銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百九十四話 財務官僚の悩み
宇宙統一暦 元年 2月 3日 オーディン 新無憂宮 ライナー・フォン・ゲルラッハ
「これが同盟政府から提示された国債の使用内訳か」
「はい」
「総額で二千五百億ディナール、……少し多いのではないか?」
リヒテンラーデ侯が疑念を表明するとヴァレンシュタイン元帥が苦笑を浮かべた。確かに少し多い、財務省でもその点の指摘が出た。しかし少しだ、不適当に多いというわけではない。
「財務省は如何思うのだ?」
「少し多めに計上している可能性は有ります。だとすれば予め削られる事を想定しての事でしょう」
私が答えると侯が“フム”と面白くなさそうに鼻を鳴らした。そして元帥に視線を向ける。また元帥が苦笑を浮かべた。
「仕方ありません。何処の国でも財務官僚の仕事は税を搾り取る事と他人が作った予算案を貶す事です。おまけに金を出し渋る」
今度はリヒテンラーデ侯が苦笑いを浮かべた。
「卿は酷い事を言うの」
「間違っておりましょうか?」
「いや私も財務尚書を務めたからその辺りは理解している。否定はせぬ、予算折衝は粗探しの様なものよ、うんざりしたわ」
思い出したのだろう、侯が顔を顰めた。その通りだ。予算折衝の時期は胃が痛くなる。
「それで如何する? 認めるのか?」
侯が私と元帥の顔を見た。
「財務省では認めても良いのではないかという意見が大多数を占めております。私も同意見です」
「ほう、珍しいの」
リヒテンラーデ侯が面白そうに笑い声を上げた。そのように皮肉を言わなくても……。
「この予算案に対してハイネセンのエルスハイマー大使からディナールの通貨価値が下降傾向にある事、このままでは軍の縮小が進まない事に留意して欲しいと連絡が有りました」
「なるほど」
「それに景気高揚策は中途半端に行っては効果が出ません」
「どうせやるなら思い切ってか」
「はい」
同盟領ならこれまでもこれからも一ディナールは一ディナールだが対フェザーン・マルク、対帝国マルクに対してはそうはいかない。景気高揚策と言えば公共事業だろうが辺境開発にはフェザーンの協力が要る。通貨価値が下がればそれだけ費用は大きくなるだろう。
それに同盟の景気が好転しない限り同盟軍の縮小は進まない。そして同盟軍の縮小は帝国軍の再編に密接に関係する。同盟軍の解体が進まない限り帝国軍の再編は進まないのだ。つまり財務省は軍事費の削減に踏み込めない。既に帝国領内の辺境星域では開発が進み労働力の受け入れが可能な状態にまで来ている、いや必要な状況になっている。
軍から民間に人を戻し同時に軍事費を削って辺境の開発に回す。それによってさらに開発を進め辺境を発展させる。帝国の財政状態を健全に保ち辺境を発展させるためには早急に実施しなければならん。同盟の景気高揚策は帝国の安全保障、財政問題、経済問題そのものなのだ。財務官僚が同盟からの提案に多少眉を顰めても声を上げて反対しないのはそのためだ。
「卿は如何思うのだ、司令長官」
「受け入れるべきだと思います」
「……」
「ディナールの通貨価値が安定しなければ通貨の統一は出来ません。この点についてボルテック氏から懸念が出ています。そして通貨の統一は国家の統合に必要不可欠です。早急に同盟の経済を、ディナールを安定させなければなりません。そのためには大規模な景気高揚策が必要です」
なるほど、それが有ったか。リヒテンラーデ侯が大きく頷いた。
「分かった。同盟からの要請を受けよう」
元帥が頭を下げたので慌てて私も頭を下げた。
「それにしても統一とは面倒な物よ、向こうの事まで考えねばならんとは。……負担が倍になるの」
全くの同感だ。軍事費の増大、遺族年金の増加、税収の減少からようやく解放されたと思ったのに……。
宇宙統一暦 元年 2月 17日 ハイネセン ヤン・ウェンリー
「軍を辞めたそうだね。退職願が受理されたとキャゼルヌに聞いたよ」
「今の同盟軍は私を必要とはしていません。今必要とされているのはキャゼルヌ先輩の様な人でしょう」
私が答えるとシトレ前本部長が微かに頷いた。どうやら心配して訪ねて来てくれたらしい。或いはキャゼルヌ先輩に頼まれたのか。
「これからどうするのかね?」
「三月までにこの官舎から出て行くようにと言われています」
「その後は?」
「未だはっきりと決めたわけではありませんがフェザーンにでも行ってみようかと……」
「フェザーンか」
「はい」
シトレ前本部長がまた頷いた。
口には出さないがユリアンはフェザーンに行きたがっている。ユリアンが如何いう人間になるのかは分からない。平凡な人間で終わるのか、或いは国家に大きな影響を与える人間になるのか。だが可能性を持たせるにはハイネセンに居るよりもフェザーンに行った方が良いだろう。これからの宇宙は間違いなくフェザーンを中心に動く。その中でユリアンが何を見、何を考えるのか……。
「奇遇だな。実は私もフェザーンに行く事になった」
「……と言いますと」
「同盟の大使としてフェザーンに赴任する」
「それは……」
「つい先日までは誰も大使に成りたがらなかったのだがね」
シトレ前本部長が笑いながら話し始めた。
「最近レベロ議長の元に自らを大使にと売り込みに来る人間が多くなった。帝国が同盟の提示した国債の額を削る事無く承認した。その事で帝国を与し易しとでも思ったらしい。当然だが帝国には帝国の考えが有る。国債の額を承認したのもその考えによるものだ。帝国は決して甘い相手ではない。ヤン、君なら分かるな?」
「はい」
分かっている。好意や善意だけで帝国が動く事は無い。彼らは極めて冷徹だ。同盟の要求を認めたのはそこに帝国にとっても利が有るからだ。
「その辺りを理解している人間は大使になろうとはしない。厳しい任務になるからな。だが大使に必要とされている人間はそれを理解している人間だ」
「それで閣下が?」
「ああ、レベロに頼まれてね、引き受ける事にした」
閣下が笑みを浮かべた。
「ヤン、如何かね、君も一緒に行かないか。私を助けて欲しいんだが」
「助ける……」
「私のスタッフとしてフェザーンに一緒に行って欲しいんだ」
「……」
「先程君は同盟軍は自分を必要としていないと言ったね。そうかもしれない、だがフェザーンでは君が必要だ。少なくとも私は君を必要としている」
私を必要としている?
「閣下が今日此処にいらしたのは」
シトレ前本部長が笑い声を上げた。
「そうだ、君を誘いに来た」
「……」
「ヤン、帝国では中央は専制君主制だが地方自治には民主共和制を導入しても良いのではないかという意見が有るらしい」
「地方自治で民主共和制を……」
シトレ前本部長が頷いた。なるほど、地方自治なら政治思想による対立は小さい。そして影響も限定される。
「その声は決して小さくない。トリューニヒト前議長からレベロ議長に報せがあった」
トリューニヒト前議長から……。
「民主共和制を途絶えさせてはならない。例え地方自治でも市民の声を政治に反映させる、その思想を残すべきだ。違うかね?」
「……」
「そのためには我々は帝国の信頼を勝ち取らなければならない。地方自治に民主共和制を導入しても問題無いと思わせなければならないんだ。手伝ってくれないか、皆が君を待っている」
「皆? それは如何いう意味です?」
問い掛けると前本部長が頷いた。
「帝国ではトリューニヒト前議長が民主共和制を残すために戦っている。同盟ではレベロ、ホアンだ。我々は国家を存続させるための戦いには負けたかもしれない。だが民主共和制を残すための戦いはまだ終わっていない」
シトレ前本部長が私を見ている。強い視線だ、前本部長にとって戦いはまだ終わっていないのだ。いや、前本部長だけではない、トリューニヒト、レベロ、ホアン、彼らは未だ諦めていない。民主共和政国家では無く民主共和制を残すための戦い……。
「分かりました、何処まで御役に立てるか分かりませんが微力を尽くします」
「有難う、宜しく頼むよ」
「フェザーンへは何時までに?」
「六月には向こうに居る必要が有る。ハイネセンは遅くとも四月の終わりには出るつもりだ」
となると二カ月は何処かで過ごす必要が有る……。
「住居の事かね?」
「ええ」
「このまま四月まで此処に居れば良い」
「しかし」
前本部長が声を上げて笑った。
「君は今この時から政府職員だ。官舎に居ても何の不都合も無い。レベロには話してある、アイランズ国防委員長にもね」
「なるほど」
どうやら私がフェザーンに行く事は既定事実だったようだ。上手く操られたような気がしたが怒りは感じなかった。
宇宙統一暦 元年 3月 15日 ハイネセン 最高評議会ビル ジョアン・レベロ
『如何かね、そちらの状況は』
「悪くない。こちらが提出した国債の要請を帝国が無条件で受け入れてくれたからね、少しずつだが経済状況は上向きになりつつある」
『未だ実際には何もしていないだろう?』
「アナウンス効果という奴だな。帝国は同盟を締め付けようとはしていない、同盟市民は安心したというわけだ。御蔭で親帝国派と呼ばれる人間が増えている」
スクリーンに映るトリューニヒトが笑い声を上げた。
帝国がこちらの提案を無条件で受け入れた事には正直驚いた。エルスハイマーの口添えも有ったが帝国政府にも同盟を必要以上に抑え付けようという意思は無いのだろう。勿論そこには同盟が三十年後の統一に向けて協力するという前提が有るが……。
『では少しは君も遣り易くなったか?』
「そうでもない、同盟市民の私に対する評価は帝国の顔色を窺う裏切り者さ」
『倒閣運動でも起きているのか?』
トリューニヒトが心配そうな表情を見せた。
「残念だがそんなものが起きるほど最高評議会議長の椅子は魅力が有るわけでは無い。経済恐慌でも起こらない限り私の地位は当分安泰だな」
『そうか』
少し寂しそうな表情をトリューニヒトが見せた。そんな顔をするな、トリューニヒト。政権が安泰なのは良い事なのだ。
「そちらは如何なんだ、トリューニヒト」
トリューニヒトが笑みを見せた。
『忙しいよ、こちらは。憲法制定、それに遷都の準備も有るからね』
「そうか」
『遷都で一番忙しい思いをしているのは宮内省だな。皇帝の住居を如何するのかで大騒ぎだ。それに今の新無憂宮を如何するのかという問題も有る』
「なるほど」
個人の引っ越しでも大変なのに遷都ともなれば……。ちょっと想像がつかんな。
「それで、新無憂宮は如何するのかね?」
『当初は離宮として維持するというのが宮内省の考えだったんだがね、維持費が馬鹿にならないんだ。フェザーンに遷都すればオーディンの離宮など五十年に一度使えば良い方だろう。膨大な費用を費やしてまで維持する必要が有るのか疑問だ。だが売りに出す事も難しい。宮内省は頭を抱えているよ、相談を受けた財務省は逃げた』
「その判断は正しいだろう。私が財務尚書ならやはり逃げる」
トリューニヒトが笑い出した。
『私も同感だ。宮内省内部には一部を離宮として残し他は解体するという案も出ている。しかしその解体する費用も馬鹿にならないし新無憂宮は歴史的な価値も有るからな、解体には反対する声が強い』
なるほど、帝国は五百年続いた。新無憂宮は五百年の間帝国の中心に有った訳だ。解体に反対する声が強いのは当然だろうな。
「それで、如何するんだ?」
『そのまま博物館として一般市民に公開してはどうかという意見が出ている。映画会社にロケ地として利用させるとかね。その収益で現状のまま維持管理させる』
「なるほど、面白い考えだな。映画の撮影に使いたがる人間は多いだろう。黒真珠の間とかな」
トリューニヒトが“そうだろう、そうだろう”と上機嫌に頷いている。
『発案者は私だ。政府が遷都すればオーディンは活気を失う。しかし此処には新無憂宮だけじゃなく政府関係の建物が色々と有る。観光都市として再生出来るんじゃないか、そう思うんだ。宮内省は渋っているが財務省は諸手を上げて賛成している』
「なんだ、自慢話か」
『まあそうだ』
二人で声を上げて笑った。暫らく笑っていなかったような気がする。気持ちが良かった。
『少しずつにせよ周囲の信頼を得て行きたいと思っている。そうなる事で色々と情報も入って来るからね』
「苦労をかけるな、トリューニヒト」
トリューニヒトが肩を竦める仕草を見せた。
『心配無い。私はこの状況を楽しんでいるよ。それにもう直ぐシトレ元帥、ヤン提督にも会える』
「そうだな」
『君こそ無理はするなよ、少しは息を抜け』
「頑張れとは言わないのか?」
『言わなくても頑張るだろう?』
思わず苦笑してしまった。
「そういう性分なんだ」
『気を付けろよ、ヴァレンシュタイン元帥も君の事を心配している。真面目なのは良いが自分を追い込み過ぎるのではないかとね』
「そうか」
ヴァレンシュタインが……。
『冷徹では有るが意外に面倒見が良いところが有る』
「意外? そんな事を言って良いのか?」
『訂正、非常にだ』
また二人で笑った。
『今は私がパイプ役になっているがその内直接話すのも良いだろう。敵なら手強いが味方なら頼もしい相手だ』
「味方か……」
トリューニヒトが頷いた。もう笑ってはいない。
『味方にするんだ、レベロ。敵対では無く協力しながら民主共和制の存続を目指す』
「そうだな」
トリューニヒトは帝国で信頼を得ようと戦っている。彼一人に押し付けるわけにはいかないな。帝国と協力体制を強化する。その事で帝国の信頼を得る。例え同盟市民から裏切り者と蔑まれようとも……。
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