彼
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『彼』
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『彼』のことを、日紅は「巫哉」と呼んだ。犀は「月夜」と呼んだ。たまに日紅のところに来る自称「彼の友人」は「太郎」と呼んだ。また別の自称「彼の友人2」は「多良」と呼んだ。また更に別の自称「彼の友人3」は……。
つまり、『彼』には沢山の名があった。
「はァ?あれはあいつらが勝手にそう呼んでるだけだ。俺にはちゃんと俺の名がある。大体あいつらは俺の友人なんかじゃねぇ」
一見すれば十三、四に見える幼さを残した容貌でも、『彼』はその実四千年以上の長きを生きる、ヒトとは一線を画した身だ。
どことなく獣の印象を与える釣りあがった目尻。その瞳は燃え上がるような紅。髪の色が光を弾く銀だから、瞳の色が余計に目立つ。肩までのぼさぼさの髪に大きな瞳、ルネッサンスの絵画にでも描かれていそうなほど端正な顔立ちなのに、口を開けば一転して罵詈雑言の数々がぽんぽんと飛び出してくる。
『彼』が着ているのは、どこかで安売りされていそうな、なんだかよくわからない英語が書いてあるTシャツだ。外見に不釣り合いなそれは、小さい頃に日紅が『彼』にプレゼントしたものだ。ちなみに小さい頃の日紅には『買う』という思いつきがなく単に父親のタンスから目についたものを引っ張り出し(日紅は「ちゃんと似合うものを選んだの!」と主張しているが)渡しただけである。
文句を言いつつもなぜ『彼』がそれをずっと着ているのか甚だ疑問ではあるが、日紅は「巫哉の趣味って変わってるなぁ」ですませている。
「じゃぁ、巫哉。あなたの本当の名前は何て言うの?」
「知るか。てめぇで考えろ」
でもその言葉遣いの悪さも、慣れてしまえばなんてことはない。
日紅は窓枠に肘をかけたまま、ふふと笑った。
日紅は別に今更『彼』の本名など気にならない。日紅にとっての「巫哉」は「巫哉」であり、目の前にいる『彼』に違いはないのだ。「巫哉」も「月夜」も「太郎」も「多良」も同じ『彼』。『彼』が『彼』としてここにいるのなら、日紅はそれで満足なのだ。
「…何笑ってんだ」
「ううん。巫哉はかわいいなぁと思って」
「………」
睨まれるのなんて、もう慣れたものだ。
「ねぇ巫哉、部屋の中に来なよ。もうすぐ冬だよ。外は寒いでしょ」
もう肌寒い季節だ。流石に日紅も、夜にずっと窓を開けっ放しにして『彼』と話をするほど元気じゃない。途端さらりと肉付きの薄い肌の上を夜風が撫ぜて、日紅はぶるりと身震いした。
けれど『彼』はっと鼻で嗤って言った。
「寒い訳あるか。貧弱なヒトでもあるまいし」
「巫哉はそうかもしれないけど、あたしは貧弱なヒトなの!このまま窓開けて話してたんじゃ風邪引くかもー…あ、やっぱり巫哉そこにいて!今日は犀が来るって言ってたから、って、どうして素直に入ってくるのよ!犀が来るんだってば!あたしじゃ巫哉みたいに空を飛べないし、こっそり犀を連れてこれないんだから!あ、こらっ、巫哉!だからっ、窓を閉めないの!」
ご丁寧に内側から鍵まで閉められた窓を見て、日紅は溜息をついた。
二階にある日紅の部屋は樹齢五百年だとか言う大木の太い枝が大接近している。ギリギリとアウト、どちらだと言われたら限りなくアウトに近いだろう。それはお隣さんの木なのだが、樹齢五百年だけあってかなり大きい。思わず肯けるほどの幹の太さもさながら、何より、高い。車庫付き二階建ておまけに屋根裏まである日紅の家が目じゃないくらい高い。おかげさまで日紅の家の日照条件は残念なことになってはいるが、立ち並ぶ家々の合間に一本、にょっきりと頭を覗かせている樹木はそれは人の目を引くだろう。渾名は勿論‘のっぽさま’だ。その五百年生きたのっぽさまも『彼』に言わせれば「まだまだヒヨっ子」なのだそうだ。しかし日紅に言わせれば『彼』のほうがよっぽど精神的にはお子ちゃまだ。
その大木の、日紅の部屋に一番近い、太い枝。そこに、いつも『彼』はいた。
だから、日紅は学校から帰ってくると真っ先に自らの部屋の窓を大きく開け放つ。するとむすりとした顔の『彼』がそこいるのだ。それはもう日紅の日課。何の疑問を持つこともなく、物心つくときはもう一緒にいた『彼』は既に日紅にとって家族とも言える存在になっていた。
「もう!巫哉!」
日紅は窓に片手をついて軽く『彼』を睨んだ。
「どうしてそういうことするの?こんな夜じゃあたしが下に行って犀を迎えになんていけないでしょ?ほら!犀がもう来てたらどうするの?ちょっとひとっとび行ってきてよ」
「…なんであいつが来るんだよ」
「別に今日に限ったことでもないでしょ。今更文句いわなーい。ほら、行って!」
日紅はぽいと『彼』を窓から押し出した。『彼』と入れ替わりにひやりとする風が入ってきて黄色のカーテンと日紅の髪をふわりと撫ぜた。
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