポンを押して母さんに鍵を開けてもらい…そうだ、鍵を開けてもらっている!その時、俺に女がついて来ていたら今頃大騒ぎで吊し上げを食らっているに違いないのだ。
「おかしいな、やはり」
どうしても心当たりが思いつかない。俺は彼女を起こさないように、そっと枕元のスマホに手を伸ばした。
―――さて。
奉を呼んでみた訳だが。
俺は今、信じらんない状況に陥った。
意外にも俺の呼び出しにマッハで応じて青島邸を訪れた奉だったが、ドアを開けて開口一番。
「明かしたわ~」
「……何を」
「夜を」
「ん?」
「夜を明かして、本を読んでしまった」
「そうか」
「なので寝る」
「何処でだ」
「お前の家の、スプリングの利いた、羽毛布団のベッドでだ」
「いやいやいや何云ってんの、俺の話半分でも聞いてた!?」
「来い、しか耳に入って来なかった」
そう云って強引に家に上がり込むと、女を端っこに押し退けて熟睡し始めてしまったのだ。
―――どうしてそういう事できるのこいつ?
幸い、奉が強引に上がり込んで来た顛末は母さんが見ていたので、それがカムフラージュになって知らない女の事はバレていない。寝床目当てに押し込んで来た奉も奉だが、ベッドの隅っこに追いやられてもなお起きないこの娘も一体…
「―――おはよう♪」
起きた!!!
「あれ、誰コイツ」
女は気だるげに長い髪をかきあげ、面倒そうに奉を見下ろした。髪に隠れていた横顔は思いがけず綺麗な作りをしている。奉の妹のような快活な美しさではなく、なんというかこう…陰のある、底の知れない美しさだ。伏し目がちな瞳は墨を溶かしたように黒い。彼女はもう一度、俺に視線を向けると、薄く微笑んだ。
「…誰ですか貴方は」
―――なんか、厭だ。
「………結貴の、彼女でしょ?」
そう囁くように云って、彼女は黒い瞳でじっと俺を覗き込んだ。
居心地が、悪い。俺は気分が悪くなって目を反らした。
「……知りません。大体どうやってここに入ったんですか」
「一緒にお酒呑んで、帰って来て…ねぇ?そうだよね、思い出して?」
彼女はしなる獣のような動作で俺の正面に回り込んで、もう一度俺と目を合わせてきた。ぐらり、と床が歪む。うわうわうわ、来たぞ眩暈が来た。ど、どうしようこの状況で俺が気を失って、ここに母さんが入って来て、俺の彼女と名乗る知らない女と爆睡中の奉を発見して、この女にいいように説明されて…あ…もう、駄目だ……
「面倒なことになったねぇ……」
倒れ込む瞬間、奉の眠そうな声が耳朶に届いた。
何故か腹が減って目が覚めた。
時計を見ると、まだ10時にもなっていない。…あれ、夢だったか?夢…だったと仮定して、妙に生々しく眩暈が残っている。少し天井が回る。…いや、酒のせいかな。階下から、ぽて、とす、ぽて、とす、と変な音が近づいてきた。そしてそっと音を立てずにドアが開く。
「おきましたね、結貴くん」
あぁ、小梅が来ているのか。小梅は最近、俺を結貴くんと呼ぶようになったのだ。小梅が俺の部屋に勝手に入り込んで剣道部の県大会で貰ったトロフィーをままごとに使おうと企んだ挙句破壊して以来(唯一のインテリアがトロフィーとかダサいのでそのうち仕舞おうと思っていたから全く構わないんだが)姉貴が『2階には上がるな』と云い聞かせてはいるらしい。が、あの好奇心の塊が、そんな言いつけを聞くはずがない。だが見つかれば叱られることは理解しているので、小声で話すのだ。
「……今日は早いな」
「ママは、『ままとも』とかいうひとと、おでかけなのです。だから小梅は、ばぁばんちの、たんけんたいなの」
―――鬼の居ぬ間に、なんとやらというわけか。小梅は可愛くまとめてもらったお団子頭をプリプリ揺らして俺のベッドに勝手によじ登ってきた。そういう事するから二階出禁になるんだぞ君は。
「きょうここに、きけんをかえりみずにきたのは、おれいのしなじなをわたす、そのためです」
お礼の品々?
「いつも、ひこうきとかしてくれてありがとう。さっきも、まつるくんがひこうきやってくれたのよ」
奉くん!?あいつやっぱり来てたのか!?ならば…さっきのは夢じゃないんだな。そしてあいつが俺の家に押しかけて仮眠をとりつつスタンバイしていたのは、小梅が来るのを嗅ぎつけていたからだな。
「あい、おみやげよ」
小梅が拙く丸めた画用紙を広げた。そこには、真っ青な胴に鱗を光らせた変な馬らしき生き物に乗った二人の棒人間みたいなものが描かれていた。そいつらから吹き出しが2つ出ていて『きりんだー』『きりんだー』と書きこまれていた。そしてその足元には、妙にでかい三つ編みの女の子が『わーい』みたいな恰好をして笑っている。
「……こ、これは……」
「まつるくんがつれてきた、おさかなよ。これがー、まつるくんで、これがー、結貴くん」
青い獣の下にピンク色のクレヨンでデカデカと『おさかな』と書いてある。ど、どうしよう、これこの間、奉がちょっとした誤解の果てに小梅ん家に麒麟連れて行った時の絵じゃねぇのか。何も間違ったことは描いてないのに超変な絵になっちゃってるよ!これ俺が親だったら、この子…心に変な闇を抱えてんじゃないかしら…と心配するレベルだよ!!
「あっ…ありがとう…この絵は、その…ママには見せたのかなぁ?」
「うん!ほめてくれたよ!」
……見せちゃったかー……
「そのあと、ママおしごとやめたほうがいいのかなぁって、まじめなかおでいってた!!」
―――うわぁあぁ、本当に申し訳ない。
「うむ、とても上手に描けているねぇ。麒麟の瑞獣感が良く表現されている」
俺が変な汗をこらえて姪の絵を眺めているその背後に、奴が現れた。瑞獣感なんて言葉初めて聞いたわ。
「キリンとちがう!これは、おさかな!!」
「そうだ。もうお前はこれ以上余計な事を云うな。小梅一家に激震が走ってんだよお前のせいで」
「そんなことないよねー、小梅」
「うん!げきしんてなに?」
うんーなんだろねぇー、と適当にあしらい、また新たな冒険の旅に出た小梅に気づかれないように、奉に目配せをして部屋に入れた。小梅についていく気だったらしい奉は、渋々ついてきた。
「さっきの女は、どうしたんだ」
渋々、超渋々薄い座布団に腰を降ろし、奉が肩をすくめた。
「逃がした」
「出ていってくれたのか…」
なんとも言えない安堵が緊張を溶かした。溶け過ぎてもうひと眠りしたいくらいに。しかし奉は、まだ渋い顔をしている。そんなに小梅と遊びたいのか。
「引き留めるべきだったねぇ」
……は?
「あれは飛縁魔。凶兆だ」
「凶兆?…そいつがいると悪い事が起きるってやつだろ?だったら出て行ってくれて良かったじゃないか」
「また、勘違いをしているねぇ、お前は」
奉は断りもせず煙草を取り出すと、軽く口にくわえて火をつけた。眼鏡が光を反射して分かりにくいが、多分俺を睨んでいる。
「あれはただの『兆し』。凶事を運んでくるわけではない。ただ、誰かの生活にそれとなく忍び込むだけの妖だ。美しかろ、あれ」
「ああ…綺麗な人だったな」
あの時はたまらなく厭な感じがしたが、今になってみると少し惜しい気がする。あんな凄い美人が『あなたの彼女』などと云いよってくれたというのに、俺は。
「…独り身の男にとって、そう悪い話じゃなかろ?」
「だな」
「な―――?あ、そうすね彼女彼女、とか云っておけば良かったんだがねぇ」
奉は害のない妖に対してはビックリするくらいノーガードだ。その奉が云うのだから…だが。
「…だが凄く厭な感じもしたんだよなぁ…どういう謂れの妖なんだ」
奉はひどくつまらなそうに語り始めた。今より少しだけ昔、くだらない迷信が今よりずっと重要視された時代のことだ。丙午の年に生まれた女は火事を起こす、男を殺す、などと云われ…少なくない数の女の子が、生まれてすぐに〆られ、命を絶たれた。
「皆、普通の子達だったねぇ。場合によっては将来、そうなる子もいたかもしれない。だがどの年に生まれた子でもそれは変わらないはずだった…憐れに思った親や親族が、玉群神社にも絵馬を提げにきた。何百枚と」
その子達の念が凝り、向けられた畏れや憐れみを取り込み、ああいう存在になる。人の生活に紛れ込む以外、大した力はないし、特別に悪い事はしない…奉はそう続けた。
「ただ、入り込み易い『歪み』が生じる場所は、凶事も呼び込み易いのだ。だから飛縁魔には『憑かれた男を亡ぼす』などという悪評がつきまとうことになったんだねぇ」
「……死んだあとも悪評に苦しむのか」
「なに、よくあることよ。だが、だからこそ引き留めるべきだったねぇ。居ればどの程度の凶事が、いつ迫るのかの目安くらいにはなったし、なにより」
軽いノックが響いた。母さんが今更、珈琲を持ってきたらしい。盆には大量の菓子パンも乗っていた。朝飯ということだろうか?
「お、やった。ご馳走だなぁ」
奉が小躍り状態で盆を受け取った。少し開いたドアの隙間から、小さな影が滑り込んできた。
「小梅たんけんたいは、パンのやまをはっけんした!」
云うなり小梅は小さな手でチョココロネをひっさらい、奉の膝にしゅるんと納まった。
「小梅ちゃん!」
母さんは軽く嗜めるような、でもそこまで厳しく云うつもりもなさそうな口調で一応、声を掛けた。奉が満面の笑みで、あ、大丈夫ですからむしろこのままでほんと大丈夫ですからなどと取り成す。なんかもうこいつ、きもい。
「ばぁば!小梅にはリンゴジュースをおにゃいします!」
「パンには牛乳です!」
そう云いつつ、トントンと軽快な音をたてて階段を降りていく。あのくそ厳しかった母さんも、結局なんだか甘いばぁばになったものだ。
「…なにより、居場所さえあればあの子は幸せなのだ。あの子が目を付けたということは、好きな女も、当面は女を作る予定もないのだろう?」
「うるせぇな」
事実その通りなんだが…え?だが…
「彼女は、何故出て行った?」
もしや俺に彼女が出来るフラグ!?
「この子がな」
ぽん、と小梅の頭に手を置く。
「結貴くんと結婚するのは小梅なんだから出ていけ、と追い出したんだ。お前も隅に置けないねぇ」
………ちっくしょう。
くっくっく…と変な笑い方をする奉に、小梅がチョココロネ咥えたまま肘鉄を10発くらい食らわせた。
「……そんなことで?」
ふざけんなよもっと頑張れよ。
「意外と豆腐メンタルだぞ彼女は」
「かのじょじゃないもん!結貴くんのかのじょは小梅だもん!」
肘鉄を食らってえほえほ咳き込みながらも笑う。女の敵は女だねぇ…などと呟きながら。
結局、俺にどんな凶事が起こるのかは分からず仕舞いとなった。
そんなことがあって暫くして、大学の学食にて。顔見知りの傍らに美しいあの女を見かけた。俺は気が付かない振りをして通り過ぎた。若干のむなしさを感じないでもないが、やはり妖だ。…別に俺が好きで近づいてきたわけじゃない。
奉は相変わらず洞で書を繰りながら云っていた。
―――お前が感じた『厭な感じ』、そして小梅に『祓われた』その事実。それ自体が謎解きの鍵なのかもねぇ。
それは俺に彼女ができる前兆とかではないのかと聞いてみたが、奉は黙って書を繰るばかりだった。