Sword Art Rider-Awakening Clock Up
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ダークリパルサー
前書き
このお話に《ネザー》は出てこない
「たっだいま~!」
リズベットは懐かしの我が家のドアを勢い良く押し開けた。
店の中をグルリと見回す。たった1日留守にしただけだが、何だか妙に新鮮に見えた。
ここに来る途中で買い食いしたキリトが、ホットドッグを咥えながら店に入ってきた。
「もうすぐお昼なんだから、ちゃんとした店で食べようよ……って」
最後までいい終えた途端、リズベットはあることに気づいた。キリトの後に続いて入ってくると思っていたネザーが、見当たらないことに。
「ねぇ、ネザーはどうしたの?」
「あー……その、ちょっと」
リズベットの問いに、キリトは咥えていたホットドッグを手で持ち、口籠もりながら言った。
「ここに来る途中で、最前線に帰っちゃったんだよ」
「はぁ、何よそれ?」
せっかく新しい武器でも作ってあげようとしたのに、という純情な思いが無駄にされたような気分になった。
猛烈な文句を言いそうなリズベットの気分を変えようと、キリトは左手を振り、ウィンドウを出した。
「それはそうと、早速だが剣を作ってくれないか」
ぱぱっとアイテム欄を操作し、白銀のインゴットを実体化させる。ひょいっと放ってきた金属をキャッチしたリズベットは頷いた。
「そうね、やっちゃおうか。じゃあ工房に来て」
カウンター奥のドアを開けると、ゴトンゴトンという水車の音が一際大きくなった。壁のレバーを倒すと、鞴が動いて風を送り始める。すぐに炉が真っ赤に焼け始める。
インゴットをそっと炉に投下して、リズベットはキリトを振り返った。
「片手剣直剣でいいのよね?」
「おう。よろしく頼む」
キリトは来客用の丸椅子に腰掛けながら頷いた。
「了解。言っとくけど、出来上がりはランダム要素に左右されるんだから、あんまり過剰に期待しないでよ」
「失敗したらまた取りに行けばいいさ。今度はロープ持参でな」
「……長いやつをね」
あの盛大な落下を思い出して、笑いを漏らす。炉に眼をやると、インゴットはもう充分焼けているようだ。ヤットコを使って取り出し、金床の上に置いた。
壁から愛用の鍛冶ハンマーを取り上げ、メニューを設定すると、リズベットはもう一度チラリとキリトの顔を見た。無言で頷いてくる彼にみで応え、ハンマーを大きく振り上げる。
気合を込めながら赤く光る金属を叩くと、カーン!という澄んだ音と共に、明るい火花が盛大に飛び散った。
リファレンスヘルプの鍛冶スキルの項には、この工程について、【炸裂する武器の種類と、使用する金属のランクに応じた回数インゴットを叩くことによって】という記述しかない。
つまり、金属をハンマーで叩く行為そのものには、プレイヤーの技術の介在する余地はない、という風に読めるが、そこは様々な噂やオカルトの飛び交うSAOのこと、叩くリズムの正確さと気合が結果を左右する、という根強い意見がある。
あたしは自分のことを合理的な人間だと思っているけど、この説だけは長年の経験から 信奉しんぽうしている。ゆえに、武器を作る時は余計なことを考えず、ハンマーを振る右手に意識を集中し、無の境地で叩き続けるべし、という信条がある。
しかし。
カン、カン、と心地よい音を立ててインゴットを叩きながら、今だけはリズベットの頭の中に色々な想念が渦
巻いて去ろうとはしなかった。
もし首尾よく剣ができて、依頼が終了したら__。当然キリトは最前線の攻略に戻り、そうそう会うこともなくなるはずだ。剣のメンテに来てくれるとしても、せいぜい10日にいっぺんがいいところだろう。
そんなの__そんなの、嫌だ。あたしの中で、そう叫ぶ声がする。
人の温かさに飢えながら__ううん、だからこそ、あたしは今まで特定の男性プレイヤーとの距離を縮めることに躊躇してきた。あたしの中の寂しさの種が恋心にすり替わってしまうのが怖かったから。それは本当の恋じゃない、仮想世界が作る錯覚だと、そう思ってきたから。
でも夕べ、キリトの手の温もりを感じながら、あたしは、そのためらいこそがあたし自身を縛る仮想の茨だと悟った。あたしはあたし。鍛冶屋リズベットであり、同時に篠崎里香でもある。キリトも同じだ。ゲームのキャラクターじゃない、血の通った本当の人間だ。なら、彼を好きだ、という気持ちだって本物なんだ。
満足の行く剣が打ち上がったら、彼に気持ちを告白しよう。傍にいて欲しい、毎日、迷宮からこの家に帰ってきて欲しいと、そう言おう。
インゴットが鍛えられ、輝きを増していくのと同時に、あたしの中の感情も確固としたものになっていくようだった。あたしの右手から思いが溢れ出して、鎚を通して生まれている武器に流れ込んでいくのを感じた。
そして、とうとうその瞬間がやってきた。
何度目とも知れない。多分200回から250回の間、音が響いた直後、インゴットが一際眩い白光を放った。
長方形の物体は、輝きながらじわじわとその姿を変えていく。前後に薄く延び始め、次いで鍔と思わしき突起が盛り上がっていく。
「おお……」
低い声で感嘆の囁きを洩らしながら、キリトが椅子から立ち上がり、近づいてきた。あたし達が並んで見守る中、数秒をかけてオブジェクトのジェネレートが完了し、ついに1本の剣がその姿を現した。
美しい、とても美しい剣だった。ワンハンド・ロングソードにしてはやや華奢だ。刃身は薄く、レイピアほどではないが細い。インゴットの性質を受け継いでいるかのように、ごくごくわずかに透き通っているように見える。刃の色は眩いほどの白。柄はやや青味を帯びた銀。
《剣がプレイヤーを象徴する世界》、その謳い文句を裏付けるように、SAOに設定されている武器の種類は途方もなく多い。各カテゴリーに含まれる武器の固有名を端から列拳すれば、恐らく数千は下らないと言われている。
普通のRPGとは異なり、その固有名の多様さは、武器のランクが上がれば上がるほど増大していく。下位の武器は、例えば片手直剣なら《ブロンズソード》やら《スチールブレイド》といった味気ない名前で、それらの剣はこの世界に無数に存在するけれど、現在出現している最上級クラスの武器、例えばアスナの《ランベントライト》あたりは恐らく世界に1本の、文字通りワンメイク物だ。
もちろん、同程度の性質を持つレイピアは、プレイヤーメイド、モンスタードロップ問わず他にも存在するだろう。でもそれらは皆異なる名前、異なる姿を持っている。それゆえに、ハイレベルの武器は持ち手を魅了するし、魂を分けた相棒となっていくのだ。
武器の名前と姿は、システムによって決定されるため、製作者たる鍛冶屋達でも完成する外見にそぐわない。リズは金床の上できらめく剣を両手で持ち上げようとして、その優美な外見にそぐわない重さに驚愕した。キリトの持つ黒い剣《エリュシデータ》に劣らない筋力要求値。腰に力を入れ、気合と共に胸の前まで持ってくる。
刀身の根元を支える右手の指を伸ばし、軽くワンクリック。浮かび上がったポップアップウィンドウを覗き込む。
「えーと、名前は《ダークリパルサー》ね。あたしが初耳ってことは、情報屋の名鑑には載ってない剣だと思うわ。試してみて」
「ああ」
キリトはこくりと頷くと、右手を伸ばし剣の柄を握った。重さなど感じさせない動作でひょいっと持ち上げる。左手を振ったメインメニューを出し、装備フィギュアを操作して白い剣をターゲット。これで剣はシステム上もキリトに装備されたことになり、数値的ポテンシャルを確認することができる。
でもキリトはすぐにメニューを消すと、数歩下がってから剣を左手に持ち替えて、ヒュヒュン、と音を立てて数回振った。
「どう?」
持ちきれずに訪ねる。キリトはしばらく無言で刀身を見つめていたが、やがて大きくニコリと笑った。
「重いな。……いい剣だ」
「ほんと!?……やった!!」
あたしは思わず右手でガッツポーズをしていた。その手を突き出し、キリトの右拳にごつんと打ち合わせる。
こんな気持ちは久しぶりだった。
昔、10層あたりの主街区で露店販売していた頃、がむしゃらに作った武器をお客に褒められた時にも、こんな気分がした。鍛冶屋をしていてよかった、と心から思える瞬間。スキルを究め、ハイレベルプレイヤーだけを相手にした商売に乗り換えるうちに、いつしか忘れてしまっていた気持ちだった。
「……心の問題、だね……全部……」
あたしがふと洩らした言葉に、訝しむ顔でキリトが首を傾げてくる。
「う、ううん、なんでもないよ。……それより、どっかで乾杯しようよ。あたしお腹空いちゃった」
照れ隠しに大声で言い、キリトの背後から彼の両肩を押す。そのまま工房から出ようとして、あたしはふと、ある疑問に気づいた。
「……ねぇ」
「ん?」
肩越しに振り向くキリト、その背中に吊られた、黒い片手剣。
「そう言えば、あんた最初に、この剣と同等の、って言ったわよね。その白いのは確かにいい剣だけど、あんたのそのドロップ品とそんなに違うとも思えないわよ。なんで似たような剣が2本も必要なのよ?」
「ああ……」
キリトは振り向くと、何かを迷うような表情でリズベットをジッと見つめてきた。
「うーん、全部は説明できない。それ以上は聞かない、って言うなら教える」
「何なのよ、もったいぶって」
「ちょっと離れて」
リズベットを工房の壁際まで下がらせると、キリトは左手に白い剣を下げたまま、右手で背中の黒い剣を音高く抜き放った。
「……?」
彼の意図が摑めなかった。先程装備フィギュアを操作したからには、現在システム的に装備状態にあるのは左手の剣だけで、右手にもう1本武器を持ったところで何の役にも立たないはずだ。それどころか、イレギュラー装備状態と見なされてソードスキルの発動ができなくなる。
リズベットの途惑い顔に一瞬だけ視線を向け、キリトはゆっくりと左右の剣を構えた。右の剣を前に、左の剣を背後に。わずかに腰を落とし、そして次の瞬間。
赤いエフェクトフラッシュが炸裂し、工房を染め上げた。
キリトの両手の剣が交互に、眼に見えないほどのスピードで前方に打ち出された。キュババババッ!というサウンドが空気を圧し、カラ撃ちにも関わらず部屋中のオブジェクトがビリビリと震えた。
明らかにシステムに規定された剣技だ。でも、2本の剣を操るスキルなんて聞いたことがない。
息を呑んで立ち尽くすリズベットの前で、おそらく10連撃に及ぶ連続技を放ち終わったキリトが音もなく体を起こした。左右の剣を同時に切り払い、右手の剣だけを背中に収めて、リズベットの顔を見て言った。
「とまあ、そういうわけだ。この剣の鞘が要るな。見繕ってもらえる?」
「あ……う、うん」
キリトに度肝を抜かれるには何度目だろうか。いい加減慣れつつあるリズベットは、とりあえず疑問を先送りすることにして、壁に手を伸ばしホームメニューを表示させた。
ストレージ画面をスクロールし、馴染みの細工師からまとめて仕入れている鞘の一覧をざっと眺める。キリトが背に装備しているものに良く似た黒革仕上げのやつを選び出し、オブジェクト化。小さくうちのロゴが入ったそれをキリトに手渡す。
ぱちりと音をさせて白い剣を鞘に納めたキリトが、ウィンドウを開いてそれを格納した。背中に2本装備するのかと思ったらそういうわけでもないらしい。
「……内緒なんだ?さっきの」
「ん、まあな。黙っててくれよ」
「りょーかい」
スキル情報は最大の生命線、聞くなと言われれば追求はできない。それよりも、秘密の一端にせよ見せてくれたことが嬉しくて、あたしは小さく笑って頷いた。
「……さて」
キリトは腰に手を置くと、表情を改めた。
「これで依頼は完全完了だな。剣の代金を払うよ。幾ら?」
「あー、えっと……」
あたしは一瞬、唇を噛んでから、ずっと胸の中で暖めていた答えを口にした。
「お金は、要らない」
「え?」
「その代わり、あたしをキリトの専属スミスにして欲しいの」
キリトは僅かに眼を見張る。
「……それって、どういう……?」
「攻略が終わったら、ここに来て、装備のメンテをさせて……。毎日、これからずっと」
心臓の鼓動が際限なく速まっていく。これはバーチャルな身体感覚なんだろうか、それともあたしの本当の心臓も、今同じようにドキドキしているんだろうか?と頭の片隅で考える。頬が熱い。きっと、あたしは今顔中が真っ赤になっていることだろう。
いつもポーカーフェイスを崩さなかったキリトも、あたしの言葉を悟ったのか、照れたように顔を赤くして俯いた。今まで年上に見えていた彼だが、その様子を見ていると同年代か、ことによると年下のようにも思えてくる。
リズベットは勇気を振り絞って1歩踏み出し、キリトの腕に手をかけた。
「キリト……あたし……」
竜の巣から脱出した時はあんなに大声で叫んだ言葉だったけれど、いざ口にしようとすると舌が動かない。じっとキリトの黒い瞳を見つめ、どうにかその一言を音にしようとした……その時だった。
工房のドアが勢い良く開いた。リズベットは反射的にキリトから手を離し、飛びのいた。
「リズ!!心配したよー!!」
一瞬遅れて駆け込んできた人物は、大声で叫びつつリズベットに体当たりするような勢いで抱きついてきた。栗色の長い髪がフワリと宙を舞う。
「あ、アスナ……」
唖然として立ち尽くすリズベットの顔を、アスナは至近距離で睨みながら猛然とまくし立てた。
「メッセージは届かないし、マップ追跡もできないし、常連の人も何も知らないし、一体昨夜はどこにいたのよ!?わたし黒鉄球まで確認に行っちゃったんだからね!」
「ご、ごめん。ちょっと 迷宮ダンジョンで足止め食らっちゃって……」
「ダンジョン!?リズが、1人で!?」
「ううん、あの人と……」
視線でアスナの斜め後ろを指し示す。クルリと振り向いたアスナは、そこに所在なさそうに立つ黒衣の剣士を認めると、眼と口をポカンと開けてフリーズした。ワンオクターブ高い声で……
「き、キリト君!?」
「ええ!?」
今度はリズベットが仰天する番だった。アスナと同じように棒立ちになってキリトを見やる。
キリトは軽く咳払いすると、右手を少し上げて言った。
「や、アスナ、久しぶり……でもないか。2日ぶり」
「う、うん。……びっくりした。そっか、早速来たんだ。言ってくれればわたしも一緒したのに」
アスナは両手を後ろで組むと、笑いながらブーツの踵で床をトントンと叩いた。その頬がわずかに桜色に染まっているのを見て、リズベットは全てを察した。
キリトがこの店に来たのは偶然じゃないんだ。アスナがここを推薦したんだ……彼女の、想い人に。
……どうしよう……どうしよう。
頭の中で、その言葉だけがグルグルと渦巻いていた。足先からゆっくりと全身の熱が流れ出してしまうような気がした。体に力が入らない。息ができない。気持ちの持って行き先が、見つからない。
立ち尽くすリズベットに向き直ると、アスナは屈託のない様子で言った。
「この人、リズに失礼なこと言わなかったー?どうせあれこれ無茶な注文したんでしょ」
そこで小さく首を傾げた。
「あれ……でも、ってことは、昨夜はキリト君と一緒だったの?」
「あ……あのね……」
リズベットは咄嗟に足を踏み出し、アスナの右手を掴むと工房のドアを押し開けた。わずかにキリトのほうを向き、彼の顔を見ないようにしながら早口に言う。
「少し待ってて。すぐに帰ってくるから」
そのままアスナの手を引き、売り場に出る。ドアを閉め、陳列棚の間を抜けて店の外へと。
「ちょ、ちょっとリズ、どうしたのよ?」
戸惑った声でアスナが聞いてきたが、リズベットは無言で表通りを目指して早足で歩き続けた。
あれ以上、キリトの前にいられなかった。逃げ出さなければ、行き場をなくした気持ちをぶつけてしまいそうだった。
リズベットの只ならぬ様子に気づいたのか、アスナはそれ以上は何も言わずに黙って付いてきた。
そっと彼女の手を離す。
東に向かう裏表通りに入り、しばらく歩くと、高い石壁に隠れるように小さなオープンカフェがあった。客は1人もいない。リズベットは端っこのテーブルを選ぶと、白い椅子に腰掛けた。
向かいに座ったアスナが、気遣わしげな様子でリズベットの顔を覗き込んできた。
「……どうしたの、リズ?」
リズベットはなけなしの元気を振り絞って、ニコリと大きな笑みを浮かべた。アスナと気安い噂話に花を咲かせる時の、いつも通りのリズベットの笑顔。
「……あの人なんでしょ」
腕を組み、アスナの顔を斜めに見る。
「え、ええ?」
「アスナの、好きな人!」
「あ……」
アスナは肩をすばめるようにして俯いた。頬を染めながら、大きくこくんと頷いた。
「……うん」
ずきん、という鋭い胸の痛みを無理矢理無視して、更にニヤニヤ笑いを浮かべる。
「確かに、変な人だね、すっごく」
「……キリト君、なにかしたの?」
心配そうなアスナに、力いっぱい頷き返す。
「あたしの店一番の剣をいきなりへし折ってくれたわよ」
「うわっ……ご、ごめん……」
「別にアスナが謝ることないよ」
自分のことのように両手を合わせるアスナを見ると、胸の奥が更にズキズキと疼く。
もうちょっと……もうちょっとだけ、耐えろリズベット。
心の中で呟いて、どうにか笑顔を保ち続ける。
「まあそれで、あの人が要求するプロパティの剣を作るにはどうしてもレア金属が必要だってことになって、上の層に取りに行ったのよ。そしたらせこいトラップに引っかかっちゃってさ、脱出に手間取って、それで帰れなかったの」
「そうだったの……。呼んでくれればよかったのに、ってメッセージも届かないのか……」
「アスナも誘えばよかったね、ごめん」
「ううん、昨日はギルドの攻略があったから……。で、剣はできたの?」
「あ、まあね。まったく、こんな面倒な仕事は二度とゴメンだわ」
「お金いっぱいふんだくらないとダメだよー」
同時にあははと笑う。
リズベットは微笑みを浮かべたまま、最後の一言を口にした。
「まあ、変だけど悪い人じゃないわね。応援するからさ、頑張りなよ、アスナ」
「う、うん、ありがとう……」
アスナは頷きながら、首を傾げてリズベットの顔を覗き込んできた。伏せた瞼の奥を見られないうちに、勢い良く立ち上がり、言う。
「あ、いっけない!あたし、仕入れの約束があったんだ。ちょっと下まで行ってくるね!」
「えっ、店は……キリト君はどうするの?」
「アスナが相手してて!よろしく!」
踵を返し、駆け出した。背後のアスナに向かってパタパタと手を振る。振り向くわけには
行かなかった。
ゲート広場のほうに向かって走り、オープンカフェから見えない所まで来ると、最初の角を南に曲がった。そのまま街の端っこ、プレイヤーのいない場所を目指して一心不乱に駆け続けた。
視界が歪むと、右手で眼を拭った。何度も何度も拭いながら走った。
気づくと、街を囲む城壁の手前まで来ていた。緩やかに湾曲して伸びる壁の手前に、大きな樹が等間隔で植えられている。その1本の陰に入ると、樹の幹に手をついて立ち止まった。
「うぐっ……うっ……」
喉の奥から、抑えようもなく声が漏れた。必死に堪えていた涙が、次々と溢れ出しては頬を伝って
消えていった。
この世界に来て二度目の涙だった。ログイン初日にパニックを起こして泣いてしまってからは、もう決して泣くまいと思っていた。感情表現システムに無理矢理流されられる涙なんて御免だと思っていた。でも今あたしの頬を伝う涙より熱く、辛い涙は、現実世界でも流したことはない。
アスナと話している時、喉元まで出かかっていた言葉があった。「あたしもあの人が好きなの」と、何度も言いかけた。でも、言うわけにはいかなかった。
工房で、向き合って話すキリトとアスナを見た瞬間、あたしは、自分のための場所がキリトの隣にはいないことを悟った。なぜなら、あの雪山で、あたしはキリトの命を危険に晒してしまったから。あの人の隣には、あの人と同じくらい強い心を持った人しか立てない。そう……例えば、アスナのような……
向かい合う2人の間には、丁寧に仕立てられた剣と鞘のように強く引き合う磁力があった。
あたしはそれをハッキリと感じた。それになにより、アスナはキリトのことを何ヶ月も想い続けて、少しずつ距離を縮めようと毎日頑張っているのに、今更そこに割り込むような真似が、できるはずもなかった。
そうだ……あたしは、キリトと知り合ってまだ1日しか経っていない。見知らぬ人と慣れない冒険をして、心がびっくりしているだけだ。本物じゃない。この気持ちは本物じゃない。恋をするなら急がずにゆっくり、ちゃんと考えて……。あたしはずっと、ずっとそう思ってきたはずだ。
なのに、なんでこんなに涙が出るんだろ。
キリトの声、仕草、この24時間で彼の見せた全ての表情が、次々と瞼の裏に浮かび上がる。あたしの髪を撫で、腕を取り、手を強く握り返してくれた彼の手の感触。彼の温かさ、あの心の温度。あたしの中に焼きついたそれらの記憶に触れるたび、激痛が胸の奥を深くえぐる。
忘れるんだ。全部夢だ。涙で、洗い流してしまうんだ。
街路樹の幹に指を立て、強く握り締めて、リズベットは泣いた。俯いて、声を押し殺し、泣き続けた。現実世界ならいつかは枯れるはずの涙だけど、両目から溢れ出す熱い液体は、どれだけ流そうと尽きることはないように思われた。
そして、リズベットの後ろから、その声がした。
「リズベット」
名前を呼ばれて、全身ぴくりと震えた。柔らかく、穏やかで、少年の響きを残したその声。
きっと幻だ。ここにいるはずがない。そう思いながら、涙を拭いもせず、リズベットは顔を上げ振り向いた。
キリトが立っていた。黒い前髪の奥の眼に、彼なりの痛みに耐えている色を浮かべ、あたしを見ていた。あたしはしばらくその瞳を見つめ返し、やがて震え声で囁いた。
「……ダメだよ、今来ちゃ。もうちょっとで、いつもの元気なあたしに戻れたのに」
「………」
キリトは無言のまま一歩足を踏み出し、右手をこちらに伸ばそうとした。リズベットは小さく首を振ってそれを拒んだ。
「……どうしてここがわかったの?」
訊くと、キリトは首を巡らせ、街の中心部を指差した。
「あそこから……」
その指の先、遥か彼方にはゲート広場に面して建つ教会の尖塔が建築物の波の上に頭を出していた。
「街中眺めて、見つけた」
「ふ、ふ」
涙は相変わらず密やかに流れ続けていたが、それでもキリトの答えを聞いて、リズベットは口許に笑みを浮かべた。
「相変わらず無茶苦茶だね」
そんなところも……好きだ。どうしようもないほど。
再び嗚咽の衝動がこみ上げてくるのを感じた。それは必死に抑えつける。
「ごめん、あたしは………大丈夫だから。速くアスナのとこに戻ってあげて」
それだけどうにか言って振り返ろうとした時、キリトが言葉を続けた。
「俺……、俺、リズにお礼が言いたいんだ」
「え……?」
予想外の言葉に途惑い、彼の顔を見つめる。
「……俺、昔、ギルドメンバーを全滅させたことがあって……。それで、もう二度と、人に近づくのはやめようって決めてたんだ」
キリトは瞬間、眉を寄せ、唇を噛み締めた。
「……だから普段は、誰かとパーティー組むのは避けてるんだ。でも、昨日、リズにクエストやろうって誘われた時、なぜかすぐにOKしてた。1日中、ずっと不思議に思っていた。どうして俺はこの人と一緒に歩いてるんだろうって……」
リズベットは胸の痛みも一瞬忘れ、キリトを見た。
それは……それは、あたしが……
「今まで、誰かに誘われても、全部断ってた。知り合いの……いや、名前も知らない奴でも、人の戦闘を見るだけで足が竦むんだ。その場から逃げ出したくてたまらなくなる。だからずっと、人が来ないような最前線の奥の奥ばっかりこもってさ。……あの穴に落ちた時、1人生き残るより死んだほうがマシだと思ったの、嘘じゃないんだぜ」
微かに笑みを浮かべる。その奥に底知れない自責の色を見た気がして、リズベットは息を呑む。
「でも、生きてた。意外だったけど、リズと一緒に生きてたことが、すごく嬉しかった。それで、夜に……リズが、俺に手を差し出した時、わかったんだ。リズの手が温かくて……この人は生きてるんだって思った。俺も、他の誰だって、決していつか死ぬために存在しているわけじゃな、生きるために生きてるんだって思えた。だから……ありがとう、リズ」
「………」
今度は、心の奥から、本当の笑みが浮かび上がってきた。あたしは不思議な感慨に捉われながら、口を開いた。
「あたしも……あたしもね、ずっと探してたんだ。この世界での、本当の何かを。あたしにとっては、あんたの手の温かさがそれだった」
不意に、心の奥に突き刺さった氷の棘が、ゆるりと溶け出すような、そんな気がした。いつしか涙も止まっていた。2人はしばらくの間、黙って見つめ合っていた。あの飛翔の時訪れた奇跡の時間の手触りが、再びあたしの心を一瞬だけ撫で、消えた。
報われた。そう思った。
今のキリトの言葉が、割れ落ちたリズベットの恋の欠片をくるみ、そのまま深いところに沈んでいくのを感じた。
リズベットは一度強く瞬きして、小さな雫を払い落とすと、微笑みながら口を開いた。
「さっきの言葉、アスナにも聞かせてあげて。あの子も苦しんでる。キリトの温かさを欲しがってるのよ」
「リズ……」
「あたしは大丈夫」
そっと頷き、両手で胸を押さえた。
「まだしばらくは、熱が残ってる。だからね……お願い、キリトがこの世界を終わらせて。それまでは、あたし頑張れる。でも、現実世界に戻ったら……」
ニッと悪戯っぽく笑った。
「第2ラウンド、するからね」
「………」
キリトも笑い、大きく頷いた。次いで左手を振り、ウィンドウを出す。何をするのかと思っていると、背中から《エリュシデータ》を外し、アイテム欄に格納した。続けて装備フィギュアを操作すると、同じ場所に新しい剣が実体化した。《ダークリパルサー》。リズベットの気持ちが詰まった、白い剣。
「今日からこの剣が俺の相棒だ。代金は……向こうの世界で払うよ」
「おっ、言ったわね。高いぞ」
笑い合いながら、ごつんとお互いの右拳を打ちつける。
「さ、店に戻ろう。アスナが待ちくたびれちゃうし……お腹も空いたし」
言うと、リズベットはキリトの前に立って歩き始めた。最後に1回、ぐいっと両目を拭うと、目尻に留まっていた最後の涙が散り、光の粒になって消えていった。
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