おとそ
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1部分:第一章
第一章
おとそ
大門繁太郎はとかく悪運の強い男であった。
戦争に行っても空襲に遭っても怪我一つしない。周りで何があっても怪我一つしない、そんな男であった。
「俺は生まれつき運が強いんだ」
それが彼の口癖であった。そのせいか戦争でも傷一つ負うことなく生き延びた。そのあまりもの悪運の強さに皆彼を不死身とまで言う程であった。
「あんた運がいいなあ」
「おうよ」
彼は笑ってそれに応えるのがいつもであった。
「そう思うか、やっぱりな」
「どうしてそんなに悪運が強いんだ?」
皆それがまず不思議であった。
「何があっても生き残るし怪我一つせん」
「博打をやればいつも大当たり」
彼の仕事は兵隊になるまでは賭博師であった。それが仕事なのかどうかわからないがそれで妻子を充分養っているのもまた事実であった。丁半も何でも負けたことがない。
「そりゃ御前あれだよ」
彼はそれを言われるといつも笑顔でこう述べるのであった。
「前世の徳よ」
「前世のかい」
「そうさ、だから俺はこんなに運がいいんだ」
その大きな口をさらに大きく開けてそう言うのだ。
「何があっても生き残るぜ」
「へえ」
「それで戦争も乗り切ったんだな」
「ああ。けれどな」
だが彼はここで難しいというか困ったような顔をした。
「どうした?」
「折角生き残ったってのに寒い世の中だな」
「それか」
「ああ。何ていうかよ」
ここで遠い目をした。
「何もかもがなくなっちまったな」
家の中もがらんとしたものである。本当に何もない。
「俺の家は無事だったってのに」
「家があるだけましだろ?」
「そうだよ。あれだけ空襲でやられたんだからな」
皆口々にそう述べた。
「家があるだけでも」
「そうかね」
だが繁太郎はそれでも不満があったのだ。
「一番辛いのはあれだよ、酒がない」
「酒か」
「そうさ。俺はあれがないと駄目なんだよ」
賭博師らしく枯れは無類の酒好きであった。いつも酒を欠かしたことはない。女房からは酔いどれ扱いされている程である。それでも止めるつもりは毛頭ない。
「戦争に負けて色々嫌なことはあるけれどな」
「酒がないのが一番嫌か」
「それだよ」
繁太郎は言う。
「何もねえ。酒もねえ」
「本当にな。これからどうなるのかな」
「正月も寒いだろうな」
繁太郎は顔を顰めさせてこう述べた。
「何もなくてよ」
「大分人もいなくなったしな」
「そうだな」
彼等はそれぞれそう述べた。
「戦争でかなり死んじまった」
「寂しくなったよ」
「だからこそ飲みたいんだよ、俺は」
繁太郎はまた言った。
「いなくなっちまったからよ。けれどそれもねえ」
「何もねえ」
「ないないづくしだ。何で酒までねえんだよ」
「あることにはあるぜ」
「カストリか?」
「そう、それだよ」
仲間内の一人が言った。
「どうしても飲みたいっていうんならそれ飲んだらどうだ?」
「そうだな」
繁太郎はその言葉に頷いた。
「じゃあやってみるか、どうしようもねえと」
「やるのか?」
「ああ」
彼は着物の中で腕を組んで答えた。見ればその着流しがよく似合う。胡坐をかきそこから見える赤い褌は賭博師としての粋の表れであろうか。
「ないんだったらな」
「止めた方がいいんじゃねえのか?」
別の仲間がそれを止めた。
「あれ色々入っていてやばいそうだぜ」
「酒がないよりましだ」
だが繁太郎はそう返した。
「何もないよりはな。違わねえか?」
「そこまで言うんならよ」
もう誰も止めなかった。
「まあ飲みな。運がよかったら助かるだろうさ」
「おう、俺は運だけはいいからな」
またそれを自慢してきた。豪放なのか単に頭が悪いのかはわからないが。
「飲んでみるとするか」
「飲むのかよ」
「正月に何もないとな」
彼は言った。
「飲むしかないだろ」
「まあ程々にな」
「死なない程度に」
「ははは、病院で会おうぜ」
最後に豪快に笑った。戦争が終ったばかりの秋の話であった。
秋はあっという間に過ぎ去った。そして冬になった。時期は正月。その正月だった。
「おい」
彼は大晦日にまず女房に声をかけた。
「あれ、あるか」
「お酒かい?」
女房のシズは彼に顔を向けて尋ねた。
「それだよ。あるかい?」
「あるわけないだろ」
シズの返事は有無を言わせぬものであった。
「何もないのに何でお酒だけがあるんだよ」
「おせきも餅もねえのかよ」
「何もないね」
彼女は言った。
「すいとんとか闇市で貰ってきた乾パンとかならあるよ」
「それが正月の食い物かよ」
「仕方ないでしょ」
シズは文句を垂れる亭主に対してそう言い返した。
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