「無題」
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起
前書き
・・・そこに書かれていたのは全て老婆の筆跡のものであった。
「臨時ボーナスが入る 昔飼っていたペットについての記憶」
「正博さんと付き合う ピアノを習っていた時の記憶」
ぺらぺらとページをめくっていく度に、自分の知らない自分が現れる。
―もう私は私ではないのか。 老婆はそう思う。
それと同時に、それでは私は誰なのか、といった疑問も浮かんでは消えていった。
もうすぐ、日が沈む。
じきに夜明けが来る。今日は彼女の初出勤日であった。眠ろうとしても、すぐに目が冴えてしまって眠れなかったのだ。
スーツを着るには早すぎて、今朝ご飯をとると持たないような気がしたためぼーっと通販番組を眺めていた。
思い出していたのは万年筆のことだ。
母の仕業と考えたが、おかしな点がいくつかあった。
ひとつは、母があのダンボールを詰めるのを彼女は見ていたのだ。「これは?」「それはこっち」と彼女と母で適切なダンボールにものを詰めていったのだ。
しかも彼女は最終点検をして彼女がダンボールを閉じていた。その時にそんなものがあればそのときに気づいたのではないか。ガムテープを剥がした後もない。
はて、とおもったが彼女はそこまで気には留めなかった。彼女の見落としというのも十分に考えられる。
色々と考えるのにも飽きたころ、テレビは朝の情報番組を流し始めた。時刻は午前5時。朝ひとりになるという状況はこれまであまり経験しなかったため、少し新鮮でもあった。
それから本を読んだり携帯をいじったりして暇を潰していると、いつのまにか時刻は午前6時になっていた。そろそろ準備をしても良い時間だ。
彼女はジャージーのまま洗面所へ向かった。顔を洗い、丁寧に歯を磨く。彼女は母の「人の印象は第一印象で決まるからね」という決まり文句を思い出していた。
一通り身支度を終わらせると、キッチンへ向かう。朝ご飯は何にしようと冷蔵庫を見て考えた。頭のなかではベートーベン「悲愴」が繰り返しリピートされていた。中学校2年生、最後のピアノの発表会で弾いた曲だ。懐かしい思い出に思いを馳せながら、新品のフライパンに卵を落とし、目玉焼きを作った。
いつのまにか彼女は「悲愴」を口ずさんでいた。
スーツも着て全ての支度が整ったころ、時計はちょうど7時を告げた。早めに会社に行って準備をするのもいいかもしれない。
緊張を胸に抱えながら、重い扉をゆっくりと開けた。
まぶしい朝日が目に飛び込んできた。
後書き
「おばあちゃん、マユだよ。覚えてる?」
誰だか分からなかった。私はこの子の記憶さえ消してしまったのか。
「マユ。そっちにいっちゃだめ。こっちおいで。」
この声の主は誰なのだろうか。何故私とこの子を引き離そうとするのか。
「はあい。」
行かないでほしい。なぜだかそんな思いが胸に湧いた。
私は孤独なのだ。どうかおいていかないで。
あの子の背中が遠ざかり、朝日に包まれていった。
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