口だけで
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2部分:第二章
第二章
それでだ。男が遂に言ったのだった。
「あの」
「はい?」
「あのですね」
一呼吸置いてだった。そしてであった。
「お口ですが」
「お口にですか」
「青海苔が付いてます」
言ったのはこのことだった。
「それが」
「あっ、そうなんですか」
「はい」
こう女に対して告げた。見れば女は中年の所謂おばちゃんである。でっぷりと太ってパーマにしただ。何処にでもいるおばちゃんだ。
そのおばちゃんもだ男に言った。
男は男で禿げて痩せた男である。所謂おっさんだ。よれよれになったスーツがどうにも年季や寂しさを醸し出してしまっていた。
そのおばちゃんがだ。おっさんに言った。
「そちらも」
「私もですか」
「お口にマヨネーズが」
それが付いているというのだ。
「それが」
「むっ、そうですか」
「はい、取られた方がいいですよ」
「むう、これは失敬」
まずはおっさんが口元をハンカチで拭いた。そうしてだ。
おばちゃんもだ。ティッシュで歯を拭いてだ。それで青海苔を取った。
そのうえで二人はそれぞれ言うのであった。
「お好み焼きを食べたんですが」
「さっきたこ焼きを」
「いや、それでなんですか」
「そうだったんですか」
二人は笑って話しだした。これまでの深刻な面持ちは消えていた。
「何かなと思ってましたが」
「よくあることですよね」
「ええ、本当に」
「ついついたこ焼きを」
「お昼にお好み焼き定食で」
「さっきおやつに」
それで二人共食べたというのであった。
「これならうどんにすべきだったかな」
「アイスキャンデーでも」
何故か食べ物に責任を転嫁しだした。そのどれもが大阪の食べ物であった。大衆的である。そこには気取ったものは何もない。
「とはいってもお好み焼きは止められませんね」
「たこ焼きは癖になりますよね」
「いやいや、それでもこれは」
「恥ずかしい」
二人は苦笑いになっていた。
そしてだ。こう言い合ったのだった。
「けれどこれで終わりですね」
「はい、言って下さって有り難うございます」
「こちらこそ。それでは」
「また」
最後に笑顔で別れた。よくある話であった。だがそこに至るまでにはだ。どうにもこうにも複雑で微妙な心の動きもあったのだ。誰も気付きはしないが。
口だけで 完
2010・10・4
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