もう一つ、運命があったなら。
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近づく運命
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止まない雨に、打たれていた。
明けない夜に、凍えていた。
願いは遥か遠く、永久に届かない祈りを捧げる。
無数の剣が命を貫き、希望の丘を臙脂に染めた。
その先に未来はなく、偽りに濡れた過去だけがやけに空に映える。
涙は国を焼き、残されたのは剣と一つの理想。
どうか、この手に力を。
全てをやり直す、その力を。
震える足で立ち上がり、
私は、もう一度太陽に手を伸ばした。
――――――――――――――――――――――――――
「ごちそうさまでした」
「ごちそーさん。澪、今日の味噌汁は合格だ。鮭も美味かったぜ、また腕を上げたな」
「はい、お粗末様です。 えへへ、合格もらっちゃいました~」
「……なんで綾ねえが上から目線なんだよ」
「なんか言ったか空也」
「なんでもない。お皿は投げるものじゃないぜ綾ねえ。普通に流し台まで持ってきてくれ」
朝食を食べ終わり茶の間から台所に皿を運ぶ。今日は澪が得意な和食のメニューでいかにも日本人らしい朝餉だった。
綾ねえが言う通り、澪の料理スキルはメキメキと上達してきている。それは今にも俺を追い越していきそうなほどで俺もうかうかしていられないくなってきた。先輩として、この家の主として負けられない。いや、普通に考えて自分の後輩の料理がうまくなったらそれだけで嬉しいんだけどね。
「先輩。今日の皿洗いは私がやりますから先輩は学校に行く準備をしてきてください」
暖簾をくぐり台所に入るとエプロン姿の澪が手に持つ皿を取りそう言ってくる。
「いや、俺がやるよ。弁当も作ってもらって澪に任せっきりだからな、澪はお茶でも飲んで待っててくれ」
「そんな、悪いです。それに私は好きでやってることですから気にしないでください」
笑顔を浮かべてスポンジを俺の手から奪う澪。最近の澪は家事に関して頑固になってきた気がするんだけど何かあったんだろうか。
もしかして、俺には任せられないという遠回しなサインなのだろうか。それなら悲し過ぎる。あれか、澪が買ってきたプリンを俺と綾ねえで食べてしまったあの事件がきっかけか。後輩に正座をさせられるのなんて人生におけてあれが最初で最後だろうな。考えてみれば綾ねえに関しては教え子に正座させられたのかよ。
あの暴れん坊が汗を流して怯えていたくらいだからな。澪ちゃん、こわい。綾ねえよりもこの子を怒らせちゃいけないのは俺の中での鉄則となっている。
「そうか? んー、じゃあ悪いけどよろしくするかな」
「はい、よろしくされちゃいます」
申し訳ないのは否めないがこのままでは家を出るのが遅くなってしまうので今日は簡単に折れる。
よーし、なら今日の夜は俺がとびっきり美味い飯を作ってやろう。あと帰りに澪が好きなマカロンも買ってくるか。
「澪ー、アタシの弁当はこれかー?」
「西条先生のは赤い袋に入ってますー」
「お? なんか二つ入ってんぞ」
「それは朝練が終わったら兄さんに渡してくださーい」
「あー、そういうことか。わーったよ」
そんな会話を背中で聴きながら茶の間を出て自室に向かう。
Ж Ж Ж Ж Ж
現在の時刻は六時半を少し過ぎたくらい。柔道部の朝練がある綾ねえは間もなく家を出る頃だ。顧問も朝が早くて大変だな。
庭に面した縁側を通り、家の一番奥にある部屋を目指す。武家屋敷みたいな形をしているこの無駄に広い我が家。昔は侍が住んでいたんじゃないのかと疑うくらいに古風な雰囲気がある。
一人暮らしをするには十分というかこんなに部屋もいらない。客間とか何に使えばいいのか分からないくらいあって掃除するのも一苦労。
あいつはなんでこの家を選んだんだろう、家族もいなかったくせに。
襖を開けて部屋に入り、壁に掛かる制服を取って袖を通す。
このダサいデザインにも二年も着ていれば慣れてくるもんだ。鏡を見る度に順応性が高まったのを実感する。これは穂村原学園に通う誰しもが通る道らしい。
着替えを終え、机の上に置いてある一枚の写真立てに向かって手を合わせて目を瞑る。
殺風景な部屋には物音ひとつなく、俺の息遣いと掛け時計の秒針が鳴らす小さな音だけが存在している。
「……んじゃ、行ってくるよ親父」
父親だった男が映る写真に手を合わせること、それもいつも通りの習慣。
居なくなってから今年で六年。いつの間にか一緒にいた時間よりも長い時間が経ってしまっている。
変な感じだ。背が伸びるにつれて時間が過ぎるのが早くなっている気がする。
それでも、この人と過ごした日々の記憶は薄れて行く気がしない。今思い出してもその時のように思い出し笑いが出来るのはそれほど濃い五年間だったということだろう。
まぁ、今の生活もそれと変わらないほど幸せなんだけどさ。
机の上に置かれた学生カバンを肩に掛けて部屋を出る。
Ж Ж Ж Ж Ж
縁側を通り、窓越しに晴れた空を見て欠伸をした。平和だな、この家も。
そんなことを思っていると、茶の間の方からパタパタと足音が聞こえてくる。
「やっべ、ちょっと遅れちまったじゃねぇか。くそ、バカ空也のせいだ」
「綾ねえ、聴こえてる聴こえてるから」
縁側を抜けた先にある玄関で綾ねえが声のデカい陰口を叩きながら靴を履いていた。
この人の陰口は相手にばれなければ意味がないらしい。それってただの間接的な文句じゃないか。むしろ面と向かって言われた方がマシな気もする。
いつもより朝食の時間が遅れてしまったのも俺が土蔵で寝ていたのが理由なので綾ねえの言葉は間違いではない。今日のところは言われるがままで許してやろう。
「西条先生、車には気をつけてくださいね」
エプロンで手を拭きながら澪が茶の間から見送りに出てくる。
弁当袋を指に掛けて立ち上がり、玄関を開けて綾ねえはこちらを振り返った。
「あいよ。んじゃ、お前らもあんまダラダラすんなよ。いちゃつくのも、ほどほどにな」
ニヒルな笑顔を浮かべて玄関前に置いてある自転車に跨り、ベルを鳴らして門を出ていく綾ねえ。最後のセリフは適当に言っただけだよな。朝のやり取りを見ていたわけじゃないよな、そう信じてる。
綾ねえが居なくなり、玄関には俺と澪と気恥ずかしい空気が取り残される。綾ねえの奴、余計なもんを置いていきやがって。
隣に立っている澪は俯いて表情を隠しているが、頬と耳が朱色に染まっているのが分かってしまった。
背中が少しむずがゆい感じがする。後頭部を掻き、その後に一つ咳払いをした。
「ほら、突っ立てると風邪ひくぞ」
その垂れる頭にポン、と手を当てて俺は茶の前へと戻る。あんまり敏感に反応はしちゃいけないんだぜ、ダメな男はそれを誘っているのと勘違いしちゃうからな。
「あ、あの先輩。今朝のことは」
「ん? ああ、気にすんな。俺も寝ぼけてたからよく覚えてないし」
嘘です。超覚えてるけどそんなこと言えるわけがない。澪的にも忘れて欲しい記憶はずだしな、出来るだけ忘れる努力をしよう。
でも、寝る前とかはちょっと思い出してもいいよね。あんなドキドキする出来事なんて年に数えるくらいしかないだろうからな。
「……ありがとう、ごさいます」
感謝される謂れもないのだけれどそれを言うのは野暮だろうから黙っていよう。誰にだって恥ずかしいことをしてしまうときはあるからな、それを受け入れてやれなくて何が先輩か。先輩ならば笑い飛ばしてやるくらいの心の広さを持っていたい。
Ж Ж Ж Ж Ж
茶の間に入り、定位置に胡坐をかいて点いたままのテレビを眺める。
登校時間までは時間があるし、もう少しだけのんびりしていこう。
朝のニュース番組ではどこかの動物園でパンダの赤ちゃんが生まれたとか芸能人が離婚したとかありふれた話題ばかりが取り上げられていて面白味がないな、と思うのと同時に世界は平和だなとも思う。
「先輩、お茶どうぞ」
「ああ、ありがと」
澪が淹れてくれたお茶を啜りこの家も平和であることを感謝する。うん、こういう穏やかな日々がいつまでも続けばいいのに。綾ねえとかいうモンスターが居なければもっと落ち着くのだけど。
「先輩、今日の放課後はバイトですか?」
「いや、今日は何もないよ。澪は部活?」
「はい。とは言っても発表会も終わってしまったのでほとんど活動はないんですけどね」
「ああ、そういやこの前の大会で銀賞を取ったんだよなうちの吹奏楽部。大したもんだ」
年明けに澪が所属する吹奏楽部のコンクールを俺と綾ねえで見に行ったのを思い出す。
音楽には疎いのでよく分からなかったが、実際に聴いてみたら結構面白いものだった。迫力もあって、その一曲にどれだけの時間や想いをかけてきたのかがひしひしと伝わってくるようで感動してしまったのをよく覚えている。
「先輩たちが頑張ってくれましたから、努力が実ってよかったです」
「だな、美綴とか陸上部なんじゃないかってくらい走ってたし」
「部長は特に頑張ってくれました。優秀賞をもらうのも納得です」
「あれ、澪も優秀指揮者賞もらってたじゃん。゙一年生の天才美少女指揮者・間桐澪!゙だっけか」
学校の掲示板に張ってあったのが記憶に新しい。そこから学校内で澪の株が急上昇したのは言うまでもなく、知り合いである俺に紹介してくれと寄って来る男子が鬱陶しかった。
澪はそういうちやほやされるのが好きではないので丁重に断らせてもらったが、その代わりに違う女の子を紹介するのが凄く手間取った。仕方ないよな、頼ってきた人を無下にはできない。
「あ、あれは新聞部の先輩が勝手に書いたもので!」
「分かってるよ。でも、凄いよなぁ。さすが、俺の後輩だ。よしよし」
「……空也先輩、ずるいです」
恥ずかしそうに頬を赤らめる澪の頭を撫でてやる。
偉そうなことを言ったけれど俺なんかより澪の方がよっぽど優秀だし、良い人間性を持っているのは明白だ。後輩の女の子に負ける先輩、何だろう、凄くみっともない。
たわいのない会話をしながら学校に行くまでのゆったりとした時間を過ごし、今日も間違いなく今日なのだと思い知らされる。
何も変わらない、ただそこに訪れることが確定しているのがこの日常であり、それはきっと俺にとって大切なものであることは心の隅で思っている。
たとえ、飛行機が通った後にできる飛行機雲のような当たり前で短い日々だとしても、いつか思い返せばその記憶の俺はいつだって笑っていると信じられる。
『次のニュースです』
ただ、いま一つだけ思うのは。
確定した今日も、明日も、この世のどこにも存在しないということ。
『昨夜未明、新都にあるオフィスビルでガス漏れ事故が起き、当時ビル内にいた十数名が意識を失い都内の病院に救急搬送されました。全員、命に別状はなく回復に向かっているということです。警察と消防は、二週間前から連続して起こっているガス漏れ事故と何らかの関係があるとみて調べております。これで新都のガス漏れ事故は5件目で搬送された傷病者は50人以上に上り――――』
口を閉ざしてそのニュースを聴いた。
「……ガス漏れ事故、か。最近の新都は穏やかじゃないみたいだな」
「はい、なんだか少し怖いです」
俺の隣でお姉さん座りをしている澪が不安を口にする。
近くでこんな事件が起きたらそれは気になるのが当然だ。むしろ気にならない方がおかしい。
あまり気にしすぎてしまうのもどうかとは思うが、もし自分や自分の身の回りにいる人が巻き込まれたりしたらと考えると恐怖を感じざるを得ない。
不安がる後輩に大丈夫、なんて無責任な言葉を掛けられるほど俺は楽観主義ではないし、絶対に外に出るな、なんて心配性な言葉も言えない。
「俺たちも気をつけような。しばらくの間、夜の帰りは俺が送るから」
出来るとするならこれくらいのことか。何も特別なことでもない。
夕食を食べた後の澪を送るのは三回に一回くらいの頻度だったんだから。俺に疲れてるから、と気を遣う澪を説き伏せられるのがその割合というだけ。
「いいんですか、先輩。でも、申し訳ないです。先輩だって早く休みたいのに」
「そんなの気にしなくていいんだよ。逆にもし澪に何かあったら確実に不眠症になるぜ、俺」
不眠症どころか拒食症にもなる自信がある。それほどのダメージを受けてしまうのなら時間をかけて送るのなんて屁でもない。
「そう、ですか。じゃあお願いします、先輩っ」
ニコッと心底嬉しそうに笑う澪。こういうところにあざとさを感じてしまわなくもないが、恐らく本人はそんなこと気にしていないのだろう。それがどれだけ俺にダメージを与えているのかも知らずに。
「はいよ。あと、心配なのはこの家か。留守中に何かが起きたりしたら嫌だな」
放火とか泥棒とか、今までそういう類の災厄を呼んだことは一度もないがこんなにバカでかい家ならいつかは絶対狙われることもあるだろう、といつも思っている。
取られていけないものもないが、それでも泥棒に入られるのは当然のことながら嫌だ。
だがもし、強盗が来たとしても家に住む暴れん坊将軍こと綾ねえがぶちのめしてくれるはずだと俺は信じてる。頼んだぜ、綾ねえ。あんたなら包丁持ってる相手でも返り討ちにできるはずだ。
そうなると一番怖いのは火事だな。この家が無くなったらさすがにショックはデカい。物心がついてからずっと住み慣れた家だ。そう思うのも当たり前だろう。
失くしたくない思い出も、ここには沢山あるし。
「ふふふ、心配ありませんよ先輩。この成瀬家は大丈夫です。何せ、ガスの元栓は毎朝二回チェックしてますからっ!」
腰に手を当てて胸を張る澪。必然的にその大きな二つの膨らみが強調されるのだが鋼の意思で目をそらした。先輩、つよい。
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて」
この娘は時々メジャーリーグのクローザ―並みのド直球な天然を投げてくるから受け取るのが大変だ。
それを打ち返す綾ねえのバッティングセンスも捨てたもんじゃない。俺は大抵その緩急について行けず三振する。なんの話だ。
まぁ大丈夫か。澪も遅くまで遊んでくる女の子ではないし、俺もバイト以外はなるべく早く帰るようにしてるから何かに巻き込まれる心配も少ない。
綾ねえは部活の顧問もしてるから遅くなることも多々あるけど、あの人ならば痴漢に襲われたとしてもむしろこっちから襲ったんじゃないかってほどボコボコに仕返すだろうから安心だ。綾ねえにだけは正当防衛という法律はなくした方がいいと思います。
新年を迎えて一か月が経とうという時期で、どの部活も大会とかは少ないだろうからもしかしたら部活禁止になったりもするかもな。
くそ、そうなったら綾ねえのお守が大変だ。フラストレーションが溜まって道場に連れていかれ技を決められるだけのカカシになりかねない。それだけは何とか阻止しなくては。
必要なのは、美味しい食べ物とそれに比例するお金。どうしよう、またバイト代が無くなる。
「でも、本当に私は大丈夫です」
どや、と言い張る澪。
その細い手足を見ているとそうは思えない。完全に文化系女子である澪には綾ねえのように犯罪者の魔の手をあしらうことも出来ないだろうに。
「……凄い自信だな。その根拠は?」
「だって、私のそばには空也先輩が居てくれますから。えへへ」
そう言ってもう一度満弁の笑みを浮かべる。やだ、先輩凄く恥ずかしいです。
「――――ったく、仕方ないな」
可愛い後輩に頼られて嬉しくないわけがない。いいさ、それなら護衛でも何でもしてやる。対価はその笑顔で十分。
力はないけれど、それでも確かに近くにいてやることくらいはできる。
「はい、よろしくお願いします」
いつか本当の意味でも、澪を守れるくらいの力をつけなきゃな。
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