銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百三十五話 波紋
帝国暦 487年10月 5日 オーディン 宇宙艦隊司令部 ヘルマン・フォン・リューネブルク
「昨夜は大変だったそうですな」
「……」
決裁待ちの文書を見ていたヴァレンシュタイン司令長官は俺の方を一瞬見ると苦笑してまた文書に向かった。ヴァレリーは何も言わず俺の方を軽く睨んでいる。
昨夜のブラウンシュバイク公邸での親睦パーティで起きた出来事は朝から司令部中で噂になっている。女性兵士だけではない、昨夜ブラウンシュバイク公邸に行かなかった高級士官たちの間でも噂になっている。
もっとも女性兵士と高級士官達の間では噂の主旨が違う。女性兵士達はヴァレンシュタインがロイエンタール、アイゼナッハと踊った事、そしてエリザベート・フォン・ブラウンシュバイクにダンスを申し込んで踊った事が話題になっている。あくまで興味本位だ。
しかし、高級士官達の間ではブラウンシュバイク公がローエングラム伯に眼を付けた、宇宙艦隊を分裂させようと手を打ってきた、そう考えられている。深刻に取られているのだ。
「昨夜は上手くかわされたようですが、それでもローエングラム伯の去就に不安を持つ者もいます」
「……」
「ロイエンタール、ミッターマイヤー等元々ローエングラム伯の配下だった者は不安に思っているでしょう。何かにつけて疑われる立場になりかねない」
「……」
昨夜の一件は司令長官が上手くかわしたように見える。しかし、現実には司令部内にて不安が生じているのだ。俺から見ればブラウンシュバイク公は十分にポイントを稼いだように思える。
ヴァレンシュタインは見ていた文書を決裁すると、既決の文書箱に入れ、未決の文書を手に取った。そして文書を丁寧に読み始める。話しかけようとしたが女性下士官が文書を持って近づいてきたので思い止まった。ヴァレリーが苦笑している、ヴァレンシュタインもだ。
「宜しいのですかな。昨夜の一件は小手調べでしょう。これからも敵は手を打ってきますぞ」
文書を置いていった女性下士官の後姿を見ながら話しかけた。ヴァレンシュタインがまた文書を決裁すると既決の文書箱に入れる。
俺の言葉にヴァレンシュタインは殆ど何の反応もしなかった。もう少し反応してくれても良いものだが……。もっともこの男が俺の言った事に気付かないとも思えない。余計な事だったか……。
「ローエングラム伯はどうしています」
未決文書を手にしながら司令長官が問いかけてきた。
「特に変化は無いようですな。いい気なものです」
そう、まったくいい気なものだ。自分が何故狙われたか、何も考えてはいないのだろう。もう少し考えるべきなのだ。本来ならメルカッツ提督が狙われてもおかしくなかった。
彼は実績もあれば人望も有る。それなのに宇宙艦隊では一艦隊司令官でしかない。貴族たちがメルカッツ提督が不満を持っているだろうと思ってもおかしくない。それなのに彼は狙われなかった。
ヴァレンシュタインは彼を軍の宿将として遇し、メルカッツ提督もそれに応え、若い司令長官を献身的に補佐している。この二人の間に隙があるようには見えない。
一方ローエングラム伯は副司令長官だがその地位に満足しているようには見えない。司令長官に隙があれば取って代わろうとするだろう。周囲はそう見ている。
さらに周囲から見ればヴァレンシュタインにとってローエングラム伯は厄介者で扱いに困っているようにしか見えない。何処かで彼に遠慮している。彼が何時までその遠慮を続けるのか……。
そのことが貴族達に付け込む隙があると思わせた。ローエングラム伯は孤立しており、周囲からは浮いている。それがどれだけ危険か本人は分かっていない。
ミューゼルの姓を名乗っていた時から彼は孤立していただろう。しかし、軍での階級が低かった時はそれほど問題にはならなかったと思う。階級が上がってからはヴァレンシュタインが何かにつけてサポートしている。そのため孤立する事の危険性を十分に理解していない……。
「伯の周囲はどうです」
「?」
伯の周囲か……。考えていると司令長官が呟くように言葉を発した。
「ローエングラム伯が門閥貴族に与する事は余程に追い詰められない限り先ず無いでしょう。門閥貴族もそのあたりは理解しているはずです」
「……」
「おそらく疑心暗鬼を生じさせそれを利用しようというのが主目的でしょうが、利用するのは門閥貴族だけとは限らない」
司令長官は文書を手にとっていたが、見てはいなかった。少し眉を寄せ、何かを見据えるような表情で話し続けた。
門閥貴族だけとは限らない……。なるほど、伯の周囲にもその噂を利用する者がいるとヴァレンシュタインは考えている。彼が真実恐れているのはそちらか。いや、貴族達の中にもそれを期待する者がいるのかもしれない。
噂を利用するものか……。伯の周辺でこの噂を利用するもの。ジークフリード・キルヒアイス、カール・ロベルト・シュタインメッツ、パウル・フォン・オーベルシュタイン……。
パウル・フォン・オーベルシュタインだな、切れるとは聞くがあまり良い噂も聞かない男だ。フェルナー准将とも接触したと聞いている。どうやらもう少し注意する必要があるようだ……。
帝国暦 487年10月 6日 オーディン 宇宙艦隊司令部 アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト
第三十七会議室に宇宙艦隊司令長官、副司令長官、各艦隊司令官が集まった。いずれ門閥貴族達との決戦が起きるだろう。そのための作戦会議だ。それが行なわれるという事は門閥貴族の暴発は近いと司令長官は見ているのかもしれない。
基本方針は簡単に決まった。本隊と別働隊に別れ、本隊はブラウンシュバイク、リッテンハイムを倒す事に専念する。別働隊は門閥貴族のヒンターランドである辺境星域を制圧し彼らの後退、増援を絶つ。
「問題は反乱軍がどう動くかですが……」
ワーレン提督が小首をかしげながら問題を提起した。その言葉に彼方此方で同意の声が上がる。
「確かにそうだが、あれだけ痛めつけたのだ。そう簡単に出てくるとは思えんが」
「いや、だからこそ出てくるとも考えられる」
ビッテンフェルト提督の否定的な意見にクレメンツ提督が反対した。
「どういうことかな、クレメンツ」
「メックリンガー、彼らには防衛体制を整えるための時間が必要だ。時間稼ぎのために辺境星域に出兵し、内乱を長引かせる事を考えるかもしれん、そう思わないか」
周囲がざわめきクレメンツ提督の言葉に同意する言葉が上がった。
「勝つためではなく、時間稼ぎのためか。無いとは言えんな」
「確かに」
ロイエンタール、ミッターマイヤーが呟く。確かにその可能性はあるだろう。
「捕虜を使えばいいだろう」
「捕虜?」
周囲の視線を集めたのはローエングラム伯だった。
「閣下、捕虜を使うとは一体……」
「反乱軍との間で捕虜を交換する。その中にこちらの工作員を入れ、反乱軍の間で内乱を起させれば良い」
自信のある策なのだろう。ルッツ提督の問いに答えた副司令長官の顔は上気している。
「問題は時間がかかる事だ。今から取り掛かると、反乱軍との間に話を付け交換が終了するまで三ヶ月、いや四ヶ月はかかるだろう。それをどうするかだ」
周囲から驚きのざわめきが上がり、副司令長官は隣に座る司令長官を見た。自然と皆の視線が司令長官に向かう。
司令長官は少し小首をかしげながら右手で軽く左腕を叩いている。副司令長官の案に驚いているようには見えない。何かを考えている。一瞬だが副司令長官の表情に苛立ちが走ったように見えた。
司令長官が腕を叩くのを止めた。そして僅かに姿勢を正す。自然と我々も姿勢を正し、司令長官の言葉を待った。
「捕虜交換、悪くないと思います。ですが、伯の言う通り時間的に余裕がありませんね」
「では、いかがしますか?」
ケンプ提督が問いかけた。
「そうですね。捕虜の交換自体は内乱終了後でいいでしょう。現時点では捕虜交換の約束だけでいいと思います。それで反乱軍の動きを抑えられるでしょう」
「……」
「反乱軍はシャンタウ星域の敗戦で兵力を大きく減じました。彼らにとって捕虜を返してもらえるというのは大きい。主戦論者も兵力増強のためとなれば大人しくなるでしょう」
「しかし、彼らが信じるでしょうか」
「確かに随分と騙しましたからね、信じてもらえないかもしれません」
「いえ、そういう意味で言ったわけでは」
「冗談ですよ、ワーレン提督。本気にしないでください」
会議室に笑いが満ちた。ワーレン提督も頭をかいて笑っている。司令長官はちょっと困ったような表情で苦笑している。
「捕虜交換はフェザーンの弁務官同士で交渉を行ない帝国軍、反乱軍で共同声明を出すような形で進めるのがいいと思います。証人は両国の市民、そういうことになるでしょう。ローエングラム伯はどう思いますか」
問いかけた司令長官でも問われた副司令長官でもなく、周囲のほうが緊張したかもしれない。皆一昨日の一件を知っている。その事が微妙な影を落としている。
「小官には異存有りませんが、その際工作員を入れるのですか」
副司令長官は僅かに悔しそうな声を出したが、司令長官の意見に反対はしなかった。
「それは、今決めなくてもいいでしょう。その時点でもう一度検討しましょう。情勢がどう変わっているか分かりませんから」
どうやら、司令長官は工作員を使っての謀略にはあまり乗り気ではないようだ。
副司令長官は今ひとつ納得しかねる表情だったが司令長官は気にした様子も無い。たいしたものだ、ここまで感情を抑えられるとは……。俺では到底無理だろう。何処かで爆発しているに違いない。
「ただし、ワーレン提督が心配するように反乱軍が捕虜交換を信じない可能性もあります。念のため別働隊は兵力を多くしたほうがいいでしょうね。大体五個艦隊から六個艦隊程度、そのくらいは必要でしょう」
司令長官の言葉に会議室がざわめいた。
「元帥閣下、別働隊ですが指揮官はどなたになるのでしょうか?」
「ローエングラム伯にお願いする事になります。伯は前回の戦いでも十一個艦隊を率いていますから問題は無いでしょう」
ケスラー提督の質問に司令長官が答えた。問題は無い、確かに軍の指揮官としての能力、そういう意味では問題は無いだろう。問題は副司令長官の心だ、大丈夫だろうか。提督達は反対こそしないが顔を見合わせている。
「ローエングラム伯、艦隊司令官を五人選んでください。作戦は長期になりますから、やりやすい形で別働隊を編制してください。よろしいですね」
「はっ」
副司令長官自身の艦隊も入れれば六個艦隊が辺境星域へ派遣される事になる。全軍の三分の一の兵力だ。門閥貴族、反乱軍、その両者に備えるとなれば確かに兵力は必要だろう。
どうやら司令長官は副司令長官を切り捨てる考えは無いようだ。ミッターマイヤー、ロイエンタールも不安を持たずにすむだろう。もし、別働隊をメルカッツ提督に任せるようなら司令長官はローエングラム伯を何処かで切り捨てる覚悟を決めたという事のはずだ……。
昨日、ルッツ提督、ワーレン提督と飲んだ時に出た話だ。ルッツ提督と視線が合った。微かに頷いてくる彼に同じように頷き返す。ワーレン提督も同様だ。
おそらく彼らのどちらか、あるいは両名が選ばれる事になるだろう。俺もその中に入るかもしれない。選ばれた人間は苦労するだろう。肉体的にではなく精神的にだ。厄介な事になった。
「もう直ぐ反乱軍はハイネセンに戻りますね。彼らがどういう国防体制を取るのか、気になります。それによってはこれから先が難しいことになるかもしれない」
司令長官が呟くように言葉を出した。これから先か、困った人だ。司令長官は先が見えすぎる。その所為だろうか、今が見えていないのではないかと不安にさせられるのだ。それさえなければ本当にこの人は完璧なのだが……。
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