銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百五十二話 ヴェストパーレ男爵夫人
帝国暦 487年10月26日 オーディン 宇宙艦隊総旗艦 ロキ マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ
ジークフリード・キルヒアイス准将がヴァレンシュタイン元帥の幕僚になった。司令部の人間達は皆緊張している。緊張から無縁なのは司令長官だけ。この事態を招いた張本人なのに……。
私は思わず、脳天気と言って良いほどの声を上げて艦橋の緊張をほぐした。ヴァレンシュタイン司令長官は私の真意が分かったのだろう。苦笑する前に一瞬だけ私に向けた視線は鋭かった。
宇宙艦隊司令部に来て分かったのは、予想以上にラインハルトの立場が不安定な事だった。司令官達の誰もラインハルトと積極的に話そうとはしない。何故こうなったのか? メックリンガーに訊いても眼を逸らすだけで教えてはくれなかった。
今、ラインハルトが副司令長官でいられるのはヴァレンシュタイン司令長官がそれを容認しているからのようだ。もし彼がラインハルトの排除に向かえば、ラインハルトはその地位を追われるだろう。
彼が何故アンネローゼに対して、あくまで儀礼的に対応したのか、今ならば分かるような気がする。いずれラインハルトとは決裂するかもしれない、その日のために不必要なしがらみは作りたくない、そう思ったのだろう。
ジークがこちらに来るのと同時にヒルダがラインハルトの下に行った。周囲からはどう見えただろう。腹心の副官を取り込み、代わりに貴族のお嬢様を押し付けた、そんなところだろうか。でも私は知っている、司令長官の真意が何処に有るのか……。
あの日、宮中から帰ってきた司令長官は私とヒルダを応接室に呼んだ。不審に思いながらも応接室に向かった私達を待っていたのは司令長官とワルトハイム参謀長、シューマッハ副参謀長だった。
司令長官の話は簡単だった。ヒルダをラインハルトの幕僚にするということ、それからジークフリード・キルヒアイスが司令長官の幕僚になるかもしれないという事だった。
応接室にはワルトハイム参謀長とシューマッハ准将、それと私とヒルダが座っている。参謀長と副参謀長、それにヒルダが此処に居る事は分かる。でも何故私が呼ばれたのだろう。今一つ良く分からない。
「交換、という事でしょうか?」
戸惑いながらも司令長官に問いかけたのはワルトハイム参謀長だった。
「いえ、キルヒアイス准将がこちらに来るかどうかは分かりません。それとは関係なく、フロイラインにはローエングラム伯の幕僚になってもらいます」
司令長官の言葉に皆顔を見合わせる。テーブルを挟んで視線が交差する。ヒルダは訝しげな表情だ。どういうことだろう。一つ間違えばラインハルトとマリーンドルフ伯を近づけることになりかねない。それでも良いのだろうか?
司令長官は私達の困惑を気にする事も無く襟元のマントを直している。
「私をローエングラム伯の幕僚にする、その目的は何処にあるのでしょう?」
ヒルダの気持ちはわかる。ラインハルトの立場は極めて微妙だ、司令長官がどんな考えで自分を幕僚として送り込むのか、それを知らずには受け入れることも拒否する事も出来ない。
「ローエングラム伯にはフロイラインの力が必要だからです」
「……」
司令長官の言葉はあっさりとしたものだった。ますます分からない。ヒルダが聡明なのは私にも分かる。だが司令長官の言はどう取ればいいのだろう。
ヒルダが周囲の認識以上に有能だと見ればよいのか、ラインハルトがヒルダの力を必要とするほど不安定だと見ればよいのか……。私とヒルダだけではない、前面の参謀長たちも困惑した表情を見せている。私の疑問をそのまま口にしたのはヒルダだった。
「閣下、閣下はローエングラム伯の力量に不安をお持ちなのでしょうか? 私は軍人としての教育は受けていません。伯の力になれるとは思いませんが?」
ヴァレンシュタイン司令長官は微かに苦笑した。
「私はローエングラム伯の力量に不安など持った事はありません。軍人としては私よりも余程優秀でしょうね」
「閣下!」
副参謀長のシューマッハ准将が司令長官を窘めた。司令長官が自分を卑下するような事を言ったのが気に入らないのだろう。しかし司令長官は気にする様子も無い。シューマッハ准将に“本当の事です”と言った。
「いずれ帝国を二分する内乱が発生するでしょう。内乱が発生すれば、ローエングラム伯は別働隊を率いて辺境星域の鎮定に向かうことになります」
「……」
宇宙艦隊内部では既に内乱勃発時の対応策が策定されている。それによればラインハルトは六個艦隊を率いて辺境星域の鎮定が命じられることになる。力量に不安の有る人物に任せられる任務ではない。
つまり司令長官はラインハルトを高く評価している。先程の発言からもそれは分かる。にもかかわらずヒルダを幕僚にする。その真意は?
「辺境星域の鎮定にはかなりの時間がかかると思います。当然ですがローエングラム伯には用兵についても占領地の行政についてもかなりの自由裁量権を与える事になるでしょう」
「……」
「困った事はローエングラム伯は戦術家として有能すぎる事です」
「?」
ヴァレンシュタイン司令長官の言葉にまた私達は視線を交わす。戦術家として有能すぎる……、司令長官の言葉は決して好意に満ち溢れたものではなかった。皆それを感じたのだろう、訝しげな表情をしている。
「戦略家としての力量も素晴らしい物を持っているのですけれどね、どうしても戦術的な勝利に拘ってしまう所がある。その結果として戦略的勝利、政略的勝利を疎かにしてしまいかねない」
「……」
「今度の内乱ですが、ただ鎮定すれば良い、そういうものではないのです。勅令の発布後、反乱軍もフェザーンも帝国の動向に非常に大きな関心を寄せています」
「……」
確かにそうだろうとは思う。本当に改革が行なわれるのか、それとも形だけのもので終わる、あるいは廃止されるような事になるのか、帝国の進む方向に誰もが関心を抱いている。
「私達は彼らに帝国が新しく生まれ変わった事、これからの帝国は平民の犠牲の上に成り立つ国ではない事を証明しなければならない。それこそが今回の内乱鎮定で求められるものなのです……」
「……」
「将来的に反乱軍、フェザーンの人間達が帝国の統治を受け入れることに不安を感じるような勝ち方は許されないのですよ」
司令長官の声が応接室に流れる。沈鬱な色合いを帯びた声だ。その声に引き込まれるように私は司令長官の顔を凝視した。いつも穏やかな表情の司令長官が何処か厳しい表情をしている。
「戦術的勝利に拘る余り、それを忘れてもらっては困ります。ただ勝てば良い、そんな勝ち方は宇宙艦隊副司令長官には許されない」
呟くような口調だった。その声に厳しさを聞いたのは私だけだろうか?
ワルトハイム参謀長、シューマッハ副参謀長も厳しい表情で司令長官の言葉を聞いている。二人には思い当たる節が有るのかもしれない。戦術的勝利に拘る、つまり自ら武勲を挙げる事に固執する、そう司令長官はラインハルトを評価している。
「つまり司令長官閣下が私に求めているのは、ローエングラム伯が戦術的な勝利に拘る余りそれを忘れるようであれば注意せよ、ということでしょうか?」
確かめるようにゆっくりとした口調でヒルダが司令長官に問いかけた。
「その通りです。貴女にはそれだけの力が有ると思っています。ローエングラム伯も相手が女性だからといって意見を拒絶するような狭量さは持っていません。協力し合えば良い結果を出せると思います」
司令長官は穏やかな表情に戻ってヒルダに答えた。だがヒルダの表情は硬いまま、顔色は蒼白になっている。思わず私は司令長官に問いかけていた。
「もしローエングラム伯が彼女の意見を受け入れず、戦術的な勝利に拘るような場合はどうなるのでしょう」
幾分掠れたような声だった。私は気付かないうちに緊張していたのかもしれない。
「……宇宙艦隊副司令長官に相応しからざる人間がその地位に就いている、そういうことになりますね」
「!」
応接室の緊張が痛い程に高まった。ヴァレンシュタイン司令長官、私、ヒルダの視線が交錯する。そして司令長官は視線を私に当ててきた。
「昔はともかく、今の帝国軍はそのような事を許す程甘い組織ではありません」
司令長官の視線に私は身動きも口を開く事も出来なかった。それほど厳しい、いや冷たい視線だった。
「フロイライン、決して楽な仕事ではないと思います。しかしローエングラム伯には貴女の力が必要です。力になってあげてください」
そう言うと司令長官はヒルダに対して頭を下げた。
ジークがワルトハイム参謀長と話をしている。トゥルナイゼン少将はジークとは幼年学校での同期生らしい、先程そんなことを話していた。これから彼はどうするのだろう。ラインハルトへの忠誠心を胸に秘めつつ司令長官の幕僚を務めるのだろうか。
結局私は応接室での出来事をラインハルトにもジークにも話さなかった。あの時の司令長官の冷たく厳しい視線、私は何故自分が応接室に呼ばれたのか、ようやく理解した。
司令長官はラインハルトを場合によっては切り捨てる覚悟を決めている。出来る限り支援はしよう、しかし失敗すれば切り捨てる。それが司令長官のラインハルトに対する姿勢だ。そのことを私に告げたのだ。
ジークフリード・キルヒアイスが此処に来ても必要以上に馴れ合うな、今後何が有っても口出しは無用だと言っている。
厳しい態度だ。しかし、ジークと親しくなれば万一ラインハルトが切り捨てられた場合、私も厄介な立場になるだろう。確かに必要以上に親しくは出来ない。
彼が私に微かに目礼してくる。先程の礼だろうか? そんな彼を見ながら私は微かに罪悪感に襲われた。
ジーク、私に出来る事はここまでよ、後は自分で何とかしなさい。此処に来た以上、そのくらいの覚悟はあるでしょう。私を頼るようなら、情け容赦なく突き放してあげる……。
帝国暦 487年10月27日 オーディン 宇宙艦隊司令部 テオドール・ルックナー
ヴァレンシュタイン司令長官より呼び出しがかかった。呼び出されたのは俺の他にシュムーデ大将、リンテレン大将、ルーディッゲ大将。かつて司令長官の下で副司令官と分艦隊司令官として仕事をした仲間だ。
シャンタウ星域の会戦後、俺達は大将に昇進しそれぞれ一万隻の艦隊を率いる司令官となった。宇宙艦隊の正規艦隊司令官になれなかったのは残念だが、正規艦隊の司令官枠は十八個しかない。
俺達が正規艦隊の司令官になれば誰かが溢れる事になる。それに俺達は司令長官配下の分艦隊司令官だった。俺達を正規艦隊司令官にすれば司令長官の人事を贔屓だと不満を持つ人間も出るだろう。今のままでも十分俺達は評価されている、不満はない。
いや、本当は不満は有る。いずれ起きる内乱において俺達の役割が決まっていないことだ。正規艦隊は役割が決まっているにもかかわらず俺達には何も指示が無い。予備として扱われるのか、或いは留守部隊として扱われるのか、どちらもごめんだ。不安だけが募る。
ここ最近、俺達は集まればその話で終始する毎日だった。だが、それもようやく終わる。司令長官からの呼び出しはきっと次の内乱での俺達の任務についてだろう。
司令長官室に行くと直ぐ応接室に通された。応接室では既に司令長官がソファーに座って待っている。司令長官は俺達を見ると微かに頷きソファーを指差し座るようにと身振りで示した。
「艦隊の状態はどうですか?」
「問題ありません。いつでも出撃できます」
シュムーデ提督の言葉に俺達は同意するかのように頷く。司令長官はそんな俺達を見ると微かに頷いた。傍らに書類袋がある。あの中に命令書があるのかもしれない。
「帝国は間も無く内乱状態になります。卿らにも当然戦いに参加してもらいます」
「望む所です。我々は一体何を?」
意気込むように答えたシュムーデ提督に司令長官は少し困ったような表情を見せた。
「そうですね。少々微妙な任務になりそうです。地味ですし、華々しい戦闘は先ず無いでしょう。ただ、これ無しでは勝利は難しい」
地味、華々しい戦闘は無い。つまり補給か、内心の落胆を押し殺した。補給を馬鹿にするつもりは無い。補給無しで戦えるなどありえないのだ。だが自分がその補給部隊の護衛となれば、重要性は理解していても落胆は禁じえない。
「補給線の防御でしょうか?」
「ええ、フェザーンとオーディンを結ぶラインの維持が任務となります」
フェザーンか……。確かにフェザーンの商人達が運ぶ物資が無ければ帝国は混乱するに違いない。
司令長官とリンテレン提督の会話を聞きながら航路図を頭に思い浮かべた。ブラウンシュバイク、リッテンハイムが敵の本拠地になる以上、フェザーンとの補給線の維持はカストロプ、マリーンドルフ、マールバッハ、アルテナ、ヨーツンハイムの線か。
「なるほど、ブラウンシュバイク、リッテンハイムが使えない以上補給線は特定されますな。それにいささか遠回りになる」
「うむ。卿の言う通りだが貴族達が補給線の切断などと地味な事をやるかな?」
「油断は出来まい。彼らも必死なのだ。切られてからでは遅い」
シュムーデ、リンテレン、ルーディッゲ提督がそれぞれに話す。
「敵は貴族だけではありません」
「?」
司令長官の声に俺達は思わず顔を見合わせた。皆訝しげな表情をしている。
「フェザーンです」
「フェザーン?」
「ええ、フェザーンが自ら交易船の出航を制限、或いは止めるかもしれません」
「!」
フェザーンが交易を止める?
「帝国とフェザーンの関係は冷え切っています。フェザーンにとっては帝国が混乱し弱体化することが望ましいはずです」
「しかし、出航を止める理由がありますか? こちらは航路を警備するのです。安全が確保されているとなれば……」
「シュムーデ提督、被害などいくらでもでっち上げられますよ」
「!」
被害などいくらでもでっち上げられる。そう言った司令長官の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。確かに帝国とフェザーンの関係は控えめに言っても良くない。となればフェザーンがでっち上げを行なってでも交易船の出航を止める事はありえるだろう。
応接室に沈黙が落ちた。皆顔を見合わせ、そして司令長官を見る。司令長官が傍らに置いていた書類袋を取り上げた。無言でシュムーデ提督に差し出す。
シュムーデ提督も微かに頭を下げ無言のまま受け取る。俺やリンテレン、ルーディッゲに視線を向けてから書類袋を開け、中から書類を取り出した。
「こ、これは、本気ですか!」
シュムーデ提督が驚愕の声を上げる。慌てて彼の手にある書類を見る。書類にはこう書いてあった。
『第一次フェザーン侵攻作戦』
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