俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか
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55.第五地獄・天網恢界
前書き
前の投稿から20日も経ってた……申し訳ありません。
世界が灰色に見える、なんて言葉がある。
しかし実際には世界が灰色になる訳でもなく、色覚を司る細胞に常人と異なる要素がない限りはそんな光景は拝めない。つまりはただ本人の何もかもに興味を抱けない心情を表した比喩表現であり、オーネストの眼には毎日様々な色が世界に塗りたくられている。
うんざりするほどに鮮やかに、今日も世界はそこにある。昨日も一昨日も、それよりずっと前に起きたありとあらゆる人間の慟哭と末路を受け止めて、尚も何一つ変わらずにそこにある。来るなと叫んでも、この世と自分の両方が存在する限りは時間が経過すれば明日は来る。
今日も魔物を鏖殺し、周囲に後ろ指をさされ、欲しくもない憐憫を浴びせられ、獣のように飯を喰らい、腐敗した街の闇に袖を引かれ、失い、背負い、オーネスト・ライアーという連続的な存在を継続させていく。
オーネストは世界の色を失ったことはない。
だが、色を持つこの世界そのものがオーネストには疎ましく、憎かった。
なんなら時間か世界か、或いはその両方を粉微塵になるまで叩き潰してやりたい衝動にさえ駆られる。
あの日から――1日経つのも100日経つのも、1000日経つのも同じことだった。何を知り、何を経験しても心の時間はあの日を境に壊れた時計のように同じ場所を指し示し、それを見るたびに自分がその時間へ二度と戻れない事を悟らされる。もう求めるものなど本当は何もない。
それでも、この体は朽ちてはくれない。朽ちてしまえと願っても、それが受け入れられることは一度もなかった。いつも逝った存在や生きた存在がオーネストの最期の邪魔をする。呪われているかのようだ。
生きながらにして、死している。まるでゾンビのようだ。元来ゾンビとは死した肉体に魂を定着させ続けることで、死した後も動き続けなければいけないという永劫の責め苦を与える刑罰であるとする説がある。厳密な話や方法に関してはさて置いて、本質的にはゾンビとオーネストに違いはないのかもしれない。
雑多な人間が通り過ぎる大通り。賑わしい商人のセールスとファミリアの勧誘。朝っぱらから酔っ払った男とそれに絡まれる女。しょうもない武勇伝で盛り上がる貧相な冒険者。人を値踏みする不快な神………この世に存在し、オーネストの視界に映る全てがオーネストにとっては鬱陶しい。
(いっそ、本当にすべて壊してやろうか――)
もしも今、自分が腰に携える剣を本気で振り抜いたなら、少なく見積もっても50人程度は抵抗も出来ずに肉塊に変えられるだろう。2回振れば100人、2万回振れば100万人。この机上の空論ならば、オーネストが不眠不休で剣を振り続ければ数日でオラリオを完全な血の海に変えられる。
効率的に破壊するならばバベルを人口密集区に向けて倒すのもいい。もっと手っ取り早いのは、オラリオの地盤の一部を爆破してオラリオという街をその下のダンジョン内に叩き落す方法だ。これならば一度でカタがつく。或いは神共を皆殺しにし、その敵討ちだ何だと武器を取った連中を皆殺しにすれば、最終的にオラリオという街の経済システムは崩壊するだろう。完結するまでの過程でオーネストは誰かに殺されるかもしれないが、そればそれで別にいい。極論を言えば、自分の命も世界の行く末もオーネストの知ったことではないのだから。
いい加減に、うんざりしていたのだ。
この悪夢は、世界をぶち壊してしまえば覚めるのか、試してみてもいいかもしれない。
その過程で俺を罵った男を斬り、俺を守ろうとする女を斬り、何も知らない子供を斬り、斬り、斬り、斬り、斬り、斬り――
「ちょいとそこの外人さん……聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「――あ?」
意識の外から唐突に聞こえた間抜けな声に、オーネストは首を向けた。
珍しい、と思う。他人が自分に話しかけてくることもそうだが、そんな声に耳を傾けるという行為をしたのがひどく久しぶりの事のように思える。自分がこんな反応をすることが、オーネストにとっては珍しかった。
そして、もっと珍しいものをオーネストは見ることになる。
「ケータイ落っことしちゃったせいで迷子なんだけど、交番って近くにある?」
オーネストはその質問にしばし沈黙し、目頭を押さえて呻き、思った。
オラリオの共通語ではない、はるか昔に聞いたことのある言語――日本語。
そしてケータイという言葉に交番とくれば、日本人ならば何を言っているのか理解できる。
何でオラリオに地球人の、しかも日本人がいるんだ。そう突っ込もうとしたが、オーネストはそれよりまず目の前のどこか頼りない印象がある男に現状を理解してもらうことが先決だと考えた。単なる迷い人ならば知ったことではないが、これは、初めてのパターンだった。
「……………この世界に携帯電話の概念はない。故に電波中継設備も携帯電話を開発する会社もない。更に言うとここは法治国家ではないし警察もいないので交番は存在しない」
「えぇー………ないわー。目が覚めたら異世界とかマンガだわー……」
頼りなさそうな男はあからさまに脱力した表情で溜息を吐いた。
男には今知り合いがいない。食料がない。社会的な立場もない。この世界の金も教養も当然ない。
確信できるが、今現在この男の事情を知ったうえでアドバイスをしてやれるのはオーネストぐらいしかいないだろう。
オラリオを滅ぼそうかと考えた矢先のこれだ。今回も世界は俺を破滅から遠ざけたかったのか、訳の分からない男を引き寄せたらしい。しかし、この世界に生まれて16年………こんなことが起きる日が来る可能性は完全に失念していた。
『生まれる前の俺』と同じ世界にいたかもしれない男――そう考えると、不思議な縁を感じない訳でもない。
「………んん?つかぬことをお聞きしますが外人さん。アンタ日本語分かるの?というか俺の言ってる事理解できたうえで完璧な対応したよね?まさか――」
「話せば長くなりそうだな………ついてこい、お前の知りたいことくらいは教えてやる」
「マジか!そんじゃお言葉に甘えて知識をご教授させてもらいますかね!」
「あと、俺は騒がしいのは嫌いだ」
「おっけー」
その一言で何かを察した男は、周囲を物珍しそうに見つめこそするものの、それについてオーネストに質問したり喧しい感嘆詞を口にすることもなくなった。初対面でここまで物分かりのいい男も珍しい、と思いながら、オーネストはその男を引き連れて自らの屋敷へと向かった。
思えばそれが、俺の苛立たしい毎日に一石を投じた最初の出来事。
「異世界漂流記とか書いてみようかな。『トンネルを抜けると、そこはオラリオだった』……」
「『雪国』のパクリかよ。こんな世界にきてまで川端康成の力を借りようとするな」
『オーネスト・ライアー』が初めて持った、友達だった。
(……あれから、2年か。この余裕のない非常時に言うのもなんだが、俺はこいつの世話を焼きっぱなしの気がするな)
黒竜の放った攻撃で地盤滑落に巻き込まれたオーネストが真っ先に発見したのが、体が半分瓦礫に埋まっているアズライールだった。滑落のダメージからはまだ完全に立ち直っていないのか、周囲の状況を把握しようと顔を動かしては砂埃にむせてまったく把握できていない。
『死望忌願』でも使ってさっさと立ち上がればいいだろうに、とも思ったが、よく見ると瓦礫の重量を押しのけるために『死望忌願』がアシストをしている結果、そこまで手を回していないらしい。どうしてここまで間抜けなのかと頭をかいたが、そういえばアズライールの戦闘指導は実質的に自分がしていたことを思い出して溜息を吐き出す。
(それでもやりようはあるだろうに……いや、魂を削りすぎて本能的に力をキープしているのもあるな。それを踏まえてもこれは無様だが)
もしも二人とも生きて事を終えたら、アズにもう少し力の使い方を考えさせるのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、オーネストはアズライールの手を引いた。
= =
無数の瓦礫と砂埃に奪われた視界を取り戻すように身を捩っていると、突然手を掴まれて強引に引き上げられた。反動でどうやら半分ほど埋まっていたらしい体が瓦礫を押しのけて外に出る。冒険者歴2年のバランス感覚は意外と優秀だったらしく、俺の体はグラグラと揺れる足場の上でも難なく姿勢を取り戻した。
「さんきゅ、オーネスト………」
「感謝する必要はない。寝たままくたばった方が楽だったと思える現実が待っている」
「悪いが眠るような安らかな死には期待してないよ。俺の死に場所は俺が決める。お前もそうだろ?だから感謝は必要だ」
「そうか、なら勝手にしろ」
「相変わらず会話になんねぇヤツ……」
愚痴っている訳でも気にしている訳でもない。こんな時でもオーネストがオーネストだと再認識できることに意義を見出しているというか、そんな男とつるんでいる俺自身が未だ俺であることの相互確認というか。ともかく、そのようなものだ。
会話を続ける俺たちの真上から、万象を押し潰さんとするかのような滅気が降り注ぐ。それを浴びただけで自分の魂がぐちゅりと潰れてしまいそうな錯覚を覚える重圧に抵抗するように、俺は真上を見上げた。
砂埃はまだ残っているが、その埃を散らす大胆なまでの翼のはためきが奴の姿をより鮮明にしていた。
黒き古の戦士の再臨を歓迎しているかのよう、嵐に匹敵する風が吹き荒ぶ。
それは、獣の次元を超えた威光さえ感じる雄姿。自らの肉体を再構成しても尚片側しか開かぬ深紅の眼は、空の王の威厳と矜持を示すように一点の曇りすらない。
――控えよ人間、愚かなる神族の劣化模造品よ。
――空の主、風の母、炎の申し子……『天の王』の御前である。
――羽を持たぬ劣悪種よ。跪き、泣き叫んで命乞いをしろ。
――それが、それだけが貴様らに残された最後の『権利』だ。
――これから起こるのは略奪でも簒奪でも、まして悲劇や不幸ですらない。
――あるべき場所に舞い戻った絶対者が、あるべきことを行い、あるべき結果が残る。
――故に。
――貴様らがここで死に絶え、その魂の煌きを失うは、必然なり。
やはり、勘違いではないようだ。
加速する心臓の鼓動と脂汗。反射的に握っていた鎖が、ほんの微かにカチカチと音を立てている。それは風の影響でもあり、別の要因でもあった。俺の中の『死』が、あれがそうだと囁いている。
2年間……たった2年間、俺は自分の死が訪れるまでのロスタイムの中で安楽に生きてきた。生への旅路に死を引きずって、それが来る日を待っていた。
そうか、こいつがそうなのだ。
俺を終わらせる存在で、連続する俺の今日に終止符を打つ存在なのだ。
しかし、違う。
それは今日、ここに来てはいけないものだ。
俺はなんて馬鹿な男なんだ、と自嘲する。
自分が死ぬことなど織り込み済みの人生なのだから、明日など来なくともまるで構わないと思っているのも事実。なのに、今、俺は心のどこかであれを拒絶した。
誰かがいつか、何かの理由で死ぬのは自然なことだ。
死なないというのは、生がない――すなわち、もう生きてはいないという事なのだから。
だから、ここで死ぬのが宿世というならここで死ぬのが人生の道理だ。
でも、それでも――。
「………悪い、『死望忌願』。お前の力、抗うために使わせてくれ」
『――יחד עמך』
俺は、オーネストと二人なら勝てない敵はないと思っている。これは自惚れだが、本気だ。
だから、俺とオーネストのどちらかが欠ければこの天を舞う黒竜に勝つことはできない。
何故なら、あれに勝つのはきっと『不可能』に類する絶対的な存在だから。
俺は、オーネストと一緒にこいつを倒したい。
生き残ってまた馬鹿な会話をしたい。
友達が死ぬという事実を、俺は何が何でも実現させたくない。
オーネスト、お前はまだまだ生きるべきだ。
生きて世界を歩き続け、いつかどこか――お前が救われる場所に辿り着くべきだ。
それが俺の、お前の意見などまるで無視した一方的で勝手な願望。
反論もなにも聞いていない、お前を生かすという俺の決定事項。
「やるぞ、友達」
「アズ、お前に一言言っておきたいことがあった」
「……こんな時にいきなりなんだよ」
黒竜を見上げるオーネストの表情は見えないが、俺はオーネストが何かを明確に俺に伝えようとしている気がした。オーネストの「聞いてほしい」という言葉になっていない意志が、俺とオーネストの周囲に流れる時を一瞬だけ止まった気がした。
「俺は、ときどきこう思うんだ。……――」
オーネストの口が動こうとしたその瞬間――止まった俺たちの時を引き裂く衝撃波がダンジョン第60層に絨毯爆撃のように降り注いだ。
俺がオーネストの口からその言葉を正しく聞き取れたのは――それからずっとずっと後の事。
= =
ちゃりん、と足元で音がしたのを聞き、リリルカ・アーデは朝食のハムパンを食べ歩く足を止めた。
音の正体を探る視線が足元に注がれ、原因を探る。音の正体はあっさりと見つかった。リリは食べかけだったハムパンの残りを素早く口に頬張り、ハムスターのように頬を膨らませながら原因を拾い上げた。
今は人の体温程度に暖められた、金属らしき鈍色の連なり。持ち上げるとじゃらら、と小さな摩擦音を立てたそれは、リリがアズに受け取って以来腕に巻き付けっぱなしだった鎖だった。
「………?」
ハムパンの残党を飲み込みながら、思わず首をかしげる。この鎖は金属とは思えないほど肌にフィットし、決して締め付け過ぎず、かといって緩み過ぎない絶妙の幅を常に保って腕に収まっていた。そういう不思議な鎖であることはアズの言動からなんとなく悟っていたし、これまで無意識に取り落としたことなど一度もない。
なぜ急に外れたのだろうか――?疑問に思いつつも鎖を改めて腕に巻こうとしたリリは、やや間を置いてもう一つの事実に気付かされた。
「あれ、鎖が綻んでる………?おかしいなぁ、これ不壊属性一歩手前の強度だって触れ込みだったんだけど……」
鎖の一部がひん曲がり、ブレスレットとしての機能を果たせなくなっている。最近は日常を穏やかに過ごしているリリにはこの鎖が壊れるような荒事に出くわした記憶はないし、まして自分で壊すような真似もしていない。そもそも、この鎖はそんじょそこらの破壊方法では傷も碌につかない代物だ。壊れる理由が分からない。
ううん、と唸り、ふとある可能性に思い当たる。
この鎖はアズの魂が源になっているというのをいつか聞いた。だから鎖に何かあったのだとしたら、それはアズの魂に何かが起きているからかもしれない。例えばダンジョン内で――そう考えかけたリリは、はっとしてぶんぶんと頭を左右に振った。
(アズ様が負けたりケガしたりする筈ない……だってアズ様はリリなんかと違っていつも強いんだから。だからあと何日かしたらいつもの緩い笑顔でリリたちのところに戻ってくる)
ほんの少しだけ脳裏を過った不吉な想像を頭から追い払い、リリは鎖をぎゅっと握りしめた。
「でもやっぱりちょっと心配だから………この鎖に祈ったら、アズ様に通じるかな………?」
あまり宗教に関心がなかったリリが辛うじて覚えている、小人族の神への信仰方法――鎖を両手で包むように指を組み合わせて顔の前に持ってきたリリは、静かに頭を垂れて祈りを捧げた。
神に届かなくともいい。
神よりよほど大事な存在の為に、祈るのだ。
ただ、無事でいてほしい人に届きさえすれば――。
= =
「――に渡す余――……まの俺たちにあると思って……――!?」
薄れる意識、断続的に降り注ぐ途切れ途切れの言語。
「そんなこ……――、……まじゃ本当に死ん――!!見捨て……――!?」
霞んだ記憶と、もっと霞んで半分真っ黒に染まった視界。
「――で俺たちが争――……、……は本当に手遅れになっちま……――!!」
体を流れ落ちる冷たいなにかと、体を流れ落ちる熱いなにかが混ざり合ったものが背中を濡らす。
「だったらおま……―――よ!!――魔になるなら………くぞ!!――………っていられ――!!」
声を出そうと息を漏らしても、小さくかひゅっと音が鳴るばかり。
『………閣府は自衛………決定しま――……依然強風と氾…………――無事を願うばかり………』
立ち上がろうと思って動かした脚には、何の感覚もなくて――
『――あなたは、まだそちらに行くべきではありません』
子供のような姿の誰かの声が、俺の魂を引き戻した。
意識が、浮上した。
寝ぼけているような現実味のない眼を開けた俺は、しかし直後にこれが今という現実であることを否応なしに思い知らされる。
「ぁ……あぐううううッ!?……ごっ、……がふっ!!がはぁッ!?」
突然全身を襲うように現れた激痛に悶絶し、激しく咳込む。口から胃液交じりの血が漏れたことを悟った俺は、不快感を無視して濃縮ポーションを無理やり自分の喉に押し込んだ。全身が炙られるようなもどかしい不快感と引き換えに、それ以上俺の口から血が吐き出されることはなくなった。
シュウシュウと痒みにも似た異質な感覚が腕や腹を包む。ポーションで急速に傷が治癒されているときの感触だ。この感触から察するに、腕はもちろん内臓にも傷が入っていたらしい。あの激痛の中で咄嗟にポーションを取り出して飲む選択が出来たのは、冒険者としての本能が故だろう。
呼吸を整えて周囲を見渡そうとして――悪寒。咄嗟に地面に転がりながらその場を離れた瞬間、ギュバァッ!!とすさまじい音を立てて地面が大きく『縦に割れた』。その切れ目の深さは、天井からの光源が底に届かない程だ。
生命を喪う虚無の予感はまだ消えていない。俺は咄嗟に『死望忌願』にありったけの力を注いで大量の鎖を出鱈目に上方に展開した。ギュガガガガガガガガッッ!!と凄まじい衝撃が降り注ぎ、出鱈目に飛び狂う鎖たちに衝突しては拡散されていく。が、咄嗟の展開だったこともあって防ぎきれず、衝撃は無数真空の刃となってアズの下に降り注ぐ。
「ぐうっ……!!」
ブシュウッ、と手足や肩から鮮血が噴出した。まだポーションの効能が残っていたために傷口は何とか塞がるが、今の攻撃で俺はやっと衝撃波が何なのかを理解できた。
「なるほどこいつは――真空の爆弾じゃなくて真空の刃って訳かッ!!」
直撃を受ければ、恐らくは脳天から一刀両断。ここれまでの莫大な運動エネルギーを出鱈目に放ってくるのとはわけが違う、極限まで研ぎ澄まされた「コンパクトな」破壊力こそが、降り注いだ斬撃の正体だった。
『グガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
上方に未だ王者然と君臨する天黒竜が2対の翼のうち後方から生えた翼をはためかせた。羽の淵から生え揃った夥しく鋭角な棘が空気を切り裂き、それが無数の刃の雨となって地表に降り注ぐ。
大気をゆがめたように不自然に空間を歪ませた突風に刃の攻撃範囲は、悪夢のように広範囲だった。味方3人が今どこで何をしているのかは分からないが、確実に、庇う余裕が存在しない。素早く武器を『断罪之鎌』に切り替えて地面を抉り飛ばすように下から一閃。縦一閃に裂かれた真空の刃が俺の左右に着弾し、鋭い切断音と共に地面を深く穿つ。
『断罪之鎌』の本質はイデアの両断。衝撃波はその形が崩れても衝撃波のままだが、真空の刃とは言葉で形容するほど単純な現象ではない。拮抗が崩れればその威力はただの衝撃波にまで減退する。
しかし――降り注ぐ斬撃の数が多すぎる。一羽ばたきにつき左右合わせて六十近い空気のギロチンは、もし万が一多数集団に浴びせられたら最悪だろう。守ってくれるはずの仲間が邪魔で回避という選択が取れず、サイコロステーキのようにバラバラに切り裂かれてしまう。
『――氷造、集槍降雨ッ!!』
と、斬撃の合間に別の場所から透き通る凛とした声が響き、虚空を無数の氷の突撃槍が乱れ飛ぶ。リージュの魔法による攻撃だ。彼女は無事らしい。……オーネストもどうせ無事だし、ユグーに関しては心配もしていないけれど。
黒竜はその巨体――いや、よく見れば最初の形態よりスリムになっている気もする――を翼によって驚くほど軽やかに動かし、氷の槍の集中砲火を避けて見せる。先読みして狙った氷さえ自在な急停止、急加速などの三次元的機動で一発も当たらずに掻い潜っている。
外れた槍がダンジョンの壁に衝突して巨大な氷柱を生やす。あの氷の槍の中に、大型魔物さえ一撃で冷凍させるほどの冷気を詰め込んでいるらしい。オーネストの策の関係か力の使い方が恐ろしく緻密で柔軟になっているらしいが、黒竜の空戦経験がどうやら一枚も二枚も上手らしい。避けられた氷が空しく壁に着弾し続け、巨大な氷柱の列が蛇のようにうねる。
直後、もう動きは見切ったとばかりに黒竜は前の羽を空間ごと押し出すように羽ばたかせ、飛来する氷槍そのものを強引に風で吹き飛ばした。行き場を失った槍が地面に降り注ぎ、無数の氷柱がせりあがる。
間髪入れず、黒竜の灰が膨らみ、振り下ろされるような首から光学兵器染みた灼熱のブレスが地面に降り注ぐ。紙に落書きするようにブレスが地面を薙ぎ払い、直撃した場所が一瞬で融解して溶岩の道になる。
肌を焼く熱風から辛うじて逃れながら、俺は冴えない頭を限界まで回転させる。
(………相手は上からブレス・真空の刃・その気になれば飛び蹴りだの真空爆弾だのなんでも落としてこれる。対して俺たちは下から上へ豆鉄砲みたいな攻撃を撃つばかり。おまけに向こうは回避能力がバカ高いから並の攻撃じゃ当たらないし、あの鱗の強度も最初以上に上がっている)
地形的な優位は黒竜にある。
総合攻撃力の高さや攻撃範囲の広さもあちらにある。
機動力も明らかに今まで以上に上がっている。
おまけに魔物とは思えない学習能力。
魔力量、スタミナ、実戦経験、考えうるあらゆる要素がこちらにとって不利――いや、いっそ絶望的な差を指し示している。
今まで魔物にだけは然程苦戦してこなかった人生で初めて――俺は、平均的な冒険者が味わう絶望というものをその身に受け、呻いた。
「おいおい………こいつ、どこに勝つ隙があるんだよ………っ!?」
このままでは――本当に、俺たちは終焉を向かえる。
なのに、それを回避する方法がない。
何故なら『俺たちはあの黒竜に立ち向かうには、余りに無力だから』。
逃げ場も希望も未来も破壊し尽くす、凄惨な一鬼夜行の幕が開く。
汝、三途の灯に照らされ、四肢を捥がれ、五臓六腑を撒き散らし、七難八苦に蹂躙されよ。
後書き
ちなみに七難と八苦はどちらも元は仏教語。二つ合わせるとおおよそ人間が生きているが故に味わうであろうあらゆる苦しみを内包します。この四字熟語、世間の想像以上に過酷な意味を持っているのかもしれません。
オーネストとアズを本気で追い詰めるために、私も本気で殺しに行きます。
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