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藤崎京之介怪異譚

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外伝「鈍色のキャンパス」
  Ⅱ.Allemande

 
前書き


 未だ舞台に立たないそれは、一体何処へ隠れているのか?

 主題の半音階的進行は、この舞曲に些かの不自然さを齎す…。


 

 


 試験から数日経ったある日。俺達はいつも通り、講義を終えてサークルに顔を出していた。
 この日は、ブロックフレーテを専攻している松本理賀が来ていたため、ゲオルク・フィリップ・テレマンのターフェルムジークを演奏しようということになった。"ターフェルムジーク"は<食卓の音楽>と訳され、主に娯楽用の軽い音楽と言って差し支えないだろう。
 テレマンはバッハと同期の音楽家で、互いに親交もあった。彼はバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの代父にもなり、次男の名前にテレマンのセカンドネームがつけられているところからも、かなり親しい間柄だったことが窺える。
 ターフェルムジークには実に様々な音楽があり、弦楽・管楽問わず美しい作品が目白押しだ。
「ま、こんなもんかなぁ。」
 幾つかを抜粋で演奏してみたが、やはり今一つ物足りない。
 まぁ…美しくとも驚くような技術はあまりなく、誰でも気軽に楽しめるように作曲されているため、音大生には些か物足りないと感じることは否めない…。
「なぁ、今度はバッハやろうゼ。」
「はぁ?昨日も散々やったじゃんか。ヘンデルにしないか?俺、合奏協奏曲とオルガン協奏曲好きなんだよな。」
 何だか河内と鈴木が曲目で意見が別れてるようだな。ま、鈴木の言いたいことも分かるんだよな。一週間立て続けにバッハやってたから、そろそろ別の作曲家の音楽を演奏したいだろうから…。
「お、集まっとるな。」
 河内と鈴木の会話に全員で加わっていると、そこへ宮下教授が顔を出した。
「教授、今日は演奏会の予定では?」
 俺は驚いてそう問うと、宮下教授は笑いながら言った。
「まだ時間があるからの。今日は市内じゃし、たまにはこちらの様子を見ておこうと思ぅてな。」
 教授はそう言いながら入って来たため、俺はチェンバロから席を外した。
「藤崎君、そのままで良い。」
「いえ、折角いらっしゃったのですから、一曲位はご指導頂けたらと。」
「そうじゃなぁ…たまには良かろう。」
 教授はそう言ってチェンバロの前に腰を下ろすと、皆は目を輝かせたのだった。
 宮下教授は普段、こういった場所では絶対演奏しない方だ。それを間近で拝聴出来るなんて、滅多にないことなのだ。
「さて…何をやろうかのぅ。では、バッハのチェンバロ協奏曲第1番第1楽章。その後、ブランデンブルグ協奏曲第5番第1楽章。これは知っとるかの?」
 そう問われ、俺達は「はい。」と即座に答えた。
 やはり宮下教授もバッハ好きだ。まぁ、ヴィヴァルディやヘンデル、またはそれ以前の音楽でも良かったが、やはりバッハは大本命だ。
 先ず、先に演奏したチェンバロ協奏曲第1番はニ短調で、かなり重々しい感じがする協奏曲だ。名前の通りチェンバロがソロ楽器として扱われ、それに弦楽合奏が加わる。元はヴァイオリン協奏曲だったと考えられ復元もされているが、他人の作だったのではとの指摘もされている。ま、俺は真作と考えてそれを曲げる気はないが。
 もう一曲のブランデンブルグ協奏曲第5番は、ソロ楽器にフルート、ヴァイオリンとチェンバロの三つの楽器が登場する。この編成は三重協奏曲イ短調と同じだが、こちらは華やかなニ長調で、世界初のチェンバロ協奏曲とされる作品だ。
 二曲とも第1楽章だけだが、双方共に長大な作品で、一曲約七~九分程度の時間を要する。これだけ大きな協奏曲はこの時代、バッハ以外にはあまり見掛けない。軽く聴ける協奏曲が好まれていたためだ。1楽章が三~五分程度が主流だったが、バッハはそういった概念を端から壊し、それを新たな形へと変えていったのだ。ま、大作<マタイ受難曲>ではかなり非難されたようだが…。
 さて、俺はこの時、宮下教授の薦めでリュートで参加した。チェンバロ協奏曲の通奏低音にリュートが入る…あまり聞かないな…。尤も、この時の通奏低音が河内一人だったため、敢えてそうしたのだろう。
「鈴木君。もう少し自由な装飾を施しても良いね。小林君のトラヴェルソも、折角装飾を付加出来る自由さがあるのだから、もっと積極的に演奏すると良い。宮部君も合奏だからと言って淡々としない。合奏は確かにソロより地味だが、それなしに音楽にはならんのだから、もっと自信をもって演奏するように。この演奏は七十点と言ったとこじゃな。」
 宮下教授はそう言うと、笑いながら席を立った。
「有り難う御座いました。」
 立った宮下教授に、俺達はそう言って頭を下げた。
「君達との演奏はとても楽しかった。またやろう。」
 宮下教授はニコニコしながらそう言って、その場を後にしたのだった。
「藤崎と河内は何も言われんかったな…。」
「ま、あんだけの演奏すれば言われんだろ。ヴィオラの吉泉だってそうだしな。」
 小林と鈴木が愚痴を溢している…。だが、そんな二人に松本が不貞腐れた様に言った。
「二人は言われただけマシでしょ?私なんか見てるだけよ?チェンバロ協奏曲第6番だったら良かったのに!そうすれば小林君と私が二本のブロックフレーテを受け持てば…。」
 この後、彼女の愚痴は延々と続くため省くとして…。それを聞いている二人には悪いが、俺は苦笑しつつ部屋を出た。飲み物を買いに行こうと思ったのだ。それを河内が目敏く見つけ、扉を開く前に「紅茶買ってきて!」と言われ、俺は「分かったよ。」と返事して出たのだった。
 部屋を出てすぐ、目の前から笹岡が歩いてきた。今あまり会いたくはない人物だが、俺は表情を表に出さずに通り過ぎようと彼と擦れ違った時、笹岡は呟くようにこう言った。
「お前の全てを壊してやるよ…。」
 俺はそれに驚いて振り返ると、もう笹岡はいなくなっていたのだった。
「何なんだ…。」
 笹岡のあの声…ライバルに向けてと言うより、むしろ仇敵に対しての憎悪と言った方がいいかも知れない。
 何故…あれ程の憎悪を向けられたのか、この時の俺には理解出来なかった。
 怪訝に思いながらも、俺は歩き出した。ここで考えていても仕方無いのだから。ただ…今は静かに待つしかない。
 暫く歩くと食堂があり、そこにある自販機へと歩み寄った。俺はそこで珈琲を二本と、河内に頼まれた紅茶を買った。一本は直ぐに開けて口をつけ、二本は持ってきた袋に入れた。
 食堂からは中庭が見え、そこには四季折々の花ばなや木々が植えられているため、美しい景観を楽しむことが出来る。
 俺は休憩がてら暫く景観を楽しんでいると、不意に背後から声を掛けらた。
「樋口教授…何かご用ですか?例の件なら…」
「いや、そのことじゃないんだ。あれはそう単純には行かないからねぇ。今声を掛けたのは、別の用件があったんだよ。」
「別の…ですか?」
 俺は首を傾げた。俺は宮下教授に師事しているため、樋口教授が笹岡以外のことで用があるとは思えなかったのだ。
「どんなご用件でしょうか?」
 俺がそう問うと、樋口教授は微笑みながらこう言ったのだった。
「今度の大ホールで行うオルガン演奏会なんだが、君に出てほしいんだよ。」
「はい!?それって確か…宮下教授と大西教授、それに外部からの客演で決まっていますよね?」
「それが困ったことに、大西教授が腱鞘炎で出れなくなってねぇ…。その代役に、大西教授が君を指名したんだ。」
「…はぁ?」
 あまりのことに、俺は間の抜けた返事をしてしまった。
 大ホールでのオルガン演奏会は、大学の設立当初から行われている伝統ある演奏会なのだ。毎回外部から優れたオルガニストを招くことや、大学の教授自らの演奏が聴けることなどが挙げられる。
 まぁ、宮下教授ほか計三名のオルガン科の教授は、皆世界的コンクールでの優勝経験があり、無論コンサートもしているしCDも出している。目の前の樋口教授がその一人なのだが…。
「樋口教授…それは無理な相談ですよ。大西教授だって、それは分かっているはずですが…。」
「それを承知での指名だ。確かに、この演奏会で現役学生が演奏したことは過去に例がない。だが、大西教授が言うには、君にはもう優勝の経験が幾つもあり、人前で演奏するに足る力があると推薦してくれたからね。」
「ですが…宮下教授はなんと仰っておられるんですか?いくらなんでも…」
「わしは構わんぞ。」
 俺が何とか辞退出来ないかと四苦八苦していた時、そこへ宮下教授が姿を見せたのだった。
「宮下教授!これは伝統ある演奏会なんですよ?私の様な学生ごときが…」
「いやいや、君の演奏はプロとして申し分無い領域に達しておる。今君に教えていることとて、もはや演奏解釈だけなんじゃからな。ここで一つ、人前で演奏してみるのも勉強じゃよ。」
 俺の隣では、樋口教授が宮下教授の言葉に相槌を打っている…。
 俺はどうにか断るためにあれこれ言い訳したが、結局は宮下教授に「これは課題じゃ。」と言われ、渋々ながら引き受けることになってしまったのだった。
 だが、俺にはこの演奏会に出ることよりも笹岡の方が不安だった。

- お前の全てを壊してやるよ -

 あの憎悪に満ちた言葉が耳から離れない…。
「一体…何をするつもりだ…。」
 教授達と別れ、俺は夕日射すキャンパスを見つめながらそう呟いた…。





 
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