何も覚えていなくても
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第一章
何も覚えていなくても
雪林昭一はもう百歳を越えている、今は定年をとうの昔に迎えていることもあり娘や孫、そして曾孫夫婦のいる家に隠居生活だ。
妻にも十年前に先立たれた、それで今は日々茶を飲み新聞を読み散歩をして少し食べて風呂に入って寝る、そうした日常だった。
穏やかな顔でいつもにこにことしている、その彼にだ。
近所の子供達は笑顔でだ、こう声をかけた。
「お爺ちゃんもう百歳だよね」
「百歳越えてるんだよね」
「そうじゃ」
その笑顔でだ、子供達にも応える。
「わしは百三歳じゃ」
「百三歳って」
「もう凄いお歳だよね」
「それでも生きてるんだね」
「そうなんだね」
「そうじゃ、何時まで生きられるかわからんが」
それでもというのだ。
「百歳じゃよ」
「僕もそこまで生きたいな」
「私もよ」
「長生きしたいよね」
「ずっとね」
「うむ、長生きをするとな」
子供達にだ、老人は穏やかな顔のままで言う。
「それだけでいいものじゃ」
「そうなんだね」
「長生きしたらいいんだね」
「そうしたら」
「それだけで」
「いいぞ」
「それでだけれど」
子供達のうちの一人、篠田健一という子供が尋ねた。彼は子供達の中でも最も好奇心旺盛な明るい男の子だ。髪は黒くスポーツ刈りにしていて丸々とした身体をしている。小学二年生である。
「お爺さん百三歳だから」
「どうしたのかのう」
「うん、色々知ってるよね」
「長生きしたからか」
「どんなことを知ってるの?」
「いや、これがな」
老人は健一に笑って返した。
「覚えておらんのじゃ」
「そうなの?」
「歳を取るともの忘れが激しくなってのう」
だからというのだ。
「それでじゃ」
「だからなんだ」
「わしは何も知らん」
「忘れたんだ」
「もう昔のことも最近のことも」
それこそというのだ。
「忘れたわ、字と箸の使い方とトイレの仕方を風呂の仕方は覚えておるからな」
「いいんだ」
「普通に生きていられるからな」
それで、というのだ。
「わしはそれでいいわ」
「けれど何もだね」
「覚えておらん」
「忘れたんだ」
「はて、昔は色々あった筈じゃが」
それでもというのだ。
「何があったのか」
「本当に覚えてないの?」
「何もな」
「それで悲しくないの?」
健一は穏やかに話す老人に首を傾げさせて尋ねた。
「何も覚えていなくて」
「さっきも言ったがな」
「それでもいいんだ」
「わしはな」
こう言うのだった、健一にも。しかし。
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