藤崎京之介怪異譚
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外伝「鈍色のキャンパス」
Ⅳ.Passacaglia
前書き
半ばに入るはずのない楽曲が、この組曲の異質さを強調している。
なぜかロ短調で書かれたこれは、ペダルの重々しいオスティナートが延々と繰り返す。
「笹岡が…失踪した?」
演奏会から十日ほど過ぎたある日、俺は大学に行って鈴木から笹岡の失踪を聞かされた。と言うより、その日は大学内がその噂でもちきりだった。
「なぜだ?彼に失踪する理由なんてないと思うが…。」
「俺だって分かんねぇけどさ。ただ、俺が朝早くに来てみると、教授達が集まって話してんの聞いたんだ。どうも…先週の演奏会の翌日から連絡取れないなしいぜ?」
俺は唖然とした。
確かに、演奏会以来彼を見ていない。いや、俺が演奏会に出る前から…そう、あの憎悪のこもった言葉を聞いてから会ってはいないのだ。
「だが…なんでこんなことに?確かに彼は変わってたが、この大学では珍しい程じゃないだろ?姿を隠す必要もなし、今までだって…」
俺がそこまで言った時、不意に小林に声を掛けられたために会話を切った。すると、小林は徐に白い封筒を俺へと出して言った。
「今さっき、門の前でお前にって預かったんだ。」
「誰に?」
「小学生くらいの男の子だった。お前のファンじゃないのか?」
小林…何だか不貞腐れてる気がするが、それは無視することにしよう…。
俺は封筒を丁寧に開封すると、中の手紙を取り出して読んだ。
「田邊君…ねぇ。全く知らないなぁ…っと、ここを見学したいだと?」
「なぁ…こいつ、まだ小学生なんだろ…?」
俺の呟きに、隣にいた鈴木がそう言った。まぁ、鈴木の心配も分からんじゃないが、せっかく音楽に興味を持ったんだから見学くらいさせたい。今日は少し騒がしいが、これがずっと続くわけでなし。
「京…まさか見学許可取る気じゃないだろうな…。」
今度は小林が心配気に聞いてきた。こいつは田邊って少年を見てるからなぁ。
「良いんじゃないか?小学だろうが中学だろうが、興味を持ってるんだったら充分じゃないか。」
俺が小林に言葉を返そうとした時、不意に後ろから声がした。
「河内…いつから聞いてたんだ?」
「さっきからずっとだ。ま、気付かれないようにしてはいたがな。」
河内はそう言って笑った。ってか、何で気付かれないようにする必要があったんだか…。
「でもよぅ…教授が許可するか?この大学受ける保証もないしさ。一般解放だってごく一部だし、見学ってったら全部回りてぇんだろ?」
鈴木が半眼でそう言ってきた。すると、それに小林が後を続けた。
「そうそう。それも小学生じゃ将来見据えて…って訳じゃなさそうだしな。」
二人の言い分も分かる。だが、俺はこの少年の願いを叶えてやりたいと思ったんだ。たとえ今だけにしろ、夢を持つ持たないで将来も変わってくる。それに、目標が出来るのは大いに結構なことじゃないか。
「京。もうお前の中じゃ決まってんだろ?なら行動しろよ。」
考え込んでいる俺に、河内が笑いながらそう言った。俺はその一言で、自分のすべきことが見えた。
「俺、ちょっと宮下教授のとこ行ってくる。」
「おいおい…本気か?」
小林と鈴木が目を丸くしてる。その横で、河内は見透かしたような笑みを浮かべて見ているだけだった。ま、河内とは小学以来からの付き合いだからな。考えが読まれて当然か…。
俺はそんな三人を残し、そのまま宮下教授のところへと向かった。ただ、今は笹岡のこともあるし、何かと慌ただしいとは思うが…。
俺は中央棟に入ると、先ずは宮下教授を探した。今日は朝からいらしてる筈だから、今は恐らく樋口教授と一緒だ。今頃は笹岡について話しているだろう。
「お早う。今日は早くから来てたのかね。」
俺があれこれ考えながら歩いていると、そこへ探している筈の宮下教授が声を掛けてきた。
「お早うございます。」
平静を装って俺は挨拶を返した。正直、このタイミングで会うとは考えていなかった。
「宮下教授。今、丁度お探ししていたところです。」
「ん?何か用があるのかね?」
俺はそう問われ、宮下教授へと田邊という少年の手紙を見せた。そうして後、俺はこの少年の願いを叶えたい旨を伝えると、宮下教授は二つ返事でそれを承知してくれたのだった。
「良いことじゃないか。君自身で案内するのならば、どこを見学させても構わんよ。折角じゃ、音楽の善さを存分に伝えてやるんじゃぞ。」
「はい。有り難う御座います。」
了承を貰った俺は頭を下げて立ち去ろうとしたが、それを宮下教授が止めた。
「藤崎君…君も既に知っとるんじゃろ?」
その問い掛けは、直ぐに笹岡のことを言っているのだと解った。
「はい…彼のことですね。」
「そうじゃ。先程も皆でどうしたものか話し合っていたんじゃが、彼の母は現在イタリアに行っとるし、日本で面倒を見とる叔父は仕事で北海道へ出張しとってな。」
宮下教授の話しを聞き、俺は疑問を感じた。そのため、俺は宮下教授へと質問したのだった。
「では、誰が彼の失踪を?誰かが彼の様子を見に行ったから、彼の行方が分からないことが判明したんですよね?」
そう問うと、宮下教授はそれに答えて言った。
「そうじゃ。実は彼の母の友人で八百板という人物がおる。」
「八百板って…まさかチェンバリストのですか?」
「ほぅ、知っとったか。」
「教授…僕に一回だけその方のレッスンを受けさせたじゃないですか…。」
俺が苦笑混じりに答えると、宮下教授は思い出したように言った。
「そうじゃったな…。ま、それはよいとして、彼が様子を見に行ったんじゃよ。丁度こっちに来とったから、たまには会っておきたかったんじゃろう。じゃが行って見ると、郵便受けには手紙や新聞がそのままで、何度呼んでも返事がない。その為、彼は大家に連絡し、大家は警察へと通報したんじゃ。一度は中で倒れてたら大変と八百板と大家とで入ってみたが、そこへ財布も携帯電話もあったからだと言っておったがのぅ…。」
「それで、警察の判断が失踪…ということになったんですね。」
「そういうことじゃ。何も持たずに一週間も不在となれば、やはり失踪とみなすしかあるまい。今朝早くにわしへ八百板から連絡が入ってな、わしが理事へと伝えてたんじゃよ。」
この話から察するに、笹岡は一度アパートへ帰っているようだ。財布も携帯電話もそこにあったんだからな…。
だが、それ以外何の痕跡も残さず消える理由は?争った形跡なんかがあれば誘拐ということも有り得ることだが、そういったものもないようだし…。もし本人の意思で全てを捨てたとしたら…いや、やはり解らないな…。
そもそも、この失踪を俺と関連付けるのには無理があるんじゃないか?彼は憎悪を露にしはしたが、消えようとする意思など微塵も感じられなかった。
だが…あの言葉、本当に言葉通りの意味だとしたら…?
俺は急に寒気を覚えた。
「藤崎君、大丈夫かね?」
宮下教授が心配そうに声を掛けてきたため、俺は「大丈夫です。」と答えはしたが、自分の内で"何かある"と本能が告げていた。
「宮下教授、実は…」
俺がそう話しかけた時だった。不意に、目の端に何かが写り込んだ気がした。
ドスンッ…!!
俺が気付いて振り向く前に、そこから鈍い音が聞こえた。すると、すぐさま内外から悲鳴が上がったのだった。
俺は何かが映った窓へと宮下教授と共に近づいて外を見ると…そこには人が倒れており、周囲には血が飛び散っていたのだった。
俺と宮下教授は慌てて外へ出て行って確かめると、それは…失踪していた笹岡だったのだ。
「なぜ…彼が!?」
地に打ち付けられて手足が間違った方向へ向き、顔も衝撃で歪んでいた…。そんな彼の前で、俺はそう呟くしか出来なかった…。いや、その場に居合わせた全員、彼の行為を理解できなかっただろう。
宮下教授は直ぐに救急に連絡を入れたが、目の前の彼には既に生気は感じられない。宮下教授も連絡を終えた後に笹岡の脈を取っていたが、ただ首を横に振って彼の死を告げるしか出来なかった…。
警察は彼の死を自殺と判断した。だが、どこからも遺書は見付からず仕舞いで、その理由を特定することは出来なかった。
彼が飛び降りたのは屋上だった。普段は立ち入り禁止になっていて鍵がかけてあるが、そのドアが抉じ開けられていたのだ。
しかし…彼はいつここへ現れ、どうしてわざわざ鍵がかけられている屋上から飛び降りたのか…。この建物は四階建てなのだ。四階のどこから飛び降りても即死する高さがある。だが、その理由は誰にも解らない。そして、その死の理由さえ…誰にも知る術はないだろう…。
笹岡の死を知って帰国した笹岡の母は、あまりのショックに暫くは茫然としていたという。誰に怒りをぶつければよいか分からず、その哀しみを癒す術を知らない。そんな風だったと宮下教授が言っていた。
「君が…藤崎京之介さんですか?」
彼の葬儀から一月ほど経ったある日、一人の女性が俺を訪ねてきた。
「はい…そうですが。貴女は?」
全く見知らぬ女性だったため、俺は訝しく思いつつ言った。穏和そうな女性ではあるが、なぜ俺の名前を知っているのか…?
そんな俺の考えが伝わったのか、その女性は苦笑して言った。
「名も名乗らずに失礼とは思いましたが、先程宮下教授から教えられたばかりでしたので。私は笹岡博の母です。」
女性はそう言って微笑みながら自己紹介をしたが…俺はそれを聞いて体が硬直してしまったのだった。まさか…笹岡の母親がこんなところへ、しかも俺に会いに来るなんて…。
「そう身構えないで下さい。急に押し掛けて無礼とは承知しております。今日会いに参りましたのは、貴方に謝まるために来たのです。」
「謝る…?」
俺は、笹岡の母親が言っている意味を理解しかねていた。
確かに、俺は笹岡に敵意を持たれ憎悪をぶつけられてはいたが、これといって特に害はなかった。そのため、謝られる理由が見当たらないのだ。
「どうしてですか?私は貴女に謝られるようなことは無いと思いますが…。」
「そうですね…何からお話しすべきでしょうか…。」
彼女はそう言うと暫し俯き、そして徐に一冊の本をバッグから取り出した。
それをよく見ると、その表紙には金文字でDiaryと書いてあり、それが日記だと解った。
「これは…息子の日記です。私はこれを読んで、貴方に会わねばと思ったのです。会って謝らなければと…。」
そう言って彼女は、その日記を静かに俺へと差し出した。
「読んで…頂けますか…。」
俺は躊躇した。さすがにこれはプライベートなものであり、自分に関した事柄だけを抜き取って…というわけにもいかないのだ。
だが、俺は少し考えて後、それを受け取って表紙を開いた。きっとそこには、彼…笹岡が自殺した理由が記されているからだ。そして…俺への憎悪の理由も…。
表紙を開き目に最初に飛び込んで来たのは…俺だった。
「これは…。」
それは中学時代、とあるコンクールで一位入賞した時の新聞記事の切り抜きだった。そのコンクールは、笹岡が一緒に出ていたものより前のもので、この事から笹岡は以前から俺を知っていたことが窺えた。
その先へ頁を進めると、それが十年日記だと分かった。1日分が数行しかなく、最初はさして他愛もない事柄で埋められていた。
俺は少しずつ跳ばしながら読んでいたが、ある日付から俺のことが書かれるようになって行く。
そこには俺への賛辞が綴られ、例のコンクールについても俺を絶賛しているのだ。それに俺は戸惑いを隠せなかったが、日付が大学に入ってからのものになると、そこへ一人の女性の名前も一緒に登場するようになり、俺は目を見開いた。
その女性とは…俺が以前付き合っていた女性だったのだ。
彼は最初、俺と彼女については好意的に書いていたのだが、ある日付を境に、そこに憎悪が混じり始めた。
「彼は…千春が好きだったのか…。」
千春とは、先に話した彼女のことだ。
磯部千春。彼女と俺は高校で知り合い、高二の秋から付き合っていた。だが、大学へ入って半年して別れたのだ。その理由は…彼女がイタリアへと留学を決意したためだ。俺は彼女の足枷にはなりたくなく、そして…遠く離れてしまうことに悲嘆し、俺から話を切り出した。だが、彼女は笑いながらこう言ったんだ。
「帰ってきて京ちゃん彼女がいなかったら、また彼女になって良い?」
俺の心を見透すかの様な彼女の笑顔とその言葉に、俺は逆に救われた気がした。それが彼女…千春の人柄なのだ。
その時以来、日記の内容は徐々に悪意を増していき、それが憎悪に変わるには然程時間は掛からなかった。最後にはとても読んでいられず、俺は途中で日記を閉じてしまった。
そうか…原因は千春だったのか…。
コンクールでもなければ父親のことでもなく、一人の女性のことであれだけの憎悪を…。
俺は深い溜め息を吐いた。まさか…こんなことになるとは予想出来ようもないが、自分の判断がよもやこんな結果を呼ぶとは…。
俺がそう考えていると、横に座っていた笹岡の母親が口を開いた。
「私は母親でありながら、息子が何を考え誰を好きだったのか全く知りません…。この日記を読んで、やっと気付いたんですから…母親失格です。」
「そんなことはありません。それを言ったら、僕の両親も同じです。いつも世界を飛び回り、家には全く寄り付かないんですから。」
俺がそう返すと、彼女は首を振って言った。
「いいえ。貴方の御両親は、いつもインタビューで貴殿方のことを語っています。その点私は…手紙一つ書いたことも無く、まして息子を弟へ預けるなんて…。」
そう言った彼女の顔には、後悔の念が滲み出ていた。息子との時間を作らなかった自分への後悔…それだけではないにせよ、恐らくは自分自身を責め続けているのだろう。
重々しい空気の中、俺と彼女は暫く黙っていた。俺もどう言って良いか分からないというのもあるが、たとえここで何を言ったとしても所詮は他人事なのだ。下手に慰めるよりは黙っていた方が良いと思った。
暫くして、この重い沈黙を破ったのは彼女だった。
「千春さん…でしたか。彼女は、どういう方なんですか?」
俺は趣旨の違った問い掛けに、些か言葉に詰まってしまった。確かに、俺は千春のことは良く知っているが、なぜそれを俺に問うんだ?この日記には、俺が千春を振ったことが書かれてるのに…。
「藤崎さん。貴方…遠距離恋愛は出来ない性格なんでしょ?」
立て続けに言われたため、俺は狼狽えてしまった。無論、日記にはそれを示唆する箇所はない。なのに…笹岡の母親は、それを簡単に見抜いていたのだ…。
「ご免なさいね。こんなこと聞くなんてどうかと思ったのだけど、息子が…博がどんな女性を好きだったのか知りたかったんです…。」
彼女は淋しげにそう言った。そんな彼女を見て、俺は千春のことをポツリポツリと話始めた。
「彼女…千春は、とても活発な女性で、誰からも好かれていました。彼女の周りでは常に人がいて笑いが絶えない…そんな女性です。彼女は音楽だけでなく、語学や運動も好きで、色々なことに挑戦するタイプの女性ですね。」
「ボーイッシュ…と言って良いのかしら?」
「そうですね。でも料理は苦手で、付き合ってた頃は俺がずっと作っていた位で…。あ、これは余計な話でしたね。」
「いいえ…それも息子は知っていたと思います。千春さんの名前が出てくるのはお二人が別れた後からですし、きっと息子は…お二人の幸せを望んでいたんです。」
彼女がそう言った時、不意に河内が俺の所へときて言ったのだった。
「京、ここにいたんか。さっき宮下教授がお前のこと探してたぞ?」
それを聞いた笹岡の母親は、直ぐ様席を立って俺へと言った。
「長々と失礼致しました。今日はお話を聞けまして、本当に良かったと思います。またいつかお願い出来ますか?」
「勿論です。僕なんかで宜しければ、いつでもお越し下さい。」
俺がそう返答すると、彼女はどこか淋しげな笑みを見せて一礼し、そのまま立ち去ったのだった。
「京、あの女性は?」
「笹岡の母親だよ。」
俺がそう答えると、河内は一瞬硬直した。まぁ…そうだろう。笹岡に憎まれていたこの俺に、その母親が会いにきた…なんて、普通では考えられないからな。
「何話してたんだよ。」
「私的なことさ。あの事より、寧ろその前のことかな…。」
俺がそう言うと、河内は「は?」と言って首を傾げたが、俺はそれ以上を口にせずにその場から離れたのだった。
しかし…この時、既に笹岡の手の内にあることなど知りようもなかった。
笹岡の死は、単なる幕開けに過ぎなかったのだ…。
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