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天使の箱庭

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シーン3

四人の患者が席に着いて雑談しているところに、野口がカルテを持って入ってくる。                                            
野口「みなさん、お待たせしました。それじゃあ、始めましょうか。」

すると、男性患者の足元で空の缶が倒れ、コロコロと転がる。
その音にびくっとする患者たち。一瞬、空気が凍りつく。
とりわけ、ベレー帽をかぶった若い女性の様子がおかしい。

慌てて缶を拾い上げながら、     
「いやあ、すまんすまん。」と男性が頭の後ろに手を回し、すまなそうに笑う。

「もう、気をつけてよね前原さん。みんな、事故以来物音には敏感になってるんだから…。」

「悪かったよ。」

「それじゃあ・・・」野口が空気を変えようと明るい声で言った。

「真壁さん。」カルテから彼女に目を移すと、彼女が真っ青な顔で、小刻みに震えている。

「大丈夫ですか? 顔色がすぐれないようだけど…」

真壁、うつむき加減で爪を噛み、上目遣いで野口を見る。

真壁「……あの……、私はいいですから、他の方から先にどうぞ。」

野口「わかりました。じゃあ、水原さんからにしましょうか。その後調子はどうです?」

そう言って、野口はその隣の中年女性に顔を向ける。

水原「まあまあです。」

野口「ええと…、」カルテで確認しながら質問を続ける。

野口「水原さんはたしか、秘書のお仕事をされてるんでしたよね。会社には?」

水原「この間久しぶりに出社したら、担当を外されてました。」

野口「そうですか…。いい機会だし、心身リフレッシュして万全になってから
   戻ってきてほしいということでしょう。だって、秘書のお仕事って何かと
   気を使ったり大変なんでしょう。」

水原「ええ、スケジュール管理や会食のセッティング、電話応対などはもちろんですが、
   空調の調整とか、季節によっては簡単な模様替えをするのも秘書の仕事なんです。」

野口「へぇ、そんなことまで。水原さんじゃないと困るって言う重役さんも多いんじゃないですか?」

水原「ええ。でも、よかれと思ってやったことが仇になることもあるんですよ。        
   いつだったか、会議で席を外した重役の机がメモやペンで散らかってたんで、
   気を利かせたつもりできれいに片づけたんです。間もなく重役が部屋に戻ってきたので
   お茶をお持ちしようとドアをノックしたんですが、返事がありません。
   ドアを開けると、重役が何かを必死で探してるんです。恐る恐る聞いてみると、
   私が片づけてしまった手書きのメモを探してました。
   メモはゴミ箱から見つかり一安心でしたが、あの時は本当に、
   いたたまれない気持ちでいっぱいになりました。」
 
野口「そっかぁ。気配りも行き過ぎると台無しってわけですね。」
 
水原「独りよがりはいけません。でも気配りは自分のためでもあると思って、
   私は気配りを楽しむようにしています。相手の居心地の良さは自分自身の
   居心地の良さでもありますから。」        
 
野口「なるほどね。僕みたいなガサツな人間には到底勤まりそうにないお仕事だな。
   水原さんは優秀な方のようだから、時期がくれば、またすぐにお呼びがかかりますよ。
   ええと、林さんもお仕事されてましたよね。」

林と呼ばれた女性が、顔の前でいえいえと手を振る。

 林「仕事っていっても自宅でね。」

野口「どんなお仕事ですか。」

野口「DTPってご存知ですか?」

野口「ああ、聞いたことありますねぇ。」

 林「デスクトップパブリッシング、簡単に言うとパソコンで印刷物のデザインや
  レイアウトをする仕事です。」

野口「印刷物のデザインて、なんだか面白そうな仕事ですよね。」

 林「ええ、やり始めると夢中になって時間を忘れることもあります。
   でも、写真や記事の多い紙面はレイアウトが大変なんですよ。
   全体のバランスを見ながら、限られたスペース内にうまく収めないといけないでしょう。      でもね、この仕事を始めてひとつだけ、いいことがありました。
   レイアウトのコツをつかんだのか、押し入れの整理整頓やお弁当の詰め方なんかが
   上手くなったような気がするんです。」
 
野口「へぇ。そのコツってやつを是非僕にも伝授してほしいですね。」
 
 林「まあ、コツってほどでもないんですが… 一種のパズルみたいなものですね。」
 
野口「パズルかぁ、それはいいヒントになりそうだ。」

野口がカルテに目を落とし

野口「ええと、林さん、この間、あんまり眠れてないみたいなこと言ってましたけど、
   その後いかがですか?」

 林「それが… あんまり…」

野口「そうですか。まあ、あれだけの事故の後ですからねぇ。」

 林「ええ。でも事故の事、実はあんまりよく覚えてないです。座席で居眠りしていたら
   急ブレーキがかかってものすごい衝撃があったのは覚えてますけど… 
   その後の事が全然思い出せないんです。」

野口「怪我のほうは?」

 林「それが… 意外にたいしたことがなくて…。すぐにベッドから起き上がることもできました。
   だからでしょうか、自分があんな大事故に遭ったなんて、いまだに信じられなくて… 」

野口「現実味がない?」
 
 林「ええ、そうなんです。」 

すると前原が口を挟む。

前原「そうなんだよな。俺もこの人とまったく一緒よ。」

腿に両手をパンと乗せ、ため息をつく前原。
                   
前原「全然実感がわかないんだ。だいたい、俺の事知らない人は、
   俺がどんだけすごい事故に遭ったかなんて知るよしもないだろ。
   道ですれ違ったって誰も俺に見向きもしなけりゃ、慰めの言葉ひとつ
   かけてくれるでもない。そもそも、事故に遭ったことすら
   夢なんじゃねえかって思えてきてさ。」

すると、野口が真顔で言う。

野口「本当は周りの人たちに気づいてほしいんじゃありませんか?              
   自分がどれだけ大変な思いを抱えているのかを。」        

前原「うーん…。いや、あの事故のことは早く忘れちまいたいかな…。」

野口「前原さんは、今、お仕事の方は。」

前原「俺? 今は仕事はしてないよ。昔は家電メーカーでテレビを作ってたんだ。
   定年後は退職金で店をひらいてさ。趣味だった蕎麦打ちで商売を始めたんだ。
   女房と二人で二人三脚、結構繁盛もしてたんだがね。おととし女房が死んじまって、
   店はやめちまったよ。」

野口「お子さんは?」

前原「娘が一人。結婚して今は富山で暮らしてる。和菓子屋に嫁いだんだ。」

野口「そうですか。じゃあ、前原さんお一人でお住まいなんですか?。お寂しいですね。」                                           
前原「でもねぇよ。最近、陶芸を習い始めて仲間もできたんだ。蕎麦の練り技が土こねるのと
   よく似ててさ。だから、練りだけは講師も驚くほど上達が早かった。今じゃ、すっかり
   陶芸にはまっちまってよ。今度地元でグループ展を開くんで、そこに展示する皿や湯呑
   を作ってるところさ。」

野口「そうなんですか。じゃあ今度是非、展覧会に招待してください。ところであの事故の日、
   どうして高速バスをご利用に?」

前原「あの日は大学の同窓会があるんで大阪へ向かってたんだ。それがまさか、あんな大事故
   に遭うとはなぁ…。俺もツイてねえや。ケチらねぇで新幹線にしときゃ良かったよ。」       
その時、俯いていた真壁が突然立ち上がった。
 
真壁「あの、私、もう帰ってもいいですか。」

帰ろうとする真壁を野口が引き留める。
 
野口「真壁さん、待って。今はまだ事故の事を話すのは辛いかもしれないけど、
   ここいる人たちはみな、真壁さんと同じ体験をされた方たちです。
   みんなで事故の体験や感情を共有することで気持ちが楽になることもあるんですよ。
   さあ、座って。みんなの話を聞くだけでもいいですから、もう少しだけ、ね。」                                                     真壁はすとんと腰をおろすと、しくしく泣き始めた。                 
他の患者たちが気の毒そうに声をかける。
その様子を廊下の窓から見つめる制服姿の男。

野口と目が合い、男が身を隠す。
不審に思い、野口が廊下に出るが、すでに男の姿はない。             
首をかしげながら部屋に戻ってくる野口。             
     
水原「どうかしましたか?先生。」

野口「あ、いや… 今、廊下から誰かが覗いてたような気がしたんですが…。」

言いながら廊下の窓にもう一度目をやる野口。
 
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