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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第143話 災いなるかな……

 
前書き
 第143話を更新します。

 次回更新は、
 6月29日。『蒼き夢の果てに』第145話。
 タイトルは、『星に願いを?』です。

 

 
 和室に相応しい、落ち着いた電球色の灯りに照らし出された部屋。その中心に坐する二人。

 俺を見つめる少女。
 とても愛らしい少女……と表現出来るだろうか。身体はそう大きい方ではない。しかし、彼女自身が発して居る存在感と、鮮やかな紅のニットのセーター。ここに豊かな長い黒髪が、和室に相応しい柔らかな電球色の明かりに良く映えていた。
 更に、かなり整った。但し、一目見て分かる気の強そうな顔に瞬く両の瞳。

 類まれなる美少女、……と言う表現が相応しい少女であろう。
 ――黙って其処に存在していた、のならばだが。

 瞬間――
 この部屋に帰り付いた時からずっと繋ぎ続けられて来た会話が、ふと途切れた。
 その間隙をまるで埋めるかのように、漂う花の香り。
 これは――
 香りについてそう詳しい訳でもない俺に取って、ソレは何の花なのか分からない香り。しかし、決して不快な感覚ではない。

 まるで眠りの国から漂って来るかのような不思議な香りに、視線のみで室内の確認を行う俺。

 但し、本来休業中のこの和室の何処を探しても生花など見付け出す事が出来る訳はない。これは、おそらくこの目の前の少女自身が発して居る香り。
 コロンか、香水か、それともシャンプーの香りか……。

 そう考えた瞬間、込み上げて来る欠伸を無理にかみ殺す俺。一度瞳を強く閉じ、再び開いた時には目じりに少しの涙を感じた・
 う~む、こりゃ沈没も近いな。
 流石に徹夜明け。オマケに前日も睡眠は仮眠程度しか出来なかったので、危険な事件に巻き込まれた事により幾ら気が張って居たと言っても体力的にはそろそろ限界。
 ……と言うか、俺に取って睡眠と言うのは非常に重要。現実世界はゲームの世界などと違って、飯を食った程度でマジックポイントが回復したり、怪我が治ったりするような訳には行かない、と言う事。

「それでハルヒ――」

 ただ、未だもう少しの間だけ、気力を充実させて置く必要がある。この問いの答えを聞くまでは。そうやって、部屋に無事帰り着いた事で少し緩み掛けた自らにもう一度気合いを入れ直す。

 障子越しに差し込んで来る光を背にする彼女。その紅のニットが奇妙な生活感を。しかし、長く豊かに波打つ黒髪。それが彼女の背中を覆わんがばかりに広がる様は……正直に言うととても美しいと思う。柔らかな電球色の光を受ける肌は白く、瞳はまるで晴れ渡った冬の蒼穹のよう。
 容姿は可憐。有希や万結とは違う意味で、その場に存在している事が疑われるかのような……生活感と言うか、目の前に実在している事のリアリティをまったく感じさせない美少女を真っ直ぐに見つめる俺。
 そう、真っ当な生命が持つ俗臭をほとんど纏う事がなく、しかし、妙な艶やかさと清楚さを同居させている。少女と言う、未だ花開く前の蕾の状態でありながら、この状態。正直、二年後、三年後の彼女がどう言う成長を遂げているのか。それが知りたいようであり、同時に知りたくないような、何と表現して良いのか分からない微妙な気がして来る少女。

「ちゃんと眠る事は出来たか?」

 昨夜、この部屋を出て行った時の彼女の様子は矢張り異常だった。まぁ、確かにあの話……。俺と夢の世界で出会った出来事が、下手をすると世界の滅亡と直結する事件で、その事件を起こしたのが邪神に選ばれた自分。そして、二カ月ぶりに夢の世界で出会った俺が、最悪の場合は彼女の生命を奪うかも知れなかった可能性があった。
 更に、その時に俺が口にした内容は、……もしもオマエが望むのなら、ずっと共に生きて行ってやる、と言う意味の台詞だった事が分かったのですから。

 話の辻褄は合って居るけど、俄かに信じられる内容ではない。
 但し、その内容を完全に否定するには、彼女の胸を飾る銀の光が自己主張を続け過ぎている。
 ――夢の出来事が真実の出来事だったと言う事を。

 しかし、少女……涼宮ハルヒと言う名前の少女は、その整った鼻梁を僅かに歪め、薄い唇を引きつらせて、

「そんなの無理に決まっているじゃないの」

 普段通りの、少し不機嫌な口調でそう答える。
 ……俺の予想とは正反対の答えを。

「こんな、あんたの臭いの染みついた場所で、ゆっくりと眠れる訳はないのよ。初めから」

 俺の臭い?
 コイツ、また失礼な奴やな。言うに事欠いて本人の前でオマエは臭いなどと言うとは。……と、普通ならば怒るトコロ。
 しかし、

「そうか、それはすまなんだな」

 少し肩を竦めて見せながら、一応、謝罪の言葉を口にする俺。但し、これは本心からの言葉ではない。
 ……と言うか、そもそも、眠れなかったと言うハルヒの言葉自体が眉唾物。
 何故ならば、今の彼女が発して居る雰囲気が睡眠不足と言う雰囲気ではないから。それに、俺の体臭が染みつくほど、この部屋で長い間暮らして来た訳ではない。
 この部屋に滞在したのはせいぜいが数時間程度。まして、その直前に風呂に入っているのに、それほど濃く香りを残せる訳がない。
 臭いと言うのなら、畳や和室が発して居る木の香りの方が圧倒的に強いはず。

 自らの縄張りを作る野生動物じゃあるまいし。

「その辺りに関しては()()()帰って来た事でチャラにしてくれると助かるかな」

 一度視線を自らの手に移してから、対面に座るハルヒに移す俺。一般人の感覚から言うと、両腕の二の腕から先をすべて包帯で覆った状態で戻って来る事を、無事に、などとは表現しないような気がしないでもないのですが……。
 ……でも、生命までは失わなかった。病院のベッドの横に呼びつけるような結果にも成らずに、自分の足で彼女の元に歩いて戻って来たのだから、それは評価して貰いたい。

「ふん、まぁ無事に戻って来た事だけは評価して挙げるわよ」

 敢えて、そっぽを向いて、そう小さな声で答えるハルヒ。……と言うか、これでは俺に対して答えたのか、それとも独り言を口にしたのか分からないレベル。
 いや、おそらく本人は独り言を呟いた心算なのでしょうね。そう言う……少しの陰の気配を彼女が発しています。それに、そもそも、ふたりきりの部屋。それもテレビや、その他、余計な音を発生させる機器が一切、使用されていない室内で有るが故に聞こえた、と言うレベルの声でしたから。

 尚、今、ハルヒが()()と表現したのは、おそらく俺の気配の事。
 俺が渡した護符を普段から身に着けている彼女は、おそらく俺の気配に関してはかなり敏感になっているはず。それに、そもそも、その程度の気配を発して置かなければ護符の役割など出来ません。
 有象無象に対して、コイツは俺の関係者だから手を出したらタダじゃ置かないぞ、そう言う剣呑な気配を発して置かないと、ハルヒの場合は危険過ぎますから。

 俺に対するハルヒの挑発が不発に終わり、室内に何と言うか、少し気まずい沈黙が降りて来る。
 ……と言うか、ハルヒはそっぽを向いた切り、こちらを見ようともせず、
 俺の方は眠い目を擦りながら、湯呑みに手を伸ばしかけ……。

「何、もう一杯、お茶が欲しいの?」

 空になった湯呑みを手に、次に何をしようか途方に暮れかけた俺に、話し掛けて来るハルヒ。
 いや、俺は別にお茶が飲みたい訳ではなく……。

「ところでな、ハルヒさん」

 俺としては、出来る事ならもう寝たいのですけど……。
 ふたりきりの部屋で何を言い出すのか、と言う内容の言葉を口にする俺。……と言うか、十七歳と言う年齢にしては、こう言うシチュエーションに遭遇した経験は多いとは思いますが、そうかと言って慣れるような物でもない。
 もっとも、それイコール、女性経験が豊富か、と言われると、それは違う。……と答えるしかないのですが。
 ……少なくとも、今回の人生では。
 それに、今までは部屋の主はタバサであり、長門有希であったので、俺としては下手に出るしかなかった弱い立場。所謂、居候(いそうろう)状態だったのですが、今回は俺が部屋の主。ここまで下手に出る必要はなく、素直に出て行ってくれ、と言えば良いのでしょうが……。

 しかし……。

「寝たいのならどうぞ。布団を敷くぐらいなら手伝ってあげても良いわよ」

 何なら、あんたが眠るまで手でも握っていてあげましょうか?
 しかし、涼しい顔で、そう答えるハルヒ。……と言うか、コイツ、状況を本当に理解しているのか?

「いや、其処へあなたに居られると、気が散って寝られないのですが」

 そもそも俺は近くに他人が居ると眠りが浅くなるから……。
 ガサツで大雑把。そう言う人間を装っているけど、現実にはかなり繊細。実際、有希とタバサ以外が傍に寄って来ると反射的に()が身構えて仕舞う自分がいる。おそらくタバサに関しては前世からの因縁で平気になっているのだし、有希に関しても似たようなものだと思う。
 俺に無理矢理にインストールされつつある記憶が確かならば、タバサに関しては幼い頃より姉弟として育てられた過去があり、有希に関しては、生死の境をさまよう俺の看病を何度も何度も行って貰った記憶が存在している。
 故に、この二人に関しては魂が知っている。彼女らは敵ではない……と。

「そんなの試して見ないと分からないわよ」

 そもそもあんたに許された答えは、ハイとイエス。それに、任務了解。この三つだけよ。
 相変わらず、傍若無人・傲岸不遜な言葉。彼女の言葉を真面に聞いたのなら、どう考えても俺の答えは一種類しかないように聞こえるのだが……。

 いい加減、現状の危険さに気付けよ。……そう言いたくなる。そもそも、俺が人畜無害だと誰が決めた? もしかすると聖人君子を装った外道の可能性だってあるだろうが。
 呆れながらも、そう考える俺。矢張り、疲れから心が少しささくれ立っている感じ。

 しかし……。

 それに……と言葉を続けるハルヒ。その雰囲気は先ほどまでの妙に威圧的な雰囲気からは少し変わっていた。……ように感じる。

「あんたとさつき。どちらの体調を優先すべきかを考えたら、こんなの分かり切っている答えじゃないの」

 ぼそっと。まるで独り言を口にするかのような小さな声。
 ……そう言えば、コイツはさつきと同じ部屋だったか。
 すっかり失念していた。かなりウカツな自分に対して少し眉を(ひそ)める。確かにそうだ。俺だって、ハルヒと同じ立場なら、同じように考える可能性の方が高い。
 現実には精神的にはどうだか分からないが、さつきの体力的な消耗は大きくはない……と思う。但し、そんな事をハルヒは知らないし、分からないと思う。まして、さつきが人質にされていた事は知っているから……。
 今のさつきとの相部屋は流石に厳しいか。

 そうかと言って、有希や万結の部屋にお邪魔する訳にも行かない。彼女らもこの旅館周りの防衛を担っていた事は、昨日ずっと行動を共にしていたハルヒならば知っている。そして、有希と万結が普通の人間などではなく、実は仙人の手に因る人工生命体、那托(なたく)である、……と言う事を彼女は知らない。
 つまり、本来ならあの二人に関しては、人間のような睡眠は必要ではない、と言う事を彼女は知らないと言う訳。

 次に、弓月さんに頼み込んでもう一部屋用意して貰う。この選択肢も、今では難しい。多分、彼女は昨夜から今朝に掛けての戦いで、俺の次に消耗している。朝の段階で俺がハルヒに電話を掛けて置けば、その時に手を打つ事を思い付いたかも知れないが、今から弓月さんをたたき起こして、新しくもう一部屋用意してくれ、と言うのは流石に……。

 一人で街の観光は……つまらない。旅館と言っても、派手なロビーがある訳ではないし、そもそも、ここは営業をしていない。
 結局、最初から詰んでいると言う事か。
 心の中でのみため息をひとつ。朝から……と言うか、この部屋に帰って来てから何回目のため息か分からないけど、今回に関しては絶対にハルヒに悟られる訳には行かないため息。

 ただ、その代わりに、ハルヒの顔をじっと見つめる俺。先ほど外したメガネはそのままテーブルの上に。

「何よ?」

 突然、妙な目つきで自らの事を見つめ出した俺の顔を、訝しげに見つめ返すハルヒ。但し、その声の中に差し迫った脅威を感じている様子はない。
 ……これは、俺の事を男として見ていないのか、それとも完全に安全牌だと高をくくっているのか。
 もしくは俺に対して完全に心を許しているのか……。
 俺の身体能力なら普通の人類を組み伏せる事など訳もない事を彼女も知っているはず。

 おそらく、信用しているのと、安全牌だと考えている、……の合わせ技ぐらいだろう、そう考えながら、

「いや、傍に他人がいる状態で眠るのが何時以来になるのか、と考えて」

 中学の修学旅行は色々とゴタゴタが重なって無理だったから、もしかしなくても小学校の修学旅行以来の事になるのか。
 俺の両親が事故で死亡した、……と言う内容は彼女も知っている。

「一応、俺って修行をして術を身に付ける必要のある家に産まれたから、物心ついた時には、その延長線上で自分の部屋に布団を敷いて一人で寝るように成って居たんや……」

 せやから、そんな事を考えた事はなかった。
 半分までは本当。残りの半分は嘘。そう言う内容の言葉を口にする俺。
 出自は事実。幼い頃……小学校に入学するよりも前の段階から俺は術の修業を行っていたし、その延長線上の理由で、夜は一人で寝るように成って居たのも事実。しかし、タバサに召喚されてからは、常にタバサが傍に居る状態で。そして、有希に召喚されてからは、常に彼女が傍に居る状態で眠って居た。

 それは……と言ったきり、言葉に詰まるハルヒ。おそらく、彼女としては少しの我が儘。多分、ふたりの距離感を探ろうと口にしただけ、の心算だったのでしょう。彼女の言葉を聞いて、それでも尚、出て行ってくれ、……と俺が言えば素直に出て行ったと思う。
 しかし、俺から返された答えは、普通に聞くとかなり不幸な生い立ちのぶっちゃけ話。これは、答えに窮したとしても不思議ではない。

「ただ、幾らなんでも枕元で絵本を読んで貰う、と言う訳には行かないから――」

 タバサや有希の声と違い、ハルヒの声の質では眠りに誘われる可能性は低い上に、今の俺の年齢ではそれは流石に無理。
 もっとも、少し心惹かれる物がない……訳でもないのだが。

 ただ、それはそれ。

「完全に沈没するまでの間、オマエさんに付き合う。これなら妥当な線やな」


☆★☆★☆


 意識と無意識の狭間。
 覚醒の一歩手前。微睡(まどろみ)の時間と言う物は至福のひと時と言っても過言ではないだろう。

 半分覚醒した状態。意識の半分は、未だ向こう側の世界でふわふわと緩やかにたゆたっている感覚。現世のしがらみ、やらなければならないすべての事柄から解き放たれたかのような……自由を満喫している感覚。
 まるで、見えない糸に雁字搦(がんじがら)めにされた自分(現世)から逃げ出したい。そう無意識下では感じているようだな。

 曖昧な……輪郭のはっきりしない意識の端っこで、皮肉に染まった笑みを浮かべる俺。ただ、それでも、この幸福の時間を少しでも長く感じて居たい。そう考えて居たのは事実であり――
 ――――
 その瞬間、妙な重さを腹部に感じる。いや、この妙な重さと温かさを感じた事により、無意識の世界から覚醒の世界へと引き戻されたような気もするのだが……。

 取り敢えず、意味不明の状態から回復する為には完全に覚醒するしかないか。かなりの未練を持つ状態ながらも、そう考え、右手を動かそうとして――
 ――――――ん?
 ――動きが異常に悪い。
 被った布団がヤケに重い。どうにも寝起きの状態で、意識と肉体が上手く繋がっていないのか、身体が上手く動かせない状態らしい。
 もしかすると、疲れが極限だった状態で尚、ハルヒとの取りとめのない会話や、共にテレビを見たりした事によって、予想よりも回復に時間が掛かっているのかも知れない。

 所謂、金縛りに近い状態かも。そう考えて、腕を動かす事を諦める。無理に動かせば、問題なく動きそうな雰囲気だし、そもそも指先は自由に動くので金縛りだとしても、そう深刻な状況ではない。
 一度強く瞳を閉じ、その事に因り、眠りに対する誘惑を断ち切る。瞼に微かな涙を感じ、室内が柔らかな電球色に包まれて居る事も同時に感じた。

 そして……。
 ゆっくりと瞳を開ける俺。その時、仰向けの状態で、ただただ天井を見つめるだけ……のはずであった俺の視線の先に、紅い、それなりの大きさの物体が存在している事に気付く。
 簡素な……大量生産品らしい紅いニットのセーター。赤とは神の子の血と肉を表わし、本来はかなり神聖な色。確か殉教を意味する色でもあったはず。そして、その胸を飾る銀の十字架は、本来は宗教的な意味合いの濃い代物なのだが、彼女のそれは、どちらかと言うと逆のサイドの品。奴らが言うには悪魔の一種。俺の式神、土の精霊ノームが作り出し、そこにアンチキリストの象徴、龍種たる俺自身が気を籠めた一品物。
 ゆったりとしたセーター故に、少し起伏の分かり難い胸から、タートルネックに包まれた紅の部分と、本来の肌の白い部分の境界線の印象が強い咽喉。そして、こちらの世界に帰って来てから見慣れた彼女の顔……悪戯が見付かった小さな子供が浮かべるような表情を浮かべているハルヒと今、視線が交わる。

 ……成るほど。

「……おはようさん」

 俺が寝ている布団の上に何故か馬乗りになっているハルヒ。その彼女を少しの間、寝惚け眼で見つめた後に、目覚めの挨拶を口にする俺。
 ただ、ぼんやりと、これで昨夜の約束が果たせたのかも、などと考えていたのですが。

「ちょっとあんた、この状況をみて、何でそんな太平楽な反応しか示せないの?」

 呆れたようにそう言いながら、鼻先に右手を突き付けて来るハルヒ。その右手に握られた黒のマジックが嫌な臭いを周囲に撒き散らす。
 しかし、その右手を大きく振った瞬間に、黒の長い髪の毛が穏やかな生活感のある電球色の光の中で揺れ……。
 一瞬だけ、この異常な状況に対して感謝に近い感情を抱かせて貰った。

 しかし、それも本当に一瞬の事。少なくとも、柔らかそうな紅のニットのセーターと、彼女のメリハリの利いた容貌。そして、長い黒髪が揺れたその様子に心を奪われ掛けた事を気取られる訳には行かない。
 まして、布団越しに感じる彼女の温かさが妙に艶めかしく、更に言うと彼女の重さを強く感じて居る両腕の状態から、本来ならばさっさとどいて欲しいのは事実……なのですが……。

「その右手に持っとるマジックの事なら演出が過剰すぎるわ」

 そもそも、人の腹の上であまり動き回るなボケ。中身が出たらどないするんや。……とツッコミを入れようかと考えたのですが、よくよく考えてみると朝から何も食って居ない腹の中には当然、何も入って居らず、出したくても何も出せない事に気付いたので、こう言う答えに留める。

「それに、良く考えてみろハルヒ。オマエが目を覚まして、その時に俺がお前の布団の上に今、正にキャップを外した状態のマジックを持って居る状況を。これが口紅か何かなら、流石に慌てたかも知れへんけど、油性のマジックで寝て居る俺の顔にオマエが落書きなんぞする訳がないでしょうが」

 少なくとも、その程度の信用ならしているぞ。
 そう、言いながら、かなり嫌いな臭いに部類出来る突き付けられたマジックを、無理矢理に布団の中から引き抜いた右手で鼻先から動かす俺。どうでも良いが、最初に身体の動きが悪かったのはハルヒが布団の上に座り込んで居たからであって、別に金縛りなどではなかった、と言う事。

 まぁ、もっとも、ハルヒの考えも分からなくはないのですが。
 自分は眠くない上、暇を持て余している状態。然るに、その隣で自らの子分……だと思って居る奴が太平楽に寝ていたら、少しぐらいは悪戯してやれ、的な感覚になったとしても不思議ではない。
 但し、詰めが甘い。もし本当に俺を驚かせたいのなら、この程度ではヌル過ぎて話しにならない。むしろ布団の中に潜り込んで、俺の腕の中から先におはよう、と言う挨拶をした方がよほど効果は大きかったと思う。
 次はタバサの番か、……と警戒しているトコロに大穴のハルヒが来たら、それは度胆を抜かれるでしょう。

「素直に何すんのよ、と叫んでぶん殴るわよ」

 何、クダラナイ事を言っているのだ、この男は、……と言いたげな表情でマウントポジションから俺を見下ろしながら、そう答えるハルヒ。
 ――成るほど。

「どうやら、俺とオマエさんの間には相手の立場や性格、その他に関して多少の見解の相違と言うヤツがありそうやな」

 一度、じっくりと話し合う必要は感じるが。
 もっとも、俺が眠りに就いた……と言うか沈没した時は、確かハルヒの隣で何か会話を交わしながらテレビを見ていた時。しかし、目覚めたのは布団の中。……と言う事は、寝てしまった俺を布団に寝かせてくれたのは、このマウントポジションから妙にエラそうな態度で俺を見下している少女だと思う。
 つまり、コイツはへそ曲がりで、口では何のかんのと言いながら、寝てしまった俺を放置もせずに布団を敷いて、寝かせてくれた……と言う事なのでしょう。

 ただ……。
 そう考えながら、自由になった右手で瞼をグシグシと擦る俺。同時に生あくびもひとつ。
 結論、未だ寝足りない。

「取り敢えず、其処からどかないのならそれでも良いわ」

 別に実力で排除しなければならない理由はない。そのまま馬乗りの状態を続けるのなら、硬気功を使って身体を硬くしてから寝ればそれで良いだけ。
 そもそも、その程度のことで俺を起こせると思うな。

「ちょっと、何をあっさりと二度寝しようとしているのよ!」

 おやすみの一言と共に、右腕で瞳を覆いながら再び眠りに就こうとする俺。その俺の腕を無理に外し、二度寝の阻止に動くハルヒ。
 ……と言うか、何故、其処まで俺が起きる事に固執しなくちゃならない?

「俺は王子様の目覚めのくちづけでしか目が覚めないんや。それが分かったら、もう少し寝かせて。お願い」

 仰向けになって居たのを、掴まれた右腕を上にする形で横になりながら、そう言う俺。
 もうこうなって仕舞うとほとんど駄々っ子。我ながら少し情けないかな、などと頭の片隅で考えながらも、引っ込みが付かずにこう言う態度を取って仕舞う。
 何時もの朝は有希やタバサが起こしに来るので、流石にここまで見苦しい状態にはならない……と言うか、もっと寝惚けた状態のような気もするが。

 しかし……。
 何故か、その言葉を聞いた瞬間、動きが止まるハルヒ。しかし、次の瞬間、
 冷たい金属製の物体が右の頬に当たる感触。これはおそらく、ハルヒが首にかけた銀の十字架。

 そして、

「本当に目覚めのくちづけをしたら起きるって言うのね?」

 再び仰向けにされる俺。その俺の顔に掛かる彼女の黒髪。そして強く香る……花の香り。
 言葉は疑問形。ただ、口調はほぼ断定。まして、その言葉が発せられたのは右の耳のすぐ傍。彼女の吐息と微かな温もりすら感じられるぐらいの二人の距離。
 ……普段の彼女からは感じる事のない、酷く淫蕩(いんとう)な気配。
 少し冷たい……。しかし、何故か妙に熱のこもった感覚のある彼女の指先が、俺の頬から顎に掛けて、そっとなぞった。

 ………………。
 災いなるかなバビロン。赤き多頭龍が現われたかと思えば、その日の内に大淫婦バビロンとなったかも知れない少女が、俺に馬乗りになるとはね。
 一気に眠気も吹っ飛び、僅かに自嘲にも似た笑みを口元にのみ浮かべ、何処まで祟るのか分からない神話の追体験に対して、心の中でのみあらん限りの呪いの言葉を投げ掛ける俺。

 もっとも、こいつがまたがるべきは七つの首に王冠を被った十の角を持つ赤き龍。俺は残念ながらひとつの首しか持って居ない、更に言うと未だ王冠も頂いて居ない蒼い龍。
 それとも、この状況は、英雄王ギルガメッシュを誘惑するシュメールの女神イシュタルの神話の方を(なぞら)えているのか?

「分かった、もう起きても良い」

 ただ、せめてその俺が起きなくちゃならない明確な理由と言うヤツを教えてくれ。
 現在の状態の危険度を改めて認識。今のハルヒが、普段の一歩引いたかのような……俺が追い掛けて来る事を望んで、ある一定の距離から踏み込んで来ない態度を一変。妙に積極的な態度に出た理由が、彼女の本心なのか、それとも、彼女の後ろに憑いている存在の意志なのかを見極めなければ、未来にまた何らかの危険な事件が起きる可能性がある。
 少なくとも今の彼女はおかしい。確かに俺に対しては少し……かなり強引な部分を見せる事もあったけど、それは俺が受け入れた時だけ。一度拒否すれば、それ以上、しつこく突っ込んで来る事はなかった。

 覚悟を決め眠気を無理に跳ばし、再び、馬乗りとなった彼女を見つめる俺。
 メガネで補正されない裸眼視力で見つめる彼女は少しソフトフォーカス。下から見上げたそのくちびるはやけに紅く、明るい照明がまるで後光のように彼女の容貌に奇妙な陰影を形作っていた。

 ……成るほど。現状は、のっぴきならない状況と言う感じなのだが、その中でも尚、妙な安心感と言う物を覚え小さく首肯く俺。
 確かに、色々な解釈が存在している赤き衣……太陽を纏ったなどと表現される衣装なのだが、こう言う直接的な物の可能性もあるのか。何にしても、普段は割とシックな色合いのコーディネイトが多いハルヒが、今日に限って紅などと言う派手な色合いのセーターを選んだ事自体が、神話の影響の可能性が高い。
 ……と言う事なのだと思う。

「そんなの決まっているじゃないの」

 口調は普段通り。そのまま、何故か俺の頭の上の方に手を伸ばすハルヒ。
 ゆったりとしたニットのセーター故に分かり難いけど、俺のプレゼントした銀の首飾りが頭の上に存在し、目の前には漢の夢と浪漫が詰まっているらしいふたつの……。
 こいつ、今の体勢をちゃんと理解しているのか?

 しかし、ここは現実の世界。まして、俺の目の前にあ……居るのは涼宮ハルヒであって、色々とうっかりの多い朝比奈さんなどではなく……。
 つまり、ラッキーなイベントで俺が夢と浪漫に包まれる事もなく、

「あたしが暇だったからに決まっているでしょ」

 其処に置いてあったらしい紙袋を手に、再び、元の場所に女の子独特の座り方で坐り直すハルヒ。
 もう、色々とツッコミ所が多くて、最初に何処からツッコミを入れるべきか非常に迷う状態なのですが……。

「取り敢えず、実家に帰らせて貰っても良いかな?」

 所謂、性格の不一致って奴?
 ハルヒの押しつけて来た紙袋の中を右手のみでごそごそと確認しながら、軽く小首を傾げてそう言う俺。その時、未だ動きの悪い関節がそれまでと違う動きに対してコキコキと成った。
 しかし、布団に仰向けになったままでは、非常にやり難い事、この上ない。

「くだらない事を言ってないで、さっさとそれを食べちゃいなさい」

 そもそも、あんた、何時の間にあたしの嫁になったのよ。
 そう言いながら、ようやく美少女によるマウントポジションと言う、嬉し恥ずかしな状態からは解放してくれるハルヒ。
 しかし、早く食べちゃいなさいって……。

 上半身だけを起こしながら、紙袋から取り出した代物(ブツ)を無言で見つめる俺。
 …………って、

「なぁ、ハルヒ。これから俺は犯人(ホシ)を追って、張り込みにでも出かけなくちゃならないのか?」

 湯煙なんとか、とか、温泉若女将なんとか、とか言うサブタイトルが付いた二時間ドラマのように。
 最後のシーンは矢張り断崖に犯人を追いつめるパターンが多い。

 紙袋から取り出した二つの物体。ひとつは一辺が十五センチ程度のビニール袋に包まれたアンパン。そして今ひとつは、いまどきアレな瓶牛乳。普通に考えると、この組み合わせは何らかの事件が発生した挙句に、夜の張り込み中の刑事に差し入れられる夜食。
 まさか本当に何らかの危険な事件が発生し掛けて居るような兆候があるのなら、有希や万結が報せに来るはずなので、その心配はない……と思う。おそらく、これはハルヒ発の事態。
 多分、思い付きか何か、なのでしょうが。

 室内は空調システムにより快適な温度に調節されている。障子によってその外側のガラス窓から先の状態は気配でしか知り様がないが、それでも昼か夜かの違いぐらいは簡単に分かる。
 今は満月からは少し欠けた立待月の夜。
 夜に何かをするって……。

「あら、珍しく鋭いわね」

 同じようにアンパンの袋を破りながら、感心したように俺を見るハルヒ。
 しかし、失礼な奴だな。俺は鈍い訳ではない。分かって居ても無視しているだけだ。細かい事にいちいちツッコミを入れていたら、話が進まなくなるだろうが。
 特に、ツッコミ所が満載のオマエに関しては。

 ……などと話がこじれる事が間違い無しの台詞が喉元まで出かかったのを、アンパンと一緒に無理矢理呑み込む俺。
 その刹那、あまり噛まずに呑み込んだパンと、喉元まで出かかった台詞とが正面から衝突。
 そして――ムグ?

「はい、人はパンのみにて生くるに非ずよ」

 頼りがいがありそうに見えて、意外に慌て者よね、アンタは。……などと、誰の所為でこうなったと思って居るのだ、と言うツッコミ待ちの台詞を口にしながら、自ら用の瓶牛乳を差し出して来るハルヒ。
 ……と言うか、妙に世話焼きさんな一面も魅せているな。

「――すまない」

 差し出された牛乳を飲む事により、危うく神の御許に旅立つ危機からは脱する俺。尚、ハルヒの台詞に、それはそう言う意味じゃないから、などと言うツッコミはなし。ついでに、パンが無ければケーキを食べれば良いんだよ、と言う、ボケにボケを重ねる手法も今回はなし。

「良く考えると、これが今日初めての食事なんだよな、俺」

 結局、無難な答えに落ち着き、未だ蓋すら開けていない俺の方の牛乳を彼女に差し出す。
 一瞬、何故か躊躇いのような気を発したハルヒ。しかし、直ぐに差し出された牛乳を受け取った。
 コイツ……もしかして、俺が飲んだ方の牛乳を返して来ると思ったのか?

「それで、俺を無理矢理に起こした理由は何や?」

 一瞬の躊躇いの意味はその辺りか。そう見当を付けながらも、その辺りに関しては華麗にスルー。現実問題として、これ以上、踏み込むのは色々と問題がある。
 少なくとも、ハルヒは俺がハルケギニアで非常に危険な事件に巻き込まれている事は知らないし、これから先も知る必要はない。

 ……知れば間違いなく、何らかの能力を発動させて仕舞う。
 それでなくとも……。

「ああ、それね――」

 そう言いながら、何故か自らが食べかけのアンパンを半分に割り、口を付けていない方を俺に差し出して来る。
 これはもしかすると、俺の晩飯は……。

 嫌な予感。今の時間が分からないのが不安の第一。
 そして、ハルヒの服装。俺が戻って来た時には確かニットのセーターにデニムのジーンズ姿だったと思う。
 しかし、今の姿は……。

 そう考えた瞬間、ハルヒは何故か天井を指差す。思わずその先に視線を向ける俺。
 しかし、其処には和室に相応しい木製の桟に囲まれた天井が存在しているだけで、何か変わった物が存在している訳ではない。
 そして、

「それを食べ終わったら――」


 
 

 
後書き
 ネタバレをひとつ。
 主人公を布団に寝かせたのはハルヒじゃなくて、精神的に繋がっている彼女と、彼女の同室の少女の二人です。
 ハルヒはただ見て居ただけ。

 それでは次回タイトルは『星に願いを?』です。
 
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