冷たい手を
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冷たい手を
冷たい手を
今思うと信じられない。けれどこれは本当のことだ。
僕は今高校の部活、演劇部の活動の中で歌を歌っている。演劇と言っても色々で今回は何とオペラを演じている。流石に原語ではなく日本語訳だけれどそれでもだ。
まさか演劇部に入った時は自分がオペラの、しかもこのラ=ボエームというオペラの主役を演じることになるとは夢にも思わなかった。それに加えてだ。
相手役の彼女と付き合うことになるなんて余計に思わなかった。夢にしか思えない。けれどこれは夢じゃない。舞台の中で僕達は探し物をすることになった。そこで手が触れ合った。このラ=ボエームの最初の見せ場、あの冷たい手を、という歌を歌う時が来た。
僕は彼女の手を取って探し物をする為に屈んでいたそこから立ち上がってそのうえで。演技としては恍惚とした感じで、けれど内心は張り詰めて。そのうえで歌った。
第一幕のこの歌を成功させてこそこのオペラははじまる、練習中に顧問の先生から何度も何度も言われた。だからこそ主役に、声が奇麗で高くてしかも歌が上手いということで主役に選ばれたからこそだ。僕は歌った。
渾身の、僕が今持っているものを全て込めて歌った。その僕の手を彼女がそっと、しかも僕に微笑みを向けて見守ってくれながら握ってくれた。その手に温もりが伝わる。冷たい手じゃなかったけれどあえてこの歌を歌った。
歌い終えた僕に客席、体育館の舞台の下にいてそこから観てくれている皆から万雷の拍手が起こった。本当に歌劇場で歌っている様にブラボーという喚声まで来た。僕はこのことに心から満足した。
けれどそれで終わりじゃなく今度はだ。彼女が返しに彼女の歌を歌う。私の名はミミ、この歌で次の掴みがある。このオペラは名曲が続くからこそ人気があるらしい。
その彼女が歌う時は僕の番だった。僕が微笑みを向けてそのうえで彼女の手を握った。その彼女の手はやっぱり温かい。その温もりを感じながら彼女を見守った。
彼女の歌も成功した。今度も拍手と喚声だ。そしてこの幕の最後は。
二人で歌う愛らしい乙女よ、この歌は二人で手を握り合ってそのうえで見詰め合って歌った。僕達はまるで舞台が完全に終わった時の様な凄まじい拍手と喚声を受けて最初の幕の終わりを受けた。僕達は本当のカップルとして舞台も演じられた。
今思うと普通のはじまりだった。僕は入学の時の勧誘で演劇部に入った。そして僕と同じく彼女も勧誘を受けて演劇部に入部した。その時はお互い殆ど知らなかった。
けれど演劇部の部活をしているうちにだ。僕は端役だけれどそれなりに出番が出て来た。裏方をやることもあったけれどそれと一緒に舞台にもあがった。
舞台での役をやる時にはとにかく台本を丹念に読んだ。顧問の先生が言うにはこうした台本は自分の台詞だけでなく他の役の台詞まで隅から隅まで読まないといけない、出来れば台本は全部、他の人の台詞まで丸暗記してあらすじも把握しないといけないらしい。僕は最初そこまではと思ったけれど先輩達にも言われて舞台にあがる時は自分の台詞だけでなく他の役の台詞も覚える様にした。
台本をとにかく何度も何度も読む。けれどどうしても覚えられない時もある。この時がそうで部室で台本を読みながら困っていた。そこにだった。
彼女が来てそうして僕にそっと言ってくれた。
「その台本が覚えられないの?」
「ちょっとね。どうしたものかな」
「それなら。書いてみたらどうかしら」
こう僕に言ってくれた。読んで覚えられないのなら書いてはどうかというのだ。
「そうしたら読むよりずっと確かに覚えられるわよ」
「そうすればいいんだ」
「何回も読むよりも。一回書いた方がいいから」
だからだ。書くべきだと教えてくれた。そして覚えるだけじゃなかった。
「その方が台本もよく細かいところまで見えるしわかると思うから」
「書く方が。それじゃあ」
「やってみて」
僕は彼女の教えてくれるまま台本を書いてみた。所謂書き写しをしてみた。するとだった。確かに何度も読むよりずっとだ。台本が頭に入った。
それから台本は書いて覚えた。彼女が教えてくれたまま。
そうして台本を覚えて細かいところまで理解するようになると先生も先輩達も僕にどんどんいい役をくれた。そうして遂にだった。
僕は主役を任される様になった。その劇がだった。
また物凄いものだった。歌う、それも最初からはじめまで。オペラだった。
はじめにそのことを聞いて冗談かと思ったけれど違ってた。流石にイタリア語ではしないけれどオペラを、管弦楽部と一緒になってすることになった。話に乗った管弦楽部も凄いと思うけれど最初に考えた顧問の先生も凄かった。そしてその先生がだ。僕を直々に指名してきたのだった。
「君の声域が丁度主役に合っているしね」
「それで、なんですか」
「それと君ならいけると思うからね」
主役でだ。オペラを最初から最後まで歌って演じられるというのだ。買いかぶりじゃないかと思ったけれど先生は本気だった。そしてその僕の相手役がだ。
彼女だった。主役の僕も抜擢だけれどヒロインの彼女もそうだった。とにかく先生は今回は思いきったことをしたいことはよくわかった。
けれど僕も彼女も断らなかった。正直どうしようと思ったけれど主役だ。それもはじめての。それなら僕は断れなかった。彼女もそれは同じで二人共練習や打ち合わせを重ねていった。
その中でだ。僕達は一緒にいることが自然と多くなった。何しろ主人公とヒロインだ。二人だけの練習や打ち合わせもしないといけなかった。それでだった。
僕達は登下校で一緒になったりしてそこでも部活のことを話して喫茶店に入ってじっくりと打ち合わせをしたり。部活でも残って二人で練習をしたり台本のチェックをした。そうした日々を過ごしているうちにだった。
彼女がだ。こんなことを言った。
「この作品、ラ=ボエームだけれどね」
「純愛ものだよね。悲しい作品だけれど」
ヒロインは結核を患っていて最後には死んでしまう、そのことを考えるととても悲しい。けれどとても奇麗な愛の物語だ。
そのオペラに二人で向かう。僕達はその中にいた。その僕に彼女はこう言ってきた。
「深く悲しいものがあるよね」
「そうだね。奇麗だけれどね」
「とても純粋でそれでいて切なくて」
「そうしたオペラだね。けれどね」
いい作品だと思う。僕も言った。そしてだった。
その僕に少しずつだけれどそれでも。僕に言ってきた。
「ねえオペラの主人公とヒロインの」
「詩人とお針子がどうしたの?」
「私。ヒロインになりきるから」
台本を読みながらの言葉だった。彼女は台本を閉じることはなかった。
「だから貴方も。主役にね」
「なりきるよ。そしてこの僕達のはじめての主役とヒロインの舞台を」
「成功させましょう」
僕達は二人で誓い合ってそのうえでだった。舞台に打ち込んでいった。第一幕から最後の第四幕、四幕構成のこのオペラの隅から隅まで、音楽の音符の一つまで一緒に勉強して演じて歌っていった。リハーサルはもう本番さながらといった状況になっていた。
僕達は二人で恋人同士になりきっていた。そうして舞台の初日を前にした。
最後のリハーサルが終わって家に帰るその時。僕に彼女が声をかけてきた。
「ちょっと。いいかしら」
「ちょっとって?」
「あのね。私達部活でいつも一緒だったけれど」
何処かおずおずとした感じで僕に言いながらその横に来た。そのうえで僕にさらに言ってくる。
「何ていうか。一緒にいて」
「何かあったの?」
いつものどちらかというとしっかりとした感じがなくておずおずとして慎重に言葉を選んでいる感じの彼女に違和感を感じて僕は問い返した。
「部活の時と全然違うけれど」
「一緒に帰らない?」
必死さが含まれた言葉が。ここで出て来た。
「いいかしら」
「別にいいけれど」
「よかった。実は話したいことがあってね」
やっぱりだった。ここでも何処か必死さのある言葉だった。
「それで一緒に帰りたかったのよ」
「そうだったんだ」
「それでね」
一緒に帰ることになったすぐにだった。彼女はまた僕に言ってきた。
「私、ずっと一緒にいて。それでずっと二人でいてね」
「最近ね。あのオペラやるようになってそうなったよね」
「それでね。私気付いたのよ」
横目でちらりと見たら少し俯いた感じだった。彼女は気恥ずかしそうに僕に言ってくる。
「私。あのヒロインと同じになったのよ」
「まさかそれって」
「貴方のこと好きになったの」
二人称が変わってた。これまでは僕のことを君付けで呼んできたり君と呼んできたりしてきていた。けれど今は貴方だった。そこからもう違っていた。
その普段と違う二人称からだ。彼女は僕にさらに言ってきた。
「駄目かな。私とよかったら」
「告白、だよね」
「そうなの。貴方のこと好きになったのよ」
「僕の何処が好きになったのかな」
「真面目にいつも台本読んで勉強して努力してたよね」
僕の外見のことじゃなかった。内面からのことだった。
「そういうのを見てて。いつも頑張ってる貴方のこと見てたら」
「好きになったんだ」
「そうなの。だから今こうして言ったの」
とても恥ずかしそうに俯いて。僕に言ってくれる。
「そうしたの。それで返事だけれど」
「ちょっと。ずるいね」
「ずるい?」
「手を出してくれるかな」
僕は彼女の告白に答えなかった。そのかわりだ。
僕は彼女にこう言った。手を出して欲しいと。彼女は僕のその言葉に最初きょとんとした顔になった。
けれどその手を僕の前に差し出してくれた。そうしてその手を。
僕は自分の手で握った。そのうえでこう彼女に言った。
「あのオペラだけれどね。主人公とヒロインはこうして手を握り合ってから歌うよね」
「あの場面ね」
ラ=ボエームの最初の見せ場だ。ここから主人公とヒロインがそれぞれの歌を歌って最後は二人で歌って終わらせる。第一幕のクライマックスの場面だ。
その場面も二人で何度も台本を読んで練習してきた。その場面から僕は言った。
「こうして握ったら。君の手凄く冷たいから」
「温めてくれるの?」
「こうして温めていいかな」
僕はその冷たい手を自分の手で握り締めながら彼女に言った。
「そうしていいかな」
「お願いできるかしら」
彼女は僕にこう返してくれた。返してきたんじゃなくてくれた、だった。今の僕からしてみればそう思えることだった。
「じゃあ私の手。これからね」
「温めさせて。そうさせてね」
「ええ、お願いするわ」
彼女は顔を上げてきた。その顔は微笑んでいた。
そしてその微笑んだ顔で僕に言ってきながら笑顔のままで黒い大きな瞳からぽろり、ぽろりと涙を流してきた。泣きだしてしまった。
笑顔のまま泣く彼女の目をそっと拭いてから僕は彼女に言った。
「明日から。宜しくね」
「こちらこそね」
彼女も言葉を返してくれた。僕達は冷たい手を温めながらその心も重ね合うことになった。冷たい手は一瞬にして温かくなってそのうえで二人の舞台に向かった。手は冷たいけれど心は二人共何よりも温かくなった中で。
冷たい手を 完
2012・5・9
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